斉藤孝  カメのブログ

カメの個人的ブログです。私の趣味、ガーデニング、友人との交流

ヴェノス・アイレス紀行     2020年2月

多民族国家アルゼンチンの
              ヴェノス・アイレス
          2020年2月   
 注 ブェノスアイレスを表記する事も多いが発音に合わせてヴェノス・アイレスと表記。   

アルゼンチン共和国
 訪れたのはラテンアメリカの大国アルゼンチンである。人口約4000万人。イタリア系やドイツ系も多く、レバノン系アラビア人もいる。東洋系では中国人が多く僅かに日系人もいる。驚いたのは大統領にもなったカルロス・メナムはシリア系イスラム教徒だった。あの日産のカルロス・ゴーンもレバノン系アラブ人でキリスト教・マロン教徒だった。彼の場合はブラジルのアマゾン生まれだ。国籍はブラジルとレバノンらしい。

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          5月広場と大統領私邸 アルゼンチンの国旗

ユダヤ人も多く数十万人も住んでいる。空港の待合室や機中でも大家族のユダヤ人親子に会った。伝統的なキパを頭にかぶり黒装束の姿をしている。私が「シャローム」と挨拶すると嬉しそうだった。あまり黒人は見当たらないからアメリカ合衆国やブラジルとは違う。
ブラジルがアメリカ合衆国に似ているの対しアルゼンチンは西欧スペインやフランスにとても似ている。

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       エビータのネオンサインがあるビル

アルゼンチンが移民受け入れ大国であったのは19世紀末まで、20世紀後半になると移民供給国になり優秀な若者や高学歴者はアメリカ合衆国やオーストラリア、スペインなど西欧に移民している。不景気であり職不足、政情不安などが原因なのだ。社会の空洞化が始まっている。移民が憧れた新大陸はもはや昔の話。時代は変わり新大陸から旧大陸へと人の波は動く。

さて、アルゼンチンに来たのだからタンゴの名曲『ラ・クンパルシータ(La Cumparsita)』を聴いてみよう。Alfred Hauseが奏でる名演奏。


   YouTubeから引用した。 かなり刺激的なポーズである。

タンゴを踊りたい
 カリフォルニア大学デービス校で客員教授として在米中、2002年冬にペルーのクスコに行きマチュピチ遺跡を見物した。18年前になるから久々のラテンアメリカである。乗り継ぎのトロントから飛行機はスペイン語を話す人々で満員だった。メキシコなど中米のスペイン語よりも早口でアクセントがきつい。顔つきは遺伝的にインディオの眼つきはしているが白人顔に近い。金髪のセニョリータもいる。アルゼンチン美女とタンゴを踊れるかもしれない。

メンドーサの赤ワインMalbec
 それからメンドーサのワインも飲みたい。Malbecと呼ぶ赤だ。Malbecは、アルゼンチンワインを代表するぶどう品種でもあり、「黒ワイン」と呼ばれるほど色濃く、タンニンのしっかりしたワインに仕上がる。Malbecワインをがぶ飲みできる日々が続くだろう。幸福だ。

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    タンゴは官能的である

ヴェノス・アイレス
 この大都会は南米とは思えないヨーロッパの町並みで、パリのシヤンゼリゼのようなプラタナスの街路樹が美しい。まさに南米のパリである。行き交う人々も白人ばかりだ。19世紀に大量のイタリア人など移民したことによる。それまでアルゼンチンは牧童ガウチョに代表されるインディオと白人の混血「メスティーソ」や純粋のインディオだけだった。初期にはスペインから来る女性はほとんどいなかったので、スペイン人男性とインディオ女性の結婚は普通のことであった。ブラジルにはアフリカから黒人奴隷を連れてきたから、その混血も増えて複雑な人種構成になった。

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    バカでかい牛肉ステーキ

巨大な牛ステーキ
 アルゼンチンの場合は19世紀に南欧や東欧からの白人が入植したことによりメスティーソを追いやった。それまではメキシコやペルーみたいなインディオ顔だった。ところで、現在のローマ法王フランシスコはイタリア系アルゼンチン人である。アルゼンチンは白人の国に変わった。
さて、この巨大な牛ステーキはアルゼンチンでは子供用である。パンパと呼ぶ大草原で牧童ガウチョによって大切に守られて育つアルゼンチン牛は世界中の食卓に並んだ。20世紀初めまでアルゼンチンは西欧諸国の食糧補給地として大繁栄したのである。

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       この巨大なステーキをいかにして処理するか

さて、人種の話の続きであるが、お隣のブラジルは日系人もいて黒人との混血も多いがヴェノス・アイレスは違っていた。パリよりもヨーロッパ的である。金融街レストランでメンドーサ白ワインを飲んだ。概して物価は安いようだ。町行く美しいセニョリータの歩き姿を楽しんだ。

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    スペインの影響でオムレツが美味しい

エビータ

 アルゼンチンの名前はミュージカル「エビータ」のエバ・ペロンで知られるようになる。エバはアルゼンチンの田舎で生まれた貧しい私生児だったが、やがて大統領ペロンの夫人にまでになる。そして33歳で癌に侵されてその生涯を終える。エバの生涯は実にドラマチックだ。映画「エビータ」はエバの生涯を描いてる。ミュージカル舞台劇もあるが私はマドンナ主演の映画「エビータ」が大好きである。エア・カナダの機中映画プログラムの中に見つけた。なかなか面白かった。あのマドンナがこのような名演技をするとは驚き。

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      エバ・ペロン(エビータ)は美人だった

チェ・ゲバラ

 キューバ革命でカストロと共に戦ったチェ・ゲバラ(本名Ernesto Guevara)はアルゼンチン人だった。エルネスト・ゲバラはバスク系母とアイルランド系父の間に生まれた。ブエノスアイレス大学で医学を学ぶ。在学中の1951年に友人とオートバイで南アメリカを放浪旅行する。

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      ゲバラはアルゼンチン人である

この物語は映画化されて『モーターサイクル・ダイアリーズ』と題するものになった。私も見たことがある。エルネスト・ゲバラは旅を通してラテンアメリカの悲惨な民衆の姿に接しマルクス主義に共鳴していった。やがてキューバ革命に参加する革命家チェ・ゲバラの誕生である。ゲバラの最後はボリビアで射殺される。その一生は見果てぬ夢を追うドン・キホーテ的であるが欲望もなく純粋無垢、ロマンチストだったと思う。しかし彼は偉大だ。

3万人も虐殺
  マドンナ主演映画『エビータ』のなかでチェ・ゲバラが登場する。正確にはゲバラに扮した狂言回し役。その役はスペイン男優アントニオ・バンデラスが演じた。バンデラスの顔は若い頃のチェ・ゲバラに似ている。

映画ではエバの死を悲しむ民衆の姿に「彼女は本当にそれほど素晴らしい人物だったのか?」と、チェは疑問を投げかける。
アルゼンチンはごく最近までファシズム的軍人政権が続いた。チリと同じくドイツ・ナチズムに憧れたラテンアメリカといえる。強権的な治安維持で反体制派は非合法的に3万人も虐殺された。ペロン政権も似たようなものだった。広場には行方不明者の写真が残っていた。

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カミニートの街角。上のバルコニーにローマ法王フランシスコが顔を出している。アルゼンチン出身(新大陸出身)の初のローマ法王となった。

ペロニスタ

  ペロン大統領は軍人出身で1943年のクーデター以降、労働組合の支持を得て徐々に力を持ち始めた。ペロンの支持者をペロニスタと呼ぶ。エバはペロニスタの勢力拡大に利用されていく。そして26歳の時にペロンと結婚して大統領夫人の座を獲得した。ヴェノス・アイレス中心部にある大統領官邸カサ・ロサダのバルコニーで民衆から声援を受けた。

エビータを聴く
 マドンナ主演映画『エビータ』でエバは「アルゼンチンよ泣かないで」(Don't cry for me Argentina)をカサ・ロサダのバルコニーで歌う。マドンナは熱演していた。では、Don't cry for me Argentinaを聴いてみよう。Nicole Scherzinger 
が歌うものでYouTubeから引用した。


 この映像はYouTubeから引用した。

カミニートでタンゴ
 ボカ地区カミニート(Caminito)を散策していたら美女からタンゴ踊りを求められた。米5ドルを支払い踊りのポーズだけ写真撮影できた。きつく抱きついたようだ。77歳喜寿の好色老人の濃厚接触の姿。哀れだ。

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      濃厚接触でタンゴを踊る

世界初の女性大統領
 ペロンは不死身で1970年代に再び大統領に返り咲く。エバ亡きあとイザべルという女性と結婚。このイザベルが不思議なめぐりあわせでペロンが死んだ1974年になんと大統領になった。世界初の女性大統領が誕生した。ペロンはエバやイザベルなど素晴らしい配偶者に恵まれた果報者だった。こんな女性は日本にはいない。羨ましい。

憧れのタンゴ

 タンゴの名曲『ラ・クンパルシータ(La Cumparsita)』は、ウルグアイのヘラルド・エルナン・マトス・ロドリゲスによって作曲された。ウルグアイはラ・プラタ河を挟みヴェノス・アイレスの対岸にある国。第二次大戦中ドイツのポケット戦艦「グラフ・シューペ号」が自爆した湾。この出来事を題材にしたドイツ映画を見たことがある。
La Cumparsitaを自分で歌いながら再度タンゴ踊りに挑戦。相手の彼女はあきれていた。5ドル追加料金を支払った。

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      様になっている

ヴェノス・アイレスの貧民町だったボカ地区はアルゼンチン・タンゴ発祥の地とされる。ボカ地区の小道を「カミニート(Caminito)」と呼ぶ。私はカミニートでタンゴの真似事を十分に楽しんだ。私は時間があればヴェノス・アイレスの大学に行き、学生諸君と会話したかったが、今回は残念ながらカミニートで美女とタンゴ姿だけに終わった。深く反省している。

ヴェノス・アイレスの繁栄とアルゼンチンの平和を祈る
           Muchas Gracias

続編「パタゴニア氷河とイグアス滝を眺める」を読む。

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パタゴニア氷河とイグアス滝    2020年2月

パタゴニア氷河とイグアス滝を眺める
                  2020年2月


新型コロナウィルス
 2020年2月4日に新型コロナウィルスの感染拡大する極東を後に南アメリカ・アルゼンチンを訪れた。まず羽田からカナダ・トロントへ12時間かけて向かう。そこで乗り換えてチリ・サンチャゴまで14時間もかかる。

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           アルゼンチンの地図

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         巨大なロス・グラシアレス氷河

サンチャゴで一服し3時間かけてブェノス・アイレスへ到着した。約30時間もの超長いフライトだった。さすがに疲労困憊。日本とは地球の反対側になり、12時間の時差があり昼と夜が真逆。南米の季節も日本と反対で2月はまだ真夏であった。        

パタゴニア(Patagonia)
 旅の目的地はパタゴニアである。ブェノス・アイレスから飛行機で約3時間飛び、パタゴニアの入口の町エル・カラファテに向かった。カラファテという名前はパダゴニアに多い棘のある低木、カラファテに因んでいる。その実はブルーベリーに似ている。原野に咲いていて食べてみると酸味があってブルーベリーのような味がした。

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    左に折れた山はモレノ山(1.670m) 手前はアルヘンティーナ湖

アメリカの登山用品

 「パタゴニアに行ってきました」というと何所のアウトレットで買ったのですかと質問された。これには困った。Patagoniaはアメリカの登山用品、衣料品の製造販売を手掛けるメーカーのブランド名として有名。Patagoniaは16世紀ポルトガル大航海時代のマゼランが付けた由緒ある名前だ。先住民である「パタゴン」(patagon)族に因むものだ。

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    アルヘンティーノ湖に注ぐ。氷河はここで崩壊する。

マゼラン海峡
 パタゴニアはアルゼンチン南部の広大な地域をいう。その最南端にはマゼラン海峡を挟みフェゴ島もある。パナマ運河のない頃はボストンからサンフランまでに行くにはマゼラン海峡やホーン岬を回ったのだ。まだ大陸横断鉄道も完成していなかった。おそらく日本開国を促したペリー提督の4隻の軍艦もパタゴニアのフェゴ島を通過したのだろう。

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     アルゼンチンの国旗はブルーで綺麗だ。

ペリト・モレノ氷河

 パタゴニアは乾燥が激しく砂漠が広がっている。アンデス側には多くの氷河がある。氷河の数は大小50以上あるといわれている。その規模は、南極、グリーンランドに次ぐ量である。 パタゴニア氷河は、アンデス山脈に降る多量の雨によって作られる。平均年間に100mから200m移動するといわれている。氷河の崩落を観察しやすい。

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     ペリト・モレノ氷河を眼前にする

クリスタルブルーの氷河
 気温が上がる夏は、ビルほどの高さの氷の塊が轟音と共に一気に湖へと崩れ落ちる。長い時間圧縮されたことによって空気をほとんど含まなくなった透明な氷は、波長の長い赤の光を吸収するため、氷を透過した光は青い。

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     氷河というよりも氷原だ。歩道を歩いた。

ロス・グラシアレス(Los Glaciares)
 あまりにも巨大な氷河は「氷原」という印象だった。ロス・グラシアレス(Los Glaciares)はスペイン語の「氷河」の複数形で、公園名は「氷河群」といった意味である。このあたり一帯はロス・グラシアレス国立公園と呼ばれている。スイス・アルプスの氷河と違い高山の谷間に出来たものとは異なるようだ。アンデス山脈もサンチャゴ近くにあるアンデス最高峰アコンカグア(6,960m)から徐々に低くなりパタゴニアに来ると2,000m級の低さになる。

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        凄い迫力

モレノ山
 氷河の左の頂上が左に折れた山をモレノ山(1,670m)と呼ぶ。まるで3,000m級の高山に見える。アンデスの山々に太平洋の湿気を含んだ風がぶつかり、大量の雪を降らせ、積もった雪が圧力で氷結し氷河を形成する。日本の上越の山々と規模が違う。長く巨大なアンデスの山並みがあるからだ。

アルヘンティーノ湖

 降った雪が氷河になるまで10年もかからない。ペリト・モレノ氷河はアルヘンティーノ湖に流れ込んでいる。氷河の長さは30km、終端部は幅5kmで、水面からの高さは60m、水面下に110mの氷があり、氷全体の高さは170mである。氷河の厚さは最大で700mもある。氷河の進む速度は中央付近で一日あたり最大2mで、流れ出た氷河は対岸の半島にぶつかりアルヘンティーノ湖に注ぐ。氷河はここで崩壊し、停止する。

『Don't Cry For Me Argentina』
アルゼンチンの名を有名にしたミュージカル曲エビータの『Don't Cry For Me Argentina』を聞きながらお読みください。歌うのは懐かしのKaren Carpenter。

     この映像はYouTubeから引用しました。


イグアス滝を眺めるため北上

パタゴニアからブラジル国境を目指した。
 イグアス瀑布を見るためにアルゼンチンを北上した。そこはブラジルとパラグアイに挟まれた場所にある。パタゴニアには氷河があり雪があった。極寒の地から亜熱帯ジャングルの緑の世界へ来た。

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    衣装替えにも苦労した。お揃いのKWVシャツを着てみた。

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        大きな虹が出ていた。

イグアスの滝
 アルゼンチン南部パタゴニアの町エル・カラファテから飛行機でブェノス・アイレスまで約3時間。そこから約1時間半でプエルト・イグアスに着く。

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    見学歩道を歩くと「悪魔の喉笛」というポイントに着いた。

ブラジルとの国境の町だ。亜熱帯で蒸し暑い。短パンとティシャツに着替え夏山歩きの姿になった。国境を越えブラジルに入った。

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     無数の滝の流れが広がる。

イグアスのスペルが気になった。アルゼンチン側はスペイン語で「Iguazú」と書いてあり、ブラジル側はポルトガル語で「Iguaçu」と書いてあったが町のいたるところに「 Yguasu」とも書いてある。これは先住民グアラニ族のグアラニー語なのである。 Yguasu(イグアス) とはグアラニー語で大いなる水という意味である。

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       突如森から水が湧きだしたようだ

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     ナイアガラ瀑布と違い緑が多い

「悪魔の喉笛」
 イグアスの滝は南米大陸のアルゼンチンとブラジルの二国にまたがる世界最大の滝で北米のナイアガラ滝、アフリカのビクトリア滝と共に、世界三大瀑布に数えられる。遥かパラグァイまで川幅は広がる。

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     半裸の女性の横で映した。

最大級を誇り、大小275もの滝が約4kmにわたって連なり、毎秒65000トンもの水が最大落差80mの滝壺へ落下する。

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     最大の滝「悪魔の喉笛」は凄い迫力

高さ約90メートルの最大の滝「悪魔の喉笛」は凄い迫力だった。大量の水が流れ落ち、水がまるで雲のように舞い上がる。

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     滝の水の色は所々黄色い。光の影響によるもの。

滝見物の人々は世界中から来ていた。大小無数の滝がかかっているのが大きな特徴であり、それを縫うようにして掛けられている遊歩道を歩きながら景観を楽しめる。

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   こんな激流をデ・ニーロ扮する宣教師は滝つぼに落下した

映画『ミッション』

 イグアス滝と無関係であるが巨大な滝を舞台にした映画を思い出した。映画『ミッション』である。ロバート・デ・ニーロ扮するイエズス会宣教師の物語だった。物語は複雑だったが見ごたえある作品だった。

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     あの映画をもう一度ゆっくりと見てみよう。

イグアス滝に流れるパラナ河上流から宣教師が大きな木の十字架に縛られて流されてくる。そしてイグアス滝に落ちていくというものだった。映画ポスターでも迫力ある『Mission』のシーンである。デ・ニーロは奴隷狩りの悪党から宣教師になり、インディオのために戦い殉死する。

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十字架に縛られた宣教師が滝つぼに落下する。

次はパラグァイに入りボリビアまで上って行きたい。ラテンアメリカの広さと豊かな自然、そして人々と文化にさらに興味が湧いてきた。

パタゴニア氷河とイグアス滝 大自然に心から感謝したい。
   muchas gracias     obrigado

   続編「ヴェノス・アイレス紀行」を読む。


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チベット・ラサ紀行    2020年1月

天空の都、チベット・ラサを眺める

                  2020年1月



拉薩の布達拉宮

 これは中国語でラサのポタラ宮のことである。今回の目的地は「ポタラ宮」でありチベット文字で「ཕོ་བྲང་པོ་ཏ་ལ་」と書く。

真冬1月の凍てつくチベット・ラサ(Lhasa)に僅か2日だけ滞在するという短い旅だった。2020年1月7日に成田を出発して上海経由で西安で一泊。翌日1月8日にチベットのラサ(拉薩)に向かった。約3時間半のフライトであるがそこはチベット高原の南東、海抜3700mにある。これは富士山山頂とほぼ同じ高度にある都。


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チベットの強風
 二日目の1月8日に西安からラサの中国東方航空のフライトがラサ空港に着陸態勢に入った直後、地上の強風の影響により滑走路に乗れなくなり急きょ着陸中止となった。なんと着陸場所を青海省の西寧に変更すると言う機内アナウンス。ラサから約2時間の距離にあり蘭州の近くの都会である。西寧で4時間程待機して再びラサへ向かった。空気は薄いが無事にラサに到着できて良かった。

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シャングリラ
 神秘的な禁断の地チベット。これは昔のチベットを呼ぶステレオタイプな表現である。
あるいはチベットのことを「第三の極地」と呼び、南極、北極に次ぐ極地であるかのように言う。つまり陸の孤島というイメージ。一方で未知の桃源郷であるかのように憧れた。例えば「シャングリラ」と呼ぶ。シャングリラ(Shangri-La)は、英国人James Hiltonが1933年に出版した小説『失われた地平線』に登場する理想郷の名称である。第二次大戦前のヒットラーが政権を取ったヨーロッパでは世紀末思想もあり混乱期だったからユートピア思想も人気があった。映画化もされて登場人物はチベット衣装を着けていた。
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ブラッド・ピット主演の「Seven Years in Tibet」は1939年にインドで捕虜になったドイツ軍人ハインリヒ・ハラーの物語だった。彼は登山家(オーストリア人ナチ党員でアイガー北壁に初登頂)であったからインドの捕虜収容所を脱出してヒマラヤ山脈を越えてチベットに逃げ、ラサで14歳のダライ・ラマ14世(1935年生まれ現在インド亡命)に会う。この映画はとても面白かった。

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ポタラ宮のライトアップ
 1月10日、ラサ2日目の夜、ポタラ宮のライトアップを見に行った。極寒1月の夜は冷え切った体中の関節が痛む。海抜3700mのラサは満月だった。チベットのシンボルであるポタラ宮は世界最高所にある世界最大級の宮殿。荘厳な夜のポタラ宮は本当に神々しい。

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祈るチベット美人に会う
 ライトアップしているポタラ宮殿を背景にしてチベット美人の撮影が行われていた。しばし、幻想的な美の雰囲気に呑まれた。こんな美女が住んでダライ・ラマに仕えていたのか。21世紀の美女はチベット伝統の衣装をまとい祈りのポーズをとっていた。中国人のプロモデルに違いない。

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ポタラ宮の見学
 1月の厳冬期のポタラ宮。観光客は皆無にひとしい。敬虔なチベット人巡礼者だけだった。夏季最盛期では観光客が激増していることもあり、個人観光客が予約券を手に入れるためには、深夜のうちから予約券発行所に並ぶ必要がある。きわめて入手困難。この時期はホテルも安く、空いていた。

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地図にない国
 チベット国という国名はなく、チベット自治区という名前だけが地図に明記されている。現在のロシア連邦には自治共和国というものがあり、例えば「タタールスタン」などを2019年に訪れた経験もある。中国では自治国はなく、自治区と呼ぶ巨大な地理的地方がある。そこへ行くことをチベット自治区に入境すると言う。入境にはビザが必要になる。中国のどこでも同じであるが監視・検査は厳しい。ラサ市中の公園、広場、街角など公共施設からレストラン、商店まで監視カメラが鋭く視ている。
           
 
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禁じられているチベット国旗
 1911年辛亥革命が起こるとダライ・ラマ13世が独立を宣言。その後の人民解放軍の激しい侵攻により、1959年、ダライ・ラマ14世はインドへ亡命。以後チベットは中華人民共和国の統治下となる。
インドに亡命政権があるが、独立は千年後になるだろう。それまでにチベット族は漢族に同化されたチベット人なのだろうか。中国の自治区としての現代チベット、確かに大発展していた。西蔵自治区成立50周年を祝う中国共産党のポスターは巨大だった。

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『失われた地平線』
 James Hiltonの小説『失われた地平線』はシャングリラと呼ぶチベットにあるユートピアを描いていた。ヒマラヤ山脈のカラカルという名の8,500mの高峰があり、そのふもとの霧の漂う調和に満ちた谷間に、シャングリラという僧院が建っている。シャングリラに住む人々は長生きで、その楽園で平和に暮らすことができる。そこは桃源郷なのである。パキスタンのフンザ地方こそシャングリラであると言う人もいるがイスラム世界とチベットは異なる。『失われた地平線』の舞台は正しくチベットである。
21世紀シャングリラとは独裁であっても全体主義的であっても安全に暮らしていけ、富みを与えてくれるシャングリラに生きていることなのだろうか。

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世界最大級の建築
 ポタラ宮は高さが約117m、東西の長さが約360m。およそ1000の部屋がある。外から見ると13階建てに見えるが、実は内部は9階建て、世界でも最大級の建物である。チベット仏教の中心であり、内部に数多くの壁画、霊塔、彫刻、塑像を持つチベット芸術の宝庫でもある。 

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チベット仏教
 チベット仏教は、インド仏教の流れを直接受け継いでいる。サンスクリットの原典を正確に翻訳し、思想哲学や実践修行の面でも、インド仏教の伝統を忠実に踏襲している。本家インド大陸はヒンズー教やイスラム教に変わってしまい仏教はスリランカだけに残った。そしてヒマラヤ山麓にも残り、ヒマラヤを越えてチベットで信仰されることになる。インドから直接に仏教を取り入れた。そのため、インド仏教の伝統が途絶える寸前の時代に伝来した後期密教が継承されている。 正当な大乗仏教である。ラマと呼ばれる師僧を尊崇することから、ラマ教と呼ばれる。ニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派の4宗派が存在する。

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日本仏教と密接な関係
 日本では明治時代に能海寛ら仏教学者に注目され、日本人初のチベット探検者である河口慧海に続いて、1900年代から大正時代にかけて多田等観、青木文教、寺本婉雅など日本の僧侶がチベットへ渡った。この話は、私にとり新たな知的興奮となった。仏教の研究にはチベット仏教から始めよう。

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吐蕃国
 7世紀のソンツェン・ガンボ王の時代は吐蕃国と呼ばれていた。ソンツェン・ガンボ王はラサを都とし、唐とネパールから妃を迎えた。唐からの妃は文成公主、ネパールからの妃はティツン妃だった。2人の妃が熱心な仏教徒だったこともあって吐蕃国はアミニズム宗教から仏教国に変わった。
吐蕃国は西域の天山南道まで勢力を拡大したが、9世紀には内紛により分裂した。17世紀にダライ・ラマ5世が再統一を果たし、ラサを再び都と定め、チベット文化が花開いた。

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ポタラ宮の由来
 ポタラの名は観音菩薩の住むとされる補陀落のサンスクリット語名「ポータラカ」に由来する。ポタラ宮は1642年にチベット政権「ガンデンポタン」の成立後、その本拠地としてチベットの中心地ラサのマルポリの丘の上に十数年をかけて建設された。

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輪廻転生と鳥葬儀式
 チベット・アミニズム宗教の信仰形態として特徴的なものは、マニ車、タルチョー(経旗)、鳥葬などが残っている。鳥葬は古代ペルシャ・ゾロアスター教徒と同じものだ。違うのはゾロアスター教では死体は悪魔の住処。それを火を使い火葬するなど火を崇拝するゾロアスター教徒にとりタブーである。死体は放置されてハゲワシの餌になる。インドへ逃げたパーシー教徒は「沈黙の塔」に置きハゲワシに食わせる。
チベットの鳥葬の考え方は全く異なる。貰った命を還元する。魂が抜け出た肉体を他の生命ハゲワシに布施として与えることで、 前世の罪を洗い流し天に還る。ハゲワシは魂が去った後の肉体を天へと届ける。鳥葬師により細かく裁断され、骨も石で細かく砕く。これぞ天空チベットの信仰「輪廻転生」である。宗教よりもチベット哲学と呼ぶべきもの。全てを無に戻し再生を願う。戒名や墓地に葬るなどは欲望の証。鳥葬という思想は、私がこれまで抱いてきた世俗邪念を圧倒した。こんな思想とGAFA(IT概念)が戦ってもIT側に勝ち目はない。物凄い真理の力をもつチベット信仰に心酔する。まさに「鳥葬」は思想なのだ。ここで関係ないがインカの歌『コンドルは飛んでいく』の一節を変えたもの。日本のボケ老人(ハゲワシ)よ大志を抱け。

    飛べ飛べハゲワシ 
    飛べよ
    果てしない空を
    ヒマラヤのやまに
    影を落として
    裏切られたチベットの
    笛の音かなし
    自由のため死ねと


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100万都市ラサ
 人口は約50万人であるから藤沢市40万人よりも大きく、ダイナミックに発展中の都会であった。チベット本土には約600万人の人々が暮らしている。その内チベット人は8割程度。やがて逆に漢族が8割近く占めるだろう。西安からの鉄道も繋がり高速道路もあり中国本土から便利になった。青蔵鉄道はラサから伸びてヒマラヤ山脈を越えてネパール・カトマンズまで近い将来繋がる。ブータン、シッキム、ラダク、ムスタン、ネパールなどチベット文化圏を包括する巨大なヒマラヤ地域が一体化できる。「一帯一路」と呼ぶ中国の国際政策は着々と進んでいる。その中心となるラサはまもなく100万人都市になるだろう。ラサは日々躍進して、町行く人々も若くお洒落だった。BurgerKingやマクドナルドなど、スパーマーケット、フランスパンの専門店もあった。ただお酒はラサ・ビールだけだった。ワインが飲みたい。

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チベット人のアイデンティティー
 チベットが独立していたとしても経済的・技術的発展はないだろう。もし独立していても政教一致の中世アラブ諸国に似た封建的な国になっていた。資源の少ない寒冷な高地国家なのでタジキスタンやキルギス程度の国で精いっぱいだろう。貧しい独立国よりも豊かで安全な自治区で満足できるだろうか。チベット人の本音を知ることは難しい。現在も独立を求めるチベット人に対する弾圧は続いている。ポタラ宮広場や街角には武装した軍人でいっぱいだった。チベット人にとりアイデンティティーとは何か。チベット語とチベット仏教(ラマ教)そしてチベット文化だけなのか。それだけでは貧しい。

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聖山カイラスを拝もう
 経済の発展、豊かな人々の生活。地下資源の発見の可能性とヒマラヤ山脈の観光資源。中でも観光資源は巨大であり魅力的である。壮大なユーラシア大陸の屋根であるから規模がとてつもなく大きい。これに比べるとスイス・アルプスなど盆栽のように小さな観光資源に見えてくる。日本から4時間で行ける。時差は1時間しかない。ワインや旨い料理を提供するレストランやロッジ、スキー場を整備してほしい。草原と湖、遺跡も魅力的で、なによりも素朴で神秘的。
チベット高原西部にそびえ立つカイラス山(海抜6656m)はチベット仏教、ヒンズー教、ジャイナ教の聖山である。チベット人巡礼者は右回りに五体投地を繰り返しながら回る。インド大陸から巡礼に来たジャイナ教徒は左回りだ。ヒンズー教徒は岩に胡坐姿で祈る。遥々インド大陸に流れ出る聖なるガンジス河の源流もある。次回は聖山カイラスを回り、ヒマラヤを越えてインド大陸に行こう。

チベットの発展と平和、そして素朴で親切なチベット人の幸福を祈る。


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アルスロンガ農園    2019年のカメ回顧録

これぞ最後の楽園
 2019年のアルスロンガ農園合宿について回顧しました。まず、このブログは長々とくだらない内容を綴っていますから音楽を聴きながらお読み頂くと適当かと思います。
セリーヌ・ディオンのクリスマスと新年の歌をお楽しみください。このアルスロンガ農園の記録はカメによる私的なものであり、公式なものではありませんから書いてあることはカメの戯言であることをお断りしておきます。     (注意) 写真と本文とは必ずしも整合しません。


   (YouTubeから引用しました。https://youtu.be/XSGiIxOXESw)

恒例の餅つき
 2019年最後の12月合宿は恒例の餅つきから始まりました。豪快に焚火のかまどにはせいろを積み上げてもち米を湯出ました。そしてケヤキ臼と木製キネを使いもち米を突いていきます。これは元相撲部の方が得意でした。

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豪快な元相撲部のお姿。蔵に40年近く眠っていた臼と釜とせいろは生き返り、昔のもちの歯ごたえと香りを楽しませていただけるようになりました。
3段のせいろでじっくりと蒸すのであっという間につきあがります。

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つきたてのもちはあんこ、きなこ、だいこんおろし、と合わせられ、瞬く間に消えてしまいます。一息ついてから、おそなえ、餡餅、のしもち作りにうつります。

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アルスロンガ農園婦人部のみなさまにより餅を固める。
   
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早く食べたいわ。ネパールからの農業実習生を前にして、日本語で「ナマステ」。

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年末合宿の仕事
 今井会計担当の話。今年はイブリガッコをキチンと作ろうということで天日干し、燻し用の櫓を組み立てました。漬物用大根の収穫はあと2週後が最適とのはんだんです。また燻しも天日干し10日後3日3晩しっかりやろうとなりました。つきましてはイブリガッコの臨時合宿を2回行います。矢作洋酒でのビン詰日程、12月合宿の日程と併せて次の通りご案内しますので多くの方の参加をお待ちします。

①イブリガッコ臨時合宿その1 11/30PM1;00集合~12/2  大根の収穫(200本)、水洗い、天日干しがメイン作業になります。
②イブリガッコ臨時合宿その2 12/10PM1:00集合~12/12  天日干しした大根を付きっきりで3日3晩いぶします。
③矢作洋酒でのビン詰作業 
 主な作業はワインボトルのラベル張り、大根の漬け込み、15日(日)は餅つき、などです。

アルスロンガ・ワイン
 農園のブドウも無事10/15に搾汁を終えました。量は昨年並みの170から180Lぐらいですが、矢作の社長さんは出来栄えに感心しておりました。熟成中ですが12月には皆さんと一緒にヌーボーを楽しみたいものです。畑のイブリガッコ用のだいこんもすくすく育っています。

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2019年アルスロンガワインのエチケット。お洒落ですね。妙義山をモチーフしています。

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アルスロンガ・ワインの味は世界一です。ハラチョンご夫妻による細やかで愛情ある育成の賜物です。アルスロンガワインのマエストロ。80歳になってもワイン造りの執念に熱く燃えています。一滴たりとも溢さずにワインの味と香りにこだわります。ワインの匂いではなく香だ!!、このたわけ者。怖いマエストロです。2019年12月は新酒、アルスロンガワインで盛大に盛り上がりました。

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創作料理にこだわる
   徹底的に創作料理にこだわる新ちゃんの話。秋は生ハム作りが恒例の作業でしたが、2年前から、冷蔵庫に生ハムの塊が占拠しつづけたため、中断してきました。今回、スライスして、真空パックして、持ち帰ってもらおうと、てんじんに持ち込んだところ、一部いたんで、廃棄を余儀なくされるものが出てしまいました。まことにもったいないことです。
じつは、パルマハムの最高級品?クラッテーロは豚のお尻の肉を豚の膀胱に詰めて熟成したものでサイズもだいぶ小さくなり、冷蔵庫に入るサイズになります。豚の膀胱の入手は困難ですが、骨を取り除いたもも肉が2kgくらいとのことですので、これを使ってハム作りを続けてみるつもりです。
 
アルスロンガ・ワインの歴史
 浅輪小作人頭の話。ブドウ畑は2007年ブドウ苗を90本をお寺とビニールハウスと桑畑左側に植え付けしてスタートました。2009年須永、真壁、遊佐さんが加わり、天上の畑にビニールハウスの苗を移植と購入した苗を植え付けました。現在のアルスロンガのブドウ畑が整い、毎回合宿でアルスロンガのメンバーが協力して野菜作りと共に葡萄の手入れを行いワイン造りを続けてきました。

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2011年の最初のワインは数10本出来ました。2014年に100本のワインが、そして現在は200本を超えるワインが出来ています。

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2020年オリンピックの年には保管してある毎年のアルスロンガワインを並べて飲み比べる予定です。
       
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アルスロンガワイン誕生に貢献した二人の偉大なメンター(Mentor)は、浅輪小作人頭と上野農奴監督でした。あれから約10年にもなりましたが初のワイン瓶詰めを終え誇らしげな微笑みをうかべていました。ワインの味はまさに素人の味でしたが仲間の愛情がこもったものでした。当時のアルスロンガワインはみんなで造る素朴な共産主義的作業の産物でした。誰でもがいつでも楽に参加して、それなりの仕事を与えてもらえるワイナリー。プロのワイン造りなど誰もが期待していませんでした。みんなで仲良くぶどうを育てワイン造りをしたという達成感だけに満足していました。

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カメガーデンの誕生
 カメガーデンのばらと皇居から移植した浅間夕すげがしっかりと根付きました。「かの町に始まる」あの畏れ多き皇后陛下の御歌と「ゆうすげ」の姿は実に優雅でした。ゆうすげですが雑草で埋もれていましたが、その園遊会のためアルスロンガ婦人部のみなさまの献身的な雑草駆除により蘇りました。駐車場との境界はブドウのフェンスで仕切られました。今回はアーティーチョーク、スイスチャードの苗を移植し、ルッコラ、コリアンダー、マーシュなどのサラダ専門の花壇もできました。カメは寒風吹きすさぶ中で、5時過ぎまで頑張り、ステップも出来上がり、シックな色で仕上がっています。

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ゲテモノ料理
 本人は創作料理と考えているようですが、御婦人からはゲテモノ料理と言われています。新太郎卿の話。名物は80度くらいで3時間くらい湯せんする低温のコンフィです。アンキモ、ミズダコ、ナマコ、(アンキモは干物用のピチットで包んで2日間冷蔵庫に入れて水分を抜いて)あたりを考えています。東京で実験した感じでは、アンキモはまさにフォアグラに変身したのではないかという出来栄えでした。もう一つ、オーストラリアビーフをシードルに漬けたまま湯せんにしてみました。これはローストビーフ風にしあがりました。中がピンクでわさび醤油、からし醤油でなかなかいい肴にしあがりました。

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カメガーデン園遊会
 2020年4月にはアルスロンガ農園でも「桜を見る会」を予定していますが、恒例になっているカメガーデンの園遊会を2019年6月に開催しました。バラはやや残念でしたが身の丈を超える巨大なタチアオイの姿に魅了されました。これもアルスロンガ農園の秘めたる自然の恩恵にるものです。まさにパワースポット。みなさまによるカメガーデンの整備に心から感謝します。浅輪シェフの豪華なパエリアの味は絶品でした。

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そば打ち名人
  午後は菊地そば打ち名人、御父上とお嬢さんが、新そばと鶏の丸焼き2羽を持って駆けつけてくれました。新そばは色、かおり、歯ごたえ、どれも申し分なく、一同、声もなく、ひたすら、ざるに手をのばしました。

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冷蔵庫の棚卸
 啓子女将とアタエ姉御から御注意。冷蔵庫の在庫減らしは順調にすすむことになります。冷凍になっていたパプリカの炒めたものは、14日の、カスレに、豚舌はコンフィにして、カスレの原料にキノコの炒め物は冷ややっこのトッピングに、イーストはもちとり粉に混ぜられて、パンになりました。
冷凍のかきは、ラムレーズンとともに、テリーヌと白菜スープの材料に。大根の皮、株、ひたしマメ、ブロッコリのジャーサラダは見事になくなりました。


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収穫祭
 新太郎卿の話。神棚の前に畳の間と板の間ができますので氏子一同板の間に集まって、神様の前が「なおらいの場」となります。カメがデコボコだった食卓を、すっきり、同じ幅、同じ高さのものにしてくれるはずです。ついでに椅子も、同じ高さにしてくれるかもしれません。食事の場がかわります。尾頭付きの鯛神事のおそなえに尾頭付きの鯛〈養殖もの〉を調達しました。
神事まで1日置かなくてはならないので生のままでお供えするのも心配で、おおなべにのそこから5㎝くらい塩を敷き、その上に鯛をのせその上から塩をかぶせストーブの上にのせて一晩火をたきました。コチコチになった塩の塊を新聞紙の上にのせ、金づちでたたいて鯛を掘り出しました。決して塩辛くなくて、ホクホクとしてなかなかの味でした。次はもう少し小ぶりなもので3時間くらいでやってみましょう。


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ワイン研修旅行
 浅輪小作頭の話。アルスロンガでワインを作るにあたって、ワイン研修旅行を2008年を最初に4回にわたってフランス中のワインの産地を訪ねる研修旅行を続けてまいりました。 毎回サンペレにある弘武さんのブドウ畑、醸造所を訪ね、ご指導していただきました。一方醸造は勝沼の老舗矢作ワイナリーの向山社長の全面的な協力を得まして、ごく少量でも採算を度外視して、真剣に誠意ある対処していただきました。おかげさまで最初の2011年に伝説のアルスロンガワインを出来て以来、2018年まで素敵なワインを出来てきました。そして毎年 弘武さんにテイスティングをお願いして、コメントをいただいてきました。
 
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弘武さんの美しく迫力ある語彙の数々に魅了されました。しかもお顔もハンサムで体格もセクシーですからこの無骨なカメも悩殺されました。ワイン造りはもともと高貴で神聖なことで、言葉をはじめ文化と教養が必要だったのですね。飲み食い酒乱、暴言と妄動だけで終わろうとしていたアルスロンガにとり励みになりました。これもワインの魔力によるもの。

アルスロンガ漁業
 12月10日は久しぶりにアルスロンガ漁業協同組合がヒラメ漁を実施しました。ノルマンディー、エトルタを思わせる、断崖の沖、水深15mから30mの浅場を繰り返しながして、ひたすらあたりをまちます。1mを超す、サメやエイと格闘しながら、なんとか、1.5kg級5枚、エイ1匹を確保することができました。それらは11日には、松井田に持ち込まれ、大岡さんのみごとな、包丁さばきで刺身、こぶ締めに変身します。あらは煮つけやスープになり、出しガラも「のら」のごちそうになり、例によってすべて食べつくしました。エイも煮つけやスープになり、当初、警戒していた人たちの胃袋にすべておさまりました。今井漁労長の自慢。 

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御領主「新太郎卿」のお言葉
  新太郎卿の話。2019年、年相応の不自由はともかく、大きな事故もなく、大きく健康を損なうこともなく、不幸に打ちひしがれることもなく過ごすことができたのはまことに喜ばしい限りです。2020年も、あまり頑張らないで、ただひたすら無事に過ごすことを心掛けて頂きたくぞんじます。皆さまのご健康とご多幸をいのるばかりです。なお、この御領主様のお言葉はカメが代弁したものです。
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御領主「新太郎卿」のお顔。松井田チャールズ殿下。ジェントルマンです。

ワインとビール、そしてゲテモノ料理で御満悦の日々をお過ごしです。


カメの謝辞

  2019年は合宿に参加する機会が少なく、葡萄の収穫やワイン作りの忙しい時期に協力できなくて大変申し訳ありませんでした。母親の看取り介護や海外出張なども重なりカメは勝手な行動で一年をおわりました。そんな不義理なカメであっても何時もながら暖かく迎い入れてくれる御領主「新太郎卿」そしてアルスロンガ農園のみなさまです。まさに家族以上の親密な関係といえます。こんな素晴らしい余生をおくれる幸福をみなさまに感謝します。
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我が家のクリスマスイブの夜食にアルスロンガワインのヌボーの味は格別の御馳走となりました。孫と娘夫婦共々美味しく堪能しました。


アルスロンガ農園のアーカイブは下記を参照ください。

   アルスロンガ農園の日々


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シャンパーニュ・ブルゴーニュのワイン紀行  2019年11月

シャンパン嫌いのシャンパーニュ  
              2019年11月
  シャンパーニュ・ブルゴーニュのワイン紀行


サイダーみたいな泡
 お酒なんでも大好きなカメ(私の愛称)。しかしシャンパンだけは心底楽しめません。サイダーみたいな泡がワインらしくない。貧乏人の大酒飲みなのでシャンパン本来の味など分かっちゃいない。日本酒の中で香りが強い吟醸酒も旨く飲めませんね。77歳になってもお酒に好き嫌いの偏見があったことを今頃になり深く反省。これからはどんな酒にも博愛主義でいきます。
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2019年11月12日雪もちらつく晩秋、シャンパンの本場、シャンパーニュ(Champagne)を訪れました。
郊外には一面のブドウ畑が広がっており、Champagneという地名の語源は「平原」を意味するラテン語のカンパニアに由来していることを納得。

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修道士ドン・ペリニヨン

 
シャンパンを五感できない哀れなカメ。悔しいので少し勉強しました。シャンパンは苦肉の策で誕生しました。光輝く温暖なプロバンスやボルドーに比べてシャンパーニュは葡萄栽培に適さないフランスの中でも最北のワイン生産地。パリから北東約140kmの位置にあり平坦地であることから、戦場になることが多い土地でした。1680年頃に修道士ドン・ペリニヨンが泡を瓶に閉じ込める製法を確立させました。彼の名は「ドン・ぺリシャンパン」として残り、夜の銀座高級クラブでも超有名です。
シャンパンの主要品種はシャルドネ、ピノ・ノワール、ムニエの三つ。特にシャルドネのみで造られたシャンパンを「ブラン・ド・ブラン」と、黒ブドウであるピノ・ノワールやムニエで造られたシャンパンを「ブラン・ド・ノワール」と呼ぶそうです。

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歴史的偉業は、シャンパンを熟成させるために地下に掘られた石灰岩のカーヴを人々が守り、その名声を守るため、A.O.C.法が制定されたこと。その結果2015年に「シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ」としてユネスコの世界遺産に登録されました。

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ボーヌの「栄光の3日間」   
 ブルゴーニュ(Bourgogne)の中心にある都市、ボーヌ(Beaune)で11月16日から三日間開催されるワインの祭典「栄光の3日間」見てきました。ボーヌには鮮やかなモザイク状の瓦屋根の『オテル・デュー(施療院)』やワイン博物館がありました。このあたりコート・ドゥ・ボーヌはコート・ドゥ・ニュイとともに黄金の丘(Cote d'Or)と呼ばれ、フランスでも指折りのワイン生産地です。大好きなピノ・ノワール(Pinot Noir)は、赤ワイン用ブドウ品種でブルゴーニュを原産地とします。

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ロマネ・コンティ
 
これも銀座高級クラブの定番ワインですね。ブルゴーニュ北部コート・ドールではピノ・ノワール(Pinot Noir)の単一品種ワインが数多く造られています。そのうちコート・デュ・ニュイ地区ロマネ村のロマネ・コンティはこの種を原料とした世界最高品質のワインとされます。残念ながらカメは飲んだことがありません。
ブルゴーニュではタンクにそのままピノ・ノワールを入れていき、その重さで果汁を絞り出す方法が採られています。取り出された果汁は再び上からタンクに戻され、発酵の度合いを見ながら少しずつ果実を潰してさらなる発酵を促していきます。非常に手がかかるが、ピノ・ノワールの持ち味を最大限に引き出せる醸し方だそうです。

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ワイン通の言葉
 ここで知ったかぶりで生意気なワイン通の感想。

「優雅な芳香と優しくシルキーで溶けるような舌触りは洗練された気品を醸し出す。皮の色が薄いため、ワインの色はルビーレッドと言われるように薄め。タンニンは控えめで柔らかいが確かな酸味がある。若いうちはサクランボやイチゴ、ラズベリーのような赤い果実のフレッシュな芳香から、熟成にしたがってスパイシーな森の下草やなめし革といった複雑な香りになる。」

ブルゴーニュ赤ピノ・ノワールをこのような五感で飲みたいものです。このワイン通は語彙力不足で、教科書どおりに述べたにすぎませんね。

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ランスの大聖堂
 歴代のフランス王はランス(REIMS)のノートルダム大聖堂で戴冠式を行うことで正式な国王と認められました。15世紀にジャンヌ・ダルクがシャルル7世を戴冠式に導いたことでも有名。

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ところでランス(REIMS)のスペルREIMSをどう読むのか。何故、REIMSがランスなのか。英語国の人達はリムスと読むらしい。現地でその疑問は解けました。ローマ支配以前のガリアでは、この地にはガリア人のレミ族(Remi、仏語:Rèmes)の中心的城市であるドゥロコルトルム(Durocortorum)があった。ランス(Reims)は、レミ族(複数形Remis)の名が訛ったものと考えられています。 ランスには数多くの有名なシャンパン・メゾンが拠点を置いていて、町中の地下には、総延長120キロに及ぶワイン・カーヴが縦横に張り巡らされています。

ここで晩秋のシャンパーニュでシャンソンの名曲、『枯葉』(イヴ・モンタン)を聴いてみましょう。YouTubeから引用しました。


アルデンヌの戦い
学術的には有名なランス大学シャンパーニュ・アルデンヌがあります。このアルデンヌから有名な第二次大戦の激戦、「アルデンヌの戦い」を思い出しましたが、それはベルギーにあるアルデンヌのこと。映画「バルジの戦い」としても有名で、ノルマンディー上陸作戦で連勝続く連合軍がドイツ軍に敗北した戦場です。

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フジタ礼拝堂
日本出身の画家、藤田嗣治が眠るフジタ礼拝堂を見学しました。室内にはキリストの生涯を描くフレスコ絵画がありましたが、まるで漫画のような技法。ローマ法王庁から怒られたに違いない。

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ロンシャン礼拝堂
近代建築の巨匠ル・コルビュジエ(Le Corbusier)が1955年に設計したカニの甲羅を形どったとされる独特な形態の礼拝堂です。彼は上野の国立西洋美術館の基本設計にも参加していました。こんな山奥に超モダンな礼拝堂が必要なのか疑問。鉄筋コンクリートの自由な造形を示していますからローマ法王庁に諫められたと思います。

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ボジョレー・ヌーボー
 
日本でも11月末にボジョレー・ヌーボーの解禁をバカ騒ぎします。これはブルゴーニュ東部のボジョレー地区で栽培さたガメイ(gamay)種で造られる赤ワインです。ボジョレー地区の痩せた酸性の花崗岩質土壌が、フルーティでフレッシュなワインを生み出すという。大粒で果汁が白いためワインの色調は明るい。ライトボディでタンニンはやや乏しいが酸味が豊かである。女性好みの味。

シャブリ(Chablis)
 
「シャブリ」は地区の名前で、シャブリ地区で作られたワインが「シャブリ」です。今回は残念ながらシャブリ地区に行けませんでした。シャブリ地区はブルゴーニュ地方ですが、ボーヌから北西に100km以上も離れた飛び地にあります。
品種はシャルドネです。シャブリ地区はその昔、海だったといわれており、今でも土壌から牡蠣などの貝殻が掘り出されます。この石灰質の土壌はミネラルが豊富で、ワインにもミネラルの風味をもたらします。さらに冷涼な気候は自然な酸をワインに与えます。引き締まった酸味と、海を感じさせるミネラル感は、確かに海だったのですね。

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シャブリは畑違いで様々な種類があります。4つの格付けがなされていてカメが飲んでいるのは単に「Chablis」と呼ぶ格安品です。参考までに調べると、特級「Chablis Grands Crus」、1級「Chablis Premieres Crus」、3級「Chablis」、その他「Petit Chablis」となります。今回、「Chablis Premieres Crus」をグラスで飲んでみました。1級畑の葡萄で作られるシャブリです。スッキリした飲み口であり果実味が豊かでコクのある味わいでした。

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ディジョン(Dijon)
 
エスカルゴやマスタードといったブルゴーニュならではのグルメ。マスタードといえばディジョンマスタード、ディジョンといえばディジョンマスタードが有名。原料は、アブラナ科のカラシ菜の種でこれに白ワインビネガーや白ワインと合わせて作られます。日本のおでん料理にも合いそうです。
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ブロッケン現象 ?
 今回はエールフランス航空パリ直行便を利用する贅沢な旅でした。パリまで12時間で行けました。60数年前の東京から大阪までの夜行列車と同じ時間ですね。三等普通列車の固い椅子が懐かしい。
帰りは久々に窓側席にいました。シベリア上空を過ぎ日本海を渡るとそこは日本。雲海に浮かぶように真っ白な富士山の頂きがよく見えました。
珍しい光景に興奮しました。乗っているエールフランス機の影が雲海に見事に写っていたのです。まるで高山で遭遇するブロッケン現象のようでした。

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2019年9月6日の誕生日で77歳になり喜寿を迎えたのに海外旅行が大好きで、いつまでたっても落ち着きません。老体に鞭打つように重いリュックを背に経済級(エコノミークラス)で質素な機内食と数杯の安ワインに満足しています。長々と駄文を綴りました。  カメ


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