斉藤孝  カメのブログ

カメの個人的ブログです。私の趣味、ガーデニング、友人との交流

幸せの青い鳥「オオルリ」    2020年6月

 


幸せの青い鳥「オオルリ」  

       -奇跡の羽ばたきー

            2020年6月 作並便り

                                              澤井 清  

筆者横顔

 仙台作並の後期高齢者。某女子大名誉教授。現在は全日空作並支局長。全日空とは「全」ての「日」が「空」いていること。 趣味は多彩。ジャズ喫茶めぐり、写真、ハイレゾオーディオなど。新型コロナ感染の時代になりナチュラリストへ変身。


今回は、幸せの青い鳥「オオルリ」について報告します。
 5月7日の午後2時頃、我が家の高窓(5m)に「ゴッン!」という音。「何か、ぶつかった?」家内が何事かと外に出て見ると、そこには、全長16cm程の青い鳥(瑠璃色のオオルリ?実物を見るのはこれが初めて!)が地面に横たわっていました。窓に激突、落下。微動だにしない。窓に映った新緑の木々と青空を目指していたのだろうか。

 家内が、「オオルリ」を手ですくって家の中へ。ぐったりしている「オオルリ」にをやり、割ばしの上に。しばらくすると、家内の姿を追って、目を、頭を動かし始めた。さらにを飲ませると室内で羽ばたくまでに回復。手の平に乗り落ち着いた様子。


  (写真1  手乗りオオルリ ?)

写真1


「オオルリ」といえば私の愛用する鳥画入り「特製趣味用箋」の中で1番お気に入りの鳥。望遠レンズ撮影による「オオルリ」の写真は見たことがあるが、このように至近距離で実物を見たのはこれが初めて。野鳥の手の上の姿は稀なので紹介します。

  「オオルリ」は主に夏鳥として4月下旬頃日本に渡来し、冬季は東南アジアで越冬。南西諸島を除く北海道から九州まで全国各地で繁殖。「ルリ」と名の付く鮮やかな瑠璃色の体は美しく、日本で見られる夏鳥の中でも人気の高い野鳥。高い木の上で朗らかにさえずる、姿も凛々しい。一見よく似た鳥として「コルリ」がいるが、「鳥類図鑑」で調べると、外見上一番の違いは、のどので判別とのこと。「オオルリ」が黒色もしくは濃い青色に対して、「コルリ」は真っ白。まさしく今回の鳥はオスの「オオルリ」。ちなみに「オオルリ」のからだの色は、オスは瑠璃色、メスは淡い褐色である。


   (写真2  ハンサム・・ 

        写真2


「オオルリ」は国際自然保護連合(IUCN)の軽度懸念(レッドリストで生物種を危険性の高さで分類したカテゴリーの一つ)を受け、日本では東京都北多摩をはじめ、千葉、山形、神奈川、大阪府、和歌山、山口、福岡、茨城、滋賀、埼玉、兵庫、岡山県でレッドリストの指定を受けている。また、「オオルリ」は「ウグイス」、「キビタキ」と「三大美声鳴鳥」のひとつと呼ばれるほど美しい声でさえずります。それでは「オオルリ」の美声を「YouTube動画」からお聴きください。

 

 

   出典  YouTube (https://youtu.be/qSS9zkATiyA)

 

 「オオルリ」にとってアクシデントも、自分にとっては生の「オオルリ」との出会いになった。あの日、無事に空に吸い込まれるように飛び立っていった「オオルリ」。
明日もまた、我が家上空を縄張りに、渡りの季節を迎えるまで、声高らかにさえずってくれることを期待してしまう。
 今日も、青い空を見上げながら、あの鮮やかな瑠璃色を思い出している。 

 

                 作並のナチュラリスト
                          澤井 清

 

澤井 清先生 貴重な投稿、ありがとうございました。 カメ

 


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上海的生活   2019年10月

 上海的生活 1930-1945 

樋口 雅子 

筆者横顔
 四半世紀以上前、愛知淑徳大学において斉藤ゼミに所属。卒論発表より卒業旅行を優先させた実績あり。
現在は某銀行人事課長。趣味は国内外一人旅だが、下戸の上偏食のため旅先ではTVばかり見ている。
 

 樋口雅子さんの亡きお母さまが育った戦前の上海。そこは極東一の国際都市でした。ただ悲しい史実は「犬と中国人は入るべからず」という看板が見られる欧米と日本などが占領した外国租界が点在する大都会でもありました。そんな上海の日本租界にお母さまの少女時代があったのです。雅子さんは地図を片手に『この上海の片隅に』あるお母さまの足跡を訪ねてみました。 カメ


はじめに 
 上海といえば、外灘(バンド)エリアから見える黄浦江を挟んでレトロな建物群と近代的な建物群の対照的な景色が有名ですが、2010年の上海万博を機にさらに街は開発が進み、古い街並みや建物がどんどん取り壊されています。



1930年(昭和5年)、私の母は上海虹口区の日本租界地区で生まれました。15歳まで育ったため、その当時の記憶を比較的鮮明に覚えており、よく聞かせてくれました。そこで母の話を聞き租界時代の上海に興味を持ち、租界区当時の地図をまとめた「上海歴史ガイドブック」(木之内誠編著、大修館書店、1999年)を頼りに、母の生い立ちの足跡を訪ねてみました。


 地図凡例  黒字:現在の名称  赤字:1949年以前の名称  🏠母の生家 

今も病院
 母が生まれた北四川路(現在の四川北路)沿いにあった「福民医院(1924年日本人によって設立)」は、現在は第一人民医院という近代的な大病院になっていました。当時の面影は全く残っていませんでしたが、未だに医療施設として存在しています。1929年、魯迅の長男もこの病院で生まれています。

 

戦争の記憶
 福民医院の右隣には母が通った「北部第一小学校」があり、現在は虹口区教育学院実験中学として、建物は1917年設立当時のまま残っていました。
ある日曜日の夜、爆弾が誤って校庭に投下されたそうです。人的被害はなかったものの、窓ガラスが全部割れ校庭の真ん中にぽっかり大きな穴が空いたそうです。母は初めて戦争の怖さを知りましたが、それ以外戦争を実感することは、上海ではほとんどなかったと言っていました。(上海事変の時には日本へ一時帰国していたため。)



この小学校を見に行った時、門の外には子供を迎えに来たおばさん達が大勢いました。はじめは遠巻きに怪訝そうにこちらを見ていたおばさん達でしたが、「母 誕生 上海 小学校 通学」等と適当な漢字を書いて事情を説明したところ、おばさん達が一丸となって守衛さんに交渉してくれ、おかげで校内に入り写真を撮ることができました。おばさんはどこの国でも世話好きです。 

学校帰りの日課
  母の学校帰りの日課は、「内山書店」での立ち読みでした。書店主内山完造は魯迅等中国の左翼進歩派文化人を庇護し、戦後も日中友好に尽力した人です。今は新しい建物が立っており、内山完造と魯迅の親交を忍ばせる記念プレートが壁に埋め込まれていました。
読書好きな母は毎日欠かさず、学校帰りにこの書店に立ち寄って立ち読みしていたそうです。お店にとっては甚だ迷惑な話で、毎回お店のおじさんに注意されていたそうですが、注意していたこのおじさんが内山完造だったかもしれません。内山完造は魯迅にとっては恩人でも、母にとっては天敵だったようです。完全な逆恨みなのですが。


 青年士官を見に
  上海の日本人保護のため、日本海軍の陸上戦隊部隊が1928年以降常駐しており、その本部「陸戦隊本部」が母の家の近くにありました。夜になると屋上の大きなサーチライトが、街を照らして明るかったそうです。この建物は大きく頑丈に作られており、現在も銀行や商店として使用されていました。



海軍の本部らしく建物内には温水プールがあり、母は時々遊びに行っていたそうです。プールでは筋骨隆々のイケメン青年士官が泳いでいた、と母はうれしそうに話してくれました。海軍の船が上海に寄港した時は船上パーティにも呼んでもらえたそうで、小学生ながら母はなかなかの社交家だったようです。

 信じる者は救われる
  1928年にアメリカ人宣教師の寄付によって建てられた「鴻徳堂」は、上海で唯一の中国宮殿様式を取り入れたキリスト教教会です。見に行ったのですが、残念ながら中には入れてもらえませんでした。ステンドグラスがきれいだそうです。



毎年クリスマスイブになると、母は一日だけ敬虔なキリスト教信者になり、この教会のミサに参加していたそうです。神妙な顔をして適当に讃美歌を歌っていれば、帰りにケーキとクッキーをたくさんもらえたから、と罰当たりなことを言っていました。
一方1924年、なぜかオランダ人によって建てられた「知恩院」は、なぜかイスラムスタイルの建物でした。戦争後は孔祥熙が住み、現在も個人宅だそうです。

 

朝食はフランスパン
  ロシア人が経営するパン屋さんが母の家の近くにあり、ピロシキ、ではなく焼きたてのフランスパンを毎朝配達してもらっていたそうです。

 
※母の記憶によると、たぶんここがパン屋さんのあったところ。 

母の好物は、バターをたっぷり塗ったフランスパンで、上海では毎朝食べていたようです。戦後日本へ引き揚げ福井県に住んでいた時、当たり前ですがどうしてもフランスパンが手に入らず、「食パンでもいいから、バターを塗って食べたい。」と友人に話しずいぶん驚かれたそうです。 

おわりに
 
 母から聞く上海での生活はとても戦時中とは思えない華やかな様子で、公園をローラースケートで走っていたことや、ヒトラーユーゲント(ヒトラー青年団)の青年と文通していたことなど、話を聞くのがとても楽しみでした。母は2015年に他界し、上海時代の愉快な話はもう聞けなくなりましたが、「ランドセルを背負って、母はこの道を歩いていたのかな。」と思いながら母の思い出の地を巡り、初めて訪れた街なのになぜか懐かしい気がしました。古い建物や路地が未だ残っていたからかもしれません。
中国は経済が減速し始めたとはいえ、上海ではいつでもあちこちから工事の音が聞こえ、訪れる度に街並みの変貌ぶりに驚かされます。2005年始めて上海を訪れた時は、天秤棒を担いだおじさんが道端で上海蟹を売っていましたが、今では見かけることはありません。私が確認した母の思い出の場所も、もしかしたら今はもうないのかもしれません。
来年のオリンピックに向けて東京では大規模な改修工事が行われ、古い建物が取り壊され、新しい建物がどんどん建っています。前回の東京オリンピックの時も、きっとこんな感じだったのかなと思いますが、今回は日本橋の上に高速道路を作るようなことをせずに、開発を進めてもらいたいと思います。
 


樋口雅子さん
お母さまの上海租界での日常、まるで映画『この世界の片隅に』のようなお話です。
貴重な投稿、ありがとうございました。
カメ
 



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