やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

恋愛と売買春の(同一)起源について

 

 ささやかな疑問から始めよう。
 ゲーテ『ファウスト』におけるマルガレーテは、通常は敬虔な女性と見做されている。罪を犯しつつも、深い悔悛によって天上界へと救済されるばかりでなく、その聖なる祈りによってファウストの魂をも救う。だが彼女をめぐる罪と赦しの壮大なドラマの脇で、一見どうということもないシーンが、彼女の敬虔さにかすかな疑問の影を落としている。
 それは第一部の中ほど、メフィストフェレスが主人に代ってマルガレーテを誘惑するシーンである。悪魔が彼女の気を惹くために使ったのは宝石箱だった。そしてその効果はあり、マルガレーテは、このような素敵な贈り物をしてくれるのはいずれの紳士であろうかと想いを馳せたのだった。

 

 かわいいマルガレーテは、口のはしをっちょっぴりつりあげて、こんなふうに思った。
 諺にも、貰った馬の歯並みのよしあしはいわぬがよいということがある。
 それに、親切にこんなりっぱな品をわざわざ持ってきてくだすった方が、神にそむくようなひとであるはずがない。
 (手塚富雄訳『ファウスト』、太字は安田による)

 

 かくしてファウストは、マルガレーテ誘惑のファーストミッションを達成するのである。
 それにしても「こんなりっぱな品をわざわざ持ってきてくだすった方が、神にそむくようなひとであるはずがない」というのはずいぶん御都合主義な発想のように、少なくとも今日の我々からは思える。これは彼女の欺瞞を示す言葉なのだろうか?
 そうではない。彼女の言葉への違和感こそが、われわれの時代-社会と彼女のそれとの恋愛観の違いを端的に示すものである、というのが今回のブログのポイントである。
 つまりマルガレーテの心において、キリスト教的な純愛と恋人からの富の享受は矛盾なく同居していたのである。

 

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 ドラクロワ「マルガレーテを誘惑しようとするファウスト」(1828)

 

 追記1:こうした求愛の様式は、古くはギリシア神話における、貞婦アルメクネを訪れるゼウスにも見られる。たとえば次の古代ギリシア花瓶では、梯子を持ったゼウス(左下)の従者(右下)が、右手にアルメクネへの贈り物を携えている。これはメフィストフェレスの宝石箱に相当するものであり、同テーマの遺物の図柄に頻出する。

 

 

 *

 

 我々はたいてい、金銭を用いて異性を口説くことは純粋な恋愛ではないと感じる。
 たとえば将来を誓い合った同郷の男女がいたが、けっきょく金持ちがその女を娶った――といった物語においては、とくに説明がなければ女はいやいや嫁がざるを得ない何らかの事情(たいていは親の経済的苦境を救うとか)があったのであって、金持ちと女にはとくに感情の交わりはない、少なくとも女のほうからはないというように「読む」のが我々のコードである。


 だが現実は必ずしもそうではない。金持ちはたんにお金を持っているだけでなく、清潔で、身なりや仕草も洗練されており一言でいって「感じがいい」のに対し、幼馴染みの「口約束の」許嫁は、金持ちの求愛者に比べるとこれまで気付かなかった粗野なところが目についたり、一生一緒にいてくれやだのそりゃ君を泣かせてしまうことだってあるだのといったバカくさい歌を歌ったりして愛想を尽かされたということのほうが、どちらかというと有り得るのではないか。

 

 近代以降、なにか金銭が介入すると本物の愛とは思われない、そういう観念を我々は抱いている。いわゆるロマンチック・ラブ・イデオロギーというやつである。

 

 追記2:近代以降の我々の恋愛に甚大な影響を及ぼしているロマンチック・ラブ・イデオロギーについて、ノッターは、Hendrick&HendrickおよびStoneを参照にしつつ「ロマンチック・ラブ複合体」(romantic love complex)における三つの主要な信念を指摘している。
 それによれば、
第一は「真の愛」の対象は一人しかいないことであり、第二はその運命の相手に出会えば、一目惚れという形でただちにその相手が「真の愛」の相手であることがわかること。そして第三に――ここが当ブログの論点に関わることだが――あらゆる事柄より愛が優先されるべきであって、「特に配偶者選択の場合は物質的利害ではなく、愛のみによるものでなければならない」(デビッド・ノッター『純潔の近代』)ことだという。

 又、恥知らずにもインターネットから孫引きさせてもらうならば、
「恋は天災のように突然訪れる」「好きになったのだから仕方が無い」といったロマンティストの用いる論法は18世紀後半以降のヨーロッパにおいて広範に影響力をもち、家柄や利害関係など計算された結婚慣習を根本的に変化させていったという(西澤晃彦、渋谷望 『社会学をつかむ』 )

 

 *

 

 十三世紀フランスの笑話(ファブリオー)「お蔵番修道士の話」では、修道士が次のように人妻を口説いている。

 

 「神様のお救いがありますように。あなたの愛をわしに下さらんか。もうずっと何年も前から、わしはあなたのお父上の家におられた頃から、あなたが好きじゃった。だがその頃わしは見習い坊主で、子供だったので、知恵も働かなんだ。だが今では、賢明に話すことの出来る年になっている。わしの望みを叶えてくれるなら、このわしはお宝を自由にできる身じゃから、金銭を進ぜよう。いや宝石でも服でもいかほどなりともかまわぬ」

 

 「奥さん、もしあなたに、愛の心でわしを抱いてやろうという気があり、たった一度の口付けでいいんだが、わしを喜ばせてやろうという気になったら……いまここに持っている百朱(スー)を上げよう。そして明日の昼前に、クリュニーの一番金持ちの男の蔵にあるよりももっとたくさんの金銭を進呈しよう」
 (森本英夫他訳『フランス中世艶笑譚』)

 

 「あなたのお父上の家におられた頃からあなたが好きじゃった」のあたりがなんともイヤラシい。とはいえ、これは悪魔の所業ではなく、たんなる好色な修道士のふるまいである。おそらくクリュニー修道院の権勢や膨大な蓄財を皮肉っているのだろうが、少し割り引いてもかつての求愛が経済的メリットを率直にアピールすることを恥としなかったことが伺える。

 

 追記3:ピエトロ・アレンティーノ(1492-1556)の作品にはしばしば売春斡旋業の女、いわゆる「取り持ち女」が登場するが、E・フックスはこれを同時代の風俗の正しい反映と見做している。取り持ち女は娼婦のみならず、人妻や未亡人、良家の子女、腰元、修道女といったあらゆる階層の女性を男たちに引き合わせた。その逢瀬の多くには金品が介在したであろうが、しかし女たちの目的は金品だけではなく(あるいは金品と同時に)、恋愛相手や庇護者との出会い、なんらかの生活上の問題解決、未知の体験を求めることやセックス自体など様々だったはずだ。ファブリオー「オーブレ婆さん」のイメージはそうした「取り持ち女」のなかでも典型的なものだろう。ここでもまた、恋愛と売春の境界線はきわめて不明瞭である。

 

 ファブリオーのみならず、西欧中世の民衆小説全般を見渡しても、性欲や物欲と切り離された、純粋な恋愛感情というのはほとんど見出せない。それはトルバドゥールや騎士道小説といった貴族階級のための……つまり幻想や様式美の世界の側にのみ見出されるのである(純愛の雛形である宮廷恋愛がいつ、どのように民衆にまで広まったかというのはドニ・ド・ルージュモンやノルベルト・エリアス、ジャン・ルイ=フランドラン等の追及した重要なテーマであるが、このブログでは大まかに「最初に中世貴族のなかで、やがて近世-近代になって民衆にも」という程度に把握するに留める)。

 

 追記4:また古代ローマ人の活き活きとした描写で知られるペトロニウス『サチュリコン』のなかにも、冒頭の『ファウスト』におけるメフィストフェレスによく似た愛の手管を見出すことが出来る。詩人エウモルプスは、美少年が寝ている傍らで聞こえよがしに神に祈る。
 「恋の女神(ウェヌス)さま、もしこの少年に気づかれぬように接吻することがかないましたなら、明日この子に一番(つが)いの鳩を贈ります」
 これが聞こえると、少年はこれみよがしにいびきをかきはじめるのである。
 さらに翌日、エウモルポスは「もし私がこのいたずらな手で、感づかれずにこの子をいじりまわすことができましたなら、私はこの子の従順さに対して一番いのもっとも喧嘩好きな闘鶏を贈ります」と祈る。当然これも成功する。
 さらにその翌日は、とうとう「不死の神々よ、もし私がこの眠り込んでいる少年から、私の望ましい十分な交わりを獲得することができましたなら、そのような幸福に対して明日私は最良のマケドニア種のアストゥリア馬を贈ります」と祈る。その夜どうなったかはもはや言うまでもない。
 翌日の昼、エウモルポスが何事もなかったようにしているので、少年は堪えきれずに尋ねた。
 「ねえ、おじさん、アストゥリア馬はどこにいるんですか?」

 

 このやりとりにおけるエウモルポスの卑劣さは際立っている。只しここで、エウモルポスを卑劣だというのはいかにも当世風な「大人が性的同意能力のない子供をたぶらかして」云々、と言いたいわけではない。現代の尺度で過去を裁くのではなく、二者のあいだの暗黙の取引――そしてそのやりとりにおいて生じた信義――を、エウモルポスが一方的に裏切ったからである。
 いっぽう少年にはやり逃げされたあげく後々まで嘲笑されるほどの落ち度があったは思えない。少年の鳩や闘鶏や馬にたいする欲望はとくべつ否定すべきものではない――先に述べたように、恋愛に経済的利害を挟むのは不純だとする観念自体が近代的イデオロギーの所産にすぎない――のだし、それを手に入れる手段として、彼はエウモルポスの提示した暗黙の取引に応じただけだからである。マルガリーテは「貰った馬の歯並みのよしあしはいわぬがよい」とひとりごちたが、そもそも馬を貰えなかったらやはりクレームが出るのは必定だろう。

 だが、それにしても何故このような「間接的な」手段が必要なのだろう。当然ながら、詩人が直接「これこれのものを上げるから性交させてくれ」と美少年に頼んだ場合、断られたに違いないからだ。エウモルプスは少年に「これは売春=特定の階級の者が生業としているあの行為ではない」というアリバイを与えたのである。
 ようするに売春とは金品の利得をストレートに伝える求愛であり、恋愛とは金品の利得を間接的に伝える求愛であるということになりはすまいか。ただし後者は、時代が下れば下るほど迂遠でわかりにくくなってゆく。これ見よがしにリッチな姿や態度を見せることがモテた時代はその過渡期であり、今日においては、より控えめな「印象のよい服装・髪型、しぐさ、喋り方」「適切にコントロールされたロマンチックな演出」といったものになり代わっているが、結局のところその本質は経済的利得のアピールである。

 

 追記5:古代ローマの例をいま一つ挙げるならば、オウィディウスは『恋の技術』(Ars amatoria)において、意中の女子を口説くさいにはいまにも価値のあるプレゼントをあげるかのようにほのめかすべし、しかし実際にプレゼントを与えるのはなるべく引き延ばすべし、と教唆している。またそれに対抗して女たちも、もうすぐ誕生日だの何だのといってプレゼントを欲しがるが、渡してしまったが最後求愛者を捨てるというケースがしばしばあるし、誕生日が年に何度も訪れる女もいる、とオウィデウスは揶揄まじりに注意喚起している。
 こうしたことは現代にもしばしば見られる。筆者の知人で「高価なプレゼントを渡した/受け取った直後に別れた」という話を聞くことが意外に多いのである(直後というのはだいたい、一ヶ月以内)。
 それは女性が狡猾という場合もあるかも知れないが、男のほうも何か破局の危機を察して繋ぎ止めるために高価なプレゼントを渡したが、すでに手遅れだった――『タイタニック』でケイト・ウィンスレットが婚約者から贈られたクソでかダイアモンド💎
のように――ということも意外と多い……というか僕が聞いたケースはだいたいそんな感じだった。悔しくても「だったらこれまでつぎ込んできた金返せ」とか言ってはいけません。賭けた金はルーレットが回ってからは取り戻せない。そんなんだったら「最初から無課金で口説け」と言いたい。

 

 「ぜってえ逃がさねえかんな!」

 

 そういえば、大阪プリンの「なんかちょうだい ~PLEASE GIVE ME SOMETHING~」の歌詞。「うわべだけの言葉よりも目に見えるものちょうだい」「二人の愛はお金なんかじゃ買えないもののはず」という男と女の軽快なやりとりは秀逸である。おすすめ。

 

youtu.be

 *

 

 少し話を拡げて考えてみる。
 近代においては、パラン=デュシャトレによる、十九世紀パリの売春婦についての仔細をきわめた調査が名高い。
 彼は売春婦一人ひとりへの綿密な観察や聞き取りはもちろん、警察・刑務所病院等の公式記録、専門家や行政官の証言と、可能なかぎりありとあらゆる資料を収集・吟味し、統計的分析を加えた。その水準は、のちの社会科学的調査を先取りしていたとさえ言われる。
  そうしてパラン=デュシャトレは、当時のパリの売春婦は主として勤労者階級女性による「一時的な就業形態」であると結論づけた。
 彼が調査した売春婦のうち約六割は売春従事年数が四年以下であり、逆に九年以上の売春従事年数を持つ者はわずか二%ほどであった。また彼女らの売春婦になる以前の職業は家内労働者か工場労働者である場合が多かった。
 つまり大半の売春婦は、確たる専業娼婦であるというよりも普通の女性が困窮したさいにやむなく一時的に売春を行い、ほどなく一般職や家庭に帰ってゆく、いわば素人売春だったのである。

 

 パラン=デュシャトレは、働き口の少なさと低賃金こそが、売春の最大の要因だと力説する。「とりわけパリで、そして、おそらくすべての大都市でも、職がないことと、低賃金の必然的な帰結としての貧困ほど、売春の原因として大きいものはない」
 (シャノン・ベル『売春という思想』。「」内はパラン=デュシャトレ『十九世紀パリの売春』より)

 

  パラン=デュシャトレの調査は非常に重要であると受け止められているため、後の学者による言及が多く、単純な解釈は許されないところがある。だが概して、彼の調査は「社会通念上における売春婦と素人女性とのあいだの垣根を取り払うのを促進した」とはいえるだろう。
 このことは、売春がけっして特殊な人による特殊な行為ではないという、今日からみれば当たり前の、しかしなんのかんの言って今日でも多くの人が心の中で線を引いている、その線の根拠を問う。
 これは上で述べたような、将来を誓いあった同郷の馴染みを捨てて金持ちの妾になることがなぜ不埒な行いとされるのか、なぜ「そこに愛はない」とされるのか、という疑問と少なからず重なってくるであろう。純愛観念と娼婦蔑視はコインの裏表である。

 

 追記6:金塚貞文は『売る身体/買う身体』所収の論文「買春する身体の生産」において、「商品化されない性」つまり性の本質なるものが、「疎外されない人間本来の労働」といったイデオロギーと同じように、資本主義社会において再帰的に見出されたものであることについて、以下のように指摘している。
 「(安田:労働力の商品化と)同じように、性もまた、商品化されることによってはじめて、商品化された性(金銭を媒介にした性)と商品化されない性(たとえば、愛情だけを媒介とした性)の区別が成立し、両者の共通の本質として、性そのもの、快楽としての性といった認識が誕生したのである。言い方を換えれば、かつて婚姻の内部で行われていた性的行為が商品化されて、売春行為になったというのではなく、性の商品化によって、売春における性的行為と、婚姻内のそれとが、商品化された性と商品化されていない性という区別を受け取ると同時に、その両者の行為が同じ性的行為、同じ性的サービスであるという抽象化が、同一性の認識が、はじめて可能になったのである。商品化された性が、商品化されない性、性そのものをバラ色のものとして思い描かせ、そうすることによって、逆説的にではあれ、かえってその商品化された性の商品価値を高めさえするのだ」

 

 *

 

 バーン&ボニー・ブーローによると霊長類のメス(や若いオス)は、餌をもらったお礼や相手の攻撃をかわすために性的サービスを供給する場合があるという(『売春の社会史』)。これを学術用語では「プレゼンテイション」というらしい。「売春は人類最古の職業」と俗に云われるが、実は売春の歴史は人類より古い、とも云える。
 オスがエサを運んでくれる。お礼に(?)セックスをする。それは愛なのか、売春なのか。霊長類のこのような行いに答えを出せるだろうか。出せるとしても、少なくとも彼ら自身はそれを行っているとは思っていない。「愛」や「売春」といった人間独特の概念の世界に彼らは生きていないのだから。

 

 *

 

 他にも傍証として挙げたいものは幾つかあったが(たとえば夜這いや乱交風習、またイラン・エジプトの一時婚について)きりがないのでそろそろ文を締め括ることにする。
 ここまで見てきたように、恋愛と売買春は歴史的に明確な線引きがあったとは言えない。両者は時代が下るにつれ徐々に分化したが、とりわけ近代以降のロマンチック・ラブ・イデオロギーの普及によって決定的に切り離され、売買春は純愛にとって不要なものであるばかりか、異物として排除されるようになったといえる。
 同様に素人と娼婦とのあいだにも確たる区別はない――というより、かつてはなかった。現在でも援交やパパ活など売買春寄りの恋愛というか恋愛寄りの売買春というか、ようするにロマンチック・ラブ・イデオロギーには収まらない恋愛様式が見られるのは、人がずっとしてきたことで当然といえる。それが蔑視されているのは、ロマンチック・ラブ複合体によるイデオロギー(恋愛は金銭的利害を度外視しなければならないという不文律)の所産である。また同様に一夫一婦制も絶対ではない。

 

 かくして、現存の恋愛観、売春観、また一夫一婦制的な家庭観を自分なりに相対化してみた。ひとえに、人間本来の性の多様性を認識しようというささやかな試みであったが、充分に説得的たり得たかどうかは読者諸賢の判断に委ねることとする。

 

 

 

フランス中世艶笑譚 (1984年) (現代教養文庫〈1104〉)

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完訳風俗の歴史 (角川文庫)

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サテュリコン―古代ローマの諷刺小説 (岩波文庫)

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十九世紀パリの売春 (りぶらりあ選書)

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売春という思想 (クリティーク叢書)

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売春の社会史―古代オリエントから現代まで

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