やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

ロボトミー手術と内省否定の思想について

 

 ※この記事で述べられている事実関係については複数の文献やネット記事を参考にしたが、とくにヤングソン他『危ない医者たち』に多くを依拠しています。

 

 蔵書から、ロボトミー手術に関する記述を拾い読みしていた。

 

 現在では、功名に取り憑かれた〝悪魔的〟医師たちによる医学史上最大の黒歴史、テクノロジーの反人道的逸脱の極みと見做されているこの技法が、一度は社会によって熱烈に歓迎され、ノーベル医学賞受賞者まで出し、世界でのべ五万~十万人に対して施術されたこと、ある時期に憑き物が落ちたように否定されるまで実に数十年の時を要したことは何を意味するのか。いったい当時の人々はなにを考えていたのか、と首を捻らざるを得ないのではないだろうか。
 しかも、もしも五十年代における向精神薬(主にトランキライザー系)の飛躍的発展がなければ、ロボトミー手術はなおもしばらくは永らえていたかも知れないのだ。

 

 とはいえ、ロボトミー手術は当初から批判の絶えない技法であった。そりゃそうだろう。頭蓋骨に穴を開ける、あるいは眼窩を突き破って器具を差し込み、脳を直接掻き回すというのだから、さすがに二十世紀前半の人間から見ても直感的に自然な行為とは映らなかった。早い話が当時からしてグロテスクだったのである。

 

Lessons to be learnt from the history of lobotomy | Tidsskrift for Den norske legeforening

 

 手術に立ち会った多くの者は途中で気分が悪くなって退出したし、医療関係者ですら時折失神する者がいたというのも無理もない。

 

 ハッチャー医師「そんなことはない。私は一種の医療用のアイスピックを手にしてこのようにもち、眼球のちょうど上の骨の中にひょいと入れ、脳の中までそれを押し込み、そっと掻き回し、脳の神経をこのように切るだけで、それでおしまい。患者は何も感じない」。
 クランフォード「そして君も何も感じないのだね。私は朝食に行くつもりだったが、その気がなくなってしまった」。
 (エドワード・ショーター『精神医学の歴史』p.277)

 

 したがって、米国その他における精神医療施設の患者過密や精神衛生予算の問題(ヤングソンらによれば、患者一人の年間の収容費が三万五千ドルであるのに対し、ロボトミー手術は一件につき二百五十ドルで実施できたという)、また暴れる患者を抑えてほしいという病院や患者親族側の都合、そういったものがなければ、ロボトミー手術のこれほどの長期的存続はあり得なかっただろう。
 つまり、多くの人がロボトミー手術には疑問を感じていたものの、とにもかくにも五十年代に入るまでは精神科医も神経医学者もより有効な代替策を提示出来なかったので採用され続けた、というのが実情のようである。

 

The worst Nobel Prize ever awarded was for the creation of the lobotomy | Newstalk

 

 *

 

 では人権、人道的意識はどうだったのか? というとこれも五十年代に入って、ようやくそうした観点からの批判が出て来るようになった。たとえばニューヨーク州精神医学界の会長ノラン・ルーウィスの次のような問いかけ。

 

 患者を静かにするのが癒しであろうか? たぶん、ロボトミーがなしとげたことのすべては、患者を看護しなければならぬ立場の人々にとって、物事をより簡便にしただけである……患者はいわば小児的になった……まるっきり鈍感になった。この手術が作り出した大勢の腑抜けのような人を見ると心が痛む……止めさせなければならない。
 (ロバート・ヤングソン他『危ない医者たち』p.233 以下太字は安田による)

 

 このような発言を見ると、ようやく今日の我々の感覚に通底するようなロボトミー批判が出てきたと安堵を覚える。
 つまり言われているほどの効果があるのかとか、失敗の可能性(ろくに患者に説明されず半ば強制的に施術されたにもかかわらず、術後の状態悪化が2~4%、死亡率は3~5%あった)といったことよりも、たとえ傍目に良くなろうとも――あるいは本人も感謝していようが――根本的にこれは治療などではなく患者の人格に対する破壊行為である(此処で言う「成功」とは何を意味するのか?)、という認識である。

 

 余談だが我々の抱いている人権感覚は歴史的・地域的にひじょうに範囲が狭く、立場の危ういものであることを痛感することがある。
 たとえば近世フランス史家ドリンダ・ウートラムはその著書『フランス革命と身体』のなかで、同情は下層階級に発する感情であるという、恐怖政治時代の医事評論家ジョルジュ・カバニスの言を引いている。カバニスによれば、したがってギロチンにかけられた犠牲者の大部分は、他人の同情を買うことを嫌ったという。
 あるいは19世紀後半、探検家スピークがウガンダのムテッサ王に銃をプレゼントした時、王は「ためしに誰か殺してみろ」と小姓に命じ、小姓が命令にしたがい侍従の一人を射ち殺したのを見て満足そうに高笑いした……といった話は、僕が人権の必要性について考えるさいに常に頭をよぎるエピソードである。

 あるいは『カラマーゾフの兄弟』でイワンがアリョーシャに語るところの、領主の飼い犬に偶然怪我をさせてしまった使用人の少年が公開処刑として犬たちに引き裂かれる話――これはフィクションだが実際に似たような蛮行はそこかしこで行なわれていたであろう――こうした例はその気になれば無数に出て来るのだが、本題に戻ると、もう二度とかつてのような野蛮に戻ることはないのだから安心していい、などとはとても言うことは出来ないのである。

 

 *

 

 それにしても今回、個人的に考えさせられてしまったことがある。
 それはロボトミー手術の第一人者であり、かつ強力な推進者であったウォルター・フリーマンの人柄とものの考え方についてだ。後述するがとくに内省についての彼の否定的な捉え方がひっかかるのである。

 

 なお彼が〝悪魔的〟人物であったかどうかは一概に言えない。

 確かに彼は患者を同じ人間扱いしていないふしがあったし、一貫して慎重さに欠け、驚くほど軽率で、悪い意味で楽観的なところがあった。また晩年の自説への固執には憐れむべき現実との乖離がある。
 いっぽうで、彼がロボトミー手術の肯定的効果を心から信じていたこと、そのために試行錯誤と技術的改良の努力を惜しまなかったこともまた、彼についての複数の記述から読み取れる。

 

 フリーマンが学会でハワード少年を同席させて成果を発表すると、会場に囂々たる非難が湧き起こった。
 逆上したフリーマンは持参した大量のカードを壇上からぶちまけ、どなり返したという。
 「これはすべて患者から送られたクリスマスカードだ! 君たちはこんなにたくさんのクリスマスカードを患者からもらったことがあるかね!」
 フリーマンの怒りに、ハワード少年は「自分が何か間違ったことをしたのだろうか」と、大いに戸惑ったという。
 (NHK「フランケンシュタインの誘惑」製作班『闇に魅入られた科学者たち』p.118)

 

 さてフリーマンの「ものの考え方」というのは次のようなことだ。

 かれは、内省など気が沈むだけでなんの役にも立たず、活動・実行のほうがよほどよいという信条の持ち主だったというのである。

 精神科医としての彼は、患者とコミュニケートすることになんの価値も見出さず(したがって精神分析は彼の不倶戴天の敵であった)、それよりもウォーキングやなにかしらの作業をすることを勧めた。
 彼自身も抑鬱傾向を持っていたが、それを認めたがらず、誰にも相談もせずに、そういう時には長時間ウォーキングしてやり過ごしたという。

 

Walter Jackson Freeman II (1895-1972) 

 

 

 街を歩くフリーマン。今日なら気を紛らわしてくれるものはもっと豊富にある。彼はひたすら歩いた。
 「内省は役に立たない、活動せよ」という処方箋じたいは一概に否定できるものではない。たしかに今日でも心理学の入門書に、鬱病に親和的な性格として「外部意識状態より自己意識状態が長いこと」が挙げられていたりする。
 また戦時中や大災害時に自殺者が減るのは、危機状況が〝外への注意〟を促し、集団への帰属意識を高めるからだと言われている。抑鬱や自死と内省癖になにかしらの関係があることは否定しがたい。
 そういう意味ではフリーマンの内省否定にはもっともな面もあるのだが、しかし他ならぬそういう考え方をする人物が、ロボトミー手術という今日からはあきらかに反人道的、かつ極端な社会防衛的ムーブメントを作り出したわけである。

 

 またフリーマンの他の性格特徴を見ても、話上手で、ユーモアがあり、寛大であった反面、感情の話を出したがらず聞きたがらず、個人的な問題を軽く扱う傾向があった、と言われている。
 こうしたことも、「内省よりも実行」主義と相俟って、あるパターンの人物像を結ぶのである。確かにこういう人、時々いるなあと。


 なんなら友人にもたまにいる。明るくて活動的でおおむねいい奴。頭も悪くない。それなのに感情の話になると語るのも聞くのもやけに浅瀬に留まる。
 そういう場でしばしば居心地悪そうにし、さっさと話を切り上げようとしているふしさえ見られる。繰り返すが決して馬鹿なわけではなく、ただ内省的でないのである。

 

 Cyberlink PowerDirector365生成

 

 僕も自分の精神衛生を顧みるに、あまり内省しすぎないように、代わりに何でもいい――単なるコンテンツの消費でもいい――のでとにかく外部意識状態である時間の比率を増やそう、とはよく思う。
 だが心と心、あるいは心とそれ以外のものは我々が思う以上に緊密な相互作用で成り立っている。フリーマンの一見他愛ない日常レベルでの性格と、彼の人間観や医学観、そして彼が生涯のあいだで行なった活動を切り離して考えるべきではない、と僕には思える。
 内省が我々にどのような効果を及ぼしているのかは、たんに否定的に捉えるのではなく、より正当に見極める必要があると思われる。

 

 といったところで今日はここまでにします。それではまた(・ω・)ノシ✨

 

 

 

 

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