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18世紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
千年紀: 2千年紀
世紀: 17世紀 - 18世紀 - 19世紀
十年紀: 1700年代 1710年代 1720年代 1730年代 1740年代
1750年代 1760年代 1770年代 1780年代 1790年代
フランス革命。1789年7月14日の「バスティーユ襲撃」から始まった革命はフランスのみならずヨーロッパ全域に大きな衝撃を与えた。画像はジャン・ピエール・ウエルフランス語版が描いたバスティーユ襲撃(フランス国立図書館蔵)。
啓蒙の世紀(Siècle des Lumières)」。理性による進歩が広く信じられた時代で、多くの啓蒙思想家がサロンを舞台に活躍した。画像はジョフラン夫人フランス語版のサロンに集まる啓蒙思想家たちを描いたシャルル・ガブリエル・ルモニエの絵画(国立マルメゾン城美術館蔵)。
科学的精神の広がり。イギリスでは科学者間の交流を深めるルナー・ソサエティ(月光協会)などの団体が生まれた。画像はこの協会に影響を受けたジョゼフ・ライト(ライト・オブ・ダービー)の「空気ポンプの実験」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。
啓蒙時代の裏面。18世紀末になると楽天的な啓蒙思想には重大な疑義が付きつけられるようになる。画像はスペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤの版画集『ロス・カプリチョス』の「理性の眠りは怪物を生む」。

18世紀(じゅうはっせいき)は、西暦1701年から西暦1800年までの100年間を指す世紀

18世紀の歴史

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産業革命。ジェームズ・ワットの蒸気機関。
有人飛行の成功。1783年にフランスではモンゴルフィエ兄弟が開発した気球により有人飛行が行われた。
「監禁」から「治療」へ。精神病理学の進展から「狂気」の位置づけが大きく変化した。画像は1795年に閉鎖病棟から精神疾患患者の開放を実現させたサルペトリエール病院の医師フィリップ・ピネルを描いた歴史画。
ドイツ観念論の形成。ケーニヒスベルク大学教授インマヌエル・カントは三批判書を通じて人間の主観性を重んじる道徳的で内省的な哲学を作り上げ、ドイツ観念論の先駆けとなった。
ロココ様式。画像は芸術の庇護者として知られるフランスのルイ15世の寵妃ポンパドゥール夫人の肖像画でフランソワ・ブーシェによるもの(アルテ・ピナコテーク蔵)。
オペラの隆盛。16世紀末に生まれたオペラはこの世紀までに広範な人気を得て専属の劇場も作られるようになった。画像はローマ最古のアルジェンティーナ劇場(1732年に完成)を描いたジョバンニ・パオロ・パンニーニの画。
魔笛」とフリーメイソン。神童ぶりを謳われたモーツァルトの作品の中でもオペラ「魔笛」はこの時代に影響を及ぼしたフリーメイソンの思想が強く反映している。画像はモーツァルト没後まもなく描かれたシェーファー兄弟による「魔笛」の舞台デザイン画でザラストロが到来する場面(1793年)。
グランド・ツアー」。古典教養の涵養や芸術品の蒐集なども兼ねて上流階級の旅行が盛んになった。画像はウフィツィ美術館のトリブーナを描いたヨハン・ゾッファニーの絵画。
美食の広がり。宮廷社会の洗練により人々はより美味なるものを求めるようになり、フランスでは「ガストロノミー」と呼ばれる美食学が成立した。画像は1735年に描かれたジャン=フランソワ・ド・トロワの「牡蠣の昼食(コンデ美術館蔵)」。
ヴェネツィア共和国の終焉。18世紀を通じてヴェネツィアは低落傾向を示し、フランス革命戦争のカンポ・フォルミオ条約でオーストリアに併合される。画像はジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロにより描かれた18世紀半ばのヴェネツィアのカーニバル
フリードリヒ大王。オーストリアとの戦いを通じプロイセンを強国に仕立て上げた啓蒙専制君主。画像はアドルフ・フォン・メンツェルによるフルートを吹く大王の歴史画(ベルリンの旧国立美術館蔵)。
マリア・テレジア。ハプスブルク家を支えオーストリア継承戦争や七年戦争ではプロイセンを向こうに回し戦い続けた。画像はマルティン・ファン・マイテンスによる「1755年の皇帝一家の肖像シェーンブルン宮殿蔵)」。
サンクトペテルブルクの建設。スウェーデンに勝利した皇帝ピョートル1世の改革によりロシアの首都は「西欧への窓」と呼ばれたサンクトペテルブルクに遷された。画像はサンクトペテルブルク近郊に造られた「ピョートル大帝の夏の宮殿(ペテルゴフ)」。
女帝エカチェリーナ2世。夫であるピョートル3世を政変で廃位し、代わってロシアの女帝として登位し、トルコとの戦いやポーランド分割を通じてロシアの強大化を図った。画像はドミトリー・レヴィツキーによる「正義の女神」に扮するエカチェリーナ2世の肖像画(モスクワトレチャコフ美術館蔵)。
ポーランド分割。東欧の啓蒙専制君主たちによりポーランド国家は消滅した。画像はポーランド分割を決議する国会への議員の入場を阻もうとするタデウシュ・レイタンを描いたヤン・マテイコの歴史画。
スウェーデン国王暗殺事件。啓蒙専制君主であったグスタフ3世もフランス革命後は反革命派に転じ、国内は政情不安から陰謀が渦巻いた。そして1792年に国王は劇場の仮面舞踏会にて狙撃され絶命するのである。画像はこの事件を伝える版画の挿絵。
リスボン大地震。1755年11月1日の諸聖人の日に起きた惨劇でリスボン市街の80%以上が大破したと伝わる。この混乱を鎮めたのが、啓蒙主義的な宰相ポンバル侯爵で、危機に乗じて強権的な措置がとられた。画像はジョアン・グラマによるこの地震の寓意図。
ロバート・ウォルポールハノーヴァー朝歴代国王に信任され第一大蔵卿から首相となり任期は20年に及んだ。責任内閣制が固まり、ダウニング10番地が首相官邸となったのは彼の時代である。
ジャコバイト壊滅。名誉革命後もスコットランドではステュアート家再興を望むジャコバイトの反乱がたびたび起こった。1745年のカロデンの戦いでの大敗でこの動きは沈静化したが、イングランド側は民族衣装のキルトタータンを禁圧する強硬な同化政策を強いた。画像はタータンをまとったハイランド連隊の兵士たち。
英仏第二次百年戦争。ヨーロッパを越えて新大陸やインドにも植民地をめぐる戦争は拡大した。画像はベンジャミン・ウエストによる歴史画でフレンチ・インディアン戦争エイブラハム平原の戦い)で戦死したウルフ将軍を描いたもの(カナダ国立美術館蔵)。
アメリカ独立戦争。この戦争の帰趨はヨーロッパの旧体制にも大きな影響を与えた。画像はエマヌエル・ロイツェによる歴史画「デラウェア川を渡るワシントンメトロポリタン美術館蔵)」。
黒人奴隷貿易の最盛期。アフリカから多くの黒人が大西洋を越えて新大陸へ奴隷として運ばれた。画像はアゴスティーノ・ブルニアスの描いた「西インドにおけるリネン市場のリネン露店と野菜販売商」。
「ブラジルのミケランジェロ」。身体に障害を抱えながら優れた造形感覚により卓越した教会建築や彫刻を残したのがアレイジャディーニョである。画像はコンゴーニャスボン・ジェズス・デ・マトジーニョス聖堂ポルトガル語版にある「キリストの捕縛」の場面の群像。
ジェームズ・クックの死」。イギリスの海軍士官クックは太平洋各地を探検し新しい知見を得た。しかし最後の航海ではハワイ島住民との争いから殺害された。画像はヨハン・ゾファニーによる歴史画でロンドンの国立海洋博物館のもの。
イースター島ポリネシア系先住民が「ラパ・ヌイ」と呼んでいたこの太平洋の絶海の孤島がヨーロッパ人ヤコブ・ロッゲフェーンに「発見」されたのは1722年のイースター(復活祭)のことであった。画像は現在のイースター島にあるモアイ像。
ナポレオンのエジプト遠征。1798年に始まるフランス軍の襲来はイスラム世界全体を震撼させ、エジプトの近代化を促す端緒となった。画像はルイ=フランソワ・ルジューヌが描いた「ピラミッドの戦いヴェルサイユ宮殿蔵)」。
チューリップ時代。18世紀初頭にオスマン帝国は安定期を迎え、西欧文化がスルタン周辺でも盛んに取り入れられた。画像はこの時代を代表するスルタン・アフメト3世の肖像画で細密画家レヴニーの作。
ワッハーブ派の発展。イスラム教の原点回帰を目指すワッハーブ運動を受け入れたのがアラビア半島の豪族であったサウード家のムハンマド・イブン・サウードであった。彼は周囲を征服しディルイーヤを都とする第一次サウード王国を建国することになる。画像はディルイーヤのサアド・イブン・サウード宮殿の遺跡。
アフシャール朝の君主ナーディル・シャーの肖像。イランのサファヴィー朝を滅ぼし、インドのムガル帝国を急襲し一時的にデリーを制圧するなど「第二のアレクサンドロス」の異名をとる活躍を見せた。
カージャール朝の勃興。初代君主アーガー・モハンマド・シャーテヘランを根拠地として一族をまとめあげザンド朝を倒してペルシアに新王朝を設立した。画像はアーガーが勝敗を決めたケルマーンの征服を描いた図。
マラータ同盟。ムガル帝国が衰退したインドではデカンを根拠地とするマラータ同盟の勢力が拡大した。画像はこの同盟を率いてムガル帝国を翻弄した宰相(ペーシュワーバージー・ラーオ
ラージプート絵画。ムガル帝国の衰退とともに各地のヒンドゥー勢力による芸術の振興が図られ、地方の特色を生かした作品が多く生み出された。画像はラージャスターン地方のブーンディーで1700年代に描かれた宮廷の女性たちの細密画。
インド木綿の流行と衰退。ヨーロッパ諸国の需要増大によりインドの木綿産業は18世紀半ばまでに絶頂を迎えた。白綿布はキャラコと、染めた綿布はチンツ(インド更紗)と呼ばれ人気を博した。しかし18世紀の後半には産業革命によるイギリス綿織物業の追い上げがあり、次第に衰勢に向かうことになる。
「マイソールの虎」ティプー・スルターン。マイソールの君主としてティプー・スルターンは第四次マイソール戦争ではイギリス軍を相手に壮絶な最期を遂げた。画像は彼が所有していた「ティプーの虎」と呼ばれた自動楽器で白人に飛びかかる虎のデザインが印象的である。
ワット・プラケーオ(エメラルド寺院)。チャクリー朝初代のラーマ1世によって建立された仏教寺院。正式名称はワット・シーラッタナーサーサダーラーム。
ネパールの統一。ゴルカプリトビ・ナラヤン・シャハ王によりマッラ朝の三都体制は崩壊し、カトマンズを中心とするゴルカ朝ネパール王国が成立した。画像はカトマンズを代表するスワヤンブナート寺院の仏塔と「仏陀の目」。
清朝の繁栄。乾隆帝はおよそ60年間の治世で「十全武功」を誇り、東アジアの大帝国の君主として君臨した。画像はイエズス会ジュゼッペ・カスティリオーネ(郎世寧)によって描かれたもの。
蘇州古典園林。五代から清にかけて蘇州では美しい庭園が数多く作られた。画像はその一つ「獅子林」で造営は元代に遡るが、六度の南巡を行った乾隆帝は蘇州に来ると必ず立ち寄り詩を詠むほどの愛好ぶりを示した。
乾嘉の学。乾隆帝と次の嘉慶帝の時代にかけて考証学は大きく花開いた。とりわけ乾隆帝による「四庫全書」の編纂には総編集の紀昀を始め戴震ら考証学者の多くが参加した。画像は西湖博物館所蔵の「四庫全書」文瀾閣本複製。
『紅楼夢』。没落した漢人八旗の家に生まれた曹雪芹により描かれた長編小説で、男女の情愛の細かな機微をとらえていることで定評がある。当時の皇帝乾隆帝も目を通したと言われ、身分の上下を問わず「紅迷」と呼ばれる熱狂的なファンも生み出した。画像は徐宝篆の挿絵。
清朝陶磁器の精華。乾隆帝の時代までに西洋の七宝焼の技術が導入され、官窯陶磁の絵付けは写実的なものとなり、技巧は極限まで追求された。画像は「粉彩桃文天球瓶」(クリーブランド美術館蔵)。
中国趣味シノワズリ)。イエズス会士らの報告による清朝の繁栄ぶりは西欧諸国の人々に「幻想の東洋」のイメージを膨らまさせた。画像はフランス人フランソワ・ブーシェによる「中国の庭園(部分 ブザンソン美術館蔵)」。
マカートニーの来訪。イギリス全権使節として派遣されたマカートニーは熱河離宮にて既に80歳を超えていた乾隆帝と貿易拡大の交渉を行った。交渉は不調で中国に対する視線は一方的な賛美から批判的なものへと変わっていった。画像はマカートニー使節団を描いたジェイムズ・ギルレイの風刺画(ロンドン・ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵)。
元禄文化。17世紀末から18世紀の初めの将軍徳川綱吉の時代に上方を中心に豪華で活気ある文化が花開いた。画像は尾形光琳の「燕子花図屏風」(東京根津美術館蔵)。
忠臣蔵大石良雄率いる赤穂浪士が吉良義央を襲撃した「赤穂事件」は、1748年には『仮名手本忠臣蔵』として舞台化され大当たりをとったばかりでなく、日本人の倫理観や美意識にも大きな影響を与えた。画像は幕末の浮世絵師歌川国芳による浪士討ち入りの図。
正徳の治。6代将軍家宣と7代将軍家継の治世に文治政治を進めたのが学者政治家新井白石である。8代将軍吉宗にその政策の多くは否定されたが、『西洋紀聞』や『采覧異言』など重要な著作を残している。画像は新井白石の肖像。
享保の改革。この改革は8代将軍徳川吉宗により始められた。これを範として、18世紀半ば以降、復古的な倹約令と綱紀粛正を軸とした幕藩体制維持のため様々な改革が断続して行われることになる。画像は徳川記念財団所蔵の徳川吉宗の肖像。
歌舞伎の発展。この時代には成人男性のみが演じ手となる演劇となり、民衆の娯楽として定着した。画像は奥村政信の「芝居狂言浮絵根元」で寛保3年(1743年)上演の『艤貢太平記』を描いた浮世絵。
鎖国」の中の国際交流。将軍吉宗が漢訳洋書の輸入を緩和したことで「蘭学」が一世を風靡した。画像は蘭学や海外事情にも詳しかった銅版画家司馬江漢による日本人、中国人、西洋人の対談の図。
田沼時代田沼意次は将軍家治のもとで老中となり株仲間の奨励など重商主義的な政策を行った。蝦夷地の開発やロシアとの交易を計画するなど時代に先んじた目を持っていたが、反対派からは賄賂政治と誹謗されていた。画像は田沼意次の肖像。
天明大噴火1783年8月5日(天明3年7月8日)に起きた浅間山の爆発はそれまでにない規模のもので、鎌原村など近隣を壊滅させたばかりか関東平野全体に被害は及んだ。これが天明の大飢饉を引き起こし、田沼意次失脚の原因ともなった。画像は噴火を描いた「夜分大焼之図」。
錦絵から大首絵へ。町人によって育まれた浮世絵宝暦・天明年間には江戸を代表する文化として成長していた。画像は喜多川歌麿の「当時三美人(寛政三美人)」。
国学の展開。幕府の官学となった儒学に対し、国学とは江戸中期以降に日本の古典研究を通じて「古道」を究めようとした学問を指す。画像は「国学四大人」の一人である「本居宣長六十一歳自画自賛像(1790年)」。
夷酋列像」。1789年に起きたクナシリ・メナシの戦い松前藩に協力したアイヌの人々を画家蠣崎波響が記録したもの。画像は列伝に記録されたクナシリ惣乙名ツキノエの肖像画(ブザンソン美術館蔵)。

世界

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ヨーロッパの躍進とアジア大帝国の弱体化

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18世紀には、農業生産の飛躍的向上により人口の増加をもたらした農業革命に続き、世界初の工業化である産業革命が起こったことにより、イギリスの生産力が飛躍的に向上した。産業革命の原動力のひとつに大西洋三角貿易奴隷貿易)に支えられた砂糖綿花プランテーション、そしてそこでの労働力となった黒人奴隷の存在がある。重商主義によりヨーロッパ各国で激しい貿易競争がおこなわれた。オランダ自由貿易は衰え、イギリスとフランスが台頭し両国は、激しい植民地戦争を繰り広げた。一方、18世紀後半のヨーロッパでは、啓蒙主義思想が広がった。

アジアの大帝国の腐敗、弱体化が始まり、それに乗じて西欧諸国のアジア進出が始まった。インドでは、アウラングゼーブのもとムガル帝国が最大領土を実現したが、その死後における数次の継承戦争とマラーター王国を中心とするマラーター同盟の台頭より、19世紀には弱体化した。そして、デリー周辺をかろうじて支配する一勢力に転落し、各地に地方政権が割拠するようになり、イギリス、フランスの進出を許した。オスマン帝国は改革がおこなわれたが大きな成果はなく、腐敗と弱体化がいっそう進んだ。は乾隆帝の治世で最盛期にあたり人口が増えたため華僑が登場した。内政面で充実し、経済力も増したが、18世紀後期には腐敗が進んだ。また、貿易を巡って西ヨーロッパ諸国と対立するようになっていった。

市民革命と近代化の始まり

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18世紀のヨーロッパなどでは、自然権平等社会契約説人民主権論など理性による人間の解放を唱える啓蒙思想が広まっていた。この帰結として、18世紀の後半から末にかけてアメリカ独立革命フランス革命といった市民革命がおこり、市民社会への流れが始まった。一方で、プロイセンロシア帝国では啓蒙専制君主が登場し、上からの近代化が進められた。

産業革命以後の各国の工業化や資本主義の成立、一連の市民革命以後の市民社会の成立や国民国家の誕生など、19世紀にかけて国や社会のあり方が大きく変容していくことは、近代化の始まりともされる。これらの変革以降は西洋史において近代に区分されている。

電気技術の夜明け

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科学の分野では、ミュッセンブルークにより静電気を貯める装置「ライデン瓶」が発明されると、これに興味を持ったベンジャミン・フランクリンを伴うのなか凧糸の末端にライデン瓶を接続したを揚げ、「雷雲帯電を証明する」という実験を通じて、雷の正体がelectricity(=電気)であることを明らかにした。それと同時に、このelectricityには"プラスとマイナスの両方の極性があること"も確認したといわれている。フランクリンの観察によって電気技術の基礎となる様々な研究にスポットが当てられ、18世紀末にはアレッサンドロ・ボルタによる、世界最初の化学電池としても知られる「ボルタの電堆」の発明に至った。

18世紀に開花した電気技術は19世紀において、現代の生活に欠かすことのできない電話機モーター発電機白熱電球などの発明に繋がっていく。

18世紀の音楽と芸術

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18世紀はバッハ(1685-1750)、ハイドン(1732-1809)、モーツァルト(1756-1791)、ベートーヴェン(1770-1827)など、ヨーロッパの多くの大音楽家達が生きた時代でもある。

「典雅さの世紀」とも呼ばれたこの時代に芸術の分野では、豪壮華麗なバロック様式から繊細優美なロココ様式への変質(ただしロココとバロックに明確な区別はない)が見られる。また、この世紀の後半にはポンペイヘルクラネウムの遺跡発掘に始まる古典・古代への憧憬が高まり、新古典主義様式が隆盛に向かう。

火山の噴火と異常気象

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アイスランドのラキグリムスボトンエルトギャウ、日本では浅間山天明大噴火)、岩木山などで激しい火山噴火が起こった。

日本

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元禄文化と江戸の改革

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江戸時代の中期から後期にあたる。江戸初から続いた新田開発ラッシュとそれによる米穀増産のもたらす経済文化の発展は17世紀末の元禄文化に結実したが、農地開墾可能な土地はすでに枯渇して経済成長は行き詰まり、幕府財政は次第に逼迫していった。八代将軍徳川吉宗享保の改革を推し進め、慢性悪化に陥っていた財政の復興を果たしたが、一方で一時凌ぎ的な法令を濫発した事などは却って幕府の権威を弱体化し、社会的な矛盾を残すこととなった。18世紀の後期には田沼意次による重商主義的政策が執られ、幕府の財政状況は一定の改善をみた。だが、田沼による改革は江戸の経済・文化の繁栄をもたらした一方、浅間山天明大噴火に代表される天災の続発と諸藩の財政維持のための大阪米市場への飢餓輸出が重なり農民層の困窮を招いて中絶。代わりに老中となった松平定信により儒教農本主義に基づく守旧的な寛政の改革が進められ、経済・文化の停滞が進んだ。

宝永大噴火

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1703年に元禄地震相模トラフ巨大地震)、1707年に関東南西部、東海地方紀伊半島四国にかけて宝永地震南海トラフ巨大地震)という二つの巨大地震が発生すると、宝永地震から49日後に宝永大噴火が起きた[1]。これは、現在までにおける歴史上最後の富士山噴火である。

できごと

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1700年代

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1710年代

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1720年代

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1730年代

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1740年代

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1750年代

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1760年代

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1770年代

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1780年代

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1790年代

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1800年代

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人物

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ヨーロッパ

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政治と軍事

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フランス革命関連人物一覧も参照のこと。

思想と歴史・人文諸学

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宗教と神秘主義

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文学

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芸術

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音楽

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科学と技術

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探検家・旅行家

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その他

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北アメリカ

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ラテン・アメリカとカリブ海

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西アジア・中央アジア

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インド・東南アジア

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東アジア

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  • 康熙帝1654年 - 1722年) - 清の第4代皇帝(在位1661年 - 1722年)・中国屈指の名君・在位60年で「三世の春」時代を迎える
  • ジョアシャン・ブーヴェ(白進)(1656年 - 1730年) - フランス人のイエズス会士・「皇輿全覧図」を作成し『康熙帝伝』を執筆
  • ジャン・バティスト・レジス(雷孝思)(1663年 - 1738年) - フランス人のイエズス会士・ブーヴェらと「皇輿全覧図」を作成
  • 張廷玉1672年 - 1755年) - 清の政治家・軍機大臣・康熙帝から乾隆帝までの三朝五十年仕える・『明史』などの編纂にも従事
  • 沈徳潜1673年 - 1769年) - 清の文人・学者・乾隆帝から「東南二老」の一人と讃えられる・『五朝詩別裁集』がある
  • 雍正帝1678年 - 1735年) - 清の第5代皇帝(在位1722年 - 1735年)・政務に精励し独裁権を確立・軍機処を設置
  • 曾静(1679年 - 1735年) - 清の思想家・反清思想で捕縛されるが転向・その経緯は『大義覚迷録』に詳しい・乾隆帝により処刑される
  • 沈南蘋1682年 - 1760年以降) - 清の画家・徳川幕府に招聘され長崎に滞在・写生的な花鳥画の技法を日本に伝える
  • 岳鍾琪(1686年 - 1754年) - 清の軍人・ジュンガルを追ってチベットを制圧し青海にも進出・失脚するも復権し大金川遠征にも参加
  • 金農(1687年 - 1763年) - 清の書家・画家・官途につかず揚州八怪の一人として在野で活躍・金石学から学んだ隷書が有名
  • ジュゼッペ・カスティリオーネ(郎世寧)(1688年 - 1766年) - イタリア人のイエズス会士・乾隆帝に画家として仕え円明園を設計
  • 鄭燮1693年 - 1765年) - 清の書家・画家・官途につくも辞任・揚州八怪の一人・金農とともに金石学を学び碑学派の先駆となる
  • 呉敬梓1701年 - 1754年) - 清の文人・官吏の弊風を諷刺した長編口語小説『儒林外史』を書く
  • 乾隆帝1711年 - 1799年) - 清の第6代皇帝(在位1735年 - 1795年)・「三世の春」の円熟期を代表し「十全武功」を誇った
  • ミシェル・ブノワ(蒋友仁)(1715年 - 1774年) - フランスのイエズス会士・円明園西洋楼の設計を行い『坤輿全図』を作成
  • 袁枚1716年 - 1797年) - 清の詩人・散文作家・性霊説を唱えた詩論『随園詩話』や料理書『随園食単』怪異談『子不語』が有名
  • ジョセフ・マリー・アミオ(銭徳明)(1718年 - 1793年) - フランス人のイエズス会士・乾隆帝に仕え『孫子』『呉子』など中国古典を翻訳
  • 劉墉(1719年 - 1804年) - 清の政治家・乾隆帝と嘉慶帝に仕え高官を歴任・書家としては帖学派を代表し「濃墨宰相」と呼ばれる
  • 戴震1724年 - 1777年) - 清の学者(考証学)・『四庫全書』の編纂官となり天算(暦)の部の校訂を行う・著書に『孟子字義疏証』
  • 紀昀1724年 - 1805年) - 清の官吏・学者・『四庫全書』の総編集を担当・詩文や論文は残さず怪異談『閲微草堂筆記』が残る
  • 曹雪芹1724年頃 - 1763年頃) - 清の作家・没落した旗人に生まれ貧窮の中で長編口語小説『紅楼夢』を完成させる
  • 趙翼1727年 - 1812年) - 清の官吏・学者(考証学)・正史二十二史の編纂形式や内容を考証した『二十二史箚記』を執筆
  • 銭大昕1728年 - 1804年) - 清の官吏・学者(考証学)・正史二十二史の編纂形式や内容を考証した『二十二史考異』を執筆
  • 畢沅1730年 - 1797年) - 清・官吏(湖広総督)・学者(考証学)・銭大昕らを召し抱え『続資治通鑑』を執筆編纂する
  • 王倫(? - 1774年) - 清の反乱指導者・白蓮教系清水教の頭目として反乱を起こすが鎮圧される
  • 林爽文(? - 1788年) - 清の反乱指導者・天地会に参加し台湾で反乱を起こすが鎮圧される・乾隆帝の「十全武功」の一つとされる
  • 容妃(1734年 - 1788年) - 清の乾隆帝の后妃・西域から召されながら乾隆帝の寵愛を拒んで自殺したという伝説の「香妃」のモデル
  • 段玉裁1735年 - 1815年) - 清の官吏・学者(考証学)・戴震に音韻論を学び『説文解字注』などの著作を残す
  • ジョージ・マカートニー1737年 - 1806年) - イギリスの政治家・外交官・熱河で乾隆帝と会見するが貿易制限改善の交渉は失敗
  • 章学誠1738年 - 1801年) - 清の学者(考証学)・史学研究から『文史通義』や『校讐通義』などの著作を残す
  • 鄧石如1743年 - 1805年) - 清の書家・篆刻家・秦篆や漢隷を再評価し碑学派の祖とされる・『完白山人印譜』がある
  • 洪亮吉1746年 - 1809年) - 清の官僚・思想家・マルサスに先んじて『治平論』で人口問題に言及・嘉慶帝により追放される
  • ヘシェン(和珅)(1750年 - 1799年) - 清の政治家(軍機大臣)・晩年の乾隆帝の寵を受け専横を尽くす・不正蓄財を行い 嘉慶帝に処罰される

チベット

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大越

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李氏朝鮮

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日本

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科学技術

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伝説・架空のできごと

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脚注

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出典

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参考文献

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  • 歴史学研究会 編『世界史年表 第3版』岩波書店、2017年10月28日。ISBN 9784000612265 

関連項目

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外部リンク

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  • ウィキメディア・コモンズには、18世紀に関するカテゴリがあります。