やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

「引かれ者の小唄」について、或いは死刑囚の濃縮された時間


 佐藤友之『犯罪報道と精神医学』はなかなか苛烈な書で、一冊かけてひたすら小田晋を批判している。
 小田晋といえばかつて予防拘禁や少年法〝改正〟にも積極的だった(2013年に逝去)、保守派の大御所といっていい精神科医で、大学で教鞭を執ったり著書を発表するかたわら、長年、重大事件のコメンテーターとして多くのメディア露出があったので、見覚えのある方も多いのではないかと思う。

 

 

 じっさい、青土社などの小田晋の著書を読んでいるとその博覧強記かつ読者を引き込む論理展開に舌を巻く反面、ちょいちょい「人権派」を罵る文言が出てきたり、精神科医であるにもかかわらず露骨に社会防衛的なことを言うのが興を削ぐ、というのがこれまでの率直な読者としての感想であった。いや面白いには面白いんですけどね。

 佐藤に言わせれば、小田はまるで政府のスポークスマンではないかと疑わせるような、強きを助け弱きをくじく、ダブルスタンダード的なふるまいが目立つという。

 佐藤は権力犯罪と人権問題を専門とするジャーナリストなので(この本も左派系の三一書房から出ている)、自ずと両者は水と油、何から何まで意見が食い違いまったくそりが合わない。思わず一冊かけて批判書を書いてしまったとしても無理もない、と思わせるような嫌いっぷりである。

 

 *

 

 とはいえ、一冊ずっと小田晋の悪口では商業出版として成り立たない。実際に読むと、各論ではさまざまな興味深い議論が展開されており、今日はその中の一つを紹介したい。

 

 それは、小田が『人はなぜ、犯罪を面白がるのか』で述べた「かつて『犯罪』が人々の娯楽(エンタテイメント)になっていた」という見解について、佐藤が反論を試みた箇所である。
 小田の主張を見てみよう。

 

 犯罪には昔から、そういう性質があるのです。江戸時代の日本でも、〝市中引回しのうえ獄門〟といって、犯罪者は、馬に乗せられて江戸や京都の町中を連れて歩かれました。そして、引回しの間、ところどころで馬を止めて、やじ馬のために一席ぶったり、辞世の歌を詠んだりしました。
 また、中世ヨーロッパでも、死刑台はだいたい町中にありました。これは、死刑が最大の見世物だったからです。人々にとっては一種の〝娯楽〟にも似た楽しみを提供してくれるものでした。
 (『人はなぜ、犯罪を面白がるのか』。『犯罪報道と精神医学』から孫引。太字は安田による)

 

 「Sketches of Japanese manners and customs」(1867)

 

 かつて公開処刑は娯楽であった、というのは多くの人がなんとなく思っているところではないだろうか。だから小田がこう主張しても案外、違和感を感じない人が多いかも知れない。だが果たして本当にそうなのか。

 佐藤は、小田の言う「ところどころで馬をとめて、やじ馬のために一席ぶったり、辞世の歌を詠んだり」する、いわゆる〝引かれ者の小唄〟について、加賀乙彦の『死刑囚の記録』の次の箇所をもって応える。

 

 古くより死刑囚が処刑寸前の引回しにおいて、笑ったり歌ったりする様子を〝引かれ者の小唄〟といい、自暴自棄の極、わざと平気をよそおうこととされているが、彼らのおかれている状況を吟味することによって、あとで私が試みるようにもっと深い了解ができるように思われる。
 (『死刑囚の記録』。『犯罪報道と精神医学』から孫引)

 

 ここでいう「もっと深い了解」とは何なのか。

 加賀によれば、死刑囚は〝濃縮された時間〟を生きている、という。

 すなわち、彼らは毎朝「お迎え」が来るかどうかに怯えており、もし来なければ通常は二十四時間、日曜日と祝日は慣習により死刑執行をしないのでその前日なら四十八時間は生きられる。
 こういう状態で生きていると拘禁ノイローゼが起こり、「激烈で、動きの多い反応の基盤」(同書)がつくられるという。それは、

 

 彼らは、残り少ない人生を、大急ぎで有効に使おうと精出しているかのようである。躁状態にあって溢れるような連想と多弁で動きまわる者は、言わば〝濃縮された時間〟を生きているのだ。それは生のエネルギーがごく短い時間に(むろん空間のうえでもごく狭い空間に)圧縮されている状態である。
 (同書)

 

 〝引かれ者の小唄〟がそのような精神状態=濃縮された時間ゆえのことであるならば、やじ馬を楽しませるためといった見方とは真っ向から相反する。

 小田と加賀でなぜこれほどの認識の違いが生じるのか。それは佐藤によれば、小田は犯罪者を血のかよった、一人の人間として見ていないからだ、ということになる。

 また佐藤は別の筋からも小田の〝引かれ者の小唄〟観に批判を加えている。それは、江戸時代の「お白州」に上訴権はなく、弁護人もつけられなかったので、被告は申し開きをする機会がほとんど与えられなかった。それゆえ、市中引き回しは「この世にメッセージを残す最後の機会だった」(同書)のだ、と佐藤はいう。

 

 *

 

 このようにして〝引かれ者の小唄〟を観衆を楽しませるためのものとし、公開処刑=エンターテイメント説の傍証とするの小田の議論には、さまざまな留保がつけられる。

 

 実際、なぜ公開処刑を行なうのかについてはさまざまな見解があり、一概に「娯楽」とか「見せしめ」といった、現代人の想像しやすい動機ばかりではなかったようだ。

 例えば阿部謹也は『刑吏の社会史』のなかでV.アハターによる説を紹介している。それによれば、刑罰の起源は犯罪によって乱された秩序を再生するための儀式であったという。またフォン・アミラやH.V.ヘンティッヒといった学者によれば、絞首刑は風の神への供物であり、車裂きは太陽神への供物であったという。これもアハターの説を裏付けるものである。
 また魔女を絞首刑にする時になるべく高く吊すのは、地に足が触れているととそこから魔力を吸収すると信じられていたからであり、この場合は「公開処刑」というより「高く吊そうとするのでどうしても目立つ」みたいなことなのかも知れない。

 

 話を佐藤の著書に戻すと、彼はユゴーやドストエフスキー(自ら処刑されそうになった)、ジョージ・オーウェル、カミュらの文章から、公開処刑が「見せられる側」にとってもたいへん不快なものだった、という記述を引き出している。
 それでまた思い出すのだが、死刑執行人サンソンの日記(モニク・ルバイイ編『ギロチンの祭典』に収録されていた)でも、「人はまばらで、われわれのサクラ以外ほとんど集まらなかった」という意味の記述があったと記憶している。サクラを雇うというのは「処刑を見る(見せられる)者」と「処刑される者」の思惑の他に、「処刑を見せる者」=権力の思惑を感じ取らぬわけにはいかない。

 このようにして、民衆にとって公開処刑が娯楽、すなわち積極的に「見たい」ものだったのかどうかには多くの疑問符がつくといえるだろう。

 

 *

 

 さてここまで書いてきて、それにしても死刑囚の「濃縮された時間」という言葉には、ちょっと考えさせられるものがある。

 そのようにして死を強烈かつ具体的に意識しなければ、人は生を弛緩させてしまうものなのだろうか。じっさい、加賀は死刑囚との対比で、無期囚の心理状態を「うすめられた時間」と呼んでいる。

 この世は監獄のようなものであり、自分も無期囚のようなものであるならば、わたしも弛緩した「うすめられた時間」を生きているのではないだろうか。だがそれは、何か具体的に切羽詰まらなければどうにも濃縮されないものなのだろうか。あるいは、死やら犯罪やら精神疾患やらのドキュメンタリーを消費して、束の間「濃縮された時間」の気分を採り入れるのだろうか。そんなことの繰り返しでは、それもけっこう困った話だ、などと思ったのである。

 

 ともあれ、今日はこのくらいにしておきます。それでは(・ω・)ノ