うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

おくれ毛で風を切れ  古賀及子 著

お母さんはこれをわたしに言うか言うまいか迷って引っ込めていたんだな~。と思うことって、あるんですよね。

 

18歳のときに、母がわたしにこんなことを言いました。

「このあいだ福住*1の踏切で、ああこれは渡れないだろうなと思っていたのだけど急に前の車がスーッと流れ出して、ギリギリ渡れたのよ! そのときに、受かるんじゃないかと思った」

受験の結果発表を待つ日々の間に起こったことを、合格がわかった後に言われたのだと記憶しています。

(かあちゃん、よく耐えた!)

 

 

  *   *   *

 

 

この日記エッセイ『おくれ毛で風を切れ』にも、口に出したら壊れてしまう気がする、そういう母の日々の願いが溢れていました。

 

 家のみんなでにこにこしていられる時間を1秒でも長く引き延ばしたい、最近そのことをよく考える。家族3人、そろって笑っていると、笑っていられるのも今のうちなんじゃないかと、どこかから冷や水を浴びせられるのではとつい身構える。いつでも反撃できるように一瞬も気を抜かない殺し屋みたいな暮らし方を、幸せに対してしている。

<2023年4月16日(日)の日記より>

 

この日の日記は、このあとスーパーのから揚げの話になりました。なんてことない話です。

そしてそのあとに、ドラッグストアで買うコスメについて書かれていました。装いに対して攻めの気持ちが起こらない心の停滞や漠然とした期待というか、ずうずうしさのようなものが書かれていました。

 

「本気で考えていないからだ」と友人には言われるが、ちょっと違って、おそらく私は、放っておけば自動的に自分の思い通りになる幻想にとらわれているのだ。

 

“放っておけば自動的に自分の思い通りになる幻想”

これは、わたしの場合における資産運用。

それでわたしはNISAをやっていません。

 

 

断捨離についても、「片づけるくらいなら捨てたい」という怠惰発のエネルギーを著者の古賀さんは見逃しません。自分のものが何もかも要らないような気がする気持ちは、自動的に自分の思い通りになる幻想の裏側にあるものに見えます。

 

 

   これなーーー!

 

 

この本を読んでいると「これなーーー!」の連続です。

日常のうまくいかないことの連鎖を「まるで夢の中のもたつきのようだ。」の一言で〆めてからの現実世界のやさしさ。現実世界の明るさと幸福を見る視点が殺し屋のように鋭くてほれぼれします。

 

 

おかあさんの孤独は、おかあさんの中の孤独

この本を読んでいると、冒頭に書いたような母との個人的な思い出が「おかあさんの孤独は、おかあさんの中の孤独だったんだな」という回想に変わり、そこから娘であった自分の存在が抜け落ちていく感じがします。

 

古賀さんの家の中に散らかったまま放置されている部分がずっとあって、それを娘さんも片付けなくちゃと思っていて、先に娘が片付けたことで孤独じゃなかったと気づく。

ただ公文のプリントが片付いたってだけの話なのだけど、わたしも公文に通っていたから、胸がギュッとなりました。

 

子どもがみそ汁を作ったり洗濯物をたたんでくれても、それでも忙しさは変わらない気がする。母の忙しさは目に見えないプレッシャーが生み出すもので、ひとたびプレッシャーだと口にすれば「なにがプレッシャーなのだ」と問われてしまう、そういう孤独がいっぱい書かれていました。

古賀さんが在宅ワークではなく出社をした日の日記に、こう書かれていました。

 

 ほがらかな上司や同僚たちと仕事をしてどんどん元気になった。

 家でひとりで仕事を進めるのは集中するし作業もはかどるけれど、知らないうちに不安な、大丈夫ではない状態になりやすい。家を出て誰かと対すると、どんな状態であってもある程度は「大丈夫な自分」を相手の前に表出させる。すると、相手の手前便宜的に表出させただけの本来空虚なはずの「大丈夫な自分」が、相手たちに認められ認識され、それによって自分が本当に大丈夫な自分になっていく、そういう感覚がある。

<2023年2月8日(水)の日記より>

 

まるで聖者の格言のようではありませんか。

ラマナ・マハルシという聖者が言った doership (do-er-ship / 行為者性)というのはこれだよなぁと思いながら読みました。

 

 

 

わたしの友人からも聞いたことがある、以下のような、どこの家でもあるんだなっていうエピソードも好きです。

 

 娘に算数の宿題が分からないと言われ、無理だぞ無理だぞとふるえて見たらわかる問題で助かった。

 

こういう話すき。

 

 

9月後半の日記の、以下のくだりも印象的です。

 

 夜は長そでと長ズボンの部屋着を着た。きのうまで半そで半ズボンだったから衣替えだ。娘も長ズボンをはいていて、息子だけが半そで半ズボンのままで、これくらいのことでついほんの少し、多勢に無勢の様相を感じ取ってしまう。人と同じであること、違うことに敏感な私の心は弱い。

 

安全でしかないはずの場所で起こる、なんてことない瞬間に自分の思考の癖に気づいたときの、この「うあああ」っていう感覚。

これなーーー!

 

  *   *   *

 

2019年~2023年の日記の中にはパンデミックの時期に書かれたものもあり、少しずつ感覚が薄れてきている今、読んでよかったと思う内容でした。

従う場所・行ったら受け入れてくれる場所があることで生活がいかに優しく回っていたかを確認でき、あたたかい気持ちになりました。

 

 

 

▼こちらの日記エッセイの方が、時系列的には先です

*1:地元の地名です