うちこのヨガ日記

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そこには人間が意図的にコントロールする展開ではない展開というものがあってだな

わたしはインド思想や哲学のクラスで「日本語はこころのはたらきを表現する言葉が少ない」という話をすることがあります。それは前にこのブログでも書きました。
わたしが説明をするときは「思う」というこころの動詞を題材に使いますが、もう少し入りこんでいくと、おもしろい発見があります。


「日本語化できない」という状況には、ふたつ原因があります。
ひとつは、共有できる語彙が少ないこと。自分の語彙は多くても、相手がその言葉を知らなければ「再検索」のくりかえし。もちろんその逆も。なかなかマッチしなければ疲れて終了です。
もうひとつは、ある感情やこころの動きがあったときに「自動詞と他動詞の振り分けを明確化しないのが "やさしさ" とされる社会のなかで、言葉の居場所がない」というケース。感情自体はおおむねわかっていても、関係性の中で適切な言葉が見つからない、という場面。
たとえば「ルサンチマン」なんて、わざわざそんな言葉を使わなくても「ひがみ根性」でいいじゃないかとは思いつつも、そこに強弱関係を置いておきたい、ナマナマしさを避けたいなどの気持ちが発生する場面が多いから、その言葉が便利に使われるようになる。「リスペクト」なんかもそうですね。そんな儒教的な尊敬じゃないんだわ、という感じ。


日本語と英語を使っているときはそんなに気にならなかったのですが、サンスクリット語にも触れるようなってから、日本語は「できるだけ他者が決めたことにしたい」という思考の人に便利な言語と感じるようになりました。そしてこの「他者」には人間以外の者が含まれないので、陰謀論好きな人が狭量さを露呈していてもあまり稚拙に見えない。ひょえー、と思うようになりました。


ここまでは、前提として考えたことのあれこれです。



さて。
ヨーガの哲学的な側面に触れようとするときに、「できるだけ他者が決めたことにしたい」というマインドが抜けないと理解しにくいんじゃないかと思うのが、「因中有果論」や、プラクリティの「展開説」です。「できるだけ他者が決めたことにしたい、できるだけ他者のせいにしたい」というセコさのようなものは、人間のこころのはたらきのひとつ。個人で違いがでるのは「それを抑制できるか」「記憶の蓄積や類推処理のしかた」のところです。で、その「抑制をしろ」ってのがヨーガで、そのためにそのセコさの正体を知ろうとするのが瞑想。


で。
こういうことをサンスクリット語から英語にしようとするとき、インド人もけっこう苦労しています。
今日はその事例をいくつか紹介するのですが、きっかけはスワミ・ヴィヴェーカーナンダの講演録「ギャーナ・ヨーガ 知識のヨーガ」でした。日本語化して出版している日本ヴェーダーンタ協会の翻訳があえてそこを英語のまま残してくれたことによって、整理できました。
まずその文章を読んでください。

人がこの宇宙に関して持っている、もっとも進化した観念は何ですか。それは知性です。部分を部分にあわせるはたらき、知性の表明、古代の宇宙計画説は、それを表現する一つのこころみだったのです。ですから、はじまりは、知性でした。最初はその知性は内含 involved されています。そして最後にはその知性が展開 envolved されるのです。それゆえ、宇宙にあらわされている知性の総計が、みずからを展開しつつある、内含された宇宙の知性であるにちがいありません。この宇宙の知性が、われわれが神と呼ぶところのものです。それを他のどのような名で呼ぶにせよ、最初にその無限の宇宙知性が存在する、ということは絶対に確実です。
(205ページより)

この「内含 involved」「展開 envolved」が過去形で、「過去形+されている(される)」という訳になっています。「その影響を受ける」というニュアンス。
この、他動詞を受け入れる自動詞という状況を日本人はすごく理解しにくいんじゃないかなと思うのです。「それって、○○○ってことですか?」と、受け入れる自動詞の主体を捨てたい、自分で考えて決めたことにしたくない人が多いのは、日々の日本語を聞いていてよく感じます。理解の結果は行動でしか示せないのだから黙っていればよいのだし、理解の度合いで誰に責められるってわけでもありません。


ここに出てくる「involve」「envolve」は、現在形にするとこうです。

  • involve:(必然的結果として)(…を)伴う、意味する、必要とする
  • evolve:徐々に発展する、展開する、進展する、進化する

(weblioで調べました)


論文などを書くときに多用されそうな英語ですが、まえに「Samkhya Karika of Isvara Krsna With the Tattva Kaumudi of Sri Vacaspati Misra」を読んだときに、訳著者の Swami Virupakshananda さんが使う英語が思いっきり造語っぽくて、

  • evolvent(より名詞的に)
  • evolutes(三人称ぽくsがつく。進化の「evolution」を動詞的に)

これらは辞書的にはイレギュラー。
でも、このように造語っぽくならざるを得ない感じは、こういうことです。



「そこには人間が意図的にコントロールする展開ではない展開というものがあってだな」



オリンピック誘致のときに首相が「under control」という表現をしましたが、これはたいへん英語的な英語です。英語的な英語ってなんだよという感じですが、わたしはインド人が話したり書いたりする英語ばかり読んでいるので、ちょっと感じが違うのです。先に引用したヴィヴェーカーナンダの講演はイギリスで行われていたのですが、インド人とは英語の感覚として思想の初期設定が逆の場合があるので、「過去形+されている」になっているのかな、とい考えながら読みました。
同じ「under control」でも、「そこには人間が意図的に行う展開ではない展開というものがあってだな」という考えかたをするインド人はこのような使い方をする、という例は4年前に具体的に書きました。(年数が経っているので補足:石原さん云々のところは「天罰発言」があったときです)


自分の理解の度合いを知りたいときは、自分の発した言葉を見るのが手っ取り早い。
ヴィヴェーカーナンダの講演録を読んでいると、微細さがあまねくほとばしっていて、人はここまで言葉を練り上げブレンドすることができるのかと驚く。「微細さ」「普遍さ」「勢い」って、できる人はいっぺんにできるみたい。
言葉の力にも、いろいろな種類があるようです。