時空間的ではない「意味内容」が時空間的に表現されるしかないことの工学

10代のころに読んで「いちばん考えたいのはこれだ」と思いながら、どこからどう手を付けてよいのか、何を専門にすればよいのかすら分からず、そのまま30年以上たってしまった文章がこれ。

ミハイル・バフチン小説の時空間』pp.345-346 より

 結びとして、もうひとつの重要な問題にふれておかねばならない。それは、クロノトポス分析の限界という問題である。学問、芸術、文学は、それ自体は時間や空間によって規定されない意味の要因ともかかわりをもつ。たとえば、あらゆる数学の概念がそうである。われわれは、それらの概念をつかって空間的現象や時間的現象を測るが、しかし、それらの概念自体は、時間や空間によって規定されたものを含まない。それらは、われわれの抽象的思考の対象である。それは、多くの具体的な現象を形式化し厳密に学問的に解明するうえで不可欠な、抽象概念からできている。しかし、意味は、抽象的思考のうちにのみ在るわけではない。芸術的思考もまた意味とかかわりをもつ。こうした芸術的な意味も、時間や空間によっては規定されない。そのうえ、われわれはあらゆる現象に意味を付与する。つまり、あらゆる現象を、単に時空間的な存在の領域に含めるだけではなく、意味の領域にも含める。この意味付与は、そのうちに、評価の要因をも含む。しかし、この意味の領域の在り方にかんする問題、意味付与する価値の性格とその在り方にかんする問題は、純粋に哲学的な問題である(むろん、形而上的ではないが)。そうした問題をここで検討するわけにはいかない。ここでわれわれにとって重要なのは、次の点である――それらの意味がどのようなものであれ、それらの意味がわれわれの経験(しかも社会的な経験)のうちに組み入れられるためには、何らかのかたちで時空間的に表現されねばならない。つまり、われわれが聴き、見ることのできる記号の形をあたえられねばならない(象形文字、数学の公式、言葉による表現、絵その他)。こうした時空間的な表現を欠いては、もっとも抽象的な思考でさえも不可能である。したがって、いかなる場合も、意味の領域に入ることは、クロノトポスの門を通って初めて実現しうることである。



たとえば私たちが数学をやるとき、記号という素材を使って内容を表すが、そこで表現される「内容=意味」には、時間という要因がない。3+5=8 と書いた場合、表現されている「意味」には時間的劣化ということが起きない。「まちがってる」とか「別の解釈が見つかった」とかはあり得るが、意味内容は実現されるたびに時間とは無関係の鮮度を保っている。そしてにもかかわらず、それは時空間的な記号なしには実現できない。たとえ頭の中の思考だけだとしても。

この、「時間と無関係の意味内容」と「時空間的な素材で表現するしかない」のあいだをちゃんと考えた業績というのは、まだ全く存在しないと思ってるのですが――あったらマジで教えてください。


たとえば物理だと、数学的に表現される抽象的な「理論」に対して、具体的にデバイスを作ろうとするのを「工学」という。しかし考えてみれば、私たちは理論そのものを記号という素材で実現するしかないわけで――いわば理論そのものが、工学的な実現物といえる。

言語というのは空間的素材において実現するし、それを理解するには時間的な活動に従事しなければならない。しかしそこで実現される「意味内容」は、それ自体としては時空間的ではない。3+5=8 の意味内容は、1億年たっても何も変わらない。

物理や数学について考えるのであれば、時空間的ではない意味内容を時空間的に表現するしかない、そのこと自体についての「工学的な」問題意識が必要なんじゃなかろうか。時空間的な記号表現そのものへの工学的・技法的配慮によって、新しい機能が実現できる――ということはあり得ないだろうか。