制作と参加を、内側から語ること――『20世紀末・日本の美術』

サイト: http://jart-end20.jugem.jp/

20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から

20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から



私は不登校や引きこもりを中心に考えてきたわけですが、

《社会参加をどうするか》というのは、

    • 自分の制作をどうするか、その作業過程をどう受け入れてもらうか

ということと、切り離せません。そうであるからこそ、美術作品そのものに大した興味のない私にも、この本が元気をくれたのでしょう。この本は、自分の作業をやり始めたくなる効果を持ちます。


痛烈に感じたのは、「これと同じような議論を、自分の関わっている領域で試みたい」ということ。本書は美術に特化されていますが、《自分だったらこう語る》というのを、自分の領域でやりたくなる。自分がどういう状況にいるかを、確認したくなる。


本書が試みたような振り返りは、各人のこだわりや党派性〔その当事者的な立ち位置〕を際立たせる面もあるため、実際にはとても難しいのですが――不登校や引きこもりの関係者にこそ、この本のチャレンジに触れてみて頂きたいです。(雑誌感覚でどんどん読めます)*1



《論じる側》じしんが制作過程である

いちばん多く傍線を引いたのは、永瀬恭一氏の発言でした。
以下はその一部です(pp.267-270)。*2

 作品それ自体が何かをつくり出していく、そのことによって現実が再組織化されていく

 新たな視線、新たな視覚を作品を基に構成できれば、実際に社会のインフラとか国の在り方とかお金の動き方とかが変わっていくかもしれない。そのきっかけとして作品を組織できるのが画家なんだ

 高木秀典さんの作品には「あなたの視力はどのくらいあるのか、あるいはどこに問題があるのか」を調べる、そういう機能を感じさせる〔…〕このような作品を契機に、人の視覚が編成し直されるきっかけになるんじゃないか

 ここ〔気仙藝術発電所〕で行われていることは、〔…〕レオナルド・ダ・ヴィンチの工房で行われていたことにちょっと近いのですよ。単に視覚的なエンターテイメントを提供するのではない、一種の自然哲学のような試みとしてアート作品を考えている。



条件への問い直しと、その組み直しが一貫して問われています。


そのうえで、以下のやり取り:

楠見清: アートが世の中を変えるっていう、ある種の欺瞞というか思い込みと言われるかもしれないんだけれど、芸術家には自負というものが必要だと思っていて、それがなければ、何も生まれない。アートは別に社会を変えなくていいのだ、むしろ社会が変化してもゆるがぬ美を継承するのがアートの役割なのだ、という考え方もあると思うけど、それは閉じちゃってる、というか終わっちゃってるよね。少なくとも芸術家の創造性の根幹となる動機の部分において、〔…〕永遠に続く不満の連鎖こそがアートだと思う。〔…〕そういった現実のとらえ方、物事の見方や考え方のヴァリエーションを広く提示するのがアートといってもいい。
永瀬恭一: 芸術っていうものが、単にキャリアメイクの道具ではなくて、どう生きていくかって考えること自体が芸術の契機なんだと思います。既存の美術館や市場を中心にした職能としてのアーティスト像はアクチュアルではない。そういった社会条件から自律した体系というのは、単に単独で完結してスタンドアローンでというモダンなものじゃなくて、自律したところで環境との代謝が始まるはずなんです。あるいは代謝し続けなければ自律できない。〔…〕そもそもの美術という評価軸をどのように再構築するのか。それは一つのトータルな組立て行為であって、それがつまり芸術なんだと。それを自覚的に進めていくのが芸術家なんだと思います。(pp.126-127)



「オブジェクトレベルに作品があって、それをメタに論じるのが批評である」という前提がありがちだとして――永瀬氏の議論は、それへの反論を含むように思います。批評は、すでに制作過程の加担者となっているし、おのれ自身がその言説のかたちで、制作過程を具体的に(ある技法で)生きている。


私は以前、「言葉を絵の具のように使う」という喩えをしたことがあったのですが(参照)、永瀬氏の議論を踏まえて言えば、《絵を描くように論文を描く》ことをまじめに検討すべきかもしれないです。つまり、「論文とはこうあるべきだ」と決められたフレームに、独自の必然性に基づいた制作を導入すること*3。それは大抵はトンデモ論にしかならないし、現にそんなものばかりかもしれませんが、議論のありようについてまで必然性を導入しなおすというチャレンジがないなら、生じている現象に対応した議論などできるわけがない。



臨床的な政策課題としてのコミュニティと、批評の必要性

永瀬氏は、「コミュニティを切断するのが批評である」という話をしたうえで、
バラバラにされた私たちに、そもそも批評は必要なのかと問います。

永瀬: 80年代から90年代に希望的に想定された資本主義による因習的共同性の脱構築ゼロ年代機械的に実現していく。圧倒的な流動性をもった市場によって中間共同体が解除されてバラバラになってしまった人間が、それへのリアクションとして、一生懸命地域共同体とかと一緒になって芸術祭をやって、新たに仮設的な共同性を立ち上げようとしているときに、はたして美術批評というのは必要なのか。(p.242)

    • これは引きこもり問題の周辺にモロに当てはまります。まさに孤立した個人たちが集まって共同体を作ろうとしているときに、冷水を浴びせてしまうように見える批評言説は必要なのか。▼私は現実に批評的分析のないことに酷く苦しんでいて、自分が必要だからせざるを得なくなっているわけですが。トラブルが起こっても、そのトラブルがどういう事情で起こっているか(何がどう作用しているか、どういう考え方が悪影響をもたらしているか)、分析することが許されないのです。この抑圧は非常に苦しい。話題にできないので、同じ構造をもったトラブルが繰り返されることにもなります。批評をめぐる抑圧と記憶喪失は、とても実際的な苦痛です。
    • そう考えると、《批評は必要なのか》というのは、社会参加をめぐる政策論議の一部でもあるでしょう。(2004年のニート論とそれにともなう政策は、信じられないほど無残に失敗したわけです)


永瀬: バラバラになった瞬間に、みんなが一斉に同じ方向を向く、あるいはひとつの大きい流れを無理やり作って、小さい流れを消してしまう。そういう動きのほうがむしろ表に出る。〔…〕不安に晒された「個人」は、非常に強力な統制、むしろ圧倒的な不自由に包摂されたいという欲望を持つようになる。〔…〕そのような大きい流れ・欲望から自分を切り離すために、批評というものが使える。(p.246)

    • 難しいのは、これを単に規範的に言ってもダメだということです。むしろ規範としては一致団結を冷笑している人ですら、「名詞形《当事者》でポジションを作れば、学術言語や支援者との折り合いもいいし社会保障にもありつける」と計算する。つまりサバイバルのために、官僚的な全体主義に居直ってしまう(合理的打算に満ちたシニシズム)。ここには生活が懸かっているので、おいそれと反論できません。「けしからんことだ」と言っても、「じゃあお前が食わせてくれるのか」です。
    • 曖昧なつながりしかないところには、生活保障がありません。それゆえ、バラバラになればなるほど官僚的順応主義が強化される。*4




共同性は、制作過程の内側から全員に問われる

永瀬: 批評自体が仮設的な共同性を作るということがあります。(p.246)

自明のコミュニティを失い、全員がバラバラになると、
語ろうとする者は、自分の言説を「オブジェクトレベルから切り離れた絶対的なメタ」として提示するところがないでしょうか。――自分の加担責任を認めない、メタであるがゆえに極めて無責任な語り。それは、暴力的なコミュニティ再構築の形をしています。


批評がそのような形でしかないなら、共同性をめぐっては、
幻滅と不信を再生産することにしかならない。


名詞形《当事者》とメタ語りのカップリングは、まさにこのような形をしています。みずからを《当事者》と名乗る者が、アカデミズムのメタ語りで自分を権威づける欺瞞。(1)官僚的コミュニティと(2)自己への特別扱いの、両方を同時に再生産する卑怯な恫喝(参照)。
このことは、美術批評がアカデミズムに置き換わった状況(p.189)と、事情が重なるようにも見えます。(《作家≒当事者》として特別扱いされるがゆえに消費財であり、アカデミックな言説にはタッチさせてもらえないなど)


→「作家自身による美術批評」は、支援対象者による社会参加事業の論評に重なるはずですが(制作とその相互関係の内側からの論評)、いかがでしょうか。



*1:登場するトピックの一つ一つについてその緊張感を理解することは私にはできないのですが――90年代に独りっきりで立ち読みしていた美術雑誌の舞台裏に「こういう葛藤があったのか」という発見が、いくつかありました。▼たとえば:「〔『美術手帖』の〕役員会議ではわけのわからないヴァーチャル・リアリティとかクラブ・カルチャーとかと美術をつなげられるよりコンサバ路線に舵を切ることでもっとなんとかできるはずだという意図はあったんだと思うんですよ」(本書p.40、楠見清氏の発言)――読者としては当たり前のように読んでいた記事が、これほど強い戦いの中にあったとは。

*2:以下、太字等の強調部分は全て引用者によるもの

*3:「○○画とはこうあるべきだ」と決められた環境で、みずからの信じる必然性を導入して描いてみるように。

*4:左派の全体主義イデオロギーは、それ自体が官僚主義的順応の温床です。