- 【『20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から』著者インタビュー(1):永瀬恭一】(アートダイバー)
リンク先は美術の話ですが、モチーフとして共有できる点を感じたので、
引用しながらメモします(強調は引用者)。
「触れられていない事象や側面」
それとは別に、本当に語られていないことや触れられてこなかったことはたくさんあるはずです。これまで特権的な語り手が、〔…〕 実はこの大雑把な構図の下には、触れられていない事象や側面がある。その、我々に届かなかった歴史(デッドストック)をどう考えるのか。
「デッドストック」という言葉からは、東浩紀氏の『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』を思い出す。これは、情報断片としてのエクリチュールが届かずにいる、という話だったが――「触れられていない事象や側面」という永瀬氏の言い方では、《当時その場にあった、状況に対する引き受けかた、制作スタイル》に照準する視点も感じる。私はそっちをむしろ考えたい。
東氏の議論では、「どのように引き受けるか」というのは、その人の資質の問題でしかなく、それは確率的に身に帯びてしまう運命的なものであって、技法的にどうこうする主題ではない。各人の資質も、情報断片も、確率的に論じるだけで、集合的な試行錯誤のモチーフではない。東氏には、《引き受け方》に照準したモチーフがない。
東氏にとって、知的分析の作業過程は、確率的(運命的)に付与された資質として自明の前提であって、「東浩紀はこのようにしかやりようがない」という話にしかならない。東氏にとって、分析というのは彼が遂行するようなメタ理解を描き出すことであり、彼が作り出す集団は、その彼のスタイルを受け入れる形をしている。――だから東氏には、《集団がどのように営まれているか》という当事者的な分析が動きにくい。「合うか、合わないか」が全てになってしまう。そこには、集合そのものの技法論を考える余地がない(少なくとも焦点になりにくい)。
これは東氏にかぎらない。アカデミズムも含め、《論じる自分がどのような知的態勢をとっているか》、つまり《どのような集合的あり方をしているか》というのは、ほとんどモチーフになっていない。であれば、どのような作品が評価されるかも、自覚されないままに決まってしまっているだろう。
「なんでもあり」になった結果、かえってシンプルな権力が
相対的に、やはり美術館は強いということになる。しかし、その強さの実態は、近代美術という理念とか哲学に裏付けされた「権威」ではなく、予算とか設備とか、あるいは人的ネットワークといった要素によってなのですね。〔…〕
動員予測や行政への説得テクニック、スポンサーの獲得力を含めた「使い勝手」の分かりやすい所に決定権がより一層偏重していくのではないか。象徴的なので美術館を挙げていますが、大学、あるいはアートマーケットの内部だって同じだと推測します。〔…〕
「なんでもあり」になった結果、すごくシンプルなかたちでの「権力」、かつてのような理念性を盾にした「権威」ではない、金額や予算として数値化されている分抗うことが難しい「権力」を持っている場所や人や企画に、いろんな決定権がすうっと持っていかれてしまう
強力な権威づけが誰にもできなくなったぶん、ぎゃくに「わかりやすい回路」がすべて持って行ってしまう――これは私は、精神薬理学のエビデンス談義や、名詞形《当事者》概念の周辺で、嫌というほど味わっている。頑張ってイレギュラーに分析しても*1、行政の仕事に乗りやすい名詞形カテゴリ(診断名と役割固定)のほうが、人を説得しやすい(≒予算を取りやすい)。*2
大事なのは美術館かオルタナティヴ・スペースか、という話ではなく「結局はお金」とか「結局は人事(人脈)」といった、あまりに貧しく単純な“現実の反映”に美術の可能性が落ち込むことなく、いかにそのような即物的決定権、自分自身を規定して行く諸条件に抗うかではないか。
集合的な生活に参加すること、働くこと。
それを、「わかりやすすぎる」話で終わらせてしまうのか。
それでは、絶望のあり方も、わかりやすく終わってしまわないか。