福井県の仁愛大学に、招待講義にお邪魔してきました。*1
私自身にとって充実した時間でした。
講義資料のタイトルには、「ひきこもり」ではなく「孤立」を入れました。こうすることで、たとえば次のようなテーマも、やや距離をとって、しかも他人事ではなく論じることが出来ます。
- 《孤立》について、お互いをどう支えていくか。支援者と支援される側を役割的に切り分ければよいのではない。支援者も孤立する。
- 孤立にはいろんな要因がある。病気、集団の性質、など。
- 「孤立すべきではない」などと、規範的に言ってもダメ。あくまで技法として、具体的な話が要る。*2
- 世帯の単身化や非婚など、孤立は社会全体の傾向になっている。→支援者の努力は、人のつながり*3が失われてゆく環境に放置されがち。
- 「集団的で、持続的」なありかたを目指す。逆に言うと、「孤立して瞬間的」*4がマズい。
《孤立》と呼んで、それを多角的に検討することで、聴講者にとっても《自分の問題》として考えていただけるようになったと感じます。名称としての「ひきこもり」は、差別的に役割を決めつける機能が大きすぎる。
あるいは単語としての「ひきこもり」は、
内側から取り組む語としては、やや不適切に思います。*5
「ひきこもり」と、対象だけを独立した現象として扱うのではなく、その状況そのものが、語り手の言葉の使い方と内側から繋がっているような語り方をしないと、専門家の言葉を真似ることで、悩む本人の自己制作の過程が潰されてしまう。――こういう問題意識が全く共有されておらず、官僚みたいに語る「ひきこもり論」ばかりです。内在的な技法論がなく、見下したような、他人事みたいな論じ方。
論じ方の大まかな対比
【規範論】 | 【技法論】 |
---|---|
役割固定的な「ひきこもり」 | 誰にも問われ得る《孤立》 |
名詞形の「当事者」 | 動詞的な《当事化》 |
診断名の話に終始 | 内在的な制度分析 |
官僚的 | 自治の試行錯誤 |
これまでは、規範的な「〜べき」ばかりが支配していて*6、技法という着眼が抑圧された。あるいは技法論らしきものがあっても、内在的な制度分析がないので、メタ言説のナルシシズムに閉じるしかなかった。*7
官僚的で優等生的な論じ方は、それだけで有害である
――この問題意識じたいが技法論的なわけですが、
今は雇用への恐怖症的配慮が強まっているのか、
この論点が抑圧される傾向を感じています。
*2:「引き出し屋か、全面肯定か」という論争も、あくまで規範論の枠内にしかない。
*3:信頼や愛情に基づいた関係性は、支援のための資源にもなりまが、今はここから作り直さなければならなくなっている感じです。→支援者が、「community maker」の役割を期待される。
*4:「ひとりで暴れる」など
*5:これも規範ではなく、技法についての見解です。「そのやりかたではうまくいかない」と。
*6:「ひきこもりを全面肯定せよ」は、規範言説でご家族を支配しようとする発想です(参照)。これでは、規範言説に監禁する形にしかなりません。
*7:「制度分析」と言っても、小泉義之『ドゥルーズと狂気 (河出ブックス)』p.204 のような理解ではどうにもなりません。小泉氏は《制度》を、ついに「施設」という意味でしか理解できなかったのでしょう。