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楢林鎮山跡地
◆(2017.01.31)
『佐賀医人伝』の補充撮影で、大同印刷の稲富さんと一緒に長崎へ。長崎県庁の敷地内に入るとすぐ入口右手側にあるのが、イエズス会本部・奉行所西役所・海軍伝習所跡の記念碑である。◆報效会所蔵の『長崎海軍伝習所絵図で』いえば、広い大きな石段をあがったところの門のあたりが、ちょうど現在の長崎県庁の入口にあたる。◆県庁内敷地を裏手のほうに歩いて降りたところが楢林鎮山屋敷跡で、標柱がたっており、案内板もある。◆中島川をはさんで向かいが出島。やはりオランダ通詞としての役割を果たすために、その屋敷は出島のすぐ近くにあった。鎮山は、西洋医学へ深い関心をもち、『紅夷外科宗伝』という外科書を著し、紅毛流外科医としての楢林医家を興した。◆その子孫らが代々佐賀藩医となり、佐賀藩へ紅毛流外科を伝えるとともに、牛痘導入に成功した楢林宗建も出た。◆嘉永2年6月26日、出島において、宗建子建三郎と他の通詞の子へ牛痘を接種し、その1週間後の7月3日に宗建子建三郎のみが発疹ができ、種痘に成功した。その発疹から、他の通詞の子に接種すると、1週間後の7月10日に二人とも見事に発疹し、人から人へ伝える牛痘種痘が成功した。◆こうして成功したモーニッケ苗は、江戸町の通詞会所(現在の県庁敷地付近)で、モーニッケらがやってきて、通詞の子やら長崎町民らへの接種が始まった。◆以後の経過は、当時長崎に在住していた蘭方医柴田方庵の『日録』に詳しい。◆「江戸町(7月)十一日、大風雨 町内大塚、名村貞五郎口達之為、夜五ツ頃来ル、来ル十六日江戸町通詞会所ニ而蘭人牛痘種候ニ付、拙者(柴田方庵)ニ同所ニ参リ候様申来ル
(7月16日は方庵が病気明けだったためと通詞会所の準備不足かで記載なし)
(7月)廿一日 晴 「牛痘種方阿蘭陀□伝授之義御聞済ニ相成」(この書状からようやく種痘伝授が許可されたことがわかる。つまり今までは非公式の種痘伝授であったことがわかる)
朝五ツ半頃阿蘭陀通事年番両名書状来ル
以手紙貴意、然者牛痘ヲ以種痘いたし候儀、御伝授申度旨外科阿蘭陀人申出候ニ付、其段相伺候処、昨廿御聞済ニ相成候間、来ル廿四日江戸町阿蘭陀通詞会所江御出有之候様仕度、此段御掛合為可得貴意如此ニ御座候、以上
七月廿一日 植村作七郎
名村貞五郎
柴田方庵様」
◆江戸町の通詞会所の的確な位置は不明だが、現在の県庁付近であることは疑いなく、この場所が、わが国の最初の種痘伝播地となったのである
『佐賀医人伝』の補充撮影で、大同印刷の稲富さんと一緒に長崎へ。長崎県庁の敷地内に入るとすぐ入口右手側にあるのが、イエズス会本部・奉行所西役所・海軍伝習所跡の記念碑である。◆報效会所蔵の『長崎海軍伝習所絵図で』いえば、広い大きな石段をあがったところの門のあたりが、ちょうど現在の長崎県庁の入口にあたる。◆県庁内敷地を裏手のほうに歩いて降りたところが楢林鎮山屋敷跡で、標柱がたっており、案内板もある。◆中島川をはさんで向かいが出島。やはりオランダ通詞としての役割を果たすために、その屋敷は出島のすぐ近くにあった。鎮山は、西洋医学へ深い関心をもち、『紅夷外科宗伝』という外科書を著し、紅毛流外科医としての楢林医家を興した。◆その子孫らが代々佐賀藩医となり、佐賀藩へ紅毛流外科を伝えるとともに、牛痘導入に成功した楢林宗建も出た。◆嘉永2年6月26日、出島において、宗建子建三郎と他の通詞の子へ牛痘を接種し、その1週間後の7月3日に宗建子建三郎のみが発疹ができ、種痘に成功した。その発疹から、他の通詞の子に接種すると、1週間後の7月10日に二人とも見事に発疹し、人から人へ伝える牛痘種痘が成功した。◆こうして成功したモーニッケ苗は、江戸町の通詞会所(現在の県庁敷地付近)で、モーニッケらがやってきて、通詞の子やら長崎町民らへの接種が始まった。◆以後の経過は、当時長崎に在住していた蘭方医柴田方庵の『日録』に詳しい。◆「江戸町(7月)十一日、大風雨 町内大塚、名村貞五郎口達之為、夜五ツ頃来ル、来ル十六日江戸町通詞会所ニ而蘭人牛痘種候ニ付、拙者(柴田方庵)ニ同所ニ参リ候様申来ル
(7月16日は方庵が病気明けだったためと通詞会所の準備不足かで記載なし)
(7月)廿一日 晴 「牛痘種方阿蘭陀□伝授之義御聞済ニ相成」(この書状からようやく種痘伝授が許可されたことがわかる。つまり今までは非公式の種痘伝授であったことがわかる)
朝五ツ半頃阿蘭陀通事年番両名書状来ル
以手紙貴意、然者牛痘ヲ以種痘いたし候儀、御伝授申度旨外科阿蘭陀人申出候ニ付、其段相伺候処、昨廿御聞済ニ相成候間、来ル廿四日江戸町阿蘭陀通詞会所江御出有之候様仕度、此段御掛合為可得貴意如此ニ御座候、以上
七月廿一日 植村作七郎
名村貞五郎
柴田方庵様」
◆江戸町の通詞会所の的確な位置は不明だが、現在の県庁付近であることは疑いなく、この場所が、わが国の最初の種痘伝播地となったのである
『佐賀医人伝』校了
三年越しの『佐賀医人伝』、ようやく今朝、最終原稿犬尾文郁とあとがき原稿を提出しました。今から10年前の某月某日、4人で磯寿司で医学史研究会を作ろうと旗揚げしてから、平成18年(2007)12月22日に佐賀医学史研究会が発会しました。平成20年(2009)6月には、佐賀市で第一一〇回日本医史学会総会を開催し、その際に、『佐賀医史跡マップ』を刊行し、県内の医史跡と医人を紹介しました。それから、毎年、本会は、例会と県内外の医史跡巡りを通じて、医人調査も続けてきました。その積み重ねのうえに、『佐賀医人伝』刊行の構想が生まれました。
本書は、30人近くの執筆者の共同研究の成果で、127人(関連人物をいれると200人近くなります。そのうち青木執筆分はなんと72人でした)の略伝集です。皆それぞれ、できるかぎり子孫の方や史料所蔵者に連絡をとり原史料から読み解き、また、佐賀だけでなく京都や東京、長崎などの各地のお墓にお参りして、生没年月日を正確に把握するなど、汗を流して足で稼いで執筆しました。
本書から、佐賀地域の大陸に近い地理的特性から、古代から進んだ大陸文化を取り入れ、地域の生活に役立ててきた姿が医学の面からもうかがえます。古くは伝説的な徐福をはじめ、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂に仕えた朝鮮出身医師林栄久や、蓮池藩に仕えた鄭竹塢などが、大陸・朝鮮の先進的医術や文化を佐賀地域に伝えてきました。
江戸時代にいってもは黄檗宗や中国の出版文化などが、佐賀地域に入り、全国に広がった例も多くみられます。また、長崎警備を担当した佐賀藩は、大陸文化だけでなく、オランダ通詞楢林鎮山やその子孫の楢林栄哲らを通じて、横尾元丈、上村春庵、佐野孺仙らが西洋医学を取り入れ、島本良順(龍嘯)が蘭学を発展させました。
江戸時代に最も恐れられていた感染症である天然痘予防の牛痘法の導入は、佐賀藩医の伊東玄朴、牧春堂、大石良英、楢林宗建、島田南嶺らの連携と藩主鍋島直正の後押しによって成功し、佐賀・長崎から全国へ普及することになりました。
佐賀藩の試験による医師開業免許制度は、現代につながる医師国家試験制度の先駆であり、安政5年(1858)には、江戸時代におけるわが国最大の西洋医学校好生館が開設され、そこで育った相良知安や永松東海らが中心になって、ドイツ医学の導入や医制など、わが国の近代医学・薬学制度の基礎を築きました。
また本書には、現代の東京女子医大のもとをつくった吉岡弥生(夫の吉岡荒太が佐賀県出身)、佐賀県最初の試験合格女医緖方トキ、太良町に図書館をつくった大橋リュフなどの女医も登場します。
グローバル化が叫ばれる現代だからこそ、先人たちが、佐賀の地域特性に合わせて、海外の先進文化を取り入れて、地域の発展と医療の向上のために尽くした姿に学び、さらに、地域の個性を磨くことが必要なのではないでしょうか。
本書を、先人たちからの贈り物として、皆様の座右に置いていただけると幸いです。
なお、本書は、佐賀新聞社発行(ISBN978-4-88298-219-7、2017年2月25日発行)で一般書店でも1500円プラス税で購入いただけることになりました。