QRコード
QRCODE
※カテゴリー別のRSSです
お知らせ
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 5人
プロフィール
洋学

桑田立斎 牛痘発蒙

2016年02月24日

 洋学 at 22:54  | Comments(0) | 科学史 | 漢方医学 | 食物史 | 地域史
◆野中家に、桑田立斎の『牛痘発蒙』があります。牛痘による種痘が安全だからもっと広めようという啓蒙書です。本書の成立が、序文に「嘉永二年酉六月筒井憲浅」とあるので、嘉永2年とする書もありましたが、内容をよくみると、これは間違いで、嘉永4年とするのがよいでしょう。なぜかというと、本書の末尾に、立斎が牛痘を得た経緯が書いてあるので、嘉永2年出版は無理なのです。その文は以下のようです。
「再識  余が牛痘を種うる事、嘉永二年己酉十一月十八日、佐賀侯の侍医伊東君より痘漿を得しに始まり、同三年庚戌十二月朔日に至るまで種うる所の児、その数一千零二十八人にしてその分数左の如し
真牛痘 九百七十四人 仮痘三十七人
 発せざる者 六人 再接して発せざる者 四人」
とあり、伊東玄朴から痘漿を分けてもらったのが、嘉永2年11月18日、それから嘉永3年12月1日までに1028人に種痘を実施したことが記されています。一年のまとめの12月までの統計で、それから出版するのであるし、その成果をできるだけ早く公開してさらに牛痘を広めるためには、時間がたちすぎてもいけません。そういう理由から、出版年の記載はありませんが、嘉永4年の出版と考えてよいと思います。
◆野中家の医学書研究は始まったばかりです。貴重書がたくさんあります。これを公開していく手立ても始まりました。昨日から国立史料館の山本さんがお見えになって、野中家の史料の一部を撮影し、デジタル公開するように準備がはじまっています。  


肥前と信州(5)金平糖

2015年08月23日

 洋学 at 06:34  | Comments(0) | 洋学 | 食物史 | 文化史 | 文化交流史
◆金平糖というお菓子がある。子どもの頃、駄菓子屋さんで買っていくつものとんがりから口のなかに広がる甘さがなんともいえないおいしさだった。◆ポルトガル語でコンフェイト (confeito) に由来し、戦国時代に宣教師らが伝えた南蛮菓子という。永禄12年(1569)に、宣教師ルイス・フロイスが京都の二条城において、信長に謁見したとき、ろうそくなどともに献上されたのが文献上の初見らしい。◆フロイスは、confeitoをよく献上物に使った。たとえば『フロイスの日本史覚書』(中公新書)に「われらにおいては、柄杓一杯の水を飲むのに一匙の砂糖菓子(コンフェイト)をまたは一切れの砂糖漬けが与えられる。日本では、盃をとるためには砂糖菓子1個、またはそれと同じくらいの大きさのものを与えれば事足りる」(同書、141頁)とある。この場合の砂糖菓子は金平糖のことだろうから、1個でも喜んでもらえた相当貴重でなおかつ珍重されたことがうかがえる。◆江戸時代にはいってもこの菓子は献上物として珍重された。江戸時代初期、慶長14年(1609)、佐賀藩坊所鍋島文書に、「金平糖一斤(600グラム)」の記録があり(江後迪子『長崎奉行のお献立 南蛮食べもの百科』吉川弘文館、2011年)、さらに、寛永14年(1637年)の長崎・平戸のオランダ商館長日記に拠れば、ポルトガル船により「各種金平糖3000斤(1800キロ)」が運ばれており、京都などに流通して献上品として用いられていたという(同前)。3000斤とはかなりの量であり、かなりの流通量になったのではないかと考えられる。◆さてこれからが本題で、金平糖が信州に伝わったは、江戸時代初期とみられる。それが史料的にわかるのが、先に紹介した佐久ホテルの篠澤家文書などである。
◆以前に、岩村田の佐久ホテルは歴史のあるホテルと書いた。じつは1428年(正長元年)の創業という。なんと600年以上も続く、旅館業はもちろん、長野県の産業界でも最も歴史のある老舗中の老舗。戦国時代には武田信玄も入ったという天然温泉もいまだにホテル内にある。江戸時代は中山道岩村田宿の本陣と割元(村でいう大庄屋クラス)を代々勤めて現在に続く家柄である。◆江戸前期の岩村田宿割元篠澤佐五右衛門が、慶安元年(1648)に小諸城主を接待したときの文書が写真である。文書の左に、慶安元年­十月十九日晩に信州佐久岩村田の篠澤佐五右衛門滋野重長と息子良重が信州小諸城主青山­因幡守宗俊公らに対し、料理を献上し、その場所は小諸町鈴木三四郎宅で、小諸藩家老田塩­吉兵衛も同席していたと書いてある。◆写真の真ん中以降に、御くわし(御菓子)として、一みつかん、一あまひ、一里(?)やうかん、こんへいとうという文字が見える。つまり、小諸城主を接待した本膳料理の水のもの(デザート)ととして、甘い御菓子を出したということ。◆今でも、料理のあとにはアイスとか甘い物をほしがる人が多いが、同じ気持ちだったのだろう。いや、今よりもっと甘い物は貴重だったから、甘い御菓子(砂糖菓子)をだすことは、最高のもてなしだった。◆みつかんは、もちろん酢ではなく、ミカンのことである。ただ旧暦10月19日のミカンとはどのようなものであったか。ミカン栽培のできない信州佐久で、この時期にミカンを入手できたのはなぜだろうか。またどのようなミカンだったのだろうか。早生ミカンだったのかよくわからない。ただし、現在の温州ミカンのことではなく、肥前八代を故郷とし、戦国期に紀州有田に移植された有田みかんが江戸時代のミカンであった。◆江戸時代後期になると、江戸の金持が、富士山の氷室で凍らせたミカンを江戸まで早飛脚で運ばせた事例はある(塚本学「江戸のみかんー明るい近世像」)が、江戸前期のミカンは、貴重であったことはまちがいない。◆あまひとはなにか。求肥(ぎゅうひ)のことで、白玉粉や餅米の粉に砂糖や水飴などを入れて練って蒸したもの。また餡を包むその皮のこと。現代的にいえば、雪見だいふくの皮の部分といえよう。求肥は、善光寺でも名物の一つで、今でも玉だれ杏などは、ようかんに杏を練り込み、求肥で巻き込んでいる。羊羹の甘さと杏の甘酸っぱさと求肥のもちもち感がマッチして美味しい土産品。◆やうかんはようかん。羊羹はもともとは羊のスープのにこごり。中国から鎌倉時代に我が国へ禅僧の世界へ伝えられたが、肉食を禁じられた僧侶たちが、小豆を煮て同様の味わいを出したのが始まりという。江戸時代になって琉球や奄美諸島などで黒砂糖が生産され、砂糖が流通するようになると、さらに寒天を使った練り羊羹も流通しはじめたようである。おそらく慶安元年のやうかんは、貴重な砂糖を使った練り羊羹だったとみられる。◆そして真打ちが、コンペイトウだった。1637年に金平糖が3000斤輸入され、1639年にポルトガル船の来航禁止となった。来航禁止の約10年後に、信州で金平糖の製造技術があったとは思えないので、これはおそらく、1637年に輸入された金平糖の1粒か数粒であったのだろう。フロイスも砂糖菓子(コンペイトウ)1粒で足りると書いている。最後の最後に、当時の砂糖菓子の真打ちをもってきたところに、篠澤佐五右衛門の最高のおもてなしの心があった。◆殿、これがポルトガル伝来のコンペイトウと申すものでございます。おお、そうか、これがうわさのこんぺいとうか、佐五右衛門よくぞ、手に入れてくれた。余は満足じゃ、ははあ、有り難きしあわせ、というような会話がなされたかもしれない。◆老舗中の老舗の佐久ホテルは、佐久平駅前のはやりのビジネスホテルに押されて、やや元気がない。歴史好きの人が軽井沢周辺に来たとき、武田信玄ゆかりの天然温泉に入り、豊臣秀吉の書状を読み、北斎の絵や一茶の句を鑑賞しながら、鯉料理に舌鼓をうつ、そんな旅もおすすめしたい。◆なお、この接待文書は現在佐久市望月町歴史資料館に保存されている。この文書からは、江戸前期の信州での最高の本膳料理が復元できるので、それについては機会があったら書いてみたい。◆また、鈴木先生からの、砂糖の普及によっての虫歯の広がりや歯科医療(江戸時代は口中科として独立)、白い歯の絵などの関連についても宿題としておきたい。肥前から信州への南蛮菓子の普及も、また意外とはやく広がっていたのであった。

  


菓子からみえてくる歴史

2015年07月27日

 洋学 at 18:15  | Comments(0) | 食物史 | 文化史 | 文化交流史
◆『日本歴史』8月号が届いた。北九州大学の八百啓介さんがコラム「歴史手帖」に「菓子からみえてくる歴史」の一文を載せていた。オランダ商館の帳簿分析により十八世紀初期には輸入額の3分の1を占めるほどの主要な輸入品となっていたことが、八百さんが砂糖を研究するきっかけになったとする。しかし、輸入された砂糖の実際のゆくえは依然として謎のままだそうだ。◆そんななかで菓子の研究を開始した八百さんは、佐賀の白玉饅頭の由来を考えることになった。つまり、白玉饅頭は神功皇后の妹とされる与止旦女(ヨドヒメ)にまつわる伝説(ヨドヒメに白玉饅頭を差し上げたところ私にもこのようなかわいい子が授かったらよいがと言ったという伝説)に由来するが、この製法が韓国の伝統菓子であるソンビョン(松片)の系譜に属するものであり、なおかつ菓子文化の視点からは、奇しくも「ヨドヒメ」は韓国語の妹を意味する「ヨドンセン」に通じ、神功皇后伝説が朝鮮半島から北部九州への影響を象徴する人物であったという視点も生まれ、「ヨドヒメ」は朝鮮半島系の氏族神であったとも考えられるとし、「白玉饅頭は古代北部九州地域と朝鮮半島との密接な関係を示す貴重な証人であるといえよう」と結論づけた。◆もう一つ佐賀の代表的饅頭である松露饅頭についても、興味ある日韓関係を読み解いている。つまり、「松露饅頭は、朝鮮半島の中世における「高麗饅頭」「焼き饅頭」が秀吉の朝鮮出兵(壬辰倭乱)に際して我が国に伝わり、長崎を窓口としてポルトガルから伝わったカステラ菓子の技法と融合したものとされている」とし、その後、松露饅頭は、日本の植民地時代の1920年代に再度海を渡り、いまでは駅の売店でも売られているホドグジャ(胡桃菓子)となったと紹介し、韓国では植民地時代の日本からの菓子として恥じるむきがあるが、むしろ数百年の時間を経てのふるさとに帰った菓子ということを知ってほしいとしている。◆本文では松山銘菓のタルトや博多の鶏卵素麺と鎖国との関連にも触れている。とくに八百さんが伝えたかったことは「日韓の大学で若い人々に話して感じることは、前世紀からの日韓のわだかまりを次の世代に背負わせてはならないということである。松露饅頭は、日韓両国ともに直視をさけてきた歴史と向き合うことの大切さを我々に語りかけているといえよう」ということであろう。深い一文である。コピー代わりに写真を添付したので、読んで味わっていただければと思う。◆自宅から歩いて5分のところに白玉饅頭の元祖○○屋などがある。さらに10分のところに淀姫神社がある。散歩のコースでもある。また一つ歴史の深い糸にふれることができた。楽しいかぎりである。