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新刊紹介 笹本正治『甲信の戦国史』

2016年05月28日

 洋学 at 07:21  | Comments(0) | 書評 | 地域史 | 日本史
◆笹本正治『甲信の戦国史』(ミネルヴァ書房、2016年5月30日、3500円プラス税)がでた。本書は、小和田哲夫『東海の戦国史』のように、ミネルヴァ書房の戦国史シリーズの一つとして構成されたようだ。NHK大河ドラマ「真田丸」が人気であるが、合戦による興亡の歴史のみでなく、史実に基づいた甲信の民の戦国史が出されたことがタイムリーである。◆著者は、はしがきで、甲斐での山に囲まれた自らの少年生活から戦国史研究に関心をもったことを述べ、本書を水田耕作のみではなく、山の産物や山の民のくらしにも目をむけた甲斐・信濃の戦国史を描くことにしたと述べている。◆目次をみると、その意図は明確である。第一章自然の特質と災害、第二章変化する領主たち、第三章織豊政権から徳川政権へ、第四章山国の物資の流れ、第五章信仰の山、第六章山の民たち、第七章食糧を求めて、第八章食糧増産と転回する生産とある。◆甲斐・信濃をめぐって、武田氏をはじめ、小笠原氏、村上氏、木曽氏、真田氏ら、ひいては上杉氏、豊臣氏、北條氏らの争いのあと、徳川氏が覇権を得るようになる政治史の流れは第三章のみで、他の多くは、戦国史研究に従来見過ごされがちであった、山国のきこりや猟師、金山衆などの山の民の暮らしと信仰、物資流通などの視点から、戦国領主との関わりを描いている。そして、第八章において、農業生産の転回を促したのは新田開発と木綿生産であったことを明らかにし、近世への前提を述べている。◆戦国大名の興亡のみを描いた戦国史では、日本の歴史をささえてきた山の民の暮らしは見えてこない、だからあえて山の民の暮らしを軸に、この戦国時代史を描こうとしたという著者の強い主張が、本書からうかがえる。◆本書のあとがきで、著者はセルビア・モンテネグロなどの旅行において、内戦による歴史的建造物の破壊と多くの人びとの死を実感し、「一日も早く全世界から人が互いに殺し合うことのない日が来ることを祈って擱筆する」という文章でしめくくっている。同感である。◆歴史好きの学生に、好きな時代は、と質問すると戦国時代か明治維新と答える学生が多い。かって一世を風靡したゲームソフト「信長の野望」やNHK大河ドラマ「竜馬伝」などの影響もあり、政治的転換期や興亡の歴史が心をそそるのだろう。そういう歴史好きの多くの歴女・歴男(こんな言葉があるか知らないが)にも、見過ごされてきた、このような民の暮らしがあり、それが戦国時代を支えていたのだったということを、気づいてもらえたらと思う。◆戦国時代を描いた書としては、合戦の歴史が少ないので、物足りないと思う向きもあろうが、私としては、著者の歴史観がよく体現された渾身の著と感じた。あえていえば、山の民だけでなく農業民の暮らし、山との関わりももう少しあればとは思った。著者の今後の益々のご健筆を祈念したい。  


新刊紹介:近代医学の先駆者ーハンターとジェンナー

2016年03月18日

 洋学 at 06:01  | Comments(0) | 書評 | 洋学 | 地域史 | 外科学
山内一也『近代医学の先駆者』(岩波書店、2016年1月20日、1900円+税)が出た。18世紀からの自然誌(博物学)の興隆が近代医学を変えたという流れから、解剖医ハンターとその弟子である種痘の発見者ジェンナーの生涯と業績を、種痘史とともに紹介しているのが本書の特徴である。
本書は、「自然誌は紀元前4世紀、アリストテレスの時代に始まり、その対象としてなる自然は鉱物、植物、動物、人間の四界に分けられていた。15世紀に始まった大航海時代に入って、自然誌は大きな転換期を迎えた。」として、スウエーデンのリンネによる『自然の体系』(1735)、フランスのビュフォンによる『自然誌』(1749)への流れを紹介。
ジェンナーの師ハンターもこの自然誌研究の流れのなかで、20歳のときから12年間で2000体以上の人体解剖を実施した。この彼の行為は、『ジキル博士とハイド氏』の物語を生み出し、一方別邸での数多くの動物との生活は、『ドリトル先生』のモデルともなった。
ジェンナーの研究は、恩師ハンターから受け継いだナチュラリストとしての姿勢に支えられ、牛痘の研究を開始し、牛痘種痘の予防効果を証明したのあるとしている。
本書の構成は、プロローグ、第1章近代医学以前ー天然痘の脅威ー、第2章ドリトル先生の時代、第3章ジェンナーと天然痘、第4章ジェンナーが残してくれたものー古典的医術から近代医学へ、第5章日本の近代医学と牛痘種痘、第6章、ジェンナーの予言ー天然痘の根絶とある。
プロローグは、孝明天皇の天然痘罹患とその直後の死去というエピソードから始まる。天皇拝診日記は、侍医であった伊良子光順がつけており、そのひ孫の伊良子光孝医師が、『医譚』に報告した内容(伊良子光孝「天皇拝診、孝明天皇拝診日記(2)」(『医譚』復刊、47。48、2877~2894、1976)に掲載されており、孝明天皇の天然痘罹患の状況が克明に記録されている。医師団天然痘の日取書(経過予定表)を作成し、23日には発疹が膿疱となり、ほぼ日取書通りに、順調に回復したとみられていたところ、突然、24日になって高熱、強い吐き気、痰が出て意識不明となり、25日に崩御された。天然痘の悪性の出血性のものか、一方で毒殺説も強く、いまだ定説はないとしている。
日本への牛痘種痘への伝播についても、ブロムホフの我が国への痘苗移入の努力も触れており、さらに嘉永2年の佐賀藩による牛痘種痘の導入については、添川正夫『日本痘苗史序説』(近代出版、1987)、およびアジャネッタ(廣川和花・木曽明子訳)『種痘伝来』(岩波書店、1946)に依って、日本最初の牛痘種痘接種の成功した日を、和暦で嘉永2年6月26日と特定しており、基本的な伝播経路についてもほぼ正しい。
ただ、種痘の伝播について、より正確な経路を記しておくと、筆者が、直正が派遣した藩医大石良英が、種痘児を連れて佐賀城下にやってきて、そのまま佐賀城下で種痘を開始したというのは間違いで、じつは、大石良英が長崎に派遣されたことは正しいのだが、長崎での種痘の成功を直正に報告するために、いったん佐賀城下に戻っており、その後、楢林宗建が種痘児を連れて8月4日に長崎を出発し、8月6日に佐賀城下に到着し、8月7日にまず藩医大石良英と島田南嶺の子に、佐賀城下呉服町の本陣で接種したのである(拙著『伊東玄朴』、佐賀城本丸歴史館、2014)。その後、多久領主の子萬太郎に接種して、善感した「よい種」を藩主子淳一郎に接種したのである。藩主子に接種したのは、おそらく侍医の大石良英であろう。宗建も立ち会っていたことは想像に難くない。こうして宗建は、大石良英や島田南嶺らに、種痘技術を伝播して、淳一郎への接種の善感を確認後、藩主からお褒めの言葉と金30両を受けて、8月28日に佐賀城下を発ち、29日に長崎に戻っているのである。やはり、長崎での種痘開始とその後については、きちんと論考で紹介しておく必要を改めて感じている。
いずれにしても、旧来の種痘研究書のなかでも、本書は、最新の研究成果に基づき、自然誌研究の発達のなかに牛痘種痘の発明と伝播を位置づけて、その広がりを客観的に述べていることにより、基本書の一つとして今後活用されよう。
  


『ハンセン病【日本と世界】』

2016年02月21日

 洋学 at 18:30  | Comments(0) | 書評

◆『ハンセン病【日本と世界】』(ハンセン病フォーラム編、工作舎・2500+税、2016年2月10日)を廣川和花さんから戴きました。感謝です。本書はハンセン病問題に取り組むさまざまな人たちからの論集・対談からなっており、読みやすいです。
◆認識をあらたにした2つの文章を紹介します。扉表紙には次のような文章があります。「表にでてこないだけで、誰もがハンセン病の菌は持っている。にもかかわらず病者を差別する。なぜ人間はそうなってしまうのかと考えると、やはり人間は、性善説で解釈できる存在ではないのでしょう。戦争をしてしまう暴力衝動、あるいは嫉妬などと同じように、差別をする心が人間の中にはある。それを解決していくのは、生きとし生けるものの中で人間だけが持つ理性による力なのです。理性が働かなければ、差別の心は永遠に治癒されないでしょう。ハンセン病は「人間とは何か」という非常に深い問題を問い詰めている病気なんです」(笹川陽平)。◆「誰もがハンセン病の菌は持っている」という言葉は衝撃的です。この発言をした笹川陽平氏は、日本財団会長であり、1月31日を世界ハンセン病の日として、ハンセン病に対する差別の問題を世界に訴える「グローバル・アピール」を発表するなど、ハンセン病問題に世界各地で積極的に取り組んでいます。◆この笹川さんがなぜ、ハンセン病に取り組んだのか、そのきっかけは、韓国でのハンセン病患者の惨状を知った美智子妃が当時の金川政英韓国大使になんとかならないかと相談し、金川氏が笹川良一氏を訪ね、韓国に病院を作っていただきたいと協力を要請したことがありました。笹川良一氏は、さっそく韓国でのハンセン病患者の施設と病院を設立します。その開所式に随行した笹川陽平氏は、そのときの父の様子を対談で次のように語っています。聞き手は作家の高川文彦氏(ハンセン病文学者北條民雄の評伝『火花』の著者)です。◆「私はその開所式に同行したわけです。青い病衣でベッドに横たわっている人もいれば、ベッドの上で韓国式の立て膝をついている人もいる。血の気がなく表情もない蝋人形のようでした。絶望の極みという印象でした。そんな中、私の父は平気で患者たちの膿のしみ出した足を触るし、ハグもして、「夢と希望を持って生きてくださいよ」と声を掛ける。「いや、すごいことをやっているな」と思いました。私は近寄ることもできません。遠くから表情を見ているだけです。ほとんどの患者は、父のスキンシップを受けても、まったく表情が変わらない。(中略)患者の症状にもショックを受けましたが、父の患者たちへのあの振る舞い方にも衝撃を受けたわけです。いわゆる膿臭が強いのですが、父があの特殊な匂いにも平然として、普通に接していたのには驚きました。」◆笹川陽平氏は、この体験以後、ハンセン病患者の治療・制圧や人権活動などに深く関わっていくことになったのです。笹川良一氏は、A級戦犯容疑者でもあり、陽平氏もまたその子どもとして日本の黒幕というような評価をうけていましたが、このエピソードをみると、無知が偏見と差別を生む大きな要因であるとも感じました。◆廣川氏は草津温泉の湯之沢部落へ治療をもとめてやってきた患者のつくる社会と周辺住民との種々の「共生」の姿を描いています。現在、ハンセン病制圧にむけ、この日本財団をはじめとして、各地で多くの人が取り組みをすすめています。ぜひ読んでもらいたい本として紹介しました。  


適塾48号

2015年12月20日

 洋学 at 22:08  | Comments(0) | 書評 | 洋学 | 日本史
◆適塾48号が届いた。内容が一新され充実している。いくつか興味ある論考が目に付いた。木村直樹「「華夷変態」から蘭学へ」は、17世紀の明清交替という「華夷変態」と日本近海における紛争激化に触れ、18世紀の安定したアジアの海の鎮静化により蘭学へのまなざしが醸成され、海防のための基礎科学として天文学・軍事科学・基礎科学・医学・地理学などを学ぶために、本格的に蘭学が受容されるようになり、19世紀の本格的な蘭学の、政治性と軍事性を帯びた展開へとつながるとした。外的条件だけでなく、蘭学受容の内発的欲求、知的状況についての分析もほしいと感じたのだが、とても明晰な論考であった。◆村田路人「幕末期大坂地域と洪庵・適塾ー種痘事業を中心に-」は、大坂には個別領主支配と幕府広域支配の二つの支配が展開していたこと、嘉永2年牛痘伝来以後洪庵らの種痘事業が、安政5年(1858)除痘館が官許となるにいたり、種痘事業が個別領主支配下領域において実施されたこと、慶応3年5月の除痘館の公官化により、それまでとは質の異なる広域的な種痘行政が出現したことなどを述べている。また廣川和花氏は、海原亮『江戸時代の医師修業、学問・学統・遊学』の書評を載せている。海原氏は、「学問」「学統」「遊学」によって形成される医師の修学形態の解明から江戸時代の「医療環境」の成り立ちを論じているとした。海原氏の「医療環境」論は、医療を「医者・患者・病気」の複合体である「ヒポクラテスの三角形」の概念でとらえ、それらを含む要素の総合的研究へと変容しつつあるとした。とくに本書では、近世日本の医者の専門的医学教育システムの解明を行ったとしている。評者はヨーロッパにおける18世紀後半からの医療・教育・臨床の場としての「病院」の意義を紹介し、著者の医師の臨床教育が「遊学」先の私塾やその往診先であったことに、近世日本の医療を特徴づける点の一つであったとする。近世日本の医学史研究にヨーロッパとの比較史の視点と、近世・近代の「断絶」との視点、とくに「病院の不在」をあげているのは、書評を超えた論考になっているともいえよう。近世日本医学史研究に寄与することの多い鋭い指摘である。
  


尾張藩社会の総合研究

2015年09月29日

 洋学 at 15:10  | Comments(0) | 書評
◆岸野俊彦編『尾張藩社会の総合研究』(清文堂書店、2015年9月20日、11500円+税)が出た。尾張藩を総合的に扱ってもう6冊目である。岸野氏の構想力と尾張藩研究者の人材の豊かさにあらためて脱帽である。◆このシリーズを貫くコンセプトは、資料の徹底した読み込みと多角的分析にある。そのために、多面的な分野に関心をもつ研究者たちが継続的な研究会を開催して、その論文の質を高めていることにも敬服する。◆たとえば、種田祐司「川伊藤家の尾張藩士への貸付について」は、尾張藩士への家中貸の実態を借金証文等により解明しようとしている。その統一像は描けていないが、その複雑な貸借関係が明らかになってきた。◆こうした経済史研究は膨大な史料読解と分析を伴うので、従来の歴史研究においては敬遠されがちで、したがって研究蓄積も少ない。諸藩の武士の困窮実態を解明する手がかりになろう。◆いま、佐賀藩でも地域学歴史文化研究センターの伊藤昭弘さんが、佐賀藩御用商人でもあった薬種商野中家の経営実態を分析し、9月27日の野中家シンポでも発表予定である。佐賀藩の総合的研究も藤野保さんの段階から新たなステージへと展開しつつあるし、しなくてはならない。◆本書の掲載論文の概要も写真で紹介した。また、中野節子元金沢大学教授の紹介文がすぐれた書評にもなっているのでこれも写真掲載しておく。◆研究者以外ではなかなか入手しにくい価格ではあるが、図書館にはぜひ置いていただき、研究のネットワーク化と諸藩の総合的研究の進展を望みたい。その意味で本書は大きな指針的研究である。







青木 歳幸さんの写真

  


お雇いドイツ人教師

2015年08月23日

 洋学 at 06:51  | Comments(0) | 書評 | 科学史
◆留守の間に、うれしい郵便物が届いていた。小澤健志『お雇い独逸人科学教師』(青史出版、2015年8月7日発行、213頁、5000円+税)だ。◆小澤さんは、巻末の略歴によると、昭和45年(1970)生まれで、長崎県の上五島出身。佐賀大学理工学部物理学科に入り、平成3~4年にミュンヘン工科大学物理学科留学。佐賀大学を卒業後、民間会社に勤務のかたわら、お雇い外国人、とくに物理・化学などのドイツ人科学教師の研究を続けてきて、博士(学術)号もとり、本書の出版に至った。◆内容は、第一章 幕末から明治初期における科学教育、第二章明治10年の東京大学設立までの前身校における独逸人科学教師、第三章G.ワグネルについて、第四章数学及び測地学教師E.クニッピング、第五章化学及び鉱物学教師C.シェンク、第六章日本への西洋理化学の啓蒙者の一人ヘルマン・リッター(1827~1874)について、第七章G.A.グレーフェンの足跡、第八章 アルフレット・ウエストファルの足跡、第九章 日本で最初の独国人独語教師V.ホルトについて、第十章、総括的考察と今後の課題となっている。◆本書の最も優れている点は、上記のあまり深く研究されてこなかったドイツ人科学教師について、我が国の文献だけでなく、ドイツ各地に残る関連文献や雑誌論文等も読解し、実証的に考察していることである。従って、従来のお雇いドイツ人研究者の見落としがちだった離日後の足跡まで丁寧に追っている。◆最初の出版であるため、序章やまとめのしかたにややぎこちなさを感じるところもあるが、それぞれの教師に対して全力で研究をした勢いと熱意が強く感じられるよい本である。公的機関や関係研究者各位の購読を期待したい。
  


松方冬子編『日蘭関係史をよみとく』

2015年07月25日

 洋学 at 17:17  | Comments(0) | 書評
松方冬子編『日蘭関係史をよみとく(上巻つなぐひとびと)』(臨川書店、2015年6月30日、4200円)が出た。編者は、序論で江戸時代の日本は金銀銅の産出国であったこと、江戸時代の日蘭関係は国と国の関係でなく、かかわった人の関係であることとして、日蘭関係をつなぐ人々のありようからよみとくことにしたと述べた。つなぐひとびととした由来である。◆第1部日本とつきあうでは、第一章松方冬子「一七世紀中葉、ヨーロッパ勢力の日本遣使と『国書』、第二章福岡万里子「幕末の日蘭関係と諸外国ー仲介国としてのオランダー」、第三章パトリツィア・カリオティ(クレインス桂子訳)「長崎の唐人社会」で、外交使節、領事、唐人の人と交易関係を述べる。◆第2部長崎にすまうでは、第四章鈴木康子「天明前期の長崎情勢と長崎奉行の特質」、第五章松井洋子「出島とかかわる人々」、第六章イザベル・田中・ファンダーレン「オランダ通詞と「誤訳事件」-寛政の「半減商売令」をめぐって」で、長崎奉行、商館員、通詞などの長崎貿易にたずさわる人々の実態を述べた。◆第3部蘭書にまなぶでは、第七章益満まを「草創期の京都蘭学ー辻蘭室文庫の書誌的考察ー」、第八章上野晶子「江戸幕府の編纂事業における『厚生新編』と蘭学の「公学」化」、第九章勝盛典子「蘭学と美術ー北山寒厳・馬場良の事績と舶載の世界地図をめぐってー」では、京都の蘭学者辻蘭室にみる蘭学の浸透や、蘭学の幕府「公学」化、美術への影響を述べた。◆最後に編者は、下巻へのいざないとして、上巻が人をとおしての日蘭関係を描いたが、下巻はモノをとおしての日蘭関係を描くとした。じつに興味深い論考ばかりであり、時間をかけてよみとくことにしたい。

  


除痘館記録を読み解く

2015年07月25日

 洋学 at 07:59  | Comments(0) | 書評
◆緒方洪庵記念財団除痘館記念資料室編『緒方洪庵の「除痘館」記録を読み解く』(緒方洪庵記念財団除痘館記念資料室、思文閣出版、2015年6月10日、2300円)が出ました。第一部が「除痘館記録」を読むで、影印や現代語訳、解説があります。第二部に天然痘対策と除痘館活動として米田該典「天然痘との闘い」浅井允晶「緒方洪庵と「除痘館記録」の解説があります。第二部は大阪の除痘館の成立と展開として、米田該典「モーニッケ苗の伝来と展開」、浅井允晶「大阪の除痘館の記録」、古西善麿「大阪の除痘館の活動と官許」、古西善麿「尼崎町除痘館の創成と展開」、第三章牛痘種痘法の意義と役割として加藤四郎「エドワード・ジェンナーによる牛痘種痘法の開発」、加藤四郎「天然痘対策の今日的意義」、巻末に天然痘と大阪の除痘館関係年表を載せています。◆『除痘館記録』を影印本にし、現代語訳をつけていることにより、除痘館での種痘普及の努力と工夫にたいする理解を深めることができます。各論文も実証的で的確です。加藤四郎氏は、こうした種痘普及活動の今日的意義を予防医学の先駆と評価しており、同意できます。◆ただ、アンジャネッタ『種痘伝来』を参考文献にあげているのに、モーニッケ苗の我が国伝来日を正確に書かずに、旧来の説である嘉永2年6月ととどめているのは残念で、伝来日を6月23日と書いてよかったと考えます。おそらく種痘接種日が、楢林宗建の記録などには7月17日とあるので、日の特定に迷っているのだと思いますが、種痘接種日は伝来から3日後の6月26日でよいと考えています。◆今後の展開として、古西氏の尼崎除痘館の創成と展開にみられるように、大阪除痘館を基点とした除痘館活動、種痘普及活動がより解明されていくことが望まれます。たとえば、土佐の種痘は、緒方洪庵に学んだ門人らにより伝えられ、洪庵の義弟緒方郁蔵の門人84人中土佐出身者が26人おり、彼らの種痘活動もどのように進められていったか、より詳細に調査することで、種痘をきっかけに在村蘭学の広がりを図示することができると考えます。◆なお、隣の伊予宇和島では、江戸の伊東玄朴から送られた痘苗と道具により玄朴門人富沢礼中により進められました。このとき高野長英は伊予にいました。玄朴門人であった富沢礼中が高野長英を伴って伊予宇和島に戻っていたのです。四国でもさまざまなルートによって、種痘が村の中まで広がっていったのです。こうしたルートの解明もまた今後の課題です。
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「近世化」論と日本

2015年07月07日

 洋学 at 13:17  | Comments(0) | 書評

◆『「近世化」論と日本』(勉誠出版、2015年6月25日、2800円)が出た。本書は、約10年前ころからの歴史学研究会において、近代化論があるのになぜ近世化論がないのか、東アジアの近世と日本の近世とはどうリンクするのか、しないのか等の議論と問題意識から、2012年の歴史学研究会部会合同シンポジウム「近世化論と日本ー東アジアの捉え方をめぐって」での発表がもとになっての論考集である。
◆編者清水光明氏によれば、「東アジア近世」論や「近世化」論とはなにかを把握するために、第Ⅰ部は「近世化」論における日本の位置づけを、小農社会、新興軍事政権、朱子学理念から考えるとし、第Ⅱ部は、「「東アジア」の捉え方」と題し、対外関係史や比較史研究によって捉え直し、第Ⅲ部は、「近世史研究から「近代」概念を問い直す」として史学史や時代区分、規範等の観点から「近代」概念を問い直そうとしているとした。
◆Ⅰ部には牧原成征「日本の「近世化」を考える、杉山清彦「二つの新興軍事政権ー大清帝国と徳川幕府」、岸本美緒「「近世化」論における中国の位置づけ」(コラム)、綱川歩美「十八世紀後半の社倉法と政治意識ー高鍋藩儒・千手廉斎の思想と行動」、清水光明「科挙と察挙ー「東アジア近世」における人材登用制度の模索」、朴薫「東アジア政治史における幕末維新政治史と”’士大夫的政治文化’の挑戦」、道家真平「「明治百年祭」と「近代化論」」(コラム)などを掲載している。
◆Ⅱ部には、清水有子「織田信長の対南蛮交渉と世界観の転換」、木崎孝嘉「ヨーロッパの東アジア認識ー修道会報告の出版背景」、吉村雅美「イギリス商人のみた日本のカトリック勢力ーリチャード・コックスの日記から」、根占献一「ヨーロッパ史からみたキリシタン史ールネッサンスとの関連のもとに」(コラム)、屋良健一郎「近世琉球の日本文化受容」、井上智勝「近世日越国家祭祀比較考ー中華帝国の東縁から南縁から「近世化」を考える。藍弘岳「「古文辞学」と東アジアー荻生徂徠の清朝中国と朝鮮に対する認識をめぐって」(コラム)、岡崎礼奈「「アジア学」資料の宝庫、東洋文庫九十年の歩み」(博物館紹介)などから、東アジアと日本を捉え直している。
◆第Ⅲ部には、宮嶋博史「儒教的近代と日本史研究」、三ツ松誠「「近世化」論から見た尾藤正英ー「封建制」概念の克服から二時代区分論へ」、中野弘喜「歴史叙述から見た東アジア近世・近代」(コラム)、古谷創「清末知識人の歴史観と公羊学ー康有為と蘇輿を中心に」、佐々木紳「オスマン帝国の歴史と近世」(コラム)、高津秀之「ヨーロッパ近世都市における「個人」の発展」、三谷博「東アジア国際秩序の劇変ー「日本の世紀」から「中国の世紀」へ」(コラム)が掲載され、東アジアの近世・近代をさまざまに論じている。
◆再び編者の解説にもどると、「近世化」論は従来の古代・中世・近世・近代の4段階区分論にのって、そのなかでいつから近世が始まったのかという議論から開始され、東アジアのなかでどのような位置づけにあるかという比較史的検討が開始され、「近世化」の指標や時期設定についての研究が開始されたのであるとし、さまざまな角度からの指標や説明モデルの提示によって、議論や相互批判を活性化することになるのだろうということで、本書ではそれぞれの近世化とはなにか、東アジアにおける日本の近世の意味とは何かの論が出され、統一的な見解は出されていない。
◆このように多様な論者によって様々な角度から、日本「近世化」論が語られている。編者によれば、どこか気がついたところから読んでいただければという。佐賀大学地域学歴史文化研究センター講師の三ツ松氏による尾藤正英氏と宮嶋博史氏の論は表裏一体であるという指摘が印象的であった。本書は21人もの多様な分野の執筆からなり、それぞれの「近世化」論や東アジアの近世論が語られていて、統一的見解がないので、百家争鳴の迷路にはいったような気持ちにもなり、ハードであるが、本書全体を時間があるときにじっくり読んでみたい。
◆補筆をしておくと、医学史の分野では、真柳誠(茨城大学)・肖永志(中国中医科学院)両氏による「漢字文化圏古医籍の定量的比較研究ー各国伝統医学が共有可能な歴史観の確立」http://www.jfe-21st-cf.or.jp/jpn/hokoku_pdf_2008/asia08.pdf…'
(JFE21世紀財団報告書、pp67~78)が、本書の各論部分を適切に構成することになろう。関心のある方はあわせて読むことをおすすめする。真柳誠「日韓越の医学と中国医書 」(日本医史学雑誌 56巻2号. 151-159 、2010)などの同氏の漢字文化圏における医学史研究の成果と視点は、我が国近世医学史研究において最も重要な指標の一つになるだろうと考えている。また近年においては町泉寿郎(二松学舎大学)氏の一連の研究(たとえば科研「漢籍抄物を中心とした中世末期~近世初期の学術的展開に関する基礎的研究 」2010~2013など)も重要である。
◆医学史の分野からは本草学研究についても重要な視点を提供することになる。その意味では、ミヒェル・ヴォルフガング氏の近年の本草学研究も西洋だけでなく中医学史・近世医学史に、新鮮な視点を提供してくれるだろう。
◆このように、各研究分野での指標を出しあい、比較しあうことは「近世化」論争においては、それなりに多様な議論をもたらし、「近世」を再吟味する意味を豊かにすることになろう。が、あえて時代区分についての感想をのべれば、やはり日本では、社会構造の変化を基底にすえた原始・古代・中世・近世・近代(現代)という時代区分論が今のところ最も整合性のあるように考えてはいる。  


書評『種痘伝来』

2015年06月27日

 洋学 at 11:43  | Comments(0) | 書評
日本歴史』7月号が届いた。約1年以上前に書いた『種痘伝来』の書評がようやく掲載されているので、紹介する(一部書き加えてある)。

アン・ジャネッタ著、廣川和花/木曾明子訳『種痘伝来』
                           青木歳幸
 本書は、著者によれば「種痘を支持・支援するためのネットワークを構築した日本の医師と学者の献身的な活動と、その宿願達成の軌跡を跡づけたもの」(日本語版によせてⅴ頁)である。
序章では、中国人とオランダ商人が長崎で交易を行う排外政策(鎖国政策)をとっていた江戸時代の特質に触れ、ペリー来航以前のジェンナー牛痘法普及というさほど劇的ではない「開国」を蘭方医のネットワークを通して検証している。
 第一章「天然痘に立ち向かう」では、人痘の痘痂粉末を鼻孔に吹き入れる中国式人痘種痘法の中国への広がりと、腕に傷をつけて人痘漿を接種するトルコ式人痘種痘法のイギリスへの伝播、つまり1721年にイギリスで実施されたモンタギュー夫人の娘への実験成功などを検証している。また中国式人痘法由来の秋月藩緒方春朔の種痘活動を紹介している。
 第二章「ジェンナーの牛痘ワクチン」では、イギリスのジェンナーによる牛痘種痘法の公表と情報発信活動により、牛痘ワクチンが1798年から5年以内に世界各地へ広がった経過を伝えている。なかでもスペインから中南米、フィリピン、マカオ、広東へ伝えたパルミス医師や、東南アジアとくにバタヴイアへ伝えたラボルデ医師の普及活動が詳述され、興味深い。
 第三章「周縁を取り込む」では、ロシアから中川五郎治がもたらした牛痘書を、幕府天文方通詞馬場佐十郎が『遁花秘訣』(1820年脱稿)として翻訳するなどの活動を中心に叙述している。
 第四章「オランダとのつながりーバタヴィア、長崎、江戸」では、イギリス占領下のオランダ領東インド諸島でのラッフルズ卿による組織的な牛痘種痘普及活動が、同諸島に根付いたことを検証し、オランダ商館長ブロムホフが1820年から毎年痘苗導入を試みている新事実を明らかにした意義は大きい。シーボルトの牛痘接種の試みは失敗したが、シーボルト離日後、江戸での宇田川家の翻訳書刊行や各地のシーボルト流蘭方医らの水平的ネットワークの形成により、19世紀初頭の数十年間に、西洋医学・学術への内的障壁が取り除かれていく過程を描いている。
 第五章「ネットワークを構築するー蘭方医たち」では、牛痘を導入するために尽力した蘭方医として日野鼎哉、伊東玄朴、大槻俊斎、佐藤泰然、緒方洪庵、桑田立斎、笠原白翁ら七人の医家の医療活動を牛痘導入のネットワークの視点から紹介している。
 第六章「種痘医たち」では、1849年(嘉永2年)、長崎に来した牛痘ワクチンを佐賀、京都、江戸など日本各地へ伝播させるために、楢林宗建ら蘭方医たちが、それまでに築き上げていたネットワークを活用して、種痘技術を向上させ、啓蒙書を出して大衆を説き伏せて急速に伝播させたその努力と活動を追跡した。
 第七章「中央を取り込む」では、伊東玄朴ら日本の種痘医らが1858年にお玉が池種痘所を設立し、徳川幕府を取り込んでいったことが、東京大学医学部に至る日本における近代医学と大学制度整備に直接つながったことを描いた。
 以上が本書の概要であるが、村田路人・廣川和花氏が、本書の意義を巻末解説で次の四点にまとめている。その第一は日本の牛痘種痘史をグローバルな観点から世界の牛痘種痘史のなかに位置づけたこと、第二は、近世日本の医家ネットワークの重要性を再認識させたこと、第三は新たな史料を活用し、日本牛痘種痘史に新しい事実を付け加えたこと、第四は、近世日本の学術において「翻訳」の果たした役割を見直し、これを位置づけ直したことをあげており、これらはすでに的確な書評となっているので、本稿では医学史研究上の成果に絞って書評する。 
 本書の医学史研究上の最大の成果は、我が国への牛痘苗伝来日が、1849年8月11日(嘉永2年6月23日)であり、楢林宗建の子建三郎ら三児への接種日がその三日後の8月14日(6月26日)であったと特定したことと考えている。
 じつは、我が国種痘伝来における重要なこの両日が本書刊行まで特定できていなかった。主な研究書をひもといても、富士川游『日本医学史』(1942年)には「翌嘉永二年七月入港ノ蘭船ニテ牛痘痂モーニッケノ許ニ達セリ、由リテ之ヲ三名ノ児ニ種痘セシニ、二児ハ感ゼザリシモ、一児ハ感受シテ善良ノ痘ヲ発セリ」とあり、嘉永2年7月の伝来とし、種痘実施日も不明であった。古賀十二郎『西洋医術伝来史』(1942年)・添川正夫『日本痘病史序説』(1987年)・深瀬泰旦『天然痘根絶史』(2002年)はいずれも嘉永2年6月伝来としたが、伝来日を特定していない。
 種痘実施日については、じつは諸研究書でも記述が少なく、渡辺庫輔『崎陽論攷』(1964年)が6月23日とし、深瀬泰旦『我が国はじめての牛痘種痘』(2006年)では、7月7日、17日、19日説と古賀十二郎の6月下旬説を紹介したが、特定にはいたっていない。
 この混乱の理由解明と検証は、本書評の紙数を超えるので、別稿を用意する予定だが、評者はオランダ商館日記や、長崎奉行所の記録、柴田方庵の『日録』などの調査により、著者の記述が正しいことを裏付けており、本書のこの記述を高く評価している。
 一方で、本書は、牛痘伝来後の日本各地への伝播の様相については、主に『洋学史事典』(1984年)、『天然痘ゼロへの道』(1983年)など約30年前の研究に依拠した面が多々あるため、その後進展した研究成果が反映されていない問題がある。
 たとえば、緒方春朔の人痘法は中国式鼻孔吹入法を改良した鼻孔吸入法であったことに触れていない(青木歳幸「種痘法普及にみる在来知」佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要、第7号、2013など参照)。また春朔式人痘法が「彼のいた藩以外にはほとんど影響を与えなかったようである」(26頁)とあるが、春朔の門人が江戸も含めて六九人余もおり(富田英壽『種痘の祖緒方春朔』西日本新聞社、2005)、大村藩医長与俊民ら三人が春朔に入門し、技術習得後、大村藩で春朔式人痘法を実施しているし、江戸の司馬江漢も「緒方氏ハ六百人をためしぬ」(『種痘伝法』)と記し、シーボルトや華岡青洲門人の本間棗軒も「(人痘種痘で)高名なるは肥前大村の吉岡英伯・長与(俊)春達、筑前秋月の緒方春朔、武州忍の河津隆碩、江戸近村木下川の庄屋次郎兵衛なり」(『種痘活人十人弁』)として春朔の高名を讃えているし、かの緒方洪庵ですら春朔式人痘法を実施(結果は失敗)しており(青木歳幸前掲論文、2013)、春朔式人痘法はかなりの影響を与えていた。
 また日本での人痘法には、春朔式鼻吸入人痘法だけでなく腕種人痘法がじつは蘭方医によってかなり広範に実施され、伊東玄朴も大槻磐渓娘や前宇和島藩主娘に実施し(青木歳幸『伊東玄朴』2014)、本間棗軒も、自家の子女のみならず近在の小児ら六〇〇人に(腕種)人痘種痘を行ったと述べている(『種痘活人十全弁』)。牛痘法普及の前提として人痘法の影響は大きいと考えられ、とくに腕種人痘法の普及が牛痘法普及に直接結びつくと考えているが、その実態解明は進んでいない。
 著者は、佐賀藩主鍋島直正が侍医大石良英を長崎に派遣し、良英が「楢林宗建の長男永吉を伴って佐賀に戻った」(150頁)としているが、じつは佐賀城下に牛痘と種痘児をもたらしたのは良英でなく、楢林宗建が長男でない種痘児を伴って8月6日に佐賀城下へ到着し、翌日に藩医の子へ種痘を実施している(青木歳幸『伊東玄朴』2014)のであり、事実ではない。藩医の子に植えられた痘苗が約一週間ずつの接種→発痘→採取→接種のサイクルを二サイクル経て後に藩主の子に接種され、それが江戸にもたらされ、江戸のお玉が池種痘所につながったのである。
 国内での種痘伝播研究は、かようにまだ十分ではない。だからこそ、本書を手にした国内研究者と著者のようなすぐれた海外研究者との研究ネットワークによって、医学史研究の新たな進展が生まれよう。
[あおきとしゆき 佐賀大学地域学歴史文化研究センター特命教授]
[A5判、254ページ、4320円、岩波書店、2013・12刊]