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鹿島の被爆者治療について(1)

2015年06月30日

 洋学 at 09:43  | Comments(0) | 医学史 | 戦後史
鹿島小学校の昭和20年8月9日からの校務日誌です。
昭和20年8月9日に、空襲警報が出て、児童を正午頃に帰宅させています。その後の情報によれば、長崎に新型爆弾が落とされたことが記されています。8月11日、白川養護婦と九布白校医が長崎に救護のため向かいました。8月12日、長崎における負傷者60名が夕方鹿島小学校に到着しました。重症患者は立教作法室に、軽症患者は講堂に収容しました。
その後治療をうけていた患者たちはすべて8月31日に退去させられています。
小学校の授業が始まるからです。校務日誌には、出来事が事務的に語られていますが、この患者たちはどのように治療をうけたのでしょうか。じつは多くの方がなくなっています。そのことについてはまた後で記すことにします。
この校務日誌は、佐賀県教育史第3巻に掲載されています。なくなられた生馬寛信先生のお仕事です。おかげで、こういう事実が後世に残りました。


昭和二十年八月九日
一 空襲警報発令ニ付、児童ハ正午頃帰宅セシム、
 情報ニヨレバ長崎・大村地区ニ新型爆弾投下中ニ
 付、同地区全員待避セヨトアリ、
昭和二十年八月十一日
一白川養護婦、長埼市へ出発ス、
 昨日ノ同市二於ケル戦災ニヨル負傷者救護ノ為、
 久布白校医卜共ニ出張ス、
昭和二十年八月十二日
一長崎二於ケル負傷者、午前五時過着校予定ナリシ
モ、午后一時ニ至ルモ見エズ、職員ハ当直員ヲ除
キ一応帰宅ス、夕方約六十名来校ス、
長崎ノ負傷者ヲ講堂二収容スルコト
 ヲ以テ準備ヲナス、
 重症患者ハ立教作法室ニ、
 軽症患者ハ講堂二収容セラル、
昭和二十年八月十二日
一来訪者 能古見陸軍病院下士官二名、前山町長・
 田中助役、萩原・大坪両歯科医
 右何レモ長崎市ヨリ来校中ノ負傷者取扱二関ス
 ル用件ノ為、
昭和二十年八月三十一日
一長崎市戦災者救獲ノタメ使用シタル敷莚ノ数量
 ニツキ、事務所ヨリ間合セアリ、
  「総数八十六枚」
一長崎市戦災者患者全部退去ス、
昭和二十年九月一日
一 長崎市戦災患者昨日退去二付、右収容二当テタル
 左記ノ室ハ役場員求校、大消毒ヲ実施セリ、
 講堂、理科室、東便所
(『佐賀県教育史』第3巻)  


書評『種痘伝来』

2015年06月27日

 洋学 at 11:43  | Comments(0) | 医学史 | 書評
日本歴史』7月号が届いた。約1年以上前に書いた『種痘伝来』の書評がようやく掲載されているので、紹介する(一部書き加えてある)。

アン・ジャネッタ著、廣川和花/木曾明子訳『種痘伝来』
                           青木歳幸
 本書は、著者によれば「種痘を支持・支援するためのネットワークを構築した日本の医師と学者の献身的な活動と、その宿願達成の軌跡を跡づけたもの」(日本語版によせてⅴ頁)である。
序章では、中国人とオランダ商人が長崎で交易を行う排外政策(鎖国政策)をとっていた江戸時代の特質に触れ、ペリー来航以前のジェンナー牛痘法普及というさほど劇的ではない「開国」を蘭方医のネットワークを通して検証している。
 第一章「天然痘に立ち向かう」では、人痘の痘痂粉末を鼻孔に吹き入れる中国式人痘種痘法の中国への広がりと、腕に傷をつけて人痘漿を接種するトルコ式人痘種痘法のイギリスへの伝播、つまり1721年にイギリスで実施されたモンタギュー夫人の娘への実験成功などを検証している。また中国式人痘法由来の秋月藩緒方春朔の種痘活動を紹介している。
 第二章「ジェンナーの牛痘ワクチン」では、イギリスのジェンナーによる牛痘種痘法の公表と情報発信活動により、牛痘ワクチンが1798年から5年以内に世界各地へ広がった経過を伝えている。なかでもスペインから中南米、フィリピン、マカオ、広東へ伝えたパルミス医師や、東南アジアとくにバタヴイアへ伝えたラボルデ医師の普及活動が詳述され、興味深い。
 第三章「周縁を取り込む」では、ロシアから中川五郎治がもたらした牛痘書を、幕府天文方通詞馬場佐十郎が『遁花秘訣』(1820年脱稿)として翻訳するなどの活動を中心に叙述している。
 第四章「オランダとのつながりーバタヴィア、長崎、江戸」では、イギリス占領下のオランダ領東インド諸島でのラッフルズ卿による組織的な牛痘種痘普及活動が、同諸島に根付いたことを検証し、オランダ商館長ブロムホフが1820年から毎年痘苗導入を試みている新事実を明らかにした意義は大きい。シーボルトの牛痘接種の試みは失敗したが、シーボルト離日後、江戸での宇田川家の翻訳書刊行や各地のシーボルト流蘭方医らの水平的ネットワークの形成により、19世紀初頭の数十年間に、西洋医学・学術への内的障壁が取り除かれていく過程を描いている。
 第五章「ネットワークを構築するー蘭方医たち」では、牛痘を導入するために尽力した蘭方医として日野鼎哉、伊東玄朴、大槻俊斎、佐藤泰然、緒方洪庵、桑田立斎、笠原白翁ら七人の医家の医療活動を牛痘導入のネットワークの視点から紹介している。
 第六章「種痘医たち」では、1849年(嘉永2年)、長崎に来した牛痘ワクチンを佐賀、京都、江戸など日本各地へ伝播させるために、楢林宗建ら蘭方医たちが、それまでに築き上げていたネットワークを活用して、種痘技術を向上させ、啓蒙書を出して大衆を説き伏せて急速に伝播させたその努力と活動を追跡した。
 第七章「中央を取り込む」では、伊東玄朴ら日本の種痘医らが1858年にお玉が池種痘所を設立し、徳川幕府を取り込んでいったことが、東京大学医学部に至る日本における近代医学と大学制度整備に直接つながったことを描いた。
 以上が本書の概要であるが、村田路人・廣川和花氏が、本書の意義を巻末解説で次の四点にまとめている。その第一は日本の牛痘種痘史をグローバルな観点から世界の牛痘種痘史のなかに位置づけたこと、第二は、近世日本の医家ネットワークの重要性を再認識させたこと、第三は新たな史料を活用し、日本牛痘種痘史に新しい事実を付け加えたこと、第四は、近世日本の学術において「翻訳」の果たした役割を見直し、これを位置づけ直したことをあげており、これらはすでに的確な書評となっているので、本稿では医学史研究上の成果に絞って書評する。 
 本書の医学史研究上の最大の成果は、我が国への牛痘苗伝来日が、1849年8月11日(嘉永2年6月23日)であり、楢林宗建の子建三郎ら三児への接種日がその三日後の8月14日(6月26日)であったと特定したことと考えている。
 じつは、我が国種痘伝来における重要なこの両日が本書刊行まで特定できていなかった。主な研究書をひもといても、富士川游『日本医学史』(1942年)には「翌嘉永二年七月入港ノ蘭船ニテ牛痘痂モーニッケノ許ニ達セリ、由リテ之ヲ三名ノ児ニ種痘セシニ、二児ハ感ゼザリシモ、一児ハ感受シテ善良ノ痘ヲ発セリ」とあり、嘉永2年7月の伝来とし、種痘実施日も不明であった。古賀十二郎『西洋医術伝来史』(1942年)・添川正夫『日本痘病史序説』(1987年)・深瀬泰旦『天然痘根絶史』(2002年)はいずれも嘉永2年6月伝来としたが、伝来日を特定していない。
 種痘実施日については、じつは諸研究書でも記述が少なく、渡辺庫輔『崎陽論攷』(1964年)が6月23日とし、深瀬泰旦『我が国はじめての牛痘種痘』(2006年)では、7月7日、17日、19日説と古賀十二郎の6月下旬説を紹介したが、特定にはいたっていない。
 この混乱の理由解明と検証は、本書評の紙数を超えるので、別稿を用意する予定だが、評者はオランダ商館日記や、長崎奉行所の記録、柴田方庵の『日録』などの調査により、著者の記述が正しいことを裏付けており、本書のこの記述を高く評価している。
 一方で、本書は、牛痘伝来後の日本各地への伝播の様相については、主に『洋学史事典』(1984年)、『天然痘ゼロへの道』(1983年)など約30年前の研究に依拠した面が多々あるため、その後進展した研究成果が反映されていない問題がある。
 たとえば、緒方春朔の人痘法は中国式鼻孔吹入法を改良した鼻孔吸入法であったことに触れていない(青木歳幸「種痘法普及にみる在来知」佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要、第7号、2013など参照)。また春朔式人痘法が「彼のいた藩以外にはほとんど影響を与えなかったようである」(26頁)とあるが、春朔の門人が江戸も含めて六九人余もおり(富田英壽『種痘の祖緒方春朔』西日本新聞社、2005)、大村藩医長与俊民ら三人が春朔に入門し、技術習得後、大村藩で春朔式人痘法を実施しているし、江戸の司馬江漢も「緒方氏ハ六百人をためしぬ」(『種痘伝法』)と記し、シーボルトや華岡青洲門人の本間棗軒も「(人痘種痘で)高名なるは肥前大村の吉岡英伯・長与(俊)春達、筑前秋月の緒方春朔、武州忍の河津隆碩、江戸近村木下川の庄屋次郎兵衛なり」(『種痘活人十人弁』)として春朔の高名を讃えているし、かの緒方洪庵ですら春朔式人痘法を実施(結果は失敗)しており(青木歳幸前掲論文、2013)、春朔式人痘法はかなりの影響を与えていた。
 また日本での人痘法には、春朔式鼻吸入人痘法だけでなく腕種人痘法がじつは蘭方医によってかなり広範に実施され、伊東玄朴も大槻磐渓娘や前宇和島藩主娘に実施し(青木歳幸『伊東玄朴』2014)、本間棗軒も、自家の子女のみならず近在の小児ら六〇〇人に(腕種)人痘種痘を行ったと述べている(『種痘活人十全弁』)。牛痘法普及の前提として人痘法の影響は大きいと考えられ、とくに腕種人痘法の普及が牛痘法普及に直接結びつくと考えているが、その実態解明は進んでいない。
 著者は、佐賀藩主鍋島直正が侍医大石良英を長崎に派遣し、良英が「楢林宗建の長男永吉を伴って佐賀に戻った」(150頁)としているが、じつは佐賀城下に牛痘と種痘児をもたらしたのは良英でなく、楢林宗建が長男でない種痘児を伴って8月6日に佐賀城下へ到着し、翌日に藩医の子へ種痘を実施している(青木歳幸『伊東玄朴』2014)のであり、事実ではない。藩医の子に植えられた痘苗が約一週間ずつの接種→発痘→採取→接種のサイクルを二サイクル経て後に藩主の子に接種され、それが江戸にもたらされ、江戸のお玉が池種痘所につながったのである。
 国内での種痘伝播研究は、かようにまだ十分ではない。だからこそ、本書を手にした国内研究者と著者のようなすぐれた海外研究者との研究ネットワークによって、医学史研究の新たな進展が生まれよう。
[あおきとしゆき 佐賀大学地域学歴史文化研究センター特命教授]
[A5判、254ページ、4320円、岩波書店、2013・12刊]
  


吉田伸之『地域史の方法と実践』

2015年06月27日

 洋学 at 00:29  | Comments(0) | 書評 | 地域史 | 日本史
◆吉田伸之氏の『地域史の方法と実践』(校倉書房、2015年6月30日、6000円・税別)をいただいた。恐縮である。吉田氏は江戸をフィールドとしての都市史研究の第一人者であるが、一方で、信州飯田の飯田市歴史研究所の所長をも勤めておられる。本書は、主に後者の立場から得た地域史研究の論考を集成したものである。
◆Ⅰ部が地域史の方法、Ⅱ部が地域史の実践という構成になっている。私はとくにⅠ部第二章地域把握の方法にみえる地域史研究への提言に共感した。ここでは、地域把握の方法として三つの視点を提起している。一つは前近代における地域を歴史的・限定的に捉えるという視点、第二は、地域を社会レベルにおける第一次的な総括・統合主体=ヘゲモニー主体によって形成される社会=空間構造との関連で捉えるという方法(視点)、第三にこうした地域を歴史的に、いわば地域の「発展」段階として把握し、n地域をその帰結あるいは到達点として位置づけるという視点である。
◆n地域というのは、板垣雄三氏によって唱えられた地域概念で、簡単にいえばn人にとってn人分の地域概念があるということと理解している。たとえば満州移民にとっての地域は出身地だけでなく満州であり、帰国してからの居住地といえるようにn人分の地域があるという概念といえよう。
◆しかし、吉田氏はこのn地域論は、一方で地域概念を融通無碍な不可知論に陥らせるとして、第三章において単位地域概念を提起している。吉田氏の提起する単位地域とは、小学校区程度の規模の自治区域とする。その単位地域を地域史研究の最小単位としてその歴史を追究することが地域史研究であるとしている。
◆第五章で岡田知弘氏報告「現代日本の地域再生を考える」(『部落問題研究』197輯、2011)に対するコメントで、岡田氏の地域概念は、「本源的には、社会的動物としての人間の生活領域」とするが、より歴史的に深く捉えるべきだと主張する。さらに近世史研究における地域社会論の立場から、小野将「新自由主義時代の日本近世史研究」(『歴史科学』200,2010)氏や松沢祐作『明治地方自治体制の起源』(東京大学出版会、2009)による、吉田氏らの地域社会論批判についてもコメントしているが、ここでは省略する。
◆吉田氏は、飯田市歴史研究所、とくに近世から現代にかけての単一村であった清内路村の研究を通じて、単位地域論の有効性を確認されている。以下、第Ⅱ部での実践報告や、書評などからなっている。
◆本書は地域史研究書であるので、一般読者には読解に困難をともなうが、地域とはなにか、地域史研究は何をあきらかにする学問かなどを考えるうえで多くの提示があり、示唆に富む書である。
  


医師免状は無試験で授与された?

2015年06月26日

 洋学 at 18:57  | Comments(0) | 医学史
諫早領医師への医師免状授与の場合
諫早日記から免札授与に関する記事を抄出する。
(1)安政二年四月九日記事
一左之通り手覚田中弥右衛門持ち出し弘道館へ之を相達し候事
   手 覚
 家来山本弁英其の外明十日(安政二年四月)御免札被相渡候付、
医学寮可罷出旨達之趣承知仕、則在所江申越候処、左ニ
 山本弁英 山本文亭 酒井文札 藤田寛逸
諌早大衛被宮 嶋田静軒 古川文策
家来寺田繁之尉被官 久冨玄碩
   郷医 雄仙   町医 謙造
右者此の節罷り登り候
     武冨文碩 岡村文意
右者当病二而登り相叶わず候
右之通り御座候此の段御達し仕り候以上
四月九日 益千代内 杉野助右衛門

光増治兵衛殿、野口廣一郎殿、梮野 新蔵殿

 明日(安政2年4月10日)に医道開業の免札を渡すので、山本弁英外11名は、医学寮に罷り出るようにとの通知があった。これを『医業免札姓名簿』で照合すると、安政2年4月10日の記事に、山本弁英、山本文亭、酒井文札、藤田寛逸、嶋田静軒、古川文索、久富玄碩、雄仙、謙造の9人に免状を与えた記録がでている。が、武富文碩と岡村文意は掲載されておらず、病気を理由に、佐賀へ来られなかったのはたしかなようである。
つづいて『諫早日記』をみると、安政2年5月18日の記事には、「武冨文碩其外左之人々来ル廿一日、免札被相渡候ニ付、医学寮罷出候様、左之通、以達帳、被相達候段申達候ニ付、御耳ニ達其計相成候様諌早申越候事」として、1)益千代殿家来武富
文碩、2)同岡村文意、3)同大坪謙吾、4)同家来・寺田繁之尉被官久富如菴、5)   右同家来・諫早宮内被官柴田規方、6)同本村耕作、7)同家来・早田喜左衛門被官大久保良敷、8)右同家来・諫早大衛被宮古川立岱、9)右同家来・喜多太左衛門被官岩松道省、10)久山村長英、11)同所堅牢、12)戸石村道策、13)諫早立悦、14)右同文策、15)長里村元碩、16)諫早栄軒、17)同立悦、18)多良村元陸、19)大草村仙庵、卯五月 弘道館
弘道館から御用があり、渋谷寛平が聞き次として罷り出たところ、前回病欠した武冨文碩と岡村文意らあわせて、19名に医業免札を渡すので医学寮に出席するようにとの申し達しが出た。安政2年段階では弘道館からの呼び出しであった。
 では、武富文碩と岡村文意はいつ免札をもらったことになっているか。『医業免札姓名簿』をみると、安政二年九月十日の記事に、「安政二年卯四月内科●武冨文碩 西岡春益門人益千代殿家来、二拾五歳」、安政二年六月十日の記事に「安政二年卯四月内科●岡村文意 野口良陽門人益千代殿家来、二十八歳」とあり、いずれも、後で追記されていた。
 これらの記事から、安政2年段階に諫早領医師へは、無試験で医師免状を与えていたことがわかる。医業免札制度の本来の趣旨は、医業は命にかかわる大切な業だから未熟のうちは免状を与えず、熟達したら免状を与えるというものであった。しかし、『諫早日記』での免状給付をみると、無試験で与えているとみざるをえない。おそらくこのことは諫早領に限ったことではないように思える。やはり、医師の国家資格試験制度の徹底した導入には、本藩以外では、かなり抵抗があり、やむなく暫定的に、開業医には無試験でも免状を与えたのではないだろうか。まずは領内の全医師の把握を優先したのかもしれない。
 では、すべてこのように試験なしで開業医免許を与えていたのだろうかという疑問が出るが、じつはそうではなく、やはり試験をやって、学力をみてから合格者に対して免状を与えていたことも判明した。そのことは次号で。  


天明5年の佐賀藩医学教育

2015年06月26日

 洋学 at 08:33  | Comments(0)
地域学歴史文化研究センターの伊藤さんから、佐賀藩鍋島家文書中の医学教育の資料を提供していただいた。写真がいまアップロードできないのであとで掲載するが、天明5年(1785)段階で佐賀藩が藩医だけでなく、町医・郷医(村医)らへの医学教育を開始していたことがわかる貴重な資料といえる。
写真はPDFファイルなのでここにはアップできませんと出ました。しかたないので古文書を解読してみる。(書き下し文に修正してあります)
今般医術お取り立て仰せ付けられ候につき、向こう二月朔日、弘道館において御直医師・諸家医師・町医・郷医迄集会仕り、御達しの御儀、会業の儀、申し談じられ儀の条、右日限、何れも弘道館出席これあり候様、筋々、懇ろ(ねんごろ)に相達せられるべく旨に候哉、
           請役付き官人
午正月十六日
組扱中
お蔵方


つまり、天明5年2月1日に弘道館に藩医だけでなく町医や郷医まで集めて会業(医学教育に関するものだろう)を行うというものです。
この4年前の天明元年(1781)に、佐賀藩第8代藩主鍋島治茂が古賀精里(儒学者)に命じ、佐賀城に近い松原小路に藩校「弘道館」を設立しています。設立にあたり、鍋島治茂は石井鶴山(儒学者)を熊本藩に派遣し、熊本藩の藩校「時習館」をモデルとしたのです。熊本藩の改革の成功は、藩校による人材育成にあることを学んだ、鶴山らの提言をうけ、弘道館を人材育成の拠点としたのでした。古賀精里は弘道館の初代校長格、石井鶴山は教頭格となって、医師に対しても、医師養成の拠点として弘道館を位置づけることをはじめたのです。
  


横田冬彦編『読書と読者』

2015年06月09日

 洋学 at 09:13  | Comments(0) | 書評 | 文化史 | 地域史
◆横田冬彦編『読書と読者』(平凡社、2800円・税別、2015年5月25日刊)が出た。人はなぜ読書をするのか、「より多くの実りを求め、信心のよすがに、新しい交流のため、また家の維持や地域の安寧のため、命を救うため、暮らしをささえる知や経験のために、この国で、男や女やさまざまな業を営む人々が書籍に向かい読者となった時代、そのありようを多角的に描く」と帯にある。
◆編者がまえがきで述べているのは書籍の意味の問い直しと、書籍文化のゆくすえであるとする。「インターネットや電子出版の急速な普及により、紙媒体の書籍がなくなるのではないか、書籍の時代は終わりつつあるという危機感を多くの人たちがもつに至っている。こうした時代を生きている私たちは、書籍が時代のなかで担ってきた歴史的役割を明らかにして、人々にとって紙の本を読むことが大きな意義をもった書籍の時代とはなんだったか、あらためてふりかえってみる必要があろう」と、本書の編纂の意図を述べている。
◆だから、江戸時代を舞台に公家と蔵書、武家役人と狂歌サークル、村役人と編纂物、在村医の形成と書物、農書と農民、仏書と僧侶・信徒、近世後期女性の読書と蔵書について、地域イメージの定着と日用教養書、明治期家相見の活動と家相書など、僧侶、農民、公家・武士、寺子屋師匠、在村医、女性などが、書籍を必要としてきた理由を論文としてまとめている。
◆山中浩之「在村医の形成と読書」は、八尾田中家弥性圓の蔵書調査と意義の研究である。田中家が代々の蔵書の形成を通して医療知識を蓄積し、医療活動を営んできたこと、いわば書籍が医者を形成してきたことを明らかにしている。
◆戦前に、百姓の研究をしようとした中村吉治という東大学生がいた。平泉澄という皇国史観の学者に相談したところ、豚に歴史がないように百姓に歴史はないと一喝された(中村吉治「農民史探求と社会史」『歴史評論』410)。しかし、戦後の地方史研究の進展は、百姓にも歴史があり、じつは彼らの活動が社会を支えていたことを明らかにしてきた。
◆その研究の進展の源は、地域に残された古文書であった。当時、新進気鋭の地方史研究者、児玉幸多、所三男、宝月圭吾、中井信彦、和歌森太郎、佐々木潤之助氏らは、長野県大町市の清水家文書の調査を行い、『近世村落自治史料集』という戦後地方史研究のバイブル的な史料集を編纂した。
 なお、この清水家文書はある事情で散逸しそうになったので、私が長野県立歴史館勤務中に、竹内誠、塚本学、森安彦氏ら多くの方のご協力を得て、無事歴史館に保管され、現在は、清水家近世・近代文書約4万点が長野県宝となり、随時、公開展示されている。
◆しかし、その地方史研究の目録づくりにおいても、庶民の蔵書については、雑扱いされ、顧みられることが少なかった。そうした研究状況も1970年代の地方市史・県史編纂ブームもあり、変化が生まれた。その代表的な研究の一つが、木村礎氏らの大原幽学研究であり、医学史でいえば、同グループの故平野満「蔵書にみる知的状況―平山・宇井・林家の場合-」(『大原幽学とその周辺』八木書店、1981年)が在村医の蔵書に注目している。その後、たとえば小林文雄「近世後期における「蔵書の家」の社会的機能について」(『歴史』76号、1991)なども出て、蔵書も地方史研究の主対象となってきた。
◆近世初期城郭研究者だった編者横田冬彦氏は「近世村落における法と掟」(『文化学年報』5、1986年)あたりから、村落文化研究に注目し、河内屋可正日記との出会いが、その研究方向を決定づけたのではないか。また読書人からの蔵書という視点研究を確立したのが、鈴木俊幸氏の一連の研究で、それは『江戸の読書熱 自学する読者と書籍流通』(平凡社 2007 )として集成された。
◆さて、本書をゆっくり読もうと、読み始めたら第1章に次のような一文があった。横田冬彦氏の河内屋可正との出会いと通俗道徳の連続性についての記事のあとに「また、塚本学の地方文人、高橋敏の村落生活文化史、田崎哲郎の地方知識人といった先駆的研究に加えて、宮城(公子)論文ともあいまって、川村肇の在村儒学、青木歳幸の在村蘭学、杉仁の在村文化論など、全国各地の事例を発掘していくことになる」と書いてあった。