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新刊紹介 『近世後期の対外政策と軍事・情報』
「郵便です」。午前中の畑仕事を一段落して家に戻ると、ちょうど書籍郵便物が届いた。みると、依頼主は吉川弘文館。封をあけるとなかから、立派な『近世後期の対外政策と軍事・情報』という本で,著者は松本英治さんだった。そうか、とうとう今までの研究を本にしたかと、感慨がよみがえった。
今から15年ほど前、歴博歴史研究部の高橋敏先生の紹介で、私が国立歴史民俗博物館の外部研究「地域蘭学の総合的研究」(平成11~15年度)の代表者を務めたことがある。そのとき、地域蘭学の視点で、福岡の蘭学者青木興勝の研究をお願いしたのが、松本英治さんであった。松本英治さんは、現職の開成・中・高校教諭として教鞭をとるかたわら、洋学史研究会の事務局長として例会の案内をされつつ、洋学研究を続けてきた。
本書の目的は、「寛政期から文化期にかけての西洋諸国の通称要求とそれに起因する対外紛争を、近世日本が直面した対外的危機ととらえ、これが対外交渉の窓口である長崎に及ぼした影響を軍事と情報の視点から論じるとともに、幕府の軍事的・外交的対応を政策的に明らかにすることを目的とする」とある。
本書の目次をひもとけば、第一部、対外的危機と長崎の地域社会、第1章長崎警備とロシア船来航問題、第2章蘭学者青木興勝の長崎遊学と対外認識、第3章レザノフ来航予告情報と長崎奉行、第二部 対外的危機と幕府の軍事的・外交的対応として、第1章フヴォストフ文書をめぐる日蘭交渉、第2章阿蘭陀通詞の出府と訳業、第3章幕府の洋式軍艦導入計画、第4章幕府の戦時国際慣習への関心、第三部幕府の対外政策と長崎の地域社会、第1章大槻玄沢と幕府の対外政策、第2章ラッフルズの出島接収計画と長崎奉行、第3章ゴローニン事件と天文方、終章、対外政策と軍事・情報となっている。
現在、それらについて詳細に読み解く時間と力はないが、関連研究をほぼ網羅し、関連史料を博捜し、その論の進め方は着実であることは疑いをまたない。佐賀藩の警備記録や動向についても教えられることが多い。
現場の高校における研究の困難さは、私の時代よりもはるかに厳しいものがあろう。あとがきを読めば、幸いに同僚の日本史担当教師もまた歴史研究者である。開成中・高校の自由な校風も、松本さんの研究心をささえるものとなったのであろう。かっての若手研究者も、不惑の年をすぎて、43歳となった。さらなる研究のたかみを期待してやまない。
今から15年ほど前、歴博歴史研究部の高橋敏先生の紹介で、私が国立歴史民俗博物館の外部研究「地域蘭学の総合的研究」(平成11~15年度)の代表者を務めたことがある。そのとき、地域蘭学の視点で、福岡の蘭学者青木興勝の研究をお願いしたのが、松本英治さんであった。松本英治さんは、現職の開成・中・高校教諭として教鞭をとるかたわら、洋学史研究会の事務局長として例会の案内をされつつ、洋学研究を続けてきた。
本書の目的は、「寛政期から文化期にかけての西洋諸国の通称要求とそれに起因する対外紛争を、近世日本が直面した対外的危機ととらえ、これが対外交渉の窓口である長崎に及ぼした影響を軍事と情報の視点から論じるとともに、幕府の軍事的・外交的対応を政策的に明らかにすることを目的とする」とある。
本書の目次をひもとけば、第一部、対外的危機と長崎の地域社会、第1章長崎警備とロシア船来航問題、第2章蘭学者青木興勝の長崎遊学と対外認識、第3章レザノフ来航予告情報と長崎奉行、第二部 対外的危機と幕府の軍事的・外交的対応として、第1章フヴォストフ文書をめぐる日蘭交渉、第2章阿蘭陀通詞の出府と訳業、第3章幕府の洋式軍艦導入計画、第4章幕府の戦時国際慣習への関心、第三部幕府の対外政策と長崎の地域社会、第1章大槻玄沢と幕府の対外政策、第2章ラッフルズの出島接収計画と長崎奉行、第3章ゴローニン事件と天文方、終章、対外政策と軍事・情報となっている。
現在、それらについて詳細に読み解く時間と力はないが、関連研究をほぼ網羅し、関連史料を博捜し、その論の進め方は着実であることは疑いをまたない。佐賀藩の警備記録や動向についても教えられることが多い。
現場の高校における研究の困難さは、私の時代よりもはるかに厳しいものがあろう。あとがきを読めば、幸いに同僚の日本史担当教師もまた歴史研究者である。開成中・高校の自由な校風も、松本さんの研究心をささえるものとなったのであろう。かっての若手研究者も、不惑の年をすぎて、43歳となった。さらなる研究のたかみを期待してやまない。
池田専助・森鴎外妻志げ・永松玄洋の三題噺。
◆25日午後は、佐賀県医師会にお伺いしたあと、ぎらぎら照りつける太陽の日差しのなかを寺めぐり。3時頃、安楽寺に着く。金武良哲の墓碑と顕彰碑はすぐにわかった。今回の調査のねらいは好生館初代館長池田専助の墓碑調査。あれ?、なんど墓地内を探しても見つからない。◆仕方が無いからもう一つのねらい。荒木博臣の墓を探す。うーん、新しい荒木家の墓はあるが、どうも違うようだ。◆なぜ荒木家の墓を探したかというと、森鴎外の後妻志げは、佐賀藩士荒木博臣の娘だった。後妻にいくとき、父母は鴎外の母峰の気位の高さに反対したのだが、志げは鴎外の作品が好きだったので結婚した。鴎外40歳、志げ20歳の再婚同士だった。◆志げは美術品のような美人であった。まもなく二人の間に茉莉が生まれた。じつは志げも峰と並ぶくらい気位の高い女性で、嫁姑のいさかいは高まるばかり。峰は鴎外のカネを一切握って志げにはまったく渡さない。とうとう峰との確執のなかで茉莉を連れての別居生活が始まった。鴎外が別居中の志げのもとにときどき通うという二重生活。その最中には鴎外の『高瀬舟』の原型となる子殺しの話もあった。1916年に峰がなくなりようやく平穏な日々を迎えたが、6年後に鴎外が死ぬことで、志げは鴎外妹やその家族らにうとまれ、やはり苦しい日々をおくることとなり、1936年に尿毒症で亡くなった。◆生前の志げはときどき荒木家の墓参りに安楽寺に立ち寄り、鴎外もまた佐賀へ来てお参りし、松川屋が定宿であった。松川屋には鴎外の関係品が今もあるはず。◆池田家も荒木家もよくわからなかったので、永松玄洋の墓碑調査に苗雲寺に向かった。4時近くに苗雲寺についたが、永松玄洋墓碑の側面の文字がまだ光があたらないので見えない。本堂の蔭に身を寄せて、日の傾くのを待つことにした。怪しい人影と思われたかもしれないが、見とがめられることもなく、30分がすぎた。ようやく少しずつ碑文が見え始めた。全部は読めなかったが、およそ右側面には、「右諱至伸、号玄洋、□與左衛門諱某妣、草野氏君命継禄請医臣扈世子在江戸邸、文久元年丁酉五月十一日病終、葬子府希賢宗寺、帰□葬于栄城扇町妙(苗)雲寺、配大石氏、無子養甥女百武氏配義子某以嗣」とあった。玄洋の諱は至伸であり、永松玄洋の没年月日が文久元年丁酉五月十一日であることが判明した。また玄洋は、藩主世子のため江戸邸に勤務しているときに病没し、藩主菩提寺賢宗寺でなく、扇町の妙(苗)雲寺に葬られたという内容がわかった。これで『佐賀医人伝』永松玄洋の項目はなんとかまとまった。それにしても暑い。
佐賀医人伝 永松玄洋
本日の佐賀医人伝調査。龍津寺で島田完吾再調査。医学史研究会の樋口浩康さんと偶然出会う。ここにある島田南嶺と島田魯堂の古川松根篆刻の碑文が解読できたらよいねと話して、次のお寺、嘉瀬町扇町の苗雲寺へ。ここには、永松東海の養父永松玄洋のお墓があるはず。永松東海は、初代東京司薬場長で、調べれば調べるほど我が国薬学制度や薬学教育の基礎を築いた重要な人物であることが判明。その養父の墓が、系図によれば苗雲寺にあることになっている。真夏の太陽がギンギラギンに照りつける墓地内を探すこと30分。3基の永松家墓碑を見つけた。その一番左に「玄洋永松君墓」と刻んである。みつけた。流れる汗を拭きながら、墓碑の周囲を見るが、正面から右側面に没年に関する文字が刻んであるようだが、残念ながら日光の影になって読めない。日の出の時期か日没時に、機会を改めてくるしかない。が、大収穫。ただし玄洋夫婦の墓と永松東海の墓は、先ほどの樋口浩康さんのご教示によれば、青山墓地1種イ3号5・6側(西三通り南側・東向き)にあるはずだから、東京へ行った機会に、青山墓地を墓マイラーする予定。さてその次に、川副町の浄教寺へ、ここで目指すお墓は、思いがけない人の先祖の墓だった。その話はまたあとで。さらに、南里さんのご教示で、松村恕庵の墓が大財の長楽寺にあるというので、ここにも寄った。なんとか見つけたが、この話も次回で。本日は4寺を墓参り。
今夜は、永松玄洋についての一応のまとめ。
永松玄洋(文政4・1831~□) 佐賀藩蘭医
永松玄洋は文政四年(一八三一)一〇月九日に佐賀藩手明鑓の永松至恒(初め権蔵、後與左衛門)の長男として生まれた。父至恒は、天保年中(一八三〇~四三)に浪人となり、天保一〇年(一八三九)二月二七日に没した。佐賀郡扇町村(現佐賀市嘉瀬町)の苗運寺に葬られた。法名永翁道松。父の妹は佐賀藩医で外科医の福地道林妻である。
玄洋は、至伸、恵吉郎、蕙橘ともいう。父が浪人中に、武士身分に復活する手段もあって、早くから医学を学んだ。師匠は不明であるが、蘭方医学を学び、一五歳のとき、弘化二年(一八四五)三月二七日、五人扶持にて一代医師として佐賀藩に召し抱えられた。嘉永四年(一八五一)の『医業免札姓名簿』には、二四番目に「蘭科 永松玄洋」と記されている。蘭科と記しているのは、六四八人の医師中、玄洋ただ一人である。二五番目が外科医相良柳庵(相良知安父)、二六番目が外科医松尾栄仙(納富春入門人)であり、すでに佐賀藩において重要な若手医師として活躍していたとみられる。
『(嘉永七年)佐賀城下竈帳』(五二三頁)には、「一禅宗佐賀郡扇町村苗雲寺 医師三拾四才 永松玄洋 三拾才 同女房 六拾才 同母親 〆男女三人」とあり、夕日町に居住していた。妻は藤山兵蔵養娘で、長女は百武徳左衛門娘、長男祥山は龍雲寺で僧に入ったため、本庄町医師原令碩の子東海を慶応元年(一八六五)に養子に迎え、医を継がせた。墓は苗運寺にあり、墓碑銘に「玄洋永松君墓 孺人大石氏」とある。妻は蘭方医大石良英家の人であった。蘭方医同士の結びつきの強さがわかる。残念ながら現時点で没年が不明。東京青山墓地にも墓があるので、そちらを要調査。
【参考】『(嘉永五年)系図』(佐賀県立図書館複製資料)、『医業免札姓名簿』(佐賀県医療センター好生館蔵)、『佐賀城下竈帳』(九州大学出版会、一九九〇)。
今夜は、永松玄洋についての一応のまとめ。
永松玄洋(文政4・1831~□) 佐賀藩蘭医
永松玄洋は文政四年(一八三一)一〇月九日に佐賀藩手明鑓の永松至恒(初め権蔵、後與左衛門)の長男として生まれた。父至恒は、天保年中(一八三〇~四三)に浪人となり、天保一〇年(一八三九)二月二七日に没した。佐賀郡扇町村(現佐賀市嘉瀬町)の苗運寺に葬られた。法名永翁道松。父の妹は佐賀藩医で外科医の福地道林妻である。
玄洋は、至伸、恵吉郎、蕙橘ともいう。父が浪人中に、武士身分に復活する手段もあって、早くから医学を学んだ。師匠は不明であるが、蘭方医学を学び、一五歳のとき、弘化二年(一八四五)三月二七日、五人扶持にて一代医師として佐賀藩に召し抱えられた。嘉永四年(一八五一)の『医業免札姓名簿』には、二四番目に「蘭科 永松玄洋」と記されている。蘭科と記しているのは、六四八人の医師中、玄洋ただ一人である。二五番目が外科医相良柳庵(相良知安父)、二六番目が外科医松尾栄仙(納富春入門人)であり、すでに佐賀藩において重要な若手医師として活躍していたとみられる。
『(嘉永七年)佐賀城下竈帳』(五二三頁)には、「一禅宗佐賀郡扇町村苗雲寺 医師三拾四才 永松玄洋 三拾才 同女房 六拾才 同母親 〆男女三人」とあり、夕日町に居住していた。妻は藤山兵蔵養娘で、長女は百武徳左衛門娘、長男祥山は龍雲寺で僧に入ったため、本庄町医師原令碩の子東海を慶応元年(一八六五)に養子に迎え、医を継がせた。墓は苗運寺にあり、墓碑銘に「玄洋永松君墓 孺人大石氏」とある。妻は蘭方医大石良英家の人であった。蘭方医同士の結びつきの強さがわかる。残念ながら現時点で没年が不明。東京青山墓地にも墓があるので、そちらを要調査。
【参考】『(嘉永五年)系図』(佐賀県立図書館複製資料)、『医業免札姓名簿』(佐賀県医療センター好生館蔵)、『佐賀城下竈帳』(九州大学出版会、一九九〇)。
佐賀医人伝 島田南嶺、島田完吾
島田(しまだ)南嶺(なんれい)(文化四~文久元年、一八〇七~一八六一)
佐賀藩医・好生館教師・種痘推進者
島田南嶺は、佐賀藩医島田達恒魯堂の二男として、文化四年(一八〇七)八月二四日に生まれ、通称恒省、字脩甫、南嶺と号した。島田家は医家としての初代島田元慎が蓮池藩のほか、佐賀本藩、諫早家に侍医として仕え、明和二年(一七六五)に没した。
四代目の魯堂は、、佐賀藩施薬方医師として活躍し、天保八年(一八三七)一〇月一四日に七二歳で没した。墓は龍津寺(現佐賀市巨勢町)の島田家墓所の一角にある。室は大坪氏で二男三女をもうけた。魯堂長男の淡庵が、父の実家の諫早屋敷を相続し、二男南嶺が佐賀藩医島田家五代目として家督相続をした。
南嶺は、天保五年(一八三四)に医学寮指南役となった。同九年四月より五カ年の他国遊学を命ぜられたが、老母が病気のため断ったところ、老母の病気が快復したら出立してよいとの命令を受けた。墓碑銘によると、老母死後、在江戸の伊東玄朴の知り合いの医師らに諸方を学んだとある。
天保一一年(一八四〇)に医学寮の改築にあたり、一五両を献納した。弘化元年(一八四四)正月二八日、香焼島詰めの人びとの間に「時疫流行」したとき、諫早家医師島田淡庵(南嶺兄)が派遣され治療にあたった。南嶺は、弘化二年一一月、三ノ丸御殿御付医師を命ぜられ、同一二月には、氏姫が諫早屋敷に引っ越すとき、当分の間の療養方を命ぜられた。同三年三月に、諫早に移る「おたみ殿」の療養方を命ぜられ、諫早に派遣され、翌月佐賀へ帰った。同四年に御側医を命ぜられ、藩主の側で仕えた。
嘉永二年に藩主の子淳一郎への牛痘接種が成功し、ついで庶弟の皆次郎へも接種が
(織三郎引痘記事『諫早日記』(諫早市立図書館蔵)
成功したため、鍋島直正は、島田南嶺に命じて神代領主鍋島弾馬の子織三郎一一歳への接種を奨めさせた。最初は断った弾馬であったが、やがて説得をうけ、『諫早日記』(嘉永二年年一〇月五日記事)に「織三郎様御引痘之所段々御順痘別而御軽安之旨弾馬様御用人より手紙を以て申来達」とあり、一〇月一七日記事に「引痘御本復」とあるので、九月二五日ごろ織三郎への接種が行われたとみられる。
南嶺は、直正の九月の参府に随行して牛痘種(痘痂と痘漿の両方であろう)を持参し、一〇月二日に江戸藩邸に到着した。伊東玄朴は、その牛痘種を受け取り、自らの娘などに接種して発疹した最もよい種を一一月一一日に貢姫に接種して成功した。
『諫早日記』には、嘉永三年(一八四九)九月一一日、佐賀藩医の牧春堂(妻の父)と島田南嶺が診察に向かったとある。南嶺は、諫早家での医療も担当していた。
『直正公伝』によれば、種痘の成功後、佐賀藩内では、大石良英、山村良哲、渋谷良次ら蘭方医が次々と登用されたが、西岡春益、松隈元南ら漢方医は従来の経験を重視し、西洋医術の一部に過ぎない翻訳書に基づいて人命を試験することはしないと漢方の主張を変更しなかった。牧春堂や島田南嶺らは漢方に蘭方の新知識を加える折衷派の立場をとり、三派競争ののち、嘉永四年(一八五一)の医業免札制度の開始と、同年に蘭方医大庭雪斎が初代蘭学寮教導となることで、以後、佐賀藩は西洋医学研修を本格化することになる。
南嶺は文久元年(一八六一)に、五五歳で没した。墓は父と同じく龍津寺に葬られた。墓碑には「南嶺島田府君墓 蘭窗孺人牧氏袝」と刻まれている。妻は、佐賀藩医牧春堂美親娘である。龍津寺は、現在お堂と墓地しか残っていない。島田家墓所には。南嶺墓のほか、南嶺父魯s堂墓や、古川松根による魯堂と南嶺の顕彰碑もあり、魯堂と南嶺が佐賀藩において重きをなしていたことがわかる。
島田東洋家族墓、正面に「松坪軒淡翠東洋居士、活參良法居士、松林院賢屋浄真大師」とあり、左側面に「元治元年四月十一日卒、島田東洋」「明治廿年七月廿七日卒、長男悦太郎」「明治壱年三月朔日卒、妻フサ」とある。(佐賀市巨勢町龍津寺)
南嶺は実子がなく、天保一〇年(一八三九)に実兄大恒の長男東洋を嫡子とした。島田家六代目東洋は、号を松坪軒という。嘉永二年(一八四九)に玄朴に入門し、長崎でポンペが医学講習をはじめると、永松玄洋、宮田魯斎らとともに、長崎でポンペ式西洋医学を学び、安政五年(一八五八)に設立された好生館において教導となり、ポンペ式西洋医学を教授しはじめた。元治元年(一八六四)四月一一日卒。
東洋の実弟芳橘は、明治六年(一八七三)生まれで、ポンペの後任であるボードウインや佐賀藩医相良知安に学び、のち好生館の教導方を勤めた。芳橘の長男が、島田完吾で、安政五年((一八五八)生まれ。明治六年(一八七三)には第一大学区医学校予科(以下、東大医学部)に入学し、同窓に森林太郎(鷗外)がおり、明治一四年に卒業試問に合格し、同年七月に学位(医学士)を得た。森林太郎は陸軍へ、完吾は同年九月に海軍中軍医となった。明治一六年に、東大医学部同窓の和歌山医学校校長野川二郎に勧誘され、和歌山医学校一等教諭(内科)に就任した。しかし、同医学校が財政難のため、明治二〇年に閉校となり、失職した完吾は、森林太郎らに遅れて陸軍二等軍医となり、東京鎮台に勤務し、同年九月に広島鎮台病院医官心得に転じた。明治二三年に一等軍医となり、以後、高崎、台湾、熊本の陸軍軍医として赴任し、明治三四年に弘前病院長となるも、同年一〇月に辞した。その後、明治三五年に福岡県の三井田川炭鉱医局(田川病院)医長、明治四一年一月、福岡県大牟田の三井三池炭鉱医局(三井三池病院)の医長となり、大正元年(一九一二)八月六日没。享年五五。完吾の墓も龍津寺にある。
完吾直系に医師はなく、実弟の研六の子研一郎(一八九四~一九六五)以後、東京で医を継いだ。
【参考】「系図」(佐賀県立図書館)、小関恒雄「鷗外の同級生・島田完吾」(『日本医事新報』三八四〇号、一九九七)。『諫早日記』(諫早市立図書館)(青木歳幸)
佐賀藩医・好生館教師・種痘推進者
島田南嶺は、佐賀藩医島田達恒魯堂の二男として、文化四年(一八〇七)八月二四日に生まれ、通称恒省、字脩甫、南嶺と号した。島田家は医家としての初代島田元慎が蓮池藩のほか、佐賀本藩、諫早家に侍医として仕え、明和二年(一七六五)に没した。
四代目の魯堂は、、佐賀藩施薬方医師として活躍し、天保八年(一八三七)一〇月一四日に七二歳で没した。墓は龍津寺(現佐賀市巨勢町)の島田家墓所の一角にある。室は大坪氏で二男三女をもうけた。魯堂長男の淡庵が、父の実家の諫早屋敷を相続し、二男南嶺が佐賀藩医島田家五代目として家督相続をした。
南嶺は、天保五年(一八三四)に医学寮指南役となった。同九年四月より五カ年の他国遊学を命ぜられたが、老母が病気のため断ったところ、老母の病気が快復したら出立してよいとの命令を受けた。墓碑銘によると、老母死後、在江戸の伊東玄朴の知り合いの医師らに諸方を学んだとある。
天保一一年(一八四〇)に医学寮の改築にあたり、一五両を献納した。弘化元年(一八四四)正月二八日、香焼島詰めの人びとの間に「時疫流行」したとき、諫早家医師島田淡庵(南嶺兄)が派遣され治療にあたった。南嶺は、弘化二年一一月、三ノ丸御殿御付医師を命ぜられ、同一二月には、氏姫が諫早屋敷に引っ越すとき、当分の間の療養方を命ぜられた。同三年三月に、諫早に移る「おたみ殿」の療養方を命ぜられ、諫早に派遣され、翌月佐賀へ帰った。同四年に御側医を命ぜられ、藩主の側で仕えた。
嘉永二年に藩主の子淳一郎への牛痘接種が成功し、ついで庶弟の皆次郎へも接種が
(織三郎引痘記事『諫早日記』(諫早市立図書館蔵)
成功したため、鍋島直正は、島田南嶺に命じて神代領主鍋島弾馬の子織三郎一一歳への接種を奨めさせた。最初は断った弾馬であったが、やがて説得をうけ、『諫早日記』(嘉永二年年一〇月五日記事)に「織三郎様御引痘之所段々御順痘別而御軽安之旨弾馬様御用人より手紙を以て申来達」とあり、一〇月一七日記事に「引痘御本復」とあるので、九月二五日ごろ織三郎への接種が行われたとみられる。
南嶺は、直正の九月の参府に随行して牛痘種(痘痂と痘漿の両方であろう)を持参し、一〇月二日に江戸藩邸に到着した。伊東玄朴は、その牛痘種を受け取り、自らの娘などに接種して発疹した最もよい種を一一月一一日に貢姫に接種して成功した。
『諫早日記』には、嘉永三年(一八四九)九月一一日、佐賀藩医の牧春堂(妻の父)と島田南嶺が診察に向かったとある。南嶺は、諫早家での医療も担当していた。
『直正公伝』によれば、種痘の成功後、佐賀藩内では、大石良英、山村良哲、渋谷良次ら蘭方医が次々と登用されたが、西岡春益、松隈元南ら漢方医は従来の経験を重視し、西洋医術の一部に過ぎない翻訳書に基づいて人命を試験することはしないと漢方の主張を変更しなかった。牧春堂や島田南嶺らは漢方に蘭方の新知識を加える折衷派の立場をとり、三派競争ののち、嘉永四年(一八五一)の医業免札制度の開始と、同年に蘭方医大庭雪斎が初代蘭学寮教導となることで、以後、佐賀藩は西洋医学研修を本格化することになる。
南嶺は文久元年(一八六一)に、五五歳で没した。墓は父と同じく龍津寺に葬られた。墓碑には「南嶺島田府君墓 蘭窗孺人牧氏袝」と刻まれている。妻は、佐賀藩医牧春堂美親娘である。龍津寺は、現在お堂と墓地しか残っていない。島田家墓所には。南嶺墓のほか、南嶺父魯s堂墓や、古川松根による魯堂と南嶺の顕彰碑もあり、魯堂と南嶺が佐賀藩において重きをなしていたことがわかる。
島田東洋家族墓、正面に「松坪軒淡翠東洋居士、活參良法居士、松林院賢屋浄真大師」とあり、左側面に「元治元年四月十一日卒、島田東洋」「明治廿年七月廿七日卒、長男悦太郎」「明治壱年三月朔日卒、妻フサ」とある。(佐賀市巨勢町龍津寺)
南嶺は実子がなく、天保一〇年(一八三九)に実兄大恒の長男東洋を嫡子とした。島田家六代目東洋は、号を松坪軒という。嘉永二年(一八四九)に玄朴に入門し、長崎でポンペが医学講習をはじめると、永松玄洋、宮田魯斎らとともに、長崎でポンペ式西洋医学を学び、安政五年(一八五八)に設立された好生館において教導となり、ポンペ式西洋医学を教授しはじめた。元治元年(一八六四)四月一一日卒。
東洋の実弟芳橘は、明治六年(一八七三)生まれで、ポンペの後任であるボードウインや佐賀藩医相良知安に学び、のち好生館の教導方を勤めた。芳橘の長男が、島田完吾で、安政五年((一八五八)生まれ。明治六年(一八七三)には第一大学区医学校予科(以下、東大医学部)に入学し、同窓に森林太郎(鷗外)がおり、明治一四年に卒業試問に合格し、同年七月に学位(医学士)を得た。森林太郎は陸軍へ、完吾は同年九月に海軍中軍医となった。明治一六年に、東大医学部同窓の和歌山医学校校長野川二郎に勧誘され、和歌山医学校一等教諭(内科)に就任した。しかし、同医学校が財政難のため、明治二〇年に閉校となり、失職した完吾は、森林太郎らに遅れて陸軍二等軍医となり、東京鎮台に勤務し、同年九月に広島鎮台病院医官心得に転じた。明治二三年に一等軍医となり、以後、高崎、台湾、熊本の陸軍軍医として赴任し、明治三四年に弘前病院長となるも、同年一〇月に辞した。その後、明治三五年に福岡県の三井田川炭鉱医局(田川病院)医長、明治四一年一月、福岡県大牟田の三井三池炭鉱医局(三井三池病院)の医長となり、大正元年(一九一二)八月六日没。享年五五。完吾の墓も龍津寺にある。
完吾直系に医師はなく、実弟の研六の子研一郎(一八九四~一九六五)以後、東京で医を継いだ。
【参考】「系図」(佐賀県立図書館)、小関恒雄「鷗外の同級生・島田完吾」(『日本医事新報』三八四〇号、一九九七)。『諫早日記』(諫早市立図書館)(青木歳幸)
雨森芳洲の墓
◆対馬の儒者雨森芳洲(1668~1755)。近江の町医者の子として生まれ、京都で医学を学んだ後、江戸で木下順庵門下として儒者となり、元禄5年(1692)から対馬藩に赴任した。対馬藩では朝鮮との外交関係を担当し、何度も朝鮮通信使の江戸行きに随行。◆対馬歴史民俗資料館の前に、芳洲の顕彰碑があり、芳洲の外交書『交隣提醒』からの言葉「互いに欺かず、争わず、誠実と信頼が肝要」が記されている。現代でも通用する外交の基本姿勢といえよう。◆芳洲の墓を探すとき、ふしぎな体験をした。墓は日吉の長寿院にある。裏山に続くうっそうとした森の中の小径を上ること10分。なぜか、クロアゲハが一匹、こっちだよと道案内のように一緒に登ってくれた。森を抜けると、突然、クロアゲハがもう一匹どこからかあらわれて、2匹で蝶の舞を激しく始めた。3枚目と4枚目の写真のほぼ真ん中に2匹の蝶が舞っているのがわかるだろうか。そう、蝶が舞い踊るそこ、小径を抜けた頂上に、めざす芳洲一族の墓があった。芳洲の墓をみつけたとき、2匹の蝶はいずこともなく去って行った。あれは、芳洲一族の守護蝶だったのだろうか。
なお、蝶の数え方は頭が普通なのだが、最近の鱗翅学会では匹も使われている。
なお、蝶の数え方は頭が普通なのだが、最近の鱗翅学会では匹も使われている。