新刊紹介『医学教育の歴史 古今と東西』
◆坂井建雄編『医学教育の歴史‐古今と東西』(法政大学出版局、2019年3月20日、572頁プラス13頁、6400円プラス税)である。
◆第Ⅰ部は西洋の医学教育で、第1章坂井達雄「ヨーロッパの医学教育史<1>十八世紀以前の西洋伝統医学教育」(5~54頁)、同第2章「ヨーロッパの医学教育<2>、十九世紀以後の西洋近代医学の成立と特徴(55~140頁)の2大論文に続いて、第3章永島剛「近代ロンドンの病院医学校と医師資格制度 セント・トマス病院医学校を中心として」(141~178頁)が、ヨーロッパ医学史を展望している。
◆第Ⅱ部が日本近世の医学教育で、第4章町泉寿郎「江戸時代の医学教育<1> 瀬戸内地方の事例を中心に」(179~216頁)、海原亮「江戸時代の教育<2> 米沢藩の事例から」(217~258頁)。青木歳幸「江戸時代の医学教育<3> 佐賀藩医学教育史」(259~300頁)と近世の医学教育と地域の近代医学教育への接点を拠点的に描いた。
◆第Ⅲ章日本近現代の教育では、第7章坂井建雄「近現代の医学教育の概観 明治以降の医師養成制度と医学校の変遷」(303~318頁)、第8章 近現代の医学教育の諸相<1>相川忠臣、ハルメンボイケルス「十九世紀のオランダ語基礎医学教科書と蘭人教師たちの影響」(319~392頁)、澤井直「近現代の医学教育の諸相<2> 明治・大正・昭和初期の医師資格制度と医学教育機関’(393~434頁)、第10章逢見憲一「臨床医学教育における医師と医学の原像と執拗低音、「ドイツ医学」と「アメリカ医学」の変容に関する一試論」(354~482頁)、渡部幹夫「臨床医学教育と疾病構造の変化(483~530頁)、勝井恵子「昭和期における医療倫理教育」(531~572頁)と続く。
◆本書のカバーでの宣伝文句は「西洋と日本医学の知はどう継承されてきたか」、医師養成と知識継承の歴史、初の全体像」とある。じつは我が国医学教育の歴史は、山崎佐氏の『各藩医学教育の展望』以来、現在まで約60年の長きにわたって総括的に論じた書籍はでていない。本書がその大きな基本書となるだろうことを確信している。
◆価格的にも570頁もの書籍を、出版事情の厳しいなかで、6400円という価格で出版したという。驚きである。3月26日ごろには大手書店の店頭にならぶとのこと、多くの関心ある人に手に取ってもらって、また図書館などでも購入してほしいと思う。
◆第Ⅰ部は西洋の医学教育で、第1章坂井達雄「ヨーロッパの医学教育史<1>十八世紀以前の西洋伝統医学教育」(5~54頁)、同第2章「ヨーロッパの医学教育<2>、十九世紀以後の西洋近代医学の成立と特徴(55~140頁)の2大論文に続いて、第3章永島剛「近代ロンドンの病院医学校と医師資格制度 セント・トマス病院医学校を中心として」(141~178頁)が、ヨーロッパ医学史を展望している。
◆第Ⅱ部が日本近世の医学教育で、第4章町泉寿郎「江戸時代の医学教育<1> 瀬戸内地方の事例を中心に」(179~216頁)、海原亮「江戸時代の教育<2> 米沢藩の事例から」(217~258頁)。青木歳幸「江戸時代の医学教育<3> 佐賀藩医学教育史」(259~300頁)と近世の医学教育と地域の近代医学教育への接点を拠点的に描いた。
◆第Ⅲ章日本近現代の教育では、第7章坂井建雄「近現代の医学教育の概観 明治以降の医師養成制度と医学校の変遷」(303~318頁)、第8章 近現代の医学教育の諸相<1>相川忠臣、ハルメンボイケルス「十九世紀のオランダ語基礎医学教科書と蘭人教師たちの影響」(319~392頁)、澤井直「近現代の医学教育の諸相<2> 明治・大正・昭和初期の医師資格制度と医学教育機関’(393~434頁)、第10章逢見憲一「臨床医学教育における医師と医学の原像と執拗低音、「ドイツ医学」と「アメリカ医学」の変容に関する一試論」(354~482頁)、渡部幹夫「臨床医学教育と疾病構造の変化(483~530頁)、勝井恵子「昭和期における医療倫理教育」(531~572頁)と続く。
◆本書のカバーでの宣伝文句は「西洋と日本医学の知はどう継承されてきたか」、医師養成と知識継承の歴史、初の全体像」とある。じつは我が国医学教育の歴史は、山崎佐氏の『各藩医学教育の展望』以来、現在まで約60年の長きにわたって総括的に論じた書籍はでていない。本書がその大きな基本書となるだろうことを確信している。
◆価格的にも570頁もの書籍を、出版事情の厳しいなかで、6400円という価格で出版したという。驚きである。3月26日ごろには大手書店の店頭にならぶとのこと、多くの関心ある人に手に取ってもらって、また図書館などでも購入してほしいと思う。
ボードインと佐賀
ボードインと佐賀藩
◆ボードインが文久2年(1862)にポンペに代わって来日し、医学伝習を開始した。佐賀藩医相良弘庵(知安)は、文久3年(1863)から養生所でボードインに師事し、やがて戸塚文海のあとの精得館頭取となり、佐賀藩からの学生である島田東洋、永松東海(玄洋の子)、江口梅亭などを指導した。
◆直正の侍医大石良英が文久2年以前になくなり、侍医は漢蘭折衷医の松隈元南に代わった。直正は、文久3年の5月21日、22日、23日と、ボードインの診察を、長崎の五島町にあった佐賀藩深堀鍋島家屋敷でうけた。ボードインは、薬に頼るよりも、まず滋養のあるものを取ること、なるべく肉食がよいと勧めたが、牛や羊の肉は匂いが嫌だと直正がいうので、野鳥の肉やスッポンなどをすすめた。
◆ボードインは、帰国に伴う留学生人事などの幕府との交渉のため、慶応2年(1866)7月から8月にかけて江戸にでて、9月に長崎に帰着した。直正は、京都での諸侯会議へ参加する前に持病を軽減すべく、ボードインへの再診察を求めたので、慶応2年10月5日に伊万里で直正を診察し、摂生の仕方や栄養物の選択について説明した。このとき、直正はボードインを侍医にできないかと本気で考えており、ボードインもその気がないわけではなかった。
◆ボードインの慶応2年(1866)末から翌年にかけてジャワと往復したようだが、慶応3年6月以降には、留学生緖方惟準をともなってオランダに帰国している。そして、幕府に海軍病院や医学校を設立意志があることを知り、さまざまな最新医療器具を携えて、慶応4年1月に再来日したときには、幕府は大政奉還と戊辰戦争で崩壊していた。
新政府は、ハラタマに大阪舎密局の開設を命じ、ボードインは明治2年(1869)に、大阪府仮病院に勤務し、明治3年11月にはその西隣に大阪医学校(現大阪大学中之島センターの位置)が開設され、その教師として勤務した。
◆ボードインは明治3年6月に帰国準備を始め、しばらく横浜に滞在した。新政府の医学校取調御用掛に就任した相良知安が、帰国前のボードインへ大学東校での短期間の講義を依頼し、明治3年7月から10月にかけてボードインは大学東校で講義をした。知安は、上野への医学校創設についても相談した。ボードインは上野の森の自然を壊さないように進言したため、医学校は上野の森をさけて旧加賀藩前田家屋敷地に建てられ、現在の東京大学本郷キャンパスにつながることになった。ボードインは、直正を佐賀藩江戸屋敷で明治3年9月17日から9月30日、10月5日、7日、9日、16日、20日、26日、11月10日、16日と帰国直前まで何度も診察して、同年11月末に離日した。
◆上野の森の自然を守ったボードイン(胸像名はボードワン博士像)の胸像が上野公園に建っている。なお、昭和48年(1973)に建立された最初の像は、弟のアルベルト・ボードインであったことが判明したため、平成18年(2006)に彫刻家林昭三氏の原型製作による正しいボードイン像が据
◆ボードインが文久2年(1862)にポンペに代わって来日し、医学伝習を開始した。佐賀藩医相良弘庵(知安)は、文久3年(1863)から養生所でボードインに師事し、やがて戸塚文海のあとの精得館頭取となり、佐賀藩からの学生である島田東洋、永松東海(玄洋の子)、江口梅亭などを指導した。
◆直正の侍医大石良英が文久2年以前になくなり、侍医は漢蘭折衷医の松隈元南に代わった。直正は、文久3年の5月21日、22日、23日と、ボードインの診察を、長崎の五島町にあった佐賀藩深堀鍋島家屋敷でうけた。ボードインは、薬に頼るよりも、まず滋養のあるものを取ること、なるべく肉食がよいと勧めたが、牛や羊の肉は匂いが嫌だと直正がいうので、野鳥の肉やスッポンなどをすすめた。
◆ボードインは、帰国に伴う留学生人事などの幕府との交渉のため、慶応2年(1866)7月から8月にかけて江戸にでて、9月に長崎に帰着した。直正は、京都での諸侯会議へ参加する前に持病を軽減すべく、ボードインへの再診察を求めたので、慶応2年10月5日に伊万里で直正を診察し、摂生の仕方や栄養物の選択について説明した。このとき、直正はボードインを侍医にできないかと本気で考えており、ボードインもその気がないわけではなかった。
◆ボードインの慶応2年(1866)末から翌年にかけてジャワと往復したようだが、慶応3年6月以降には、留学生緖方惟準をともなってオランダに帰国している。そして、幕府に海軍病院や医学校を設立意志があることを知り、さまざまな最新医療器具を携えて、慶応4年1月に再来日したときには、幕府は大政奉還と戊辰戦争で崩壊していた。
新政府は、ハラタマに大阪舎密局の開設を命じ、ボードインは明治2年(1869)に、大阪府仮病院に勤務し、明治3年11月にはその西隣に大阪医学校(現大阪大学中之島センターの位置)が開設され、その教師として勤務した。
◆ボードインは明治3年6月に帰国準備を始め、しばらく横浜に滞在した。新政府の医学校取調御用掛に就任した相良知安が、帰国前のボードインへ大学東校での短期間の講義を依頼し、明治3年7月から10月にかけてボードインは大学東校で講義をした。知安は、上野への医学校創設についても相談した。ボードインは上野の森の自然を壊さないように進言したため、医学校は上野の森をさけて旧加賀藩前田家屋敷地に建てられ、現在の東京大学本郷キャンパスにつながることになった。ボードインは、直正を佐賀藩江戸屋敷で明治3年9月17日から9月30日、10月5日、7日、9日、16日、20日、26日、11月10日、16日と帰国直前まで何度も診察して、同年11月末に離日した。
◆上野の森の自然を守ったボードイン(胸像名はボードワン博士像)の胸像が上野公園に建っている。なお、昭和48年(1973)に建立された最初の像は、弟のアルベルト・ボードインであったことが判明したため、平成18年(2006)に彫刻家林昭三氏の原型製作による正しいボードイン像が据
柴田収蔵の象先堂入門
柴田収蔵は、嘉永3年12月20日に象先堂に入塾した。
その様子を、田中圭一『柴田収蔵日記』から抄出する。
【解説】
12月19日に、伊東玄朴の使いとして池田洞雲がやってきて、
はやく入塾して、図物(地図類)を模写してほしいとの話があったので
玄朴塾に入塾を決意した。
池田洞雲は、玄朴の弟で医師池田玄瑞の養子。もと佐賀藩士納富又次郎被官の五郎川勘兵衛の弟で
のち、武雄家の家臣となるも、藩命で玄瑞の養子となる。象先堂で塾頭をつとめる。安政2年10月2日没、
麻布賢宗寺に葬る。
柴田収蔵が入門したとき、20人以上の寄宿生が同宿していた。
肥前出身者は、塾頭の池田洞雲のほか、助教伊東玄桂、宮田魯斎、
武雄の久池井辰吉、大宅弥一郎、島田東洋、らの名前があがる、
塾則は、月5回までの外出許可という厳しさであった。
伊東玄桂は、伊東の後を継いだものとある。肥前仁比山村御厨清兵衛次男。
文政12年生まれで天保7年5月に玄朴の養子となる。安政5年7月奧医師見習いとなり
万延元年5月2日に没す。享年32歳。法名泰龍院清岳玄圭居士。天龍院に葬る。
【人名解説】
池田洞雲
池田洞雲は、玄朴の弟で医師池田玄瑞の養子。もと佐賀藩士納富又次郎被官の五郎川勘兵衛の弟で
のち、武雄家の家臣となるも、藩命で玄瑞の養子となる。象先堂で塾頭をつとめる。安政2年10月2日没、
麻布賢宗寺に葬る。(伊東榮『伊東玄朴傳』32頁)
伊東玄圭
伊東玄桂は、伊東の後を継いだものとある。肥前仁比山村御厨清兵衛次男。
文政12年生まれで天保7年5月に玄朴の養子となる。安政5年7月奧医師見習いとなり
万延元年5月2日に没す。享年32歳。法名泰龍院清岳玄圭居士。天龍院に葬る。
(伊東榮『伊東玄朴傳』22頁)
宮田魯斎は、佐賀藩医で玄朴門人でのちポンペ門人になります。
上村周聘(1820~70)
もと石井忠驍4男で、4代上村春庵の養子となり、
5代春庵となる。象先堂門人姓名録に、弘化二年九月十五日、肥前佐嘉藩
上邑周聘」とある。明治3年没。
『上村病院二百五十年史』(非売品、271~281頁)
【史料】
十八日 晴、午後より雨少しく降る
宇作と同しく芝浜松町寺島宗俊を訪ふ。当春類焼の後は
家作出来迄は将監橋……の家敷へ越し仮住居。至て淳徳
よりの書状及送り物を届く。先生帰り来り直に返書を認
めて予と宇作とに嘱す。淳徳と同居せし門生……居る。
芝……町にて欧陽諭醒泉銘を見る。価金二両と云ふ。尤
先達而、刻の最美なるもの某侯へ六両にて売りたるとい
ふ。八丁堀越後屋善助を訪ふ。小木山崎屋おきさに会
ふ。両国天田氏を訪ふ。主人不在。宇作が居処未定。柳
橋……町望月文敬が方に天田貫斎を訪ふて宇作が望月へ
入塾の事を請ふ。望月、貫斎へ伝へて宇作四、五年も滞留
ならば入塾も肯ふべし、僅か四、五か月にて退塾をなす
ならば難しと答ふ。貫斎と同行して……町砥園に飲
食す。又駒形……屋に飲む。夜帰宿役寮に役者と話す。
十九日 晴
散銭貫きに加功。良斎来る。池田洞雲、伊東より代診に来る。
池田氏より、先生より申し聞きたるとて早く入塾の故図物の
模写を請ふといふ。梳剃す。金蔵院主風邪、発汗剤を服せしむ。
伊東へ入塾今日なさんと欲し用意不調故
止む。諸方に買物す。夕方旅籠町方義堂へ行。主人予を
識り中根先生が死去の事を告ぐ。夜………
廿日朝雨風零時として晴る
大護院門番吉助を頼、伊東へ荷物を運ぶ。又宇作に請ふ
て手元の具を運ふ。伊東へ越し土産料を先生へ達す。又
塾生一統へ酒肴料を贈る。一統に対面す。塾監田上宇平
大差図して席を楼の西の二階に占む。此席に先入生讃州
来島謙助、肥前佐賀宮田魯斎。中の席に阿波高畠五郎、
佐倉藩森村助二郎、伊予谷口泰之、武州相原村青木玄
礼。其一つ間は先年予が在塾の節の上の間なりしを、今
は此間の西に階を設けて是より上下す。此間には上村周
聴、伊予浅沢春雲、相模上溝村鈴木玄昌、藤田弘庵。又
南に新楼在り、此には長州田上宇平太、金吹町竹ノ越玄
通、肥前武雄久池井辰吉、肥前武陵(武雄カ)大宅弥一郎、肥前
長崎古賀央助、肥前島田東洋。当時食堂之当番也、下には武州府中鈴
木玄岱、同所織田研斎、讃岐高松藩玉井清斎、池田洞
雲、肥前佐賀厚和庵、……泰、阿波美馬郡貞光村井手又
太郎、丹後田辺荻原広斎。又北の楼には先生より頼み入
れの村上正省、城島禎庵也。以上二十…人在塾す。大護
院へ帰り昼飯。此節伊東塾中にては米を銘々にて買ひ、
食堂の僕に為炊目形にて掛分け朝一度に炊き置て夕飯迄
に食す。大護院へ行浅草黒船町辺にて弁当、茶椀等の食
具を買ふ。役寮に加奈河……に会飲す。夜伊東へ帰る。
周聴より緒方の病学通論を借りて読む。
付 此節塾頭池田洞雲、塾監田上宇平太、助教伊東玄
桂(肥前伊東の家を継ぐ者也、当時奧に居る)。知事浅択杏雲也、此名目は
七、八日前に定る所なりと云ふ。熟則は銘々の名前を書きし
札を朝五ツに奧へ出し置、夜五ツに其札を受取る也、
又、外出札といふ小札五枚ありて、他へ
朝より出て夜に入り帰るには、奧へ札に何月幾日
と別に紙札を付けて其度毎に差出し五枚の札の
外は他出不相成。又輪番にて調合所当番、夜火番
の者等何れも奥へ札を掛けて相勤むる也。塾則の
詳しき事は門人姓名録の初めに記す故に賛せず。
廿一日 暗薄暑
田上宇平太より塾則を示す。又奥へ出す札及外出の小札
を渡す。可読原書を示す。食堂の僕常……へ金五十疋を
達す。此ほ何れも入塾生の足りなりといふ。写本料の紙
類を買ひに出る。又湯島切通松之助店へ行、注文の硯を取
り来る。途中に益田遇所に遇ふ。上村周聘と上野山下伊
勢星へ至り飲む。坤輿図誌補篇を見る。
付り先生より……を出して図を写せと請ふ。此図銅板
にて其密なる事容易写すべきにあらヂ。丈た先生に
請ふて坤輿図説の補編を借る。
その様子を、田中圭一『柴田収蔵日記』から抄出する。
【解説】
12月19日に、伊東玄朴の使いとして池田洞雲がやってきて、
はやく入塾して、図物(地図類)を模写してほしいとの話があったので
玄朴塾に入塾を決意した。
池田洞雲は、玄朴の弟で医師池田玄瑞の養子。もと佐賀藩士納富又次郎被官の五郎川勘兵衛の弟で
のち、武雄家の家臣となるも、藩命で玄瑞の養子となる。象先堂で塾頭をつとめる。安政2年10月2日没、
麻布賢宗寺に葬る。
柴田収蔵が入門したとき、20人以上の寄宿生が同宿していた。
肥前出身者は、塾頭の池田洞雲のほか、助教伊東玄桂、宮田魯斎、
武雄の久池井辰吉、大宅弥一郎、島田東洋、らの名前があがる、
塾則は、月5回までの外出許可という厳しさであった。
伊東玄桂は、伊東の後を継いだものとある。肥前仁比山村御厨清兵衛次男。
文政12年生まれで天保7年5月に玄朴の養子となる。安政5年7月奧医師見習いとなり
万延元年5月2日に没す。享年32歳。法名泰龍院清岳玄圭居士。天龍院に葬る。
【人名解説】
池田洞雲
池田洞雲は、玄朴の弟で医師池田玄瑞の養子。もと佐賀藩士納富又次郎被官の五郎川勘兵衛の弟で
のち、武雄家の家臣となるも、藩命で玄瑞の養子となる。象先堂で塾頭をつとめる。安政2年10月2日没、
麻布賢宗寺に葬る。(伊東榮『伊東玄朴傳』32頁)
伊東玄圭
伊東玄桂は、伊東の後を継いだものとある。肥前仁比山村御厨清兵衛次男。
文政12年生まれで天保7年5月に玄朴の養子となる。安政5年7月奧医師見習いとなり
万延元年5月2日に没す。享年32歳。法名泰龍院清岳玄圭居士。天龍院に葬る。
(伊東榮『伊東玄朴傳』22頁)
宮田魯斎は、佐賀藩医で玄朴門人でのちポンペ門人になります。
上村周聘(1820~70)
もと石井忠驍4男で、4代上村春庵の養子となり、
5代春庵となる。象先堂門人姓名録に、弘化二年九月十五日、肥前佐嘉藩
上邑周聘」とある。明治3年没。
『上村病院二百五十年史』(非売品、271~281頁)
【史料】
十八日 晴、午後より雨少しく降る
宇作と同しく芝浜松町寺島宗俊を訪ふ。当春類焼の後は
家作出来迄は将監橋……の家敷へ越し仮住居。至て淳徳
よりの書状及送り物を届く。先生帰り来り直に返書を認
めて予と宇作とに嘱す。淳徳と同居せし門生……居る。
芝……町にて欧陽諭醒泉銘を見る。価金二両と云ふ。尤
先達而、刻の最美なるもの某侯へ六両にて売りたるとい
ふ。八丁堀越後屋善助を訪ふ。小木山崎屋おきさに会
ふ。両国天田氏を訪ふ。主人不在。宇作が居処未定。柳
橋……町望月文敬が方に天田貫斎を訪ふて宇作が望月へ
入塾の事を請ふ。望月、貫斎へ伝へて宇作四、五年も滞留
ならば入塾も肯ふべし、僅か四、五か月にて退塾をなす
ならば難しと答ふ。貫斎と同行して……町砥園に飲
食す。又駒形……屋に飲む。夜帰宿役寮に役者と話す。
十九日 晴
散銭貫きに加功。良斎来る。池田洞雲、伊東より代診に来る。
池田氏より、先生より申し聞きたるとて早く入塾の故図物の
模写を請ふといふ。梳剃す。金蔵院主風邪、発汗剤を服せしむ。
伊東へ入塾今日なさんと欲し用意不調故
止む。諸方に買物す。夕方旅籠町方義堂へ行。主人予を
識り中根先生が死去の事を告ぐ。夜………
廿日朝雨風零時として晴る
大護院門番吉助を頼、伊東へ荷物を運ぶ。又宇作に請ふ
て手元の具を運ふ。伊東へ越し土産料を先生へ達す。又
塾生一統へ酒肴料を贈る。一統に対面す。塾監田上宇平
大差図して席を楼の西の二階に占む。此席に先入生讃州
来島謙助、肥前佐賀宮田魯斎。中の席に阿波高畠五郎、
佐倉藩森村助二郎、伊予谷口泰之、武州相原村青木玄
礼。其一つ間は先年予が在塾の節の上の間なりしを、今
は此間の西に階を設けて是より上下す。此間には上村周
聴、伊予浅沢春雲、相模上溝村鈴木玄昌、藤田弘庵。又
南に新楼在り、此には長州田上宇平太、金吹町竹ノ越玄
通、肥前武雄久池井辰吉、肥前武陵(武雄カ)大宅弥一郎、肥前
長崎古賀央助、肥前島田東洋。当時食堂之当番也、下には武州府中鈴
木玄岱、同所織田研斎、讃岐高松藩玉井清斎、池田洞
雲、肥前佐賀厚和庵、……泰、阿波美馬郡貞光村井手又
太郎、丹後田辺荻原広斎。又北の楼には先生より頼み入
れの村上正省、城島禎庵也。以上二十…人在塾す。大護
院へ帰り昼飯。此節伊東塾中にては米を銘々にて買ひ、
食堂の僕に為炊目形にて掛分け朝一度に炊き置て夕飯迄
に食す。大護院へ行浅草黒船町辺にて弁当、茶椀等の食
具を買ふ。役寮に加奈河……に会飲す。夜伊東へ帰る。
周聴より緒方の病学通論を借りて読む。
付 此節塾頭池田洞雲、塾監田上宇平太、助教伊東玄
桂(肥前伊東の家を継ぐ者也、当時奧に居る)。知事浅択杏雲也、此名目は
七、八日前に定る所なりと云ふ。熟則は銘々の名前を書きし
札を朝五ツに奧へ出し置、夜五ツに其札を受取る也、
又、外出札といふ小札五枚ありて、他へ
朝より出て夜に入り帰るには、奧へ札に何月幾日
と別に紙札を付けて其度毎に差出し五枚の札の
外は他出不相成。又輪番にて調合所当番、夜火番
の者等何れも奥へ札を掛けて相勤むる也。塾則の
詳しき事は門人姓名録の初めに記す故に賛せず。
廿一日 暗薄暑
田上宇平太より塾則を示す。又奥へ出す札及外出の小札
を渡す。可読原書を示す。食堂の僕常……へ金五十疋を
達す。此ほ何れも入塾生の足りなりといふ。写本料の紙
類を買ひに出る。又湯島切通松之助店へ行、注文の硯を取
り来る。途中に益田遇所に遇ふ。上村周聘と上野山下伊
勢星へ至り飲む。坤輿図誌補篇を見る。
付り先生より……を出して図を写せと請ふ。此図銅板
にて其密なる事容易写すべきにあらヂ。丈た先生に
請ふて坤輿図説の補編を借る。
納富春入と井上友庵
納富春入は、諱敦行字順益、号杏園という。納富氏は桓武平氏の石見守教満(桓武天皇十二世門脇宰相平教盛の次男)を先祖にもち、泰巌公(龍造寺隆信)のときに武功あって、仕えたのだが、納富行寿のときにゆえあって禄を失った。その後、納富昌行のときに巍松公(9代佐賀藩主鍋島斉直)の恩命で家臣に復した。昌行は男子がなかったので、太田大夫(鹿島藩士太田氏)の家臣後藤政正の次男順益が15歳で養子となった。順益は、蓮池藩藩医で外科医の井上仲民に瘍科(外科)を学んだが、仲民らが早くなくなったために、紀州の華岡青洲の門に入った。青洲門人帳には、文政7年12月18日に、納富順益が入門したことが記されている。
順益は帰郷後その名声は高まり、巍松公(鍋島斉直)は天保3年(1832)に、春入という名を与えたので、以後春入と称するようになった。ただ藩の節減策のため、藩医を免ぜられ、町医として各地を診察して歩いた。やがて、10代藩主鍋島直正に召し抱えられ、門人も育てた。
ところが、春入は肺を患って、嘉永7年(=安政元年、1854)11月5日に亡くなり、ここ泰順院に葬られた。57歳とあるので、寛政10年(1798)生まれとみる。墓碑にも同じ日付があるので、春入の法名は㬢陽院転徳厳道居士である。
春入の性格は、人のために寛大で、(おそらくみよりのない)子どもたちを育て、嫁をとったりさせた。その数10余名とある。
その次に、井上仲民の弟井上友庵との華岡家の医療伝授に関する会話がある。友庵は仲民に学んだあと華岡家に入門し、文政元年ごろ帰郷して、文政7年には佐賀藩医となっていた。春入(当時は順益)が、華岡青洲の乳ガンの血瘤を切った術を教えて欲しいというと、勤苦之末に学んだことで師弟としての誓約もあるので、教えるわけにはいかないと断った。順益は同門の兄弟子と思っていたのにと怒って、一人で華岡青洲のもとに入門したのだった。帰郷後、友庵が病気が重くなって臥せっているところへ出かけ、あのときは失礼した。おかげで一人前の医師になれたと深謝した。
春入には子がなく、横尾氏から養子をもらって跡を継がせた。これが納富順碩である。この碑は、春入の出た家である権藤氏と春入門人中島易春、松尾栄仙、井上玄澤、牟田逸庵、森玄白、武冨謙斎、塩田道圓、城島泰伯ら11人の連名で建てられた。碑文の最後に「窮理精通、能治難治」をあるのが、春入の理に通じ、外科的力量の高さを示している。
納富家の墓石の一角に、「桃里納富先生之墓」があった。春入のあとを継いだ春碩の碑を、中島春逸、牟田元定、松田革蔵、光武英房ら4人の門人名で建立したもの。この碑文によれば、春碩の諱は周行、通称春碩、号桃里、多久鍋島家の臣で横尾道伯の次男。弱冠にして、佐賀藩医松隈甫庵の門に学び、数年後に、納富春入の養子となった。家塾を開き、医業の名声も広まり、文久年中に佐賀藩御番医となり、藩主に扈従した。戊辰戦争においては従軍し、各地で銃創兵士らを治療して、同年10月に凱旋した。褒美として一〇石を賜った。明治8年(一八七五)に長子六郎にあとを譲り、明治二〇年(一八八七)九月1日に没した。六三歳だった。
左隣に■実道清馬居士とあり、大正四年(一九一五)八月二三日に亡くなっており、その子と見られる一露童子が大正元年九月二〇日に亡くなっている。これで外科医家納富家は絶えたとみられる。
順益は帰郷後その名声は高まり、巍松公(鍋島斉直)は天保3年(1832)に、春入という名を与えたので、以後春入と称するようになった。ただ藩の節減策のため、藩医を免ぜられ、町医として各地を診察して歩いた。やがて、10代藩主鍋島直正に召し抱えられ、門人も育てた。
ところが、春入は肺を患って、嘉永7年(=安政元年、1854)11月5日に亡くなり、ここ泰順院に葬られた。57歳とあるので、寛政10年(1798)生まれとみる。墓碑にも同じ日付があるので、春入の法名は㬢陽院転徳厳道居士である。
春入の性格は、人のために寛大で、(おそらくみよりのない)子どもたちを育て、嫁をとったりさせた。その数10余名とある。
その次に、井上仲民の弟井上友庵との華岡家の医療伝授に関する会話がある。友庵は仲民に学んだあと華岡家に入門し、文政元年ごろ帰郷して、文政7年には佐賀藩医となっていた。春入(当時は順益)が、華岡青洲の乳ガンの血瘤を切った術を教えて欲しいというと、勤苦之末に学んだことで師弟としての誓約もあるので、教えるわけにはいかないと断った。順益は同門の兄弟子と思っていたのにと怒って、一人で華岡青洲のもとに入門したのだった。帰郷後、友庵が病気が重くなって臥せっているところへ出かけ、あのときは失礼した。おかげで一人前の医師になれたと深謝した。
春入には子がなく、横尾氏から養子をもらって跡を継がせた。これが納富順碩である。この碑は、春入の出た家である権藤氏と春入門人中島易春、松尾栄仙、井上玄澤、牟田逸庵、森玄白、武冨謙斎、塩田道圓、城島泰伯ら11人の連名で建てられた。碑文の最後に「窮理精通、能治難治」をあるのが、春入の理に通じ、外科的力量の高さを示している。
納富家の墓石の一角に、「桃里納富先生之墓」があった。春入のあとを継いだ春碩の碑を、中島春逸、牟田元定、松田革蔵、光武英房ら4人の門人名で建立したもの。この碑文によれば、春碩の諱は周行、通称春碩、号桃里、多久鍋島家の臣で横尾道伯の次男。弱冠にして、佐賀藩医松隈甫庵の門に学び、数年後に、納富春入の養子となった。家塾を開き、医業の名声も広まり、文久年中に佐賀藩御番医となり、藩主に扈従した。戊辰戦争においては従軍し、各地で銃創兵士らを治療して、同年10月に凱旋した。褒美として一〇石を賜った。明治8年(一八七五)に長子六郎にあとを譲り、明治二〇年(一八八七)九月1日に没した。六三歳だった。
左隣に■実道清馬居士とあり、大正四年(一九一五)八月二三日に亡くなっており、その子と見られる一露童子が大正元年九月二〇日に亡くなっている。これで外科医家納富家は絶えたとみられる。
解体新正図
◆『石崎家の医療史』(石崎道治、自家版、11ページ、2016年5月)(写真1)が出た。壬生歴史民俗資料館で「石崎氏3代」展示(5月21日から6月26日)にあわせて、図録風にまとめたもの。石崎家は18世紀後半から医師となり、4代石崎正達が、天保11年(1840)に、二代目斎藤玄昌とともに、壬生上河岸の刑場で解剖を行い、八葉の解剖図からなる『解体正図』を作成しています。この図は現在は浜松医科大学付属図書館に所蔵されており、写本が獨協医科大学にも所蔵されています。この『解体正図』作成にあたり、参考にしたのは、宇田川榛斎『医範提綱』の内象銅版図のようです。◆7年ほど以前に、『江戸時代の医学』の執筆のために壬生歴史資料館を訪ねて、この『解体正図』と関連史料について調査させていただきました。◆そして明治3年に下野仁良川で田谷隆輔を会主として解剖が行われ、その解剖図が、『解体正図』を模した8葉の『解体新正図』として作成されており、今回、野中烏犀圓調査のさなかにその『解体新正図』が野中烏犀圓に所蔵されていたことがわかり、私が、日本医史学会で発表したことで、『解体正図』と『解体新正図』をめぐる交流がふたたび始まったわけです。◆壬生歴史民俗資料館の中野正人さんによれば、「当館で確認している「解体新正図」は2点、1点は別添のとおり、旧壬生藩領の川中子村の医師永井家に保管されていたものです。もう1点は栃木県立博物館が購入したものです。形態は冊子ではなく巻子になったもの(木片で作られた位牌付)です。」とのことで、野中家本を加えると全国に3点ということのようです。◆中野さんによれば、「なお、現在確認しております「解体正図」は5点(内1点は明治8年に筆写されたもの)」とのことです。◆壬生歴史資料館本’(写真2)と野中家本(写真3)を比較すると、ほぼ内容は同じなのですが、図の構成が一部異なります。むしろ野中家本の写本はとても彩色が鮮やかで、もしかするとこれが原本かもしれません。時間のあるときにそのへんの違いを調査したいと思います.
解剖の歴史 彦根藩 吉雄耕牛 峯源次郎
◆日本医史学会において、私が司会をしたのは解剖をめぐるセッションであった。加藤公太「一九世紀ヨーロッパにおける美術解剖図譜の歴史」は、医学の周辺領域としての美術解剖学の歩みを紹介した。19世紀末期になると、これまでの情報を編纂し体系化した書籍があらわれ、とくに、フランスの美術解剖家リシュ『美術解剖学ー人体の外形と解説』が久米桂一郎によりわが国に紹介されたことを報告した。◆久米桂一郎は、佐賀出身歴史家久米邦武の子として、佐賀城下八幡小路に生まれた。1886年(明治19年)には絵画修業のため私費でフランスに渡り、黒田清輝とともにアカデミー・コラロッシのラファエル・コランに学んだ。フランスを中心に、バルセロナなども歴訪し、帰国後の1894年(明治27年)には黑田とともに絵画指導のため画塾「天真道場」を開き、1896年(明治29年)には黒田らと白馬会を結成し、1897年(明治31年)には東京美術学校の西洋画科でも後進の指導に当たった。わが国の西洋画教育の先駆者であるとともに美術解剖学の先駆者であったことを知ったことが収穫であった。佐賀藩の西洋医学導入の先駆性がこうした方面にも伝統として伝わっていたのだろう。◆佐藤利英・樋口輝雄「彦根藩解剖図解体記並圖」は、わが国解剖学史にこれまで知られていなかった寛政8年6月24日の刑屍体の解剖とその解剖図を紹介した。解剖図は藩医岡崎邦仲達によって「刑死人、屠者をして解体せしむ」などと記録され、図は仲達の弟の文徳が描き、刑屍体でありながら全身図を描いているのが特徴である。◆板野俊文「江戸中期に長崎で行われた病理解剖の記録について」は、吉雄耕牛門弟合田強が、宝暦12年(1762)1月から閏4月まで吉雄塾成秀館に学び、その記録に「大病の死人は解いて病元をしることなり」とあり、解剖によって病原を知ることが大事で病理解剖を主張しているとし、「腹は金瘡のごとく縫いたるコキ也、△九月十、十一、十二、正、二、三月ノ間ニ解臓スルコト也」とあり、宝暦12年段階で、成秀館では、9月から毎月1回ずつ解剖をした、外国人風の解剖の胸の圖などもあると紹介した。しかし、紹介された図を見ると、少なくとも一回は解剖を実見したかもしれないが、毎月の解剖は解剖の許可がとても困難な時期でもあり、信じがたい、これは解剖に適する時期、すなわち腐敗の激しくなる真夏を避けて実施すべきことを記録したものと思う。現在、翻刻を進めている段階とのことなので、今後の研究の進展に期待したい。◆相川忠臣、ハルメン・ボイケルス、酒井シヅ「ポンペの解剖学講義録と佐藤尚中の組織学的研究」は、ポンペの門人で順天堂の佐藤尚中(たかなか)によるポンペの講義録の詳細な分析報告であった。ポンペの講義録の原書が、Bock。C.Hの著作で、Poll.P.Hによる蘭訳の人体解剖学書Handbock der ontleedkunde van den mensch であり、ポンペの講義ノートと佐藤尚中の現存する講義ノートである国会図書館蔵『朋百氏解剖書骨骸篇』や早稲田大学蔵『済衆録』との詳細な比較から、解剖学講義における組織学の内容が整備されたことを報告した。
私は、九州での解剖記録は、『明治前日本医学史』によれば、①文政2年(1819)の中津出身村上玄水が福岡で解剖実施、②文政6年(1823)1月、(久留米藩医)酒井元貞(義篤)が久留米郊外の尾島刑場で解剖。③天保12年(1841)1月、百武万里、武谷元立等が博多に於いて刑屍を解剖。④天保15年(1844)3月14日、市川保定、賀来佐一郎が島原郊外今村に於いて刑屍を解剖の4つが知られる。なお③の解剖については実施年代が文政5年、天保13年などの諸説あり、より正確な史料に基づいた研究が必要であるとし、好生館や大病院、札幌医学校での解剖を紹介した。
(1)(万延2年=文久元年、1861)の狗と人体解剖
• ①四月 April
朔晴、扶氏遺訓会讀社員解剖狗於五龍祠畔好生館教導職渋谷良次并指南役相良寛哉二氏亦来会、夜徃学
②九日晴、観人体解剖
(2)慶応2年11月8日の豚の解剖と12月6日の婦人解剖
①慶応2年11月)
• 八日晴、於好生館解剖豚余担当消食器事了館賜酒
② 十二月朔晴
• 六日晴、為婦人屍体解剖
•(3)好生館での慶応3年10月15日の豚の解剖
十五日晴、於好生館解剖豚、余担当頭部
(4)大病院(のちの東大医学部)での明治3年3月4日の解剖
(5)札幌医学校での峯源次郎の牛の解剖
について報告した。人体解剖の許可が難しいこと、また解剖用人体を入手困難な江戸時代から明治初期においては、動物解剖が行われていたこと、好生館では動物解剖は人体解剖とセットに行われていたことなどを紹介した。
ほかにも多くの発表に示唆をえること多く、実りのある医史学会であった。
私は、九州での解剖記録は、『明治前日本医学史』によれば、①文政2年(1819)の中津出身村上玄水が福岡で解剖実施、②文政6年(1823)1月、(久留米藩医)酒井元貞(義篤)が久留米郊外の尾島刑場で解剖。③天保12年(1841)1月、百武万里、武谷元立等が博多に於いて刑屍を解剖。④天保15年(1844)3月14日、市川保定、賀来佐一郎が島原郊外今村に於いて刑屍を解剖の4つが知られる。なお③の解剖については実施年代が文政5年、天保13年などの諸説あり、より正確な史料に基づいた研究が必要であるとし、好生館や大病院、札幌医学校での解剖を紹介した。
(1)(万延2年=文久元年、1861)の狗と人体解剖
• ①四月 April
朔晴、扶氏遺訓会讀社員解剖狗於五龍祠畔好生館教導職渋谷良次并指南役相良寛哉二氏亦来会、夜徃学
②九日晴、観人体解剖
(2)慶応2年11月8日の豚の解剖と12月6日の婦人解剖
①慶応2年11月)
• 八日晴、於好生館解剖豚余担当消食器事了館賜酒
② 十二月朔晴
• 六日晴、為婦人屍体解剖
•(3)好生館での慶応3年10月15日の豚の解剖
十五日晴、於好生館解剖豚、余担当頭部
(4)大病院(のちの東大医学部)での明治3年3月4日の解剖
(5)札幌医学校での峯源次郎の牛の解剖
について報告した。人体解剖の許可が難しいこと、また解剖用人体を入手困難な江戸時代から明治初期においては、動物解剖が行われていたこと、好生館では動物解剖は人体解剖とセットに行われていたことなどを紹介した。
ほかにも多くの発表に示唆をえること多く、実りのある医史学会であった。
新刊紹介:近代医学の先駆者ーハンターとジェンナー
山内一也『近代医学の先駆者』(岩波書店、2016年1月20日、1900円+税)が出た。18世紀からの自然誌(博物学)の興隆が近代医学を変えたという流れから、解剖医ハンターとその弟子である種痘の発見者ジェンナーの生涯と業績を、種痘史とともに紹介しているのが本書の特徴である。
本書は、「自然誌は紀元前4世紀、アリストテレスの時代に始まり、その対象としてなる自然は鉱物、植物、動物、人間の四界に分けられていた。15世紀に始まった大航海時代に入って、自然誌は大きな転換期を迎えた。」として、スウエーデンのリンネによる『自然の体系』(1735)、フランスのビュフォンによる『自然誌』(1749)への流れを紹介。
ジェンナーの師ハンターもこの自然誌研究の流れのなかで、20歳のときから12年間で2000体以上の人体解剖を実施した。この彼の行為は、『ジキル博士とハイド氏』の物語を生み出し、一方別邸での数多くの動物との生活は、『ドリトル先生』のモデルともなった。
ジェンナーの研究は、恩師ハンターから受け継いだナチュラリストとしての姿勢に支えられ、牛痘の研究を開始し、牛痘種痘の予防効果を証明したのあるとしている。
本書の構成は、プロローグ、第1章近代医学以前ー天然痘の脅威ー、第2章ドリトル先生の時代、第3章ジェンナーと天然痘、第4章ジェンナーが残してくれたものー古典的医術から近代医学へ、第5章日本の近代医学と牛痘種痘、第6章、ジェンナーの予言ー天然痘の根絶とある。
プロローグは、孝明天皇の天然痘罹患とその直後の死去というエピソードから始まる。天皇拝診日記は、侍医であった伊良子光順がつけており、そのひ孫の伊良子光孝医師が、『医譚』に報告した内容(伊良子光孝「天皇拝診、孝明天皇拝診日記(2)」(『医譚』復刊、47。48、2877~2894、1976)に掲載されており、孝明天皇の天然痘罹患の状況が克明に記録されている。医師団天然痘の日取書(経過予定表)を作成し、23日には発疹が膿疱となり、ほぼ日取書通りに、順調に回復したとみられていたところ、突然、24日になって高熱、強い吐き気、痰が出て意識不明となり、25日に崩御された。天然痘の悪性の出血性のものか、一方で毒殺説も強く、いまだ定説はないとしている。
日本への牛痘種痘への伝播についても、ブロムホフの我が国への痘苗移入の努力も触れており、さらに嘉永2年の佐賀藩による牛痘種痘の導入については、添川正夫『日本痘苗史序説』(近代出版、1987)、およびアジャネッタ(廣川和花・木曽明子訳)『種痘伝来』(岩波書店、1946)に依って、日本最初の牛痘種痘接種の成功した日を、和暦で嘉永2年6月26日と特定しており、基本的な伝播経路についてもほぼ正しい。
ただ、種痘の伝播について、より正確な経路を記しておくと、筆者が、直正が派遣した藩医大石良英が、種痘児を連れて佐賀城下にやってきて、そのまま佐賀城下で種痘を開始したというのは間違いで、じつは、大石良英が長崎に派遣されたことは正しいのだが、長崎での種痘の成功を直正に報告するために、いったん佐賀城下に戻っており、その後、楢林宗建が種痘児を連れて8月4日に長崎を出発し、8月6日に佐賀城下に到着し、8月7日にまず藩医大石良英と島田南嶺の子に、佐賀城下呉服町の本陣で接種したのである(拙著『伊東玄朴』、佐賀城本丸歴史館、2014)。その後、多久領主の子萬太郎に接種して、善感した「よい種」を藩主子淳一郎に接種したのである。藩主子に接種したのは、おそらく侍医の大石良英であろう。宗建も立ち会っていたことは想像に難くない。こうして宗建は、大石良英や島田南嶺らに、種痘技術を伝播して、淳一郎への接種の善感を確認後、藩主からお褒めの言葉と金30両を受けて、8月28日に佐賀城下を発ち、29日に長崎に戻っているのである。やはり、長崎での種痘開始とその後については、きちんと論考で紹介しておく必要を改めて感じている。
いずれにしても、旧来の種痘研究書のなかでも、本書は、最新の研究成果に基づき、自然誌研究の発達のなかに牛痘種痘の発明と伝播を位置づけて、その広がりを客観的に述べていることにより、基本書の一つとして今後活用されよう。
本書は、「自然誌は紀元前4世紀、アリストテレスの時代に始まり、その対象としてなる自然は鉱物、植物、動物、人間の四界に分けられていた。15世紀に始まった大航海時代に入って、自然誌は大きな転換期を迎えた。」として、スウエーデンのリンネによる『自然の体系』(1735)、フランスのビュフォンによる『自然誌』(1749)への流れを紹介。
ジェンナーの師ハンターもこの自然誌研究の流れのなかで、20歳のときから12年間で2000体以上の人体解剖を実施した。この彼の行為は、『ジキル博士とハイド氏』の物語を生み出し、一方別邸での数多くの動物との生活は、『ドリトル先生』のモデルともなった。
ジェンナーの研究は、恩師ハンターから受け継いだナチュラリストとしての姿勢に支えられ、牛痘の研究を開始し、牛痘種痘の予防効果を証明したのあるとしている。
本書の構成は、プロローグ、第1章近代医学以前ー天然痘の脅威ー、第2章ドリトル先生の時代、第3章ジェンナーと天然痘、第4章ジェンナーが残してくれたものー古典的医術から近代医学へ、第5章日本の近代医学と牛痘種痘、第6章、ジェンナーの予言ー天然痘の根絶とある。
プロローグは、孝明天皇の天然痘罹患とその直後の死去というエピソードから始まる。天皇拝診日記は、侍医であった伊良子光順がつけており、そのひ孫の伊良子光孝医師が、『医譚』に報告した内容(伊良子光孝「天皇拝診、孝明天皇拝診日記(2)」(『医譚』復刊、47。48、2877~2894、1976)に掲載されており、孝明天皇の天然痘罹患の状況が克明に記録されている。医師団天然痘の日取書(経過予定表)を作成し、23日には発疹が膿疱となり、ほぼ日取書通りに、順調に回復したとみられていたところ、突然、24日になって高熱、強い吐き気、痰が出て意識不明となり、25日に崩御された。天然痘の悪性の出血性のものか、一方で毒殺説も強く、いまだ定説はないとしている。
日本への牛痘種痘への伝播についても、ブロムホフの我が国への痘苗移入の努力も触れており、さらに嘉永2年の佐賀藩による牛痘種痘の導入については、添川正夫『日本痘苗史序説』(近代出版、1987)、およびアジャネッタ(廣川和花・木曽明子訳)『種痘伝来』(岩波書店、1946)に依って、日本最初の牛痘種痘接種の成功した日を、和暦で嘉永2年6月26日と特定しており、基本的な伝播経路についてもほぼ正しい。
ただ、種痘の伝播について、より正確な経路を記しておくと、筆者が、直正が派遣した藩医大石良英が、種痘児を連れて佐賀城下にやってきて、そのまま佐賀城下で種痘を開始したというのは間違いで、じつは、大石良英が長崎に派遣されたことは正しいのだが、長崎での種痘の成功を直正に報告するために、いったん佐賀城下に戻っており、その後、楢林宗建が種痘児を連れて8月4日に長崎を出発し、8月6日に佐賀城下に到着し、8月7日にまず藩医大石良英と島田南嶺の子に、佐賀城下呉服町の本陣で接種したのである(拙著『伊東玄朴』、佐賀城本丸歴史館、2014)。その後、多久領主の子萬太郎に接種して、善感した「よい種」を藩主子淳一郎に接種したのである。藩主子に接種したのは、おそらく侍医の大石良英であろう。宗建も立ち会っていたことは想像に難くない。こうして宗建は、大石良英や島田南嶺らに、種痘技術を伝播して、淳一郎への接種の善感を確認後、藩主からお褒めの言葉と金30両を受けて、8月28日に佐賀城下を発ち、29日に長崎に戻っているのである。やはり、長崎での種痘開始とその後については、きちんと論考で紹介しておく必要を改めて感じている。
いずれにしても、旧来の種痘研究書のなかでも、本書は、最新の研究成果に基づき、自然誌研究の発達のなかに牛痘種痘の発明と伝播を位置づけて、その広がりを客観的に述べていることにより、基本書の一つとして今後活用されよう。
井上友庵の医療道具 膏薬鍋
井上友庵の医療道具(10) 膏薬鍋
◆友庵は「但シ赤金 一 膏薬鍋 壱ツ 代五拾匁」 と、膏薬鍋を注文しています。膏薬を練りあげるための鍋です。
◆華岡青洲が、中国の医書『外科正宗』に記されている潤肌膏をもとに創案した膏薬を紫雲膏といい、現在でも成分は少し変わりましたが販売されています。
◆『浅田宗伯処方全集』前編304頁)には、「紫雲(一名潤肌湯)、肌を潤し、肉を平にす。瘡痕の色変ずる者、これを貼りて常に復す」とあります。
◆しもやけ(ひび・あかぎれ)・うおのめ(鶏眼)・あせも(汗疹)・ただれ・外傷・火傷(熱傷)・かぶれ(接触皮膚炎)などの皮膚病や外傷のほか、痔などにも使用され、漢方薬でも最も有名な膏薬の一つです。
◆原材料は、胡麻油(100.0)、紫根(シコン、10.0)、当帰(トウキ、10.0)、黄蝋(オウロウ、 38.0)、豚脂(トンシ、2.5)の割合で、練り合わせて製造します。
◆痔核による疼痛・肛門裂傷などにも適用されます。原材料の紫根は痔疾治療内服薬である「ボラギノール」にも処方されており、痔にはボラギノールというのもあながち誇張広告とはいえないようです。
◆あかぎれといえば、思い出すのが「かあさんの歌」1956年作・窪田聡作詞・作曲の3番です。
かあさんの あかぎれ痛い
生みそをすりこむ
根雪もとけりゃもうすぐ春だで
畑が待ってるよ
小川のせせらぎが聞こえる
なつかしさがしみとおる
◆今では、あかぎれをしている女性はほとんどみかけません。あかぎれに生味噌をすりこむなんてひりひりして痛いようですが、そういう治療法をしていた地方もあったようです。ちなみに作詞・作曲の窪田聡(1935~)さんは東京生まれですが、戦時中に長野県の信州新町にある実父の実家に疎開しています。おそらくそこで見聞した治療法や体験、情景が、この歌に反映したのではでないでしょうか。なお、あかぎれの手で生味噌をするという解釈もあるようですが。
◆そういえば、私の幼い頃、父が手やかかとにひび・あかぎれに悩んでいたとき、火箸でそのあかぎれに、透明な感じの塗り薬を塗り込んでいたことを思い出しました。紫雲膏だったらもっと効果があったかもしれません。
◆友庵は「但シ赤金 一 膏薬鍋 壱ツ 代五拾匁」 と、膏薬鍋を注文しています。膏薬を練りあげるための鍋です。
◆華岡青洲が、中国の医書『外科正宗』に記されている潤肌膏をもとに創案した膏薬を紫雲膏といい、現在でも成分は少し変わりましたが販売されています。
◆『浅田宗伯処方全集』前編304頁)には、「紫雲(一名潤肌湯)、肌を潤し、肉を平にす。瘡痕の色変ずる者、これを貼りて常に復す」とあります。
◆しもやけ(ひび・あかぎれ)・うおのめ(鶏眼)・あせも(汗疹)・ただれ・外傷・火傷(熱傷)・かぶれ(接触皮膚炎)などの皮膚病や外傷のほか、痔などにも使用され、漢方薬でも最も有名な膏薬の一つです。
◆原材料は、胡麻油(100.0)、紫根(シコン、10.0)、当帰(トウキ、10.0)、黄蝋(オウロウ、 38.0)、豚脂(トンシ、2.5)の割合で、練り合わせて製造します。
◆痔核による疼痛・肛門裂傷などにも適用されます。原材料の紫根は痔疾治療内服薬である「ボラギノール」にも処方されており、痔にはボラギノールというのもあながち誇張広告とはいえないようです。
◆あかぎれといえば、思い出すのが「かあさんの歌」1956年作・窪田聡作詞・作曲の3番です。
かあさんの あかぎれ痛い
生みそをすりこむ
根雪もとけりゃもうすぐ春だで
畑が待ってるよ
小川のせせらぎが聞こえる
なつかしさがしみとおる
◆今では、あかぎれをしている女性はほとんどみかけません。あかぎれに生味噌をすりこむなんてひりひりして痛いようですが、そういう治療法をしていた地方もあったようです。ちなみに作詞・作曲の窪田聡(1935~)さんは東京生まれですが、戦時中に長野県の信州新町にある実父の実家に疎開しています。おそらくそこで見聞した治療法や体験、情景が、この歌に反映したのではでないでしょうか。なお、あかぎれの手で生味噌をするという解釈もあるようですが。
◆そういえば、私の幼い頃、父が手やかかとにひび・あかぎれに悩んでいたとき、火箸でそのあかぎれに、透明な感じの塗り薬を塗り込んでいたことを思い出しました。紫雲膏だったらもっと効果があったかもしれません。
井上友庵の歯科道具
井上友庵の医療道具(9)歯科道具
◆友庵は口中科(歯科、舌診など)関係の道具を購入しています。「一 口中三ツ道具 代拾匁五分、 一 口中焼金 壱本 代四匁五分、 一 焼金 但品々取合 六本 代三拾七匁、 一 口中吹筒 尤真鍮 壱本、代四匁五分、 一 口中剃刀 壱挺、代弐拾五匁」と、三つ道具のほか、口中焼金1本、口中吹筒 真鍮1本、口中剃刀1挺などです。
◆三つ道具とは焼金や口中針(歯間掻き用)・刺針でしょう。下の写真は金沢の鉄商鶴屋和作が作成した『外療道具見本帳』(文化8年=1811)からです。鶴屋和作は、京都の華岡流外科道具をモデルに、さまざまな医科道具を作って販売をするためにこの見本帳を作成しました。見本となったのは、ヒストロスなどがみられるので、おそらく真龍軒安則の医科道具と考えられます。文化年間になると、地方医師の増加により、京都以外に医科道具の需要が高まり、製造拠点が広がったことがわかります。
◆参考までに、文化7年の金沢の町方人口が5万6000人ほど(『金沢市史』)で武家人口もあわせると10万人を越えていたでしょう。別の調査では、1850年ごろ、江戸1150000人、大坂330000人、京都290000人、名古屋116000人、金沢118000人(斎藤誠治, 「江戸時代の都市人口」、 『地域開発』、 9月号、 pp. 48–63 、1984)ですので、これらの都市には、こうした外科道具屋が存在していたことでしょう。
◆焼金は、焼いて歯にあて治療するための道具で、40歳以上の者には、焼き金をよく焼いてジリジリというほど傷む歯に直接あてるとされ、1日2回施術をする。女子や臆病者には軽くあてるとあります(『口中秘嚢』)。
◆刺針は歯疳(潰瘍性歯齦炎)などの場合、歯齦(はぐき)の皮に浅く刺して、一日に一度血を取り、胆礬(銅鉱石中に自然に精製する藍色のガラス状結晶顆粒で含水硫酸銅 CuSO4・5H2O の結晶)や乳香散(口中一切之薬)などの薬を付けます。あるいは、宣露(歯肉の大きな腫れ)には、歯根に対して銅の焼金であたため薬を付けます。舌の腫れなどにも針を使いますが、口には、上唇と下唇、上下腮(えら)の綿肉、奥歯のない部位などは針を使ってはいけないとされます。
◆口中吹筒は、口内の患部に薬を吹き付けるために使います。口中剃刀は、歯肉や舌の腫瘍などを切るときに使うのでしょうが、1挺25匁と結構高価なので、かなり特殊な剃刀だったと推察されます。(1両を60匁とすると12分の5両。1両を10万円とすると、42000円程度になります。)
◆痛む歯は最終的には抜くことが基本でしたから、抜歯の道具も発達しました。いまでいうペンチや釘抜きのようなもので抜くのですがかなり痛いようです。抜歯後の止血薬には、蜀椒(ショクショウ、さんしょうのこと、歯痛によし)、モグサ(止血)などを使います。
◆抜歯が続くと、結局、入歯が必要になります。日本の入歯技術は高いものがありますが、入歯の話(はなし)は、なしにして後日はなしましょう。では。
井上友庵の系図
井上友庵の系図
◆佐賀県立図書館に、鍋島家文書のコピー複製本があり、そのなかの『系図(イの部)2』に、井上友庵の系図がみつかった。それによると、井上友庵は寛政9年(1797)5月6日生まれで、兄仲民にしたがい外科医術を学び、上達したので文化11年(1814)5月1日に鍋島摂津守(8代蓮池藩主鍋島直与)に切米21石で召し抱えられた。紀州華岡家に学び、帰国後も手広く医療を行っていたが、兄仲民がなくなったので、その遺児仲乙を助け、佐賀城下へ参って、病家の治療にあたった。その功績のため、文政7年申3月に、外科医術をもって、佐賀藩から切米20石を一代拝領し、巍松院(第9代佐賀藩主鍋島斉直)と奥方の侍医となった。実子がいないので、文政11年(1828)になくなる直前に、門弟として養育していた徳永徹兵衛の次男庸精を養子にした。同年5月18日に39歳で亡くなり、神埼郡箱川妙雲寺に葬られた。法名は友補浄庵とある。◆ようやく、外科医友庵の生涯の全体像が見えてきた。さて、神埼の妙雲寺へ早速でかけなくちゃ。明日の午後にでもでかけて、友補浄庵のお墓を探すとしよう。
◆佐賀県立図書館に、鍋島家文書のコピー複製本があり、そのなかの『系図(イの部)2』に、井上友庵の系図がみつかった。それによると、井上友庵は寛政9年(1797)5月6日生まれで、兄仲民にしたがい外科医術を学び、上達したので文化11年(1814)5月1日に鍋島摂津守(8代蓮池藩主鍋島直与)に切米21石で召し抱えられた。紀州華岡家に学び、帰国後も手広く医療を行っていたが、兄仲民がなくなったので、その遺児仲乙を助け、佐賀城下へ参って、病家の治療にあたった。その功績のため、文政7年申3月に、外科医術をもって、佐賀藩から切米20石を一代拝領し、巍松院(第9代佐賀藩主鍋島斉直)と奥方の侍医となった。実子がいないので、文政11年(1828)になくなる直前に、門弟として養育していた徳永徹兵衛の次男庸精を養子にした。同年5月18日に39歳で亡くなり、神埼郡箱川妙雲寺に葬られた。法名は友補浄庵とある。◆ようやく、外科医友庵の生涯の全体像が見えてきた。さて、神埼の妙雲寺へ早速でかけなくちゃ。明日の午後にでもでかけて、友補浄庵のお墓を探すとしよう。