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新刊紹介、高橋敏『江戸の平和力』(
◆江戸時代と現代を考えるとき、この本の提供する視角は貴重である。高橋敏『江戸の平和力』(敬文舎、2015年12月11日、2400円+税)である。氏は口絵の「蚕あがりの図」の解説で次のように述べている。◆「江戸時代の農業は米作一色では決してなかった。民富を押し上げたひとつが養蚕であった。蚕は卵から孵化し、桑の葉を食べて成長し、脱皮を繰り返したのち繭をつくる。蚕が自然にやるわけではない。お蚕さんは、村を挙げ、農家総動員で育てたのである。赤城型民家の風通しのよい二階の蚕室でたっぷり桑の葉を与えられた蚕は、マブシという繭をつくらせるための器具に移され、糸を吐いて繭を産出していく。待ちに待った現金収入になるマユカキ(収繭)のときがきたのである。マブシから繭を抜き出して蚕籠にひろげ、ケバを取った繭が山積みにされ、売り手市場の「蚕あがりの図」の情景となる。農家の庭先には繭の買い付けに諸国の生糸仲買人が詰めかけている。忙しそうに立ち働いているのは女性である。きびしい養蚕の労働を支え、切り盛りしたのは女性である。蚕繁昌の国上州のカカア天下はここに由来する。江戸の平和の養蚕農家の一場面である。」◆「きびしい養蚕の労働を支え、切り盛りしたのは女性である。蚕繁昌の国上州のカカア天下はここに由来する」とある一節にこの本の意図が込められている。◆つまり単純な男尊女卑観だけでは江戸時代の女性像は語れませんよ、農民層分解による貧窮農民と領主層の対立という視座だけでは、江戸時代の平和や民富の形成、庶民文化の豊かさを説明できませんよ、と言っているのである。◆著者はこの視点で、「蚕繁昌の国上州」を舞台に、「乱世の記憶と平和への願い」、「田畑を所有し家を建て先祖を祀る」、「一人前と読み書き算用ー後継者の育成」、「拝領と献上ー贈答・互酬の社会」、「紛争とその収拾」、「支配秩序とアウトロー」、「結社とネットワーク社会の江戸」、「旅する人びと」、「辞世を刻む」と、江戸人のもつ文化の多様性、豊かさを描き出している。◆ただ、この情景は、養蚕業の発達した中部から東日本においては理解しやすいのだが、たとえば、佐賀ではどうかというと、これがどうにも一筋縄ではいかない。佐賀の近世女性史研究は、私の勉強不足もあるが、皆無といってもよい。なぜか。佐賀においては、江戸時代の女性の労働や学問・文化はどのようであったのか、そういう視点からの女性史研究が史料不足もあり、描き出されていない。今後の研究の大きな課題だろう。◆本書の提示するさまざまな庶民生活と文化の諸相と、読者の居住する地域史との比較によって、我が国近世地域史が豊かに描かれていくのではないか、また現代との比較によって我が国の平和とはどうあるべきかなどの示唆に富む書物である。
新刊紹介 備前岡山の在村医 中島家の歴史
◆『備前岡山の在村医中島家の歴史』(中島医家資料館・中島文書研究会編・思文閣出版、2015年11月21日、10000+税別、301頁)が出た。◆御当主の中島洋一氏の著した「中島家の歴史」のほか、松村紀明「地域医療研究の端緒としての中島家文文書」、木下浩「中島友玄と岡山県邑久郡における江戸末期から明治初期の種痘」、梶谷真司「事業者としての友玄ー製薬業からみた中島家の家業経営」、町泉寿郎「中島宗仙・友玄と一九世紀日本の漢蘭折衷医学」、清水信子「『胎産新書』諸本について」、鈴木則子「『回生鈎胞代臆』からみた中島友玄の産科医療」、平崎真右「地域社会における宗教者たち」、黒澤学「中島乴と明治期岡山の美笑流」などの論考と、史料解説、蔵書目録、中島家年表などからなる岡山邑久郡の在村医中島家の歴史を総合的に調査した研究報告書である。◆同家は300年前の大工職中島多四郎の子友三が一代限りの俗医(在村医)として医家となり、友三の子玄古の時代に専業医となった。18世紀後半、玄古の子宗仙の代には、京都で吉益南涯に古方を、長崎で西洋医学を学ぶようになった。宗仙の子友玄は、京都にでて、吉益北州に古方を、小石元瑞に漢蘭折衷などを学び、幕末期には、内科・外科医の医業のほかに、鍼灸治療や売薬業でも手広く営業し、明治5年には種痘医としても活動した。◆まさに、庶民が医師と医薬による医療を望むようになった時期から在村医が創出されるようなるのだが、中島医家もまたその流れに沿っていた。西洋医学が浸透しはじめると在村の漢方医らも蘭方を取り入れるようになるのだが、中島家もまた漢蘭折衷医としての医療活動を展開するようになる。中島家の歴史から、江戸時代医学史が見えてくる。同家には大量の医薬書のほか、診療記録、配剤記録、医療器具も残されている。◆在村医としての中島家の活動が、医薬書や配剤記録などとともに研究がさらに進展することで、江戸時代の在村蘭学の潮流と地域医療の近代化、庶民の知的水準の高まり・文化的傾向もまた明らかになることになる。多くの人々の目に触れてほしい本であり、医学史・文化史研究に寄与することの多い本である。
犬塚の話
◆本日は日本医史学会や洋学史学会など6つの医学史系歴史学会の合同研究会。順天堂で開かれた。さすがに面白い話がいくつか出てきた。たとえば獣医史学会理事長の小佐々さんは、犬塚の話をしてくれた。◆小佐々さんの先祖は中浦氏という大村藩以前の地域領主で、中浦ジュリアンの子孫にあたる。大村藩3代藩主にお守り役で仕えていた小佐々市右衛門前親(あきちか)が、3代藩主が早くなくなったので慶安3年(1650)に殉死したところ、かわいがっていた愛犬華丸も主人のあとを追って火葬の燃えさかる火のなかに飛び込んで「殉死」した。◆残った人々は小佐々市右衛門のお墓の隣に武士道の鑑として華丸の墓を建てた。市右衛門の墓は3mの大型墓。華丸の墓は90㎝だが、この待遇は当時の上級武士扱いという。大村市本経寺にあり、なんと国史跡になっている。大村市は動物愛護発祥の地として売り出したい模様。◆お見事、忠犬華丸の墓と言いたいところだが、小佐々さんは、それは違うという。義犬が江戸時代に使われていた用語であり、忠犬ハチ公の主人(東京帝国大学農学部教授の上野英三郎)が、大学で脳溢血でなくなったのは1925年のことで、それからしばらくしてハチの渋谷駅通いが始まるのだが、野犬に襲われたり、子供にいじめられたりしても通いつづけるハチのことが、次第に話題になったので、政府がこの犬の忠義さを国家に忠誠を尽くす臣民の模範、臣民は親である天皇の恩を忘れるなということで、マスコミを動員して、忠犬なる用語とハチ公伝説をつくりあげたのだという。◆その真偽はともかく、たしかに江戸時代は義犬と呼ばれ、小佐々さんの調査で、義犬の墓が9カ所あげられていた。大村藩以外に、九州では雲仙温泉に加藤小左衛門の義犬矢間の墓がある。大村市の華丸の墓と雲仙温泉の矢間の墓を折りがあったら探してみようと思う。◆参考までにほかの義犬の墓は次の通り。貞享年間ごろ、長岡市悠久町に義狗の墓として牧野忠辰の義犬「かふ」の墓。1835(天保6)年、東大阪市梅竜山勧成院に暁鐘成の義犬「皓(しろ)」の墓。1858(嘉永6)年、高知県安芸市井ノ口に横田三平の義犬「赤」の墓。1860(万延元)年、熱海市上宿町大湯間欠泉跡オールコックの愛犬「トビー」の墓。1866(慶応2)年、墨田区両国回向院に火消しのは組の幹部新吉の唐犬「八(はち)」の墓。1869(明治2)年、宮崎市佐土原町高月院に佐土原藩主夫人島津随真院の義犬「福」の墓。1876(明治9)年、熊本藩神風連の反乱士族の小篠源三の義犬「虎」の墓などが全国にある。
適塾48号
◆適塾48号が届いた。内容が一新され充実している。いくつか興味ある論考が目に付いた。木村直樹「「華夷変態」から蘭学へ」は、17世紀の明清交替という「華夷変態」と日本近海における紛争激化に触れ、18世紀の安定したアジアの海の鎮静化により蘭学へのまなざしが醸成され、海防のための基礎科学として天文学・軍事科学・基礎科学・医学・地理学などを学ぶために、本格的に蘭学が受容されるようになり、19世紀の本格的な蘭学の、政治性と軍事性を帯びた展開へとつながるとした。外的条件だけでなく、蘭学受容の内発的欲求、知的状況についての分析もほしいと感じたのだが、とても明晰な論考であった。◆村田路人「幕末期大坂地域と洪庵・適塾ー種痘事業を中心に-」は、大坂には個別領主支配と幕府広域支配の二つの支配が展開していたこと、嘉永2年牛痘伝来以後洪庵らの種痘事業が、安政5年(1858)除痘館が官許となるにいたり、種痘事業が個別領主支配下領域において実施されたこと、慶応3年5月の除痘館の公官化により、それまでとは質の異なる広域的な種痘行政が出現したことなどを述べている。また廣川和花氏は、海原亮『江戸時代の医師修業、学問・学統・遊学』の書評を載せている。海原氏は、「学問」「学統」「遊学」によって形成される医師の修学形態の解明から江戸時代の「医療環境」の成り立ちを論じているとした。海原氏の「医療環境」論は、医療を「医者・患者・病気」の複合体である「ヒポクラテスの三角形」の概念でとらえ、それらを含む要素の総合的研究へと変容しつつあるとした。とくに本書では、近世日本の医者の専門的医学教育システムの解明を行ったとしている。評者はヨーロッパにおける18世紀後半からの医療・教育・臨床の場としての「病院」の意義を紹介し、著者の医師の臨床教育が「遊学」先の私塾やその往診先であったことに、近世日本の医療を特徴づける点の一つであったとする。近世日本の医学史研究にヨーロッパとの比較史の視点と、近世・近代の「断絶」との視点、とくに「病院の不在」をあげているのは、書評を超えた論考になっているともいえよう。近世日本医学史研究に寄与することの多い鋭い指摘である。
鍋島直正とボードウイン
直正公とボードイン、その1
先に「診察御日記」において明治3年段階でのボードインの治療を見た。
じつは、『鍋島直正公伝』五編には、ボードインの来日と佐賀藩医の入門、ボードインの直正公診察関連記事が出ているので抜き書きしてみる。
◆文久2年の記事をみると、ボードインの来日と入門した佐賀藩医相良弘庵(知安)、島田芳橘、永松東海、江口梅亭らの入門記事がある。
「かくて戸塚文海来りて松本(良順)に(長崎病院院長を)代るとともにポンペも又帰国して、ボードイン之に代りたりしが、其技術に精なる名声隆々たるものありしを以て、我(佐賀藩)医生の往いて入校するもの益々多きを致せり。佐嘉の医生中、相良弘庵(のち知安)、福地文安は俊才を以て、曩年(先年)上国に遊学を命ぜられ氏が、名医道林の子にして篤学、精力他にすぐれ、究むる所は遂げずんば止まざる概ありし福地は、大坂に赴き緒方洪庵に学びて有名なりしも、不幸にして病に斃れたり。相良は江戸に赴き佐藤泰順(佐藤泰然の誤り)に学びたりしが、気力辨才に逞しきより交友を広め
て帰り、次で長崎にボードインに就いて学術を弘めて医生を鼓吹せり。かくて戸塚に代わりて院長となり、我生徒の島田芳橘、永松東海(玄洋の子)、江口梅亭等の名医を養成したりしかば、長崎病院の名声はために益々高くして起死回生の誉を得たりき。(489ページ)
◆同年の5月19日に(直正は)電流丸に乗って深堀に着き、翌々日(5月21日)、長崎五島町の深堀邸にボードインの診療をうけ、5月23日にも、再びボードインの診療を受けた。ボードイン、は薬に頼るよりも、まず滋養のあるものを取ることが大事である、なるべく肉食がよいと勧めた。が、牛羊の肉は慣れないから嫌だと直正がいうので、西洋料理も軽く茶菓ですませて、ボードインは、今後、なるべく野鳥の肉やスッポンなどを食べることをすすめた。
「胃腸衰弱のために節制栄養に専念せらるる公は、或は城下を騎馬にて乗り廻り」(493ページ)・・・「公は静養に専意せられたりしも、更に衰弱の恢復を見られざりしかば、松隈元南、大石(良英)の死後より執匙たりしも、更に長崎在留の蘭医ボードインの治療を受けらるるに決し、よりて先づ相良弘庵を呼び寄せて診察せしめられしに、弘庵は憚らず公の患部に於る現状を言ひ、静養を怠らば、病勢はますく深きを加ふべし、断然ボードインに診察せしめて処方を受けらるべしと勧告せり。是に於て其手続きをなしたる上、公は五月十九日より近侍七八人を従へて、騎馬にて三重津に赴き、蒸気船電流丸に搭乗、早崎、野母崎を過ぎて、薄暮深堀の千本港に着し、邑主深堀左馬介の別邸に入られしが、二十一日長崎に渡り、五島町の深堀邸にボードウインを招きて診察を受け、其の日は深堀に帰られたり。・・・
・・かくて翌日(5月23日)再び五島町深堀邸にてボードインの診察を受けられしに、彼は、腸胃の衰弱には薬剤よりも平日の摂養最も緊要なれば、飲食物は消化し易くして、滋養分多きものを撰み、成るべく肉食を主に摂取せらるるべしとの勧告を与えたりしが、公は、猪鹿の外には牛羊の肉などを啖ふに慣れす、殊に今は食慾減じて不慣の物を嫌はれ、ために昨日商館に於いても西洋料理を見合せて、軽き酒菓等を供するに止めたる程なれば、ボードインは時期に応じて野鳥の肉、若しくは大気を呼吸する鼈の如きものを選まるべしと勧告せり。」(495ページ)
◆しかし、直正の胃弱は治らず、胃腸カタルへと深刻化した。相良弘庵とボードインはさらに治療法を工夫することになる。
江口梅亭(保定)のこと
。◆江口梅亭は、久保田出身の医者で、久保田の領主村田若狭の侍医の家に生まれた。好生館で学んだあと、村田若狭の命をうけて長崎に修業にでて、ボードウイン・マンスフェルトに学び、長崎で塾監にもなった。長崎在住のときに好生館へ西洋医学書を届ける役目を果たしている。明治2年に帰郷し、好生館につとめ、明治12年に好生館の院長心得、やがて院長として病院としての好生館を隆盛させた。明治38年没。◆明治期の佐賀における名医として知られていた。が、もうひとつ重要な役割があった。それは、村田若狭が佐賀におけるキリスト教徒の先駆者として知られるが、そのなかだちをしたのが江口梅亭であった。『鍋島直正公伝』によれば、宣教師フルベッキのもとに、まず江口梅亭を医学勉強の名目で派遣し、やがて弟の綾部三右衛門、本野周蔵を派遣し、聖書の学習をさせ、村田は慶応2年(1866)に綾部とともにフルベッキから洗礼をうけたとある。まだ公にはキリスト教禁止の時代である。◆江口梅亭が洗礼をうけたかどうかは、『鍋島直正公伝』にはみえないが、佐賀における初期キリスト教の布教の中心に位置していたことは間違いない。墓碑銘は、書聖といわれた中林梧竹の書である。12月6日の佐賀医学史研究会で報告予定。
日本医史学会11月例会
◆日本医史学会11月例会です。海原亮さんが、米沢藩での就学状況を報告し、坂井建雄さんが、西洋医学教育のコンテンツの変遷を紹介しました。海原さんは、日本の場合、医学校が衰微するのは、医師は著名医師への就学によってその後の評判や生活が左右されるので必ずしも医学校への就学がメリットではなく増えなかったとしました。◆坂井さんが、西洋の医学教育は19世紀になって、臨床医学と基礎医学が生まれたと報告しました。18世紀以前の医学理論の教材は、『アルティスラ』、アヴィケンナ『医学典範』、フェルネルらの『医学理論書』で、医学実地書として、ガリオポントウスの『受難録』以後、ゼンネルト『医学実地』、プールハーヴェ『箴言』などがあり、19世紀には個別の疾患を扱う医学書の構成が急激に変化したと報告しました。◆二人の発表を医学教育研究の進展にひきつけて考えると、西洋では医師になるためには、医学校を出て資格を取得することが必要であったことは、16世紀末のルイス・フロイスの記録からもわかり、フロイスは日本では誰でも医師になれることに驚いていました。従って、江戸時代の我が国医学教育において、医学校で研修をしないと医師になれないのはいつごろからか、ということが問題になります。◆その際に全国で先駆的な医学教育を展開したのが、佐賀藩であり、嘉永4年から医術開業免札制度を開始し、さらに文久元年には好生館で西洋医学を学ばなければ医師として開業を許可しないという命令を出したことにより、好生館での医学修業が義務づけられ、医師資格を得るためには、開業医免許制度や、医学校で学ぶという近代医学校制度の先駆となりました。ということであらためて佐賀藩の西洋医学教育の研究の重要性を感じた研究会でもありました。◆写真ではやや寂しくみえますが、じつは後ろは立ち見席がでるくらい、いつになく盛会でした。それだけ江戸時代から近代にかけての医学教育の研究への関心と期待があるということだろうと思います。私たち(青木、ミヒェル、小川、海原ら)は、先に科研費で『西南諸藩の医学教育』(2015年、非売品)という報告書(若干、残部あり、希望者には送料本人負担・本代無料でお分けします。)を刊行しましたが、これを全国的な研究に広めていく必要を痛感しました。
伊藤圭介研究会
◆11月29日、伊藤圭介文書研究会『伊藤圭介日記』第21集刊行記念講演会と洋学史学会例会共催ということで、名古屋市にある東山動植物園にいってきました。◆東山動物園は、現在、上野動物園についで入園者が日本で2番目(3番目が旭山動物園)という大きな動物園です。地下鉄の東山公園駅をでるとすぐ目の前が東山動物園。◆入るとすぐにカワウソやらアジア象、アミメキリンなどが目に付きました。この夏話題になったイケメンゴリラのジャバーニには逢えませんでした。東山タワー(写真)に登って100メートルの展望台(丘陵上なので実際はもっと高い)名古屋市街を眺めると360度(一部目隠しあり、なぜかな?)の絶景でした。タワーを降りてすぐにコビトカバ(写真)が休んでいました。カバなのに森に住んで陸棲中心(もちろん川の中でもOK)という世界でもパンダなどと並ぶ珍獣の一つらしいです。◆動物園を抜けて、ようやく東山植物園に到着。植物園に入ってすぐの左側に、伊藤圭介記念室と管理棟があり、そこで講演会がありました。◆遠藤正治氏ら圭介文書研究会が中心となって、伊藤圭介の日記を翻刻・解説して『日記』を刊行し続けて第21集になりました。日記は明治12年8月から10月中までの記事を扱い、8月26日に三男の謙の死去や10月26日には、スエーデンの探検家ノルデンショルドに横浜で面会しシベリア産植物押し葉を閲覧しているなどの記事があります。◆講演会はこの日記に関するもので、とくに注目されたのは、遠藤正治氏、松田清氏らが研究しているシーボルトの日本植物目録に関する伊藤圭介の共同研究の成果で、これはかなり発展性のある研究になるだろうと感じました。なお、シーボルトの植物関係の新資料がなぜか古書店から神田外国語大学に入ったようです。◆刊行された『日記』を第1集から通読すれば、我が国植物学・博物学の発達史をひもとくことができる貴重なお仕事といえ、関係者の努力に感謝しつつ挨拶をしました。写真は、私のfacebookでは、なぜか2枚しか掲載できなくなったので割愛しますが、東山植物園052-782-2111へ申し込めば、2500円で頒布していただけます(ただし、第1集と第2集は品切れ)。◆圭介記念室では、文久2年の遣欧使節団に加わった医師で絵の上手な高島祐啓(高島久也)の描いた『欧西紀行』(全22巻)の一部が展示されていて、当時のヨーロッパまでの寄港地の光景や風俗などが意外ときれいに描かれていて興味深く閲覧しました。