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象先堂での種痘
嘉永2年8月に淳一郎に植えられた痘苗がうまく植え継がれて、藩主の9月の江戸参府にあわせて、藩主島田南嶺らによって嘉永2年(1949)10月2日に、江戸屋敷に伝えられた。『鍋島直正公伝』によれば、玄朴娘に接種後、11月に貢姫(みつひめ)に接種した。そのとき立ち会ったのが、水町昌庵、佐野儒(孺)仙、牧春堂、大石良英の4人にして、12個を植えて皆ことごとく善感したりしかば、日本の種痘は此の種に始まれりとある。
『鍋島直正公伝』の種痘についての記述には、細かいところでやや疑問がいくつかあるのだが、江戸での接種とその広がりの記述はほぼこのとおりでよく、伊東玄朴のもとから、その友人桑田立斎、大槻俊斎らや門人、藩主直正のつながりで、宇和島藩や薩摩へも広がったのであった。
安政5年(1858)に伊東玄朴ら83人が、お玉が池種痘所を開設することができ、ここに、準公式な種痘所が始まった。しかし、それまでの象先堂における種痘については十分あきらかではなかった。
『柴田収蔵日記』から象先堂における種痘に関する記事を抜きがきしてみる。
嘉永3年5月6日 接痘の小児十四人来る。
5月18日藤沢三省に同人父へ種痘の事を申し遣わしたる哉否や書状にて問い遣わす。
5月20日、接痘の席へ出て加功を為す。伊東玄晁、水町玄道[肥前小城] 等来りて苗を採る。先生接す種児四、五人有り)。
加功とはお手伝いのこと。
6月26日 接痘日‥
7月24日 接痘に加功 に出る。他より杉田成卿、大槻俊斎、山本有中、水町玄道、外に諸生弐人来る
7月28日、青木玄礼[武州多摩郡相原村]へ‥より□御代官江川太郎左衛門殿より種痘之御触書を示す
12月17日 種痘に加功す。
安政3年の種痘
10月10日種痘、水町玄道来る。
10月24日種痘、水町、池田多仲等席に来る。
11月 8日種痘、良悦種痘の加功に来る。先生より許さず。
11月15日種痘、水町来る。
11月22日種痘、水町、池田、良悦等来り、加功す。
11月29日種痘、水町、織田、池田、良悦等来る。
12月7日良悦種痘に来る。
12月14日種痘、水町、池田、織田、良悦来る。
松岡良悦(越後松岡)、織田[伊東]貫斎叉は研斎
象先堂でも種痘日を決めて、門人等の手伝いを得て、種痘が活発に行われていることがわかる。
種痘日を安政3年11月8日から7日目ごとに定期的に設けて実施されていることに注意したい。
なぜ7日目かというと、種痘を接種して7日目が発疹が最も大きく、よい種をとることができるからであった。
このことを知らないと、次のような間違いの文章を書くことになる。
「種痘が成功すると、直正公は藩医大石良英を長崎に派遣した。良英は、宗建の子永叔を連れて、佐賀へ帰り、永叔から最もよい種を取って淳一郎君へ接種をした結果、こうして種痘が広まることとなった」
という記述である。れとはど言わないが、ほとんどの種痘概説書はこのような間違いを犯している。
どこが間違いか。いくつもあるのだが、
一週間ごとに種を植え継ぐことを知らないがための過ちが大きい。
宗建の3男建三郎に接種したのが嘉永2年6月26日。藩主子淳一郎への接種が同年8月22日(23日説もある)で約
56日ぐらいの日数がある。
最初の接種成功者の宗建3男建三郎やその兄永叔に植えられた牛痘の発疹は、1ヶ月以上もたっていると、痂もはげてしまっていて、最良の発疹(膿が最大で円形にみなぎっている状態)からの接種とはならないのである。だから永叔の痘を苗にして淳一郎に接種するというのは明確にあやまり。
7日ごとに接種され植え継がれた種が約56日間でおよそ8世代目に佐賀藩主淳一郎君への接種となる。
また、根本的な事実の間違いが、佐賀城下へ種痘児を伴っていったのは大石良英でなく、楢林宗健であったことであり(楢林家政記等)、8月4日に種痘児を伴って長崎を出発した楢林宗健が8月6日に佐賀城下へ到着し、翌日8月7日に、藩医島田南嶺と大石良英の子に宗建が接種し、一週間後の8月15日に、藩医の子の発疹が大きくなったところで、多久領主の子萬太郎に、(宗建指導でおそらく大石良英が)接種し、その一週間後の8月22日に淳一郎君へ、宗建指導で、大石良英が接種ということが事実の流れだろう。
一週間ごとの接種を続けるということが、種痘において、最も大切なことであり、種痘児の確保が、初期種痘医たちの最も悩んだところであった。
『鍋島直正公伝』の種痘についての記述には、細かいところでやや疑問がいくつかあるのだが、江戸での接種とその広がりの記述はほぼこのとおりでよく、伊東玄朴のもとから、その友人桑田立斎、大槻俊斎らや門人、藩主直正のつながりで、宇和島藩や薩摩へも広がったのであった。
安政5年(1858)に伊東玄朴ら83人が、お玉が池種痘所を開設することができ、ここに、準公式な種痘所が始まった。しかし、それまでの象先堂における種痘については十分あきらかではなかった。
『柴田収蔵日記』から象先堂における種痘に関する記事を抜きがきしてみる。
嘉永3年5月6日 接痘の小児十四人来る。
5月18日藤沢三省に同人父へ種痘の事を申し遣わしたる哉否や書状にて問い遣わす。
5月20日、接痘の席へ出て加功を為す。伊東玄晁、水町玄道[肥前小城] 等来りて苗を採る。先生接す種児四、五人有り)。
加功とはお手伝いのこと。
6月26日 接痘日‥
7月24日 接痘に加功 に出る。他より杉田成卿、大槻俊斎、山本有中、水町玄道、外に諸生弐人来る
7月28日、青木玄礼[武州多摩郡相原村]へ‥より□御代官江川太郎左衛門殿より種痘之御触書を示す
12月17日 種痘に加功す。
安政3年の種痘
10月10日種痘、水町玄道来る。
10月24日種痘、水町、池田多仲等席に来る。
11月 8日種痘、良悦種痘の加功に来る。先生より許さず。
11月15日種痘、水町来る。
11月22日種痘、水町、池田、良悦等来り、加功す。
11月29日種痘、水町、織田、池田、良悦等来る。
12月7日良悦種痘に来る。
12月14日種痘、水町、池田、織田、良悦来る。
松岡良悦(越後松岡)、織田[伊東]貫斎叉は研斎
象先堂でも種痘日を決めて、門人等の手伝いを得て、種痘が活発に行われていることがわかる。
種痘日を安政3年11月8日から7日目ごとに定期的に設けて実施されていることに注意したい。
なぜ7日目かというと、種痘を接種して7日目が発疹が最も大きく、よい種をとることができるからであった。
このことを知らないと、次のような間違いの文章を書くことになる。
「種痘が成功すると、直正公は藩医大石良英を長崎に派遣した。良英は、宗建の子永叔を連れて、佐賀へ帰り、永叔から最もよい種を取って淳一郎君へ接種をした結果、こうして種痘が広まることとなった」
という記述である。れとはど言わないが、ほとんどの種痘概説書はこのような間違いを犯している。
どこが間違いか。いくつもあるのだが、
一週間ごとに種を植え継ぐことを知らないがための過ちが大きい。
宗建の3男建三郎に接種したのが嘉永2年6月26日。藩主子淳一郎への接種が同年8月22日(23日説もある)で約
56日ぐらいの日数がある。
最初の接種成功者の宗建3男建三郎やその兄永叔に植えられた牛痘の発疹は、1ヶ月以上もたっていると、痂もはげてしまっていて、最良の発疹(膿が最大で円形にみなぎっている状態)からの接種とはならないのである。だから永叔の痘を苗にして淳一郎に接種するというのは明確にあやまり。
7日ごとに接種され植え継がれた種が約56日間でおよそ8世代目に佐賀藩主淳一郎君への接種となる。
また、根本的な事実の間違いが、佐賀城下へ種痘児を伴っていったのは大石良英でなく、楢林宗健であったことであり(楢林家政記等)、8月4日に種痘児を伴って長崎を出発した楢林宗健が8月6日に佐賀城下へ到着し、翌日8月7日に、藩医島田南嶺と大石良英の子に宗建が接種し、一週間後の8月15日に、藩医の子の発疹が大きくなったところで、多久領主の子萬太郎に、(宗建指導でおそらく大石良英が)接種し、その一週間後の8月22日に淳一郎君へ、宗建指導で、大石良英が接種ということが事実の流れだろう。
一週間ごとの接種を続けるということが、種痘において、最も大切なことであり、種痘児の確保が、初期種痘医たちの最も悩んだところであった。
柴田収蔵と上村周聘
嘉永3年11月18日、収蔵のなかのよい友達の上村周聘(のちの5代目上村春庵)が、佐賀へ帰ることになった。
収蔵は、周聘に牛痘新書を贈った。
11月20日、周聘の出立は明日(21日)と定まった。
本郷の滝そばで、別れの宴を催すことにした。
11月21日に品川まで見送りして帰った。
史料
十八日
周聴帰国之用意をなす。梳剃に出る。周聘に牛痘新書を
贐に贈る。文典受読。玄桂子より詩箋を恵む。夜文典を
見る。又三方正蒙を見る。
付り 周聘より加……麗之馬之画之幅を贈る。
十九日 晴
冬至。奥にて仏事を営む。塾中之ものに午飯を食せし へい
む。塾生より仏前に野菜を備ふ。琉球人来聘今日登城、
塾よりも見物に行者多し。
廿日 晴
斐三郎文典を聴く。周聘が帰国明日に極む。本郷滝蕎麦
に周聘が離盃を約す。城島淡堂先に至り用意をなさし
む。予は午後永坂順二、森村助十郎と至る。此家に湯室
有りて来客に浴せしむ。予も入て浴す。諸子漸く来る。
村上正吾初、伊東玄桂、田上宇平太、宮田魯斎、高畠五
郎、浅沢春雲、池田洞雲、武田斐三郎、城島淡堂等(此外を略す)
皆周聘と別れを告く。夕方盃を納めて帰る。浅草須原星
を過ぎて西洋銭譜を聞く。大護院を過ぐ。小比叡祐蔵が
此に当時寄宿するに遇ふ。夜周聘に外科要伝方を贈る。
廿一日 晴
魯斎、東洋、五郎、玄礼、玄通と周聘を品川に送る。魯
斎、東洋、五郎と鍋島邸池田玄端が宅へ寄。此邸より魯
斎が義弟河崎条太郎、周聘と此邸より同しく発足す。池
田玄端、周聘離杯を進む。予輩も同飲す。芝切通しょり
品川を過ぎ大井村河崎屋に……す。玄通、玄礼は先に品
川に至り周聘が来るを待つ。後れ良益、蔵六、弥一郎来
り同しく飲む。予は先に周聘に別れて帰る。周聴別れ惜
み涙袖を泊す。玄礼、玄通、五郎等は送りて六郷迄至る
といふ。夜に入り芝切通し永井町に東条永庵を訪ふ。源
助町、露月町を過ぐ。明朝琉球人通行すとて此辺家毎に
幕を引き店に屏風を立。且提灯を戸毎に……白昼の如
し。五ツ頃帰塾。魯斎、東洋等充に帰塾す。五郎又後れ
て四ツ半過帰る。玄通、玄礼未帰。麹町辺火事有り。
収蔵は、周聘に牛痘新書を贈った。
11月20日、周聘の出立は明日(21日)と定まった。
本郷の滝そばで、別れの宴を催すことにした。
11月21日に品川まで見送りして帰った。
史料
十八日
周聴帰国之用意をなす。梳剃に出る。周聘に牛痘新書を
贐に贈る。文典受読。玄桂子より詩箋を恵む。夜文典を
見る。又三方正蒙を見る。
付り 周聘より加……麗之馬之画之幅を贈る。
十九日 晴
冬至。奥にて仏事を営む。塾中之ものに午飯を食せし へい
む。塾生より仏前に野菜を備ふ。琉球人来聘今日登城、
塾よりも見物に行者多し。
廿日 晴
斐三郎文典を聴く。周聘が帰国明日に極む。本郷滝蕎麦
に周聘が離盃を約す。城島淡堂先に至り用意をなさし
む。予は午後永坂順二、森村助十郎と至る。此家に湯室
有りて来客に浴せしむ。予も入て浴す。諸子漸く来る。
村上正吾初、伊東玄桂、田上宇平太、宮田魯斎、高畠五
郎、浅沢春雲、池田洞雲、武田斐三郎、城島淡堂等(此外を略す)
皆周聘と別れを告く。夕方盃を納めて帰る。浅草須原星
を過ぎて西洋銭譜を聞く。大護院を過ぐ。小比叡祐蔵が
此に当時寄宿するに遇ふ。夜周聘に外科要伝方を贈る。
廿一日 晴
魯斎、東洋、五郎、玄礼、玄通と周聘を品川に送る。魯
斎、東洋、五郎と鍋島邸池田玄端が宅へ寄。此邸より魯
斎が義弟河崎条太郎、周聘と此邸より同しく発足す。池
田玄端、周聘離杯を進む。予輩も同飲す。芝切通しょり
品川を過ぎ大井村河崎屋に……す。玄通、玄礼は先に品
川に至り周聘が来るを待つ。後れ良益、蔵六、弥一郎来
り同しく飲む。予は先に周聘に別れて帰る。周聴別れ惜
み涙袖を泊す。玄礼、玄通、五郎等は送りて六郷迄至る
といふ。夜に入り芝切通し永井町に東条永庵を訪ふ。源
助町、露月町を過ぐ。明朝琉球人通行すとて此辺家毎に
幕を引き店に屏風を立。且提灯を戸毎に……白昼の如
し。五ツ頃帰塾。魯斎、東洋等充に帰塾す。五郎又後れ
て四ツ半過帰る。玄通、玄礼未帰。麹町辺火事有り。
柴田収蔵の象先堂入門
柴田収蔵は、嘉永3年12月20日に象先堂に入塾した。
その様子を、田中圭一『柴田収蔵日記』から抄出する。
【解説】
12月19日に、伊東玄朴の使いとして池田洞雲がやってきて、
はやく入塾して、図物(地図類)を模写してほしいとの話があったので
玄朴塾に入塾を決意した。
池田洞雲は、玄朴の弟で医師池田玄瑞の養子。もと佐賀藩士納富又次郎被官の五郎川勘兵衛の弟で
のち、武雄家の家臣となるも、藩命で玄瑞の養子となる。象先堂で塾頭をつとめる。安政2年10月2日没、
麻布賢宗寺に葬る。
柴田収蔵が入門したとき、20人以上の寄宿生が同宿していた。
肥前出身者は、塾頭の池田洞雲のほか、助教伊東玄桂、宮田魯斎、
武雄の久池井辰吉、大宅弥一郎、島田東洋、らの名前があがる、
塾則は、月5回までの外出許可という厳しさであった。
伊東玄桂は、伊東の後を継いだものとある。肥前仁比山村御厨清兵衛次男。
文政12年生まれで天保7年5月に玄朴の養子となる。安政5年7月奧医師見習いとなり
万延元年5月2日に没す。享年32歳。法名泰龍院清岳玄圭居士。天龍院に葬る。
【人名解説】
池田洞雲
池田洞雲は、玄朴の弟で医師池田玄瑞の養子。もと佐賀藩士納富又次郎被官の五郎川勘兵衛の弟で
のち、武雄家の家臣となるも、藩命で玄瑞の養子となる。象先堂で塾頭をつとめる。安政2年10月2日没、
麻布賢宗寺に葬る。(伊東榮『伊東玄朴傳』32頁)
伊東玄圭
伊東玄桂は、伊東の後を継いだものとある。肥前仁比山村御厨清兵衛次男。
文政12年生まれで天保7年5月に玄朴の養子となる。安政5年7月奧医師見習いとなり
万延元年5月2日に没す。享年32歳。法名泰龍院清岳玄圭居士。天龍院に葬る。
(伊東榮『伊東玄朴傳』22頁)
宮田魯斎は、佐賀藩医で玄朴門人でのちポンペ門人になります。
上村周聘(1820~70)
もと石井忠驍4男で、4代上村春庵の養子となり、
5代春庵となる。象先堂門人姓名録に、弘化二年九月十五日、肥前佐嘉藩
上邑周聘」とある。明治3年没。
『上村病院二百五十年史』(非売品、271~281頁)
【史料】
十八日 晴、午後より雨少しく降る
宇作と同しく芝浜松町寺島宗俊を訪ふ。当春類焼の後は
家作出来迄は将監橋……の家敷へ越し仮住居。至て淳徳
よりの書状及送り物を届く。先生帰り来り直に返書を認
めて予と宇作とに嘱す。淳徳と同居せし門生……居る。
芝……町にて欧陽諭醒泉銘を見る。価金二両と云ふ。尤
先達而、刻の最美なるもの某侯へ六両にて売りたるとい
ふ。八丁堀越後屋善助を訪ふ。小木山崎屋おきさに会
ふ。両国天田氏を訪ふ。主人不在。宇作が居処未定。柳
橋……町望月文敬が方に天田貫斎を訪ふて宇作が望月へ
入塾の事を請ふ。望月、貫斎へ伝へて宇作四、五年も滞留
ならば入塾も肯ふべし、僅か四、五か月にて退塾をなす
ならば難しと答ふ。貫斎と同行して……町砥園に飲
食す。又駒形……屋に飲む。夜帰宿役寮に役者と話す。
十九日 晴
散銭貫きに加功。良斎来る。池田洞雲、伊東より代診に来る。
池田氏より、先生より申し聞きたるとて早く入塾の故図物の
模写を請ふといふ。梳剃す。金蔵院主風邪、発汗剤を服せしむ。
伊東へ入塾今日なさんと欲し用意不調故
止む。諸方に買物す。夕方旅籠町方義堂へ行。主人予を
識り中根先生が死去の事を告ぐ。夜………
廿日朝雨風零時として晴る
大護院門番吉助を頼、伊東へ荷物を運ぶ。又宇作に請ふ
て手元の具を運ふ。伊東へ越し土産料を先生へ達す。又
塾生一統へ酒肴料を贈る。一統に対面す。塾監田上宇平
大差図して席を楼の西の二階に占む。此席に先入生讃州
来島謙助、肥前佐賀宮田魯斎。中の席に阿波高畠五郎、
佐倉藩森村助二郎、伊予谷口泰之、武州相原村青木玄
礼。其一つ間は先年予が在塾の節の上の間なりしを、今
は此間の西に階を設けて是より上下す。此間には上村周
聴、伊予浅沢春雲、相模上溝村鈴木玄昌、藤田弘庵。又
南に新楼在り、此には長州田上宇平太、金吹町竹ノ越玄
通、肥前武雄久池井辰吉、肥前武陵(武雄カ)大宅弥一郎、肥前
長崎古賀央助、肥前島田東洋。当時食堂之当番也、下には武州府中鈴
木玄岱、同所織田研斎、讃岐高松藩玉井清斎、池田洞
雲、肥前佐賀厚和庵、……泰、阿波美馬郡貞光村井手又
太郎、丹後田辺荻原広斎。又北の楼には先生より頼み入
れの村上正省、城島禎庵也。以上二十…人在塾す。大護
院へ帰り昼飯。此節伊東塾中にては米を銘々にて買ひ、
食堂の僕に為炊目形にて掛分け朝一度に炊き置て夕飯迄
に食す。大護院へ行浅草黒船町辺にて弁当、茶椀等の食
具を買ふ。役寮に加奈河……に会飲す。夜伊東へ帰る。
周聴より緒方の病学通論を借りて読む。
付 此節塾頭池田洞雲、塾監田上宇平太、助教伊東玄
桂(肥前伊東の家を継ぐ者也、当時奧に居る)。知事浅択杏雲也、此名目は
七、八日前に定る所なりと云ふ。熟則は銘々の名前を書きし
札を朝五ツに奧へ出し置、夜五ツに其札を受取る也、
又、外出札といふ小札五枚ありて、他へ
朝より出て夜に入り帰るには、奧へ札に何月幾日
と別に紙札を付けて其度毎に差出し五枚の札の
外は他出不相成。又輪番にて調合所当番、夜火番
の者等何れも奥へ札を掛けて相勤むる也。塾則の
詳しき事は門人姓名録の初めに記す故に賛せず。
廿一日 暗薄暑
田上宇平太より塾則を示す。又奥へ出す札及外出の小札
を渡す。可読原書を示す。食堂の僕常……へ金五十疋を
達す。此ほ何れも入塾生の足りなりといふ。写本料の紙
類を買ひに出る。又湯島切通松之助店へ行、注文の硯を取
り来る。途中に益田遇所に遇ふ。上村周聘と上野山下伊
勢星へ至り飲む。坤輿図誌補篇を見る。
付り先生より……を出して図を写せと請ふ。此図銅板
にて其密なる事容易写すべきにあらヂ。丈た先生に
請ふて坤輿図説の補編を借る。
その様子を、田中圭一『柴田収蔵日記』から抄出する。
【解説】
12月19日に、伊東玄朴の使いとして池田洞雲がやってきて、
はやく入塾して、図物(地図類)を模写してほしいとの話があったので
玄朴塾に入塾を決意した。
池田洞雲は、玄朴の弟で医師池田玄瑞の養子。もと佐賀藩士納富又次郎被官の五郎川勘兵衛の弟で
のち、武雄家の家臣となるも、藩命で玄瑞の養子となる。象先堂で塾頭をつとめる。安政2年10月2日没、
麻布賢宗寺に葬る。
柴田収蔵が入門したとき、20人以上の寄宿生が同宿していた。
肥前出身者は、塾頭の池田洞雲のほか、助教伊東玄桂、宮田魯斎、
武雄の久池井辰吉、大宅弥一郎、島田東洋、らの名前があがる、
塾則は、月5回までの外出許可という厳しさであった。
伊東玄桂は、伊東の後を継いだものとある。肥前仁比山村御厨清兵衛次男。
文政12年生まれで天保7年5月に玄朴の養子となる。安政5年7月奧医師見習いとなり
万延元年5月2日に没す。享年32歳。法名泰龍院清岳玄圭居士。天龍院に葬る。
【人名解説】
池田洞雲
池田洞雲は、玄朴の弟で医師池田玄瑞の養子。もと佐賀藩士納富又次郎被官の五郎川勘兵衛の弟で
のち、武雄家の家臣となるも、藩命で玄瑞の養子となる。象先堂で塾頭をつとめる。安政2年10月2日没、
麻布賢宗寺に葬る。(伊東榮『伊東玄朴傳』32頁)
伊東玄圭
伊東玄桂は、伊東の後を継いだものとある。肥前仁比山村御厨清兵衛次男。
文政12年生まれで天保7年5月に玄朴の養子となる。安政5年7月奧医師見習いとなり
万延元年5月2日に没す。享年32歳。法名泰龍院清岳玄圭居士。天龍院に葬る。
(伊東榮『伊東玄朴傳』22頁)
宮田魯斎は、佐賀藩医で玄朴門人でのちポンペ門人になります。
上村周聘(1820~70)
もと石井忠驍4男で、4代上村春庵の養子となり、
5代春庵となる。象先堂門人姓名録に、弘化二年九月十五日、肥前佐嘉藩
上邑周聘」とある。明治3年没。
『上村病院二百五十年史』(非売品、271~281頁)
【史料】
十八日 晴、午後より雨少しく降る
宇作と同しく芝浜松町寺島宗俊を訪ふ。当春類焼の後は
家作出来迄は将監橋……の家敷へ越し仮住居。至て淳徳
よりの書状及送り物を届く。先生帰り来り直に返書を認
めて予と宇作とに嘱す。淳徳と同居せし門生……居る。
芝……町にて欧陽諭醒泉銘を見る。価金二両と云ふ。尤
先達而、刻の最美なるもの某侯へ六両にて売りたるとい
ふ。八丁堀越後屋善助を訪ふ。小木山崎屋おきさに会
ふ。両国天田氏を訪ふ。主人不在。宇作が居処未定。柳
橋……町望月文敬が方に天田貫斎を訪ふて宇作が望月へ
入塾の事を請ふ。望月、貫斎へ伝へて宇作四、五年も滞留
ならば入塾も肯ふべし、僅か四、五か月にて退塾をなす
ならば難しと答ふ。貫斎と同行して……町砥園に飲
食す。又駒形……屋に飲む。夜帰宿役寮に役者と話す。
十九日 晴
散銭貫きに加功。良斎来る。池田洞雲、伊東より代診に来る。
池田氏より、先生より申し聞きたるとて早く入塾の故図物の
模写を請ふといふ。梳剃す。金蔵院主風邪、発汗剤を服せしむ。
伊東へ入塾今日なさんと欲し用意不調故
止む。諸方に買物す。夕方旅籠町方義堂へ行。主人予を
識り中根先生が死去の事を告ぐ。夜………
廿日朝雨風零時として晴る
大護院門番吉助を頼、伊東へ荷物を運ぶ。又宇作に請ふ
て手元の具を運ふ。伊東へ越し土産料を先生へ達す。又
塾生一統へ酒肴料を贈る。一統に対面す。塾監田上宇平
大差図して席を楼の西の二階に占む。此席に先入生讃州
来島謙助、肥前佐賀宮田魯斎。中の席に阿波高畠五郎、
佐倉藩森村助二郎、伊予谷口泰之、武州相原村青木玄
礼。其一つ間は先年予が在塾の節の上の間なりしを、今
は此間の西に階を設けて是より上下す。此間には上村周
聴、伊予浅沢春雲、相模上溝村鈴木玄昌、藤田弘庵。又
南に新楼在り、此には長州田上宇平太、金吹町竹ノ越玄
通、肥前武雄久池井辰吉、肥前武陵(武雄カ)大宅弥一郎、肥前
長崎古賀央助、肥前島田東洋。当時食堂之当番也、下には武州府中鈴
木玄岱、同所織田研斎、讃岐高松藩玉井清斎、池田洞
雲、肥前佐賀厚和庵、……泰、阿波美馬郡貞光村井手又
太郎、丹後田辺荻原広斎。又北の楼には先生より頼み入
れの村上正省、城島禎庵也。以上二十…人在塾す。大護
院へ帰り昼飯。此節伊東塾中にては米を銘々にて買ひ、
食堂の僕に為炊目形にて掛分け朝一度に炊き置て夕飯迄
に食す。大護院へ行浅草黒船町辺にて弁当、茶椀等の食
具を買ふ。役寮に加奈河……に会飲す。夜伊東へ帰る。
周聴より緒方の病学通論を借りて読む。
付 此節塾頭池田洞雲、塾監田上宇平太、助教伊東玄
桂(肥前伊東の家を継ぐ者也、当時奧に居る)。知事浅択杏雲也、此名目は
七、八日前に定る所なりと云ふ。熟則は銘々の名前を書きし
札を朝五ツに奧へ出し置、夜五ツに其札を受取る也、
又、外出札といふ小札五枚ありて、他へ
朝より出て夜に入り帰るには、奧へ札に何月幾日
と別に紙札を付けて其度毎に差出し五枚の札の
外は他出不相成。又輪番にて調合所当番、夜火番
の者等何れも奥へ札を掛けて相勤むる也。塾則の
詳しき事は門人姓名録の初めに記す故に賛せず。
廿一日 暗薄暑
田上宇平太より塾則を示す。又奥へ出す札及外出の小札
を渡す。可読原書を示す。食堂の僕常……へ金五十疋を
達す。此ほ何れも入塾生の足りなりといふ。写本料の紙
類を買ひに出る。又湯島切通松之助店へ行、注文の硯を取
り来る。途中に益田遇所に遇ふ。上村周聘と上野山下伊
勢星へ至り飲む。坤輿図誌補篇を見る。
付り先生より……を出して図を写せと請ふ。此図銅板
にて其密なる事容易写すべきにあらヂ。丈た先生に
請ふて坤輿図説の補編を借る。
納富春入と井上友庵
納富春入は、諱敦行字順益、号杏園という。納富氏は桓武平氏の石見守教満(桓武天皇十二世門脇宰相平教盛の次男)を先祖にもち、泰巌公(龍造寺隆信)のときに武功あって、仕えたのだが、納富行寿のときにゆえあって禄を失った。その後、納富昌行のときに巍松公(9代佐賀藩主鍋島斉直)の恩命で家臣に復した。昌行は男子がなかったので、太田大夫(鹿島藩士太田氏)の家臣後藤政正の次男順益が15歳で養子となった。順益は、蓮池藩藩医で外科医の井上仲民に瘍科(外科)を学んだが、仲民らが早くなくなったために、紀州の華岡青洲の門に入った。青洲門人帳には、文政7年12月18日に、納富順益が入門したことが記されている。
順益は帰郷後その名声は高まり、巍松公(鍋島斉直)は天保3年(1832)に、春入という名を与えたので、以後春入と称するようになった。ただ藩の節減策のため、藩医を免ぜられ、町医として各地を診察して歩いた。やがて、10代藩主鍋島直正に召し抱えられ、門人も育てた。
ところが、春入は肺を患って、嘉永7年(=安政元年、1854)11月5日に亡くなり、ここ泰順院に葬られた。57歳とあるので、寛政10年(1798)生まれとみる。墓碑にも同じ日付があるので、春入の法名は㬢陽院転徳厳道居士である。
春入の性格は、人のために寛大で、(おそらくみよりのない)子どもたちを育て、嫁をとったりさせた。その数10余名とある。
その次に、井上仲民の弟井上友庵との華岡家の医療伝授に関する会話がある。友庵は仲民に学んだあと華岡家に入門し、文政元年ごろ帰郷して、文政7年には佐賀藩医となっていた。春入(当時は順益)が、華岡青洲の乳ガンの血瘤を切った術を教えて欲しいというと、勤苦之末に学んだことで師弟としての誓約もあるので、教えるわけにはいかないと断った。順益は同門の兄弟子と思っていたのにと怒って、一人で華岡青洲のもとに入門したのだった。帰郷後、友庵が病気が重くなって臥せっているところへ出かけ、あのときは失礼した。おかげで一人前の医師になれたと深謝した。
春入には子がなく、横尾氏から養子をもらって跡を継がせた。これが納富順碩である。この碑は、春入の出た家である権藤氏と春入門人中島易春、松尾栄仙、井上玄澤、牟田逸庵、森玄白、武冨謙斎、塩田道圓、城島泰伯ら11人の連名で建てられた。碑文の最後に「窮理精通、能治難治」をあるのが、春入の理に通じ、外科的力量の高さを示している。
納富家の墓石の一角に、「桃里納富先生之墓」があった。春入のあとを継いだ春碩の碑を、中島春逸、牟田元定、松田革蔵、光武英房ら4人の門人名で建立したもの。この碑文によれば、春碩の諱は周行、通称春碩、号桃里、多久鍋島家の臣で横尾道伯の次男。弱冠にして、佐賀藩医松隈甫庵の門に学び、数年後に、納富春入の養子となった。家塾を開き、医業の名声も広まり、文久年中に佐賀藩御番医となり、藩主に扈従した。戊辰戦争においては従軍し、各地で銃創兵士らを治療して、同年10月に凱旋した。褒美として一〇石を賜った。明治8年(一八七五)に長子六郎にあとを譲り、明治二〇年(一八八七)九月1日に没した。六三歳だった。
左隣に■実道清馬居士とあり、大正四年(一九一五)八月二三日に亡くなっており、その子と見られる一露童子が大正元年九月二〇日に亡くなっている。これで外科医家納富家は絶えたとみられる。
順益は帰郷後その名声は高まり、巍松公(鍋島斉直)は天保3年(1832)に、春入という名を与えたので、以後春入と称するようになった。ただ藩の節減策のため、藩医を免ぜられ、町医として各地を診察して歩いた。やがて、10代藩主鍋島直正に召し抱えられ、門人も育てた。
ところが、春入は肺を患って、嘉永7年(=安政元年、1854)11月5日に亡くなり、ここ泰順院に葬られた。57歳とあるので、寛政10年(1798)生まれとみる。墓碑にも同じ日付があるので、春入の法名は㬢陽院転徳厳道居士である。
春入の性格は、人のために寛大で、(おそらくみよりのない)子どもたちを育て、嫁をとったりさせた。その数10余名とある。
その次に、井上仲民の弟井上友庵との華岡家の医療伝授に関する会話がある。友庵は仲民に学んだあと華岡家に入門し、文政元年ごろ帰郷して、文政7年には佐賀藩医となっていた。春入(当時は順益)が、華岡青洲の乳ガンの血瘤を切った術を教えて欲しいというと、勤苦之末に学んだことで師弟としての誓約もあるので、教えるわけにはいかないと断った。順益は同門の兄弟子と思っていたのにと怒って、一人で華岡青洲のもとに入門したのだった。帰郷後、友庵が病気が重くなって臥せっているところへ出かけ、あのときは失礼した。おかげで一人前の医師になれたと深謝した。
春入には子がなく、横尾氏から養子をもらって跡を継がせた。これが納富順碩である。この碑は、春入の出た家である権藤氏と春入門人中島易春、松尾栄仙、井上玄澤、牟田逸庵、森玄白、武冨謙斎、塩田道圓、城島泰伯ら11人の連名で建てられた。碑文の最後に「窮理精通、能治難治」をあるのが、春入の理に通じ、外科的力量の高さを示している。
納富家の墓石の一角に、「桃里納富先生之墓」があった。春入のあとを継いだ春碩の碑を、中島春逸、牟田元定、松田革蔵、光武英房ら4人の門人名で建立したもの。この碑文によれば、春碩の諱は周行、通称春碩、号桃里、多久鍋島家の臣で横尾道伯の次男。弱冠にして、佐賀藩医松隈甫庵の門に学び、数年後に、納富春入の養子となった。家塾を開き、医業の名声も広まり、文久年中に佐賀藩御番医となり、藩主に扈従した。戊辰戦争においては従軍し、各地で銃創兵士らを治療して、同年10月に凱旋した。褒美として一〇石を賜った。明治8年(一八七五)に長子六郎にあとを譲り、明治二〇年(一八八七)九月1日に没した。六三歳だった。
左隣に■実道清馬居士とあり、大正四年(一九一五)八月二三日に亡くなっており、その子と見られる一露童子が大正元年九月二〇日に亡くなっている。これで外科医家納富家は絶えたとみられる。