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     今日は、あまりにベタ過ぎて、普段なら吸い込まぬように姿勢を低くして全力で回避したくなるテーマについて書いてみる。
     
     年収が上がったり、かけっこが速くになるにはきっと役に立たないが、不運に見舞われたり、打ちのめされたり、他人や自分に裏切られたり、自分や他人に失望したり、知恵熱が出たりした時にも、いつも傍らにあって杖になり孫の手になり、あなたが覚えていたのより、ほんの少しだけましな自分に立ち戻らせてくれるような〈人生の一冊〉は、どうすれば見つかるのだろうか?
     言い換えれば、〈人間になる〉という教養の本当の目的に寄与し得る、語の真の意味での〈教養書〉とは、どのようにして出会うことができるのだろうか?
     
     いろいろ読むことによって、そして繰り返し痛い目に遭うことによって、黒歴史を何度も塗り重ねることによって、本なんて結局のところ紙の束でしかないと思い知ることによって、……といったところがよくある答えである。
     
     世の中で唱えられる教説のほとんどすべてが一面の真理を突いている程度には、これらの答えは正しい。
     だが効き目に関して言えば「大人になったら分かるよ」という言葉と似たり寄ったりのレベルである。
     「あえて」書き始めたのだから、確実性(当たり外れ)は等閑視して、せめて内野手の頭を越えるくらいの〈長打〉を狙って、いつにも増して暴言というバットを振り回していこう。 
     
     というわけで、あなたの〈人生の一冊〉は次のリストの中に見つかるはずである。
     もちろん乱暴この上ない決め付けだが、ヒト一体の利用可能な時間は有限である。1億2886万4880冊から10冊に減らすことは、それなりに意味がある。
     
     リストの中身は見てのとおり、いずれも定評のある自伝、というか定番の自伝系名著である。
     自伝に関して言えば、誰が選んでもそう変わらないリストになると信じる。
     といっても1000冊も続くリストなんて(書評の振りしたスパムサイトを作る以外)誰の役にも立たないから、コメントの中でも他の自伝を紹介するスタイルにして、リスト自体はできるだけ短くした。
     
     
     では、おそらくは未だ残る疑問、
    「そもそもなぜ自伝なのか?」
    「〈人間になる〉という教養の本当の目的に寄与し得る、語の真の意味での〈教養書〉の候補を、どういった理由で自伝に求めるのか?」
    という疑問に応じた後にリストに進もう。
     
     自伝は、言うまでもなく、ある人物についての人生の記録である。
     〈学ぶ〉ことが〈真似る〉ことに根ざすとすれば、ヒトがもっとも多く真似ることになるのは他のヒトであり、さまざまな状況に投げ込まれた際のその行動である。
     ヒトがヒトとなる学習過程の多くは、この行為で埋められている。

     もちろん人生はコピペできない。
     
     エラい人を真似ればエラくなれるというのは、ヒット商品からキャッチコピーをパクってくれば売れる、と考えるくらいの虫のいい暴論である。

     それでもなお、自伝は読むに価するテキストであり、知恵の宝庫である。 
     自伝は、その対象に最も近い人物=当人によって書かれたものである。
     したがって当人しか知り得ぬことが語られるが、一方では自分に都合のいい記述・解釈に流れる可能性が常に残る。
     自伝を、事実の記述と鵜呑みにすることは危険である。
     語ることは騙ること、自分語りは自分騙りでもある。
     しかし自伝から読み取るべきは、事実だけではない。
     その人自身によって、出来事がどのように語られるか、語りの中でどのように捉え直され意味づけされ、それが世界への働きかけをどのように生み出していくのか……つまり〈語り〉が〈騙り〉と最大限重なり合うところからこそ、我々は多くを学ぶことができる。
     
     何故か?
     
     ヒトは、ぬいぐるみに感情を、雨音にメロディを、システム・エラーに悪意を、焼いた骨のひび割れに神意を、夜空に散らばる星に神話の登場人物を、投影する/読み込む、度し難い生き物である。
     たとえば擬人化personificationが単にレトリックの手法であるだけでなく、ヒトの認知構造そのものに刻まれている(だからこそ、その技法は効き目がある)ものであるように、物語もまたヒトの認知構造に深く根ざしている。
     だからこそ物語は我々に強力に作用する。
     ヒトは、偶然に左右される事象や、相互に無関係でありただ同じ時に並列したに過ぎない事象であっても、物語りとして眺め、筋書きを追い、意図や動機を求め、ドラマのように/ドラマティックに語り上げ、クライマックスやカタルシスまで期待する。
     
     ヒトは、物語るサルである。
     
     物語を通して、伝達し、認識し、記憶し、そして構想する。
     我々は、世界について、そして自分について繰り返し物語ることで、周囲と自分の位置を確かめ、世界や他者に働きかけ、自分を再構築し、現在と未来を作り上げていく(この文脈においては、ドン・キホーテ原理もウェルテル効果もルート・メタファ説もナラティブ・シンキングも、瑣末なエピソードに過ぎない)。
     
     これが他人の〈自分語り〉=自伝に学ぶ理由である。

     さあ、先人の〈自分語り〉に耳を傾けよう。
     我々が、我々自身を語り、紡ぎ出すために。





    マルクス・アウレリウス『自省録』


    自省録 (岩波文庫)自省録 (岩波文庫)
    (2007/02/16)
    マルクスアウレーリウス

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     厳密に言えば、これは自伝ではない。
     しかし自分語りの観点から、このリストから外すことはできない。

     五賢帝の最後の一人、世界史上プラトンの理想を唯一体現した哲人皇帝は、自身のことを語っていない。かわりに自身に向けて語っている。
     これは何かを他人に伝えるために書かれたものではなく、折りにふれ自分を励まし勇気づけるために書き留められたものである(だから文庫で200頁足らずの短いものだけれど、折々に気に入ったところだけを少しずつ読むのがよい)。
     
     ぶっちゃけていえば、哲人皇帝は認知療法をやっているのである(ストア派は認知療法の思想的源泉である)。

    「君が何か外的な理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ」(第8章47)
    「『自分は損害を受けた』という意見を取り除くがよい。そうすればそういう感じも取り除かれてしまう。『自分は損害を受けた』という感じを取り除くがよい。そうすればその損害も取り除かれてしまう。」(第4章7)
    「最初の知覚が報告するもの以上のことはいっさい自分に言ってきかすな。だれそれが君のことをひどく悪く言っている、と人に告げられた。これは確かに告げられた。しかし、君が損害を受けた、とは告げられなかった。」(第8章49)
    「『この胡瓜はにがい』。棄てるがいい。『道に茨がある』。避けるがいい。それで充分だ。『なぜこんなものが世の中にあるんだろう』などと加えるな。」(第8章50)
    「君の全生涯を心に思い浮かべて気持をかき乱すな。どんな苦労が、どれほどの苦労が待っているだろう、と心の中で推測するな。それよりも一つ一つ現在起こってくる事柄に際して自己に問うてみよ。……次に思い起こすがよい。君の重荷となるのは未来でもなく、過去でもなく、つねに現在であることを。」(第8章36)

     「死を恐れるな」「いらいらするな」「人を許せ」と繰り返し出てくるのは、別にあなたに道徳を説いているのではない。
     マルクス・アウレリウス自身が、繰り返し死の恐怖におそわれ、周囲や自分に対するいらだちを抑えきれず、他人に我慢がならなくなり、死後の名声が気になってたまらず、朝どうしてもベッドから出たくなかったのである。

     明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくのがよい。「人間のつとめを果たすために私は起きるのだ」。自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をして行くのを、まだぶつぶついっているのか。それとも自分という人間は夜具の中にもぐりこんで身を温めているために創られたのか。「だってこのほうが心地良いもの」。では、君は心地よい思いをするために生まれたのか。小さな草木や小鳥や蟻や蜘蛛やミツバチまでがおのがつとめにいそしみ、それぞれ自分の分を果たして宇宙の秩序を形作っているのを見ないのか。
     しかるに君は人間のつとめがするのが嫌なのか。自然にかなった君の仕事を果たすために馳せ参じないのか。「しかし休息もしなくてはならない」。それは私もそう思う、しかし自然はこのことにも限度をおいた。同様に食べたり飲んだりすることにも限度をおいた。ところが君はその限度を越え、適度を過ごすのだ。しかも行動においてはそうではなく、できるだけのことをしない。
     結局君は自分自身を愛していないのだ。もしそうでなかったならば君は自己の(内なる)自然と意志を愛したであろう。他の人は自分の技術を愛してこれに要する労力のために身をすりきらし、入浴も食事も忘れている。ところが君ときては、款彫師が彫金を、舞踏家が舞踏を、守銭奴が金を、見栄坊がつまらぬ名声を貴ぶほどにも自己の自然を大切にしないのだ。上にいった人たちは熱中すると寝食を忘れて自分の仕事を捗らせ用途する。しかるに君には社会公共に役立つ活動はこれより価値のないものに見え、これよりも熱心にやるに値しないもののように考えられるのか。(第5章1)

     
     要するに「とっとと起きろ、俺」。




    『マイルス・デイビス自叙伝』


    マイルス・デイビス自叙伝〈1〉 (宝島社文庫)マイルス・デイビス自叙伝〈1〉 (宝島社文庫)
    (1999/12)
    マイルス デイビス、クインシー トループ 他

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     一転して自分で書いちゃいない自叙伝。
     しかし、それをいうなら『福翁自伝』だって『マルコムX自伝』だって『成りあがり How to be BIG―矢沢永吉激論集』だってそうだ。トマス・アクィナスや松本清張があんなに書けたのは口述筆記を使ったからだ。
     マイルスの語りをトゥループが書き留めまとめた自伝は、〈如是我聞〉とは反対の言葉で始まる。
     
     まあ、聞いてくれ。オレの人生で最高の瞬間は、・・・セックス以外のことだが、それはディズとバードが一緒に演奏しているのを初めて聞いた時だった。ちゃんと覚えている、1944年、ミズリー州セントルイスだ。
     当時のバードのソロは、八小節だったが、その中で奴がやったことといったらなかった。いまだに信じられないことだった。奴が吹き始めると、みんなカスんでしまうんだ。オレが演奏を忘れたみたいに、他の連中もバードに聞き惚れていた。だから、みんなよく自分のパートに出遅れていたのをおぼえている。みんな、ポカーンと大きな口を開けてステージに突っ立っていた。あの頃から、バードはものすごい音楽をやっていたんだ。
     初めてディズとバードを聴いた、1944年のあの夜のフィーリング、あれが欲しい。もう少しというところまでいったことはあるが、いつもあとちょっとだ。近いところまではいくんだ、でもやっぱり違う。それでもオレは、毎日演奏する音楽に、あれを求めている、もう一度あの体験を味わおうとしている。あのときの音を聴こう、感じようと求め続けている。




    アウグスティヌス『告白』


    告白 上 (岩波文庫 青 805-1)告白 上 (岩波文庫 青 805-1)
    (1976/06/16)
    アウグスティヌス

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     実は最初、対比列伝みたいに自伝をペアにして紹介することを考えていた。
     やめた理由は、単にペアにするだけでは、どうにもバランスが悪いケースが頻発したからだ。
     たとえば『フランクリン自伝 (岩波文庫)』の相方には、新井白石『折りたく柴の記』と渋沢栄一『雨夜譚』ぐらいをタッグにしないといけない。
     もっとも世界三大自伝のひとつアウグスティヌス『告白』となると、三大自伝の他の二つ、ルソー『告白』とゲーテ『詩と真実』に『カザノヴァ回想録』とバニヤン『罪びとのかしらに溢るる恩寵』を追加しても間に合わないので、この計画は断念した。

     もっとも赤裸々に書き込まれ、もっとも精緻に戦略的に作り込まれた、この形式の嚆矢にして完成形。
     忘れがたいエピソードを次から次に取り出す引き出しの豊かさ。
     放蕩と敬虔、知的な自負と謙遜(へりくだ)り、巨大な落差を経験させる完璧な構成。
     徹底的な心理分析と精確な描写が追う、当時の思想思潮のほぼすべてを巡りゆく精神遍歴。
     母の死。
     〈ジャンルとしての告白〉だけでなく、キリスト教の再生産メカニズムのひとつである〈制度としての告白〉をも仕込んでいるのだから、天下無双であってもおかしくない。

     後世への影響ということでいえば、アウグスティヌスは西洋思想で最重要な著作家だ。というより、思想の面からいえば、ここから西洋が始まるのである。
     アウグスティヌスが基礎を据えたキリスト教神学は、古代ギリシアに発する哲学が滅びることを許さなかった。
     アウグスティヌスの禁欲主義は修道院の実践の通底和音となり、また〈恩恵のみ〉〈見えざる教会〉の思想はルターやカルヴァンやコルネリウス・ヤンセンに影響を与え、プロテスタンティズムを生むもとなった。その自由意志論はショーペンハウアーやニーチェにまで影響を与え、その時間論は哲学的時間論の嚆矢として参照され続けている。




    トーベ・ヤンソン『ムーミンパパの思い出』


    新装版 ムーミンパパの思い出 (講談社文庫)新装版 ムーミンパパの思い出 (講談社文庫)
    (2011/05/13)
    トーベ・ヤンソン

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     ヒトじゃないものが書いた自伝もひとつくらい入れておこう。

     糸井重里によると、全国のお父さんというお父さんが皆「おれも昔は悪(わる)だった」と言い張るという。
     おやじの若い頃の悪さは、ルール違反者となることでルールの創成者ぶりっ子たらんとした欲望のヘタレた成れの果てである。
     そのような形でしか、人は父の物語を纏えない。

     しかし誇り高きムーミンパパの前半生は〈ちょいワル〉どころでは済まない。
     なにせあのムーミンをして「ぼく、パパの話がきゅうにふしぎなほうへ走るのに、だんだんなれちゃったよ。」と言わしめるほどの無軌道ぶりである。
     しかもこの〈若い頃の大冒険〉には、ムーミンパパのみならず、スニフのお父さんで謝らなくていい時でも常に「ごめんね」が口癖のロッドユール、スナフキン以上にフリーダムなその父ヨクサル、パパの親友でマッドサイエンティスト(?)のフレドリクソンが登場する。
     彼らはフレドリクソンが発明した〈海のオーケストラ号〉に乗り込み大航海で大冒険、ってどんだけアルゴ船やねん。
     ムーミンパパの語りは、あらゆる父の思い出話がそうであるように、ムーミンパパも最初からムーミンパパであった訳ではないことを語る。
     しかし語るのは現在のムーミンパパなので、どこまで行ってもカッコつけた勘違いトロールであることには変りない。
     漢(おとこ)を見せるムーミンパパ!
     さてヤンソンは、ムーミンパパの自伝を取り込んで物語にしているので、ムーミンパパが語る思い出話に対する子供たちのリアクションも活写している。
     なんとムーミン、スナフキン、スニフは、それぞれのパパを誇りに思い、誰のパパが一番かを言い争うのである。
     スナフキン、おまえもか!?



     
    『文盲 アゴタ・クリストフ自伝』


    文盲 アゴタ・クリストフ自伝文盲 アゴタ・クリストフ自伝
    (2006/02/15)
    アゴタ・クリストフ

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      「スイスに来て五年たった。わたしはフランス語を話す。けれども、読むことはできない。文盲に戻ってしまった。四歳で本を読むことのできたわたしが」

     『あしながおじさん』や『マルコムX自伝』が〈遅れてきた読書家〉の物語であるなら、この書は《読書という国》を追われた難民が言葉を取り戻すために抗い続ける物語である。

     著者クリシュトーフ・アーゴタは、『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』で知られるハンガリー出身の作家である。

     高校生のときに作詩を始め、卒業直後の高校の歴史教師と結婚。21歳のとき、1956年のハンガリー動乱から逃れるため、夫と共に生後4か月の娘を連れて命がけで亡命し、オーストリアを経てフランス語圏であるスイスのヌーシャテルに移住している。
     当初、時計工場で働き始め、後に店員、歯科助手と職を変えた。
     やがてパリで刊行されているハンガリー語文芸誌にハンガリー語で詩を発表し始めたたが、そのほとんどは出版されることもなかった。
     そして彼女の娘は、フランス語の中でことばを学んで成長していく。

    「あるとき、娘は泣き出してしまった。わたしが彼女の言うことを理解できないからだ。別の折りには、彼女のほうがわたしの言うことを理解できなくて、それで泣き出した」。
     「もし自分の国を離れなかったら、わたしの人生はどんな人生になっていたのだろうか、もっと辛い、もっと貧しい人生になっていただろうと思う。けれども、こんなに孤独ではなく、こんなに心を引き裂かれることもなかっただろう。幸せでさえあったかもしれない」

     亡命は彼女の曾祖父を奪い、母語を奪った。
     政治的事情で習得を強いられたフランス語は「私の母語を殺し続けている敵性語」、日々彼女から言葉を奪い続けていく。

     ついに彼女は、敵の言葉で書くことを決意する。
     生きるために、「たとえ誰一人興味を持ってくれなくても、ものを書き続けなければならない」と観念して。

     「この言語を、わたしは自分で選んだのではない。たまたま、運命により、成り行きにより、この言語がわたしに課せられたのだ。
     フランス語で書くことを、わたしは引き受けざるを得ない。これは挑戦だと思う。
     そう、ひとりの文盲者の挑戦なのだ」





    ハイゼンベルグ『部分と全体』


    部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話
    (1999/11)
    W.K. ハイゼンベルク

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     科学者が書いた自伝では『ご冗談でしょう、ファインマンさん』が鉄板である。
     何度読んでもおもしろいし、ためになる。
     だが、それ以上に何を語ればいいか思いつけない。
     他にはダーウィン、『ビーグル号航海記』ももちろん良いが、『ダーウィン自伝 』が面白みはちょっと控えめだが、滋味深くて地味にオススメ(本文は130頁ほどしかない)。あと湯川秀樹『旅人 ある物理学者の回想 』もいい。

     しかしこのリストでは、もっと陰鬱だが勇気を与えるものを選んだ。

     ハイゼンベルグがこの自伝というか回想録を書いて目指したのは二つ。
     ひとつは「科学は討論の中から生まれるものであることを、はっきりさせたいこと」。
     もうひとつは「近代原子物理学が提供した、新しい哲学的、道徳的かつ政治的な根本問題に関する議論に、できるだけ広範囲の人々の参加を望みたいこと」。

     したがって、回想録にはいくつもの対話が登場する。
     まずハイゼンベルグが18歳のとき出会い生涯読み込んだプラトンの対話篇。
     高校の同級生たちと交わしたヴァンダールング(ハイキング)しながらの会話。
     師ゾンマーフェルトから「一番才能ある弟子」として紹介されたパウリとの対話。
     それからナチス支配下のドイツで、多くの科学者たちが国外へ亡命する中、身の振り方を思い悩んでいた(後にドイツにとどまることを決断するのだが)ハイゼンベルグを訪れた、ヒットラーユーゲントのリーダーである青年との対話。

    「なぜあなたは建設に力を貸して下さらないのですか?」
    「もし若い学生諸君だけの問題ならば、私が正しいと信じていることのために、話し合いと協力によって寄与する自身があります。しかし革命の指導者は、物の道理に対する警告をとりあげようとせず、インテリを軽蔑することで多くの民衆を動かしてしまった。ドイツが破壊されようとしているときに、私にはその手助けはできません」
    「小さな改善でいったい何ができたでしょう。あなただって量子論では、これまでものを徹底的に打破したではないですか?」
    「自然科学では、すべてを放棄するなんてことはあり得ません。実りのある革命は、ある狭い輪郭のはっきりした問題を解くことに限ったとき、しかも最小限の変更にとどめるように努力したときにだけ遂行できるのです。歴史においても永続的な革命は、ただ狭く限られた問題を解決し、そしてできる限りわずかしか変更しないようなものであるはずだと考えています」




    『マキノ雅弘自伝 映画渡世』


    映画渡世・天の巻―マキノ雅弘自伝映画渡世・天の巻―マキノ雅弘自伝
    (2002/09)
    マキノ 雅弘

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     このリストに、『ベーブ・ルース自伝―不滅の七一四本塁打への道』や『カーネギー自伝』や『ダライ・ラマ自伝』や『諜報・工作―ラインハルト・ゲーレン回顧録』が入っていないのは、スポーツ選手や実業家や宗教家や諜報機関を軽んじているからではなく、どうせ読むなら面白いものが良いに決まっているからである。
     同じく、このリストに、オストロフスキー『鋼鉄はいかに鍛えられたか』やトロツキー『わが生涯』や、労働者たちには「鉱夫たちの天使」、米国上院議会に「すべての扇動家の祖母」、ジャーナリズムに「アメリカで最も危険な女性」と呼ばれたマザー・ジョーンズ(自伝はこちら)や、ルソーの弟子で「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」という有名な言葉を残し処刑されたジロンド派の女王ロラン夫人の回想録(ガリカ(フランス国立図書館の電子図書館)*で読める)や、バリバリのアメリカ社会党員で軽くレッド・パージされて一時期どこにも書くことができなくなったヘレン・ケラーのたくさんある自叙伝(たとえば『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』)が入っていないのは、大人の都合などではなく、ハイゼンベルグの先の引用でお腹いっぱいになってしまったからである(あと、このリストが亡命者ばかりになりそうだったからでもある)。
     
     だがマキノ雅弘は、別腹だ。

     父は「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三。
     その省三に、赤ん坊のころからスクリーンに引っ張り出され、人生のはじまりが日本映画のはじまりと、ほとんど同じだった。
     子役に使いたい省三と、孫をかわいがりたい祖父との血なまぐさい対立だとか、少年時代を子役として過ごした上に「映画に専念しろ」と省三につめよられ反発して入った高校を赤痢でやめ、今度は助監督として走り回らねばならなくなったりとか、そのうち省三が自分のプロダクションを立上げ、18歳で初監督をする羽目になったりとか、またまた省三が「これからはトーキーや」と先見の明を発揮してしまい、トーキーの研究をせねばならなくなり日本初のディスク式トーキーを監督したりとか、そうこうするうちに父が多額の借金を残したまま死んでしまい、おまけに母・弟と対立、全国のマキノ系の映画館がどこそこが母・弟派へ、どこそこが雅弘派につくという戦国大名ばりのお家騒動があったり、ストライキがあったり撮影所が全焼したりでプロダクションは倒産、借金まるごと背負わなくてはならなくなったりとか、日本初の広告映画をとったりとか、伊藤大輔、溝口健二監督のトーキー映画にトーキー映画のプロとして録音技師をつとめたりとか、興したトーキー映画会社がまた倒産したりとか、日活の雇われ監督になって大量の娯楽映画をものすごい速さで撮影したりとか、他の組が撮影中止で空いた穴を埋めるべく、一本撮り終えたばかりのマキノ組が更にたった28時間の撮影時間で映画を完成させたり……、人生の、どこを切っても映画がほとばしる。
     
     このリストで一番、抱腹絶倒できる。





    レヴィ・ストロース『悲しき熱帯』


    悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)
    (2001/04)
    レヴィ=ストロース

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     人が現在の到達点を確認し他の人に示しそうとする時に、旅について/旅として語る流儀は古い。
     旅行記が、真実の相において訪れた土地や人を語るものでなく、それらの見聞(時に嘘ばなし)を通して著者自身を語るものである以上、これもまた我々の定義において自伝である。
     
     ソクラテスの弟子の一人であるクセノフォンが、1万人のギリシア人傭兵ともに自ら従軍したペルシア王位戦争の敗戦からギリシア兵をまとめて長途の退却戦を経て帰国するまでをつづった『アナバシス―敵中横断6000キロ』、カエサルの『ガリア戦記』(前50年ごろ)、ヴィルアルドゥワンの『コンスタンチノープル征服記』(13世紀初め執筆,出版は1585年),1248年からルイ9世に従って第7回十字軍に加わった. de ジョアンビルの回想録『聖ルイの歴史』(1309)、辻政信『潜行三千里』(1950)などはいずれも戦争という旅をめぐる回顧の記録である。

     ギリシア人パウサニアスの『ギリシア案内記』やマルコ・ポーロが,20余年の旅を終えて1295年にベネチアに戻った後口述した『世界の記述(東方見聞録)』、アンダルス生れのイブン・ジュバイルの旅行記や、モロッコ生れで、チュニジアとモルジブでは裁判官を務め、インドでは中国使節に任命され,エジプトでは2回結婚しモルジブでは4人の妻をめとったイブン・バットゥータの『都市の不思議と旅の驚異を見る者への贈物(大旅行記)』、アッバース朝カリフが921年にボルガ地方へ派遣した使節団の一人イブン・ファドラーンの『ヴォルガ・ブルガール旅行記』、玄奘の『
    大唐西域記』や文人たちがほとんど触れなかった地形,地質,水文,生物などの記述に富む徐宏祖『徐霞客遊記』など、取り上げるべき旅行記は多い。
     近くは、エリアス・カネッティ『マラケシュの声―ある旅のあとの断想』、チェ・ゲバラ『モーターサイクル・ダイアリーズ』やブルース・チャトウィン『パタゴニア』、金子光晴『マレー蘭印紀行』、沢木耕太郎『深夜特急』なども取り上げるべきかも知れない。
     
     けれども、ここではもう一つの旅を思い、人類学者のものを取り上げなくてはならない。
     
     ヒトは、その長い歴史の大半を旅に費やしてきた。
     大河流域に集落定住するまでの間、移動的採集狩猟民であった頃、北極圏や北米西部で定住生活と移動生活を季節的に交代させる半移動民であった頃、良質の石器材料や装飾品の交易のために方方の集落をめぐった頃、成人式の一部をなす配偶者を探し出す旅行儀礼に出かけた頃、旅は生活の大半であり、欠くべからぬものだった。
     
     集落定住の生活が一般化し、やがて都市の形成されるようになっても、特殊な技能を担う職人として、騎士として、商人として、のちには放浪学生として、ヒトは旅を続けた。
     職人の遍歴の旅は、本来は親方株が少なかったためにやむなく行われた慣行だったが、各地の職人が偏歴することで、技術水準は平均化し、共同体を超えた広域世界が統一的な文化を抱く礎となった。
     学生たちもまた、知を教師を求めて放浪の旅をしており、歌を唱っては布施をもらい旅を続けた。放浪学生の多くは自堕落な暮しを送り,酒と女にあけくれたが、その中でギリシア語,ラテン語,ヘブライ語などを中心とする学問を身につけていった者もいた。ブレスラウのような町にはかなりの数の学生を収容できる学寮もあったし,病気の学生を治療する病院まであった。中世の都市はいわば、旅する人々の仮の宿りとして存在していた。
     
     民族学(ethnology)が独立の科学として成立したのは19世紀半ばであるが,大航海時代以来,世界の諸民族についての知識がヨーロッパにおいて蓄積されたことが,基本的な条件になっている。

     エスノグラフィーはいつも、ヒトが自身が暮らす世界を抜け出て行われた旅の産物に他ならなかった。

     レヴィ・ストロースは、自身の旅のはじまりについて、哲学を捨てやがて民族学へ赴く(これもまた一つの旅だ)ことになった理由のひとつを自分の資質に求めて言う。

     一定の土地をじょうずに耕作しておき、年ごとにそこから収穫を得るような資質が私には欠けていた。私の知性は新石器時代の人間の知性なのである。インディアンが耕地にするために草原を焼く火のように、私の知性は、ときに未墾の土地を焼くのである。それは、土壌を肥沃にし、そこから大急ぎでなにがしかのとりいれをするのにはおそらく役立つであろう。そしてその後に、荒廃した土地を残すのである。
     
     こうしたヒトは旅を続けるほかない。





    『チェッリーニ わが生涯』


    チェッリーニ自伝―フィレンツェ彫金師一代記〈上〉 (岩波文庫)チェッリーニ自伝―フィレンツェ彫金師一代記〈上〉 (岩波文庫)
    (1993/06/16)
    ベンヴェヌート チェッリーニ

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     自伝リストなら必ず登場すべきルソーとゲーテとスタンダールが今回選外となったが、かわりに彼らも絶賛した自由すぎる最後のルネサンス人、ベンヴェヌート・チェッリーニ(1500-1571年)の自伝を召喚しよう。
     女児の誕生を望んでいた両親によって「Benvenuto」(英語のwelcome、ようこそ)と名付けられた彼は、15歳で金銀細工師の徒弟となり、19歳で家郷を出て各地を遍歴したあとローマに住み、約20年間主として同地で活躍。最初ラファエッロ派およびメダル製作者フォッパ・カラトッソらの影響を受けたが、のちミケランジェロの作風を模して工芸や彫刻の制作に従事。以後、彫金家、彫刻家、画家、音楽家として活躍した。
     題材にもモラルにも文体はおろか文法にも制限を受けつけない、人生そのとおりに奔放であるこの自伝を(身振り手振り剣を振り興が乗って大声で喚く老彫金家の語りを、彼の店で働く13歳の少年が書き留めた)、ゲーテは多作と多忙の中、7年がかりでドイツ語に翻訳し、これがブルクハルトをはじめとするルネサンス研究の先駆けをなした。
     音楽と文学を結び付けることに努め標題音楽という新ジャンルの基礎を築いたベルリオーズ(彼にもよい自伝 Memoires de Hector Berlioz がある)は、彫刻としてよりも鋳造技術としてよりも『自伝』が語る劇的な制作過程によって有名な青銅の『ペルセウス』像のエピソードを主題に、オペラ『ベンベヌート・チェッリーニ』(1838・パリ初演)を書いた。
     10年間に17部しか売れなかった『恋愛論』(ここにもチェッリーニへの言及がある)をはじめ伝説的不人気を誇ったスタンダールは、未完の自伝『アンリ・ブリュラールの生涯』に、自分の著作の運命をこう予言した。
     「……そしておそらくはベンヴェヌート・チェッリーニの自伝のように200年後に発見されるだろう」。
     また、死の直前まで繰り返し書き続けた遺書(全36通)のいくつかには、これも未完の自伝『エゴチスムの回想』の草稿に触れて、「……私の死後10年目に、誰か信心家でない印刷業者に与えるか、あるいは誰もそれを印刷したがたない場合にはどこかの図書館に寄贈するようにお願いしたい。ベンヴェヌート・チェッリーニは死後150年にして出版された。」とある。





    ナボコフ『記憶よ、語れ』


    ナボコフ自伝―記憶よ、語れナボコフ自伝―記憶よ、語れ
    (1979/05/30)
    ウラジミール・ナボコフ

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     すべてをかけて自分の魂を愛し、ほかのものはすべて運命にまかせる、というのが母の奉持する単純な法則だった。「いいこと。よおく憶えておいてちょうだいね」と母は陰謀でもたくらむような調子で言って、自分が愛するいろいろなものに------たとえば、春のくすんだ乳白色のそらをますます高くあがっていく雲雀や、夏の夜さかんに遠くの森の写真をとっている無声電光や、褐色の土の上に楓の落葉がえがいている模様や新しい雪の上に点々とつづいているくさび形の足跡などに------私の注意を惹いた。それにまた、自分の世界の有形的部分が数年後に消滅すると予感しているかのように、わが家の田舎の屋敷内のあちこちに残っているいろんな時の刻印の跡に、非常に敏感だった。
     
     
     人は、倉庫の片隅に忘れられたファイルキャビネットから紙鋏みのひとつを抜き出すようには、過去を思い起こすことができない。
     意図と意思を抱いて、都合と偏見を跡が残るくらいに強く押し付けながらでないと、記憶は意識に戻ってこない。
     思い出そうとすることが過去を改竄する。
     我々は、捏造する以外のやり方では想起することができない。
     では、あらゆる過去語りは、自己粉飾の釈明account、自己憐憫の繰言garrulityに過ぎないのか。
     
     是、そして否。 
     
     一家はロシア革命で、財産を失い国を追われ、亡命先では夫(ナボコフにとっては父)を失う。
     ナボコフの母は、子供たちとも離れて、晩年をプラハの惨めな下宿で暮らす。
     
     
     ……まわりにいくつかあるがたがたの古家具の上には、マイコフからマヤコフスキーまでの好きな詩を数年にわたって書き写したアルバムが何冊かのっていた。ベッドの傍の緑色の布をかけた石鹸箱には、かすんだ小さな写真が数枚壊れかかった額縁に入れられて置かれていた。
     だが本当はそれらの品は必要ではなかった、母からは何も失われてはいなかったから。旅回り一座の役者たちが、台詞を憶えているかぎり、嵐のヒースの野や霧の城や魔法の島をどこへでも運んで行くように、魂が大切にとっておいたものを母はすべて持っていた。 
     
     






     
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