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     百科事典のことをもう少しだけ書こう。

     何か本を薦めろとか、良い本はないかとか、すごいのはどの本だ?などと尋ねられて、本気で答えていいのなら、百科事典をあげる。

     何百人どころではない、何千人もの「第一人者」が、それもてんでばらばら好き勝手なことを書き散らすというのでなく、尋常でないエディターシップのもと、世界のおよそすべてのことのうち、どうしても言い落とせないことばかりを集めて編んだ、これほどの浩瀚なものは事によるとこの先望むべくもないかもしれない、人間知性の歴史のなかで、その偉業を瞼の裏に刻み付けるに足りるような、そんな書物。
     しかも、ただの記念碑の類いとちがって、今このときも、大いに使えて、すごぶる役に立つ。その有益さや、ページあたりや単価あたりのコストパフォーマンスも群を抜く。ほとんどの本は太刀打ちできまい。

     では何故、人は百科事典のことを取り上げたり誉めたたえたりしないのか?
     職業書評家が新刊書を取り上げるのは、仕事だから仕方がないが、自分の目と手と足で、好きな本だけを選んで紹介できる人たちさえも、百科事典を取り上げないのは何故か?
     
     恥ずかしいからだ。

     本読みを自任する人間が百科事典の話をするなんて、マンガ好きを名乗っておいて「手塚治虫が好きだ」と告白するようなものだ。クラシックを聞くとうっかり漏らしておいて、「好きな作曲家はベートーベン」とたたみ掛けるようなものだ。


     自分で本を読むようになると、大抵の人は、百科事典になど見向きもしなくなる。
     多少は知り始めた事柄、このところ本を読み出して追いかけだした事項を探しても、百科事典には載っていないからだ。
     「なんでも載っている」とぼんやり思っていたものの正体が、干からびた常識と通説のにこごりであることを知って失望する。
     
     確かに百科事典には、新刊書に書いてあるようなことは書いていない。

     これは当然だ。
     逆に、百科事典に書いてあるようなことを、わざわざ新刊書に書いて誰が読むだろうか?
     ウィキペディアをコピペしてレポートを書く学生がやるようなことを、プロの書き手がやって許されるはずがない。

     こう考えると、百科事典には何が書いてあるか予想がつく。
     

     百科事典には、あなたが知りたいようなことは載っていない。
     あなたが知っているべきことが載っているのだ。

     
     つまり、こういうことだ。
     百科事典に書いてあるようなことを、わざわざ新刊書に書くものはいない。書いてある以外か、以上かを書く(あるいは、書こうとする)。
     百科事典に書いてあるような「常識や通説」は、挑まれるにしろ、足がかりにされるにしろ、その前提となる。
     新刊書に盛り込まれている(べき)新しい知見は、そうした「常識や通説」に対して新しいのだ。
     
     しかし知るべきことを、誰もが現に知っているならば、この世界に学習も教育も観察されないだろう。
     人は実際のところ、知っているべきことのほとんどを知らない。
     〈可能性としての知識〉は、いつもどんな人にとっても現有知識の遥か上にある。

     だから百科事典は存在する。
     

     誰かから質問された場合、相手が当然にGoogleか何かでネットを検索した上で尋ねているのだという前提に立って、あなたは返答するだろう。
     でなければ、面と受かっては言わないまでも、心の中で(あるいは匿名掲示板で)「ググれカス」と舌打ちするだろう。
     何も、検索エンジンを使って到達し得るあらゆる情報を頭脳にあらかじめ格納しておけ、と相手に要求している訳ではない。
     けれど、それらの情報は(ネットに繋がっているなら、指先を少し動かせば到達可能だから)、〈可能性としては知っている〉と見なされる。

     百科事典に書いてあることも同様である。
     ネット検索に等しい労力で、(たとえば先のYahoo!百科事典のような)百科事典は引くことができる。
     百科事典に載っている知識は今や、検索エンジンを使って到達し得る情報と同じ程度には、容易に到達可能であり、〈可能性としては知っている〉と見なすことができる。
     知っているべきこと、とはそういう意味だ。
     

     百科事典に書いてあることは、あなたも(可能性としては)知っており、私も(可能性としては)知っている。
     だから、そうした知識は前提として(あるいは共有の〈背景〉として)、ものを教え合ったりアイデアを伝え合ったりできる。

     百科事典は、そのためのインフラである。



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