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2010.04.02
古典を勧める大人は無責任だ
100冊読む時間があったら論文を100本「解剖」した方が良い 読書猿Classic: between / beyond readers で、「いきなり論文読んでもベースが無いから、まず古典から」というコメントがあった。
ちょっと待ってくれ。
いきなり読めて、ベースになる「古典」ってどんなのだ?
古典を勧めるすべての大人が無責任だとは思わないが(きっと見えたり見えなかったりするフォローをいろいろ入れてくれるのだろう)、手放しで「古典」を読め、というのは無責任だと思う。
若い奴らは徒手空拳で「古典」という壁に体ごとぶつかれ/頭をぶつけろ、とでも言うのだろうか。
10~20歳代の「濫読」(という名のつまみ読み)が、何か「教養」のようなものと関係あるように思うのも、甚だしい勘違いだ。
そんなので残るのは「いろいろ読んだな」というぼんやりとした思い出だけである。
「古典」はだいたい、一人で読むようにはできていない。
書かれた時代も、背景も、書いた人間と読むであろう人間が共有していたであろう前提も、現在の我々からは遠いものだ。
ついでにいうと、「帝大教授は高い給料なんだから、翻訳料は安くてもいいでしょ」というコバンザメ的ビジネスモデルで作られた岩波文庫の訳文は(わりと最近になるまで)、読める日本語からほど遠いものだった(もちろんうまい訳も沢山ある。ファーブルなんか本物より面白い。ラブレーもそう。訳者がうますぎて過大評価されている)。
「古典」と現代の間のギャップは、埋められてしかるべきものだ。それがどうだろう、未だに漢文の素読の影響が残ってでもいるのか、余計な予備知識なしにまずは飛び込め、体当たりしろ、という。
「どうだ、おまえらも分からないだろ」と言いたいだけじゃないのか?
そんなに「古典」がいいなら、自分は「時間がないから読めないけど」と言い訳が立つと思ってる、いい歳こいた大人がまず読んでみせて手本を示せばいい。
だいたい不朽の「古典」なら、ン十年前に読んだ本だろうが古びてないはずだし、加えて何年かけて読んでもいいはずだし、年くってからの方が味わえることだって多いだろう。
自分にできないことを、他人に、それも自分より若い人に、押し付けるな。適切な手引きも注釈書も挙げられない連中の「古典のススメ」なんて、スノッブな悪趣味でしかないからスルーしよう。
もうひとつ、今度はポジティブな提案だ。
「古典」は、一人で読むのは、本当はもったいない。
かしこい人になるための、ほとんど唯一の方法は、かしこい人と付き合う(継続的に交流を持つ)ことだが、これには、2つの難所がある。(1)かしこいヒトがどこにいるかわからない。(2)(なんとか見つけた)かしこいヒトがつきあってくれるかわからない。
自分だけでは分からない「古典」を何人かで読む(輪読)することは、ふたつの難所をクリアーする助けになる。あと、その人が本当にかしこいかどうかは、一緒に本を読めば、だいたい分かる。
さらに、これはおまけのようなものだが、何冊か本を紹介しよう。
とりあえず『世界名著大事典』全8巻(平凡社)という本を覚えておくといい。
「古典」と言われる本ならだいたい載っていて、概説が読めるだけじゃなく、後世に与えた影響なども解説してある。つまり何故それが「名著」なのか説明してある。
この点は、その辺の「古典推奨オヤジ」との大きな違いだ。彼らは何故それが「古典」であるのか、説明できない。というか、こんな本があることを知らない振りをしているか、本当に知らないこともある(古典を読めとぬかすオヤジが出現したら、この本を知っているか尋ねてみると良い)。
大きな図書館なら必ずある本だ。1987年の新版は古書店でもそこそこするが(某天牛書店で120,000円というのがあった)、1960年のオリジナルの方は8巻揃いで1万円くらいで手に入ることもある。専門以外のことにも通じたPolyhistorianになろうというなら安い投資だろう。
各分野ごとでは、弘文堂の『○○学文献事典』。
これは原則として、著者自身か訳者自身が解説を書くという方針で作られた事典。その分野の基本文献の解題が読める。基本文献を2頁見開き、重要文献は2分の1頁、というのも、短くてよい。
・『宗教学文献事典』
・『文化人類学文献事典』
・『社会学文献事典』
・『日本史文献事典』
・『精神医学文献事典』
などがある。
値段はそこそこ張るが、それより問題は品切れだったり入手困難なものがあること。出会ったら入手しておいた方が良い。
その他、解題ものでいうと、自由国民社の『総解説』シリーズが、各種揃っていて(クオリティはそこそこ)、安く手に入る。SFやミステリー、海洋文学なんてのもある。
文学作品なら、近年類書がいろいろ出たが、その嚆矢のひとつ『日本文学鑑賞辞典 近代編』『日本文学鑑賞辞典 古典編』そして『世界文学鑑賞辞典 1 イギリス・アメリカ編』『世界文学鑑賞事典 2 フランス・南欧・古典』『世界文学鑑賞辞典 3 ドイツ・北欧・中欧編』『世界文学鑑賞辞典 4 ロシア・ソヴィエト編』がコンパクトで、内容は最近のものよりずっとまし。1960年代に出ているので、取り扱う作品も新しいものは入ってないが(日本文学だと第3の新人くらいまで?)、そこがいい。とも言える。
最後に。
世の中には確かに、一人で勘違いに勘違いを重ねながら読み進める、といったやり方でしか読めない本もある。
だが、そんな本に時間を費やすかどうかは、本人が自分の残り時間と、その本と(他の読みたい本たちと)「話をつけて」決める類いのことだ。
必読書なんかじゃまったくない。
というより、必読の書など存在しない。
ある集団に入るのには、そこの儀礼に従う必要があるような形でなら、「読め」と要求される書物はあるだろう。
そこに入る入らないは、これまた本人が、自分の残り時間とやりたいこととの間で「話をつけて」決めるのである。
ちょっと待ってくれ。
いきなり読めて、ベースになる「古典」ってどんなのだ?
古典を勧めるすべての大人が無責任だとは思わないが(きっと見えたり見えなかったりするフォローをいろいろ入れてくれるのだろう)、手放しで「古典」を読め、というのは無責任だと思う。
若い奴らは徒手空拳で「古典」という壁に体ごとぶつかれ/頭をぶつけろ、とでも言うのだろうか。
10~20歳代の「濫読」(という名のつまみ読み)が、何か「教養」のようなものと関係あるように思うのも、甚だしい勘違いだ。
そんなので残るのは「いろいろ読んだな」というぼんやりとした思い出だけである。
「古典」はだいたい、一人で読むようにはできていない。
書かれた時代も、背景も、書いた人間と読むであろう人間が共有していたであろう前提も、現在の我々からは遠いものだ。
ついでにいうと、「帝大教授は高い給料なんだから、翻訳料は安くてもいいでしょ」というコバンザメ的ビジネスモデルで作られた岩波文庫の訳文は(わりと最近になるまで)、読める日本語からほど遠いものだった(もちろんうまい訳も沢山ある。ファーブルなんか本物より面白い。ラブレーもそう。訳者がうますぎて過大評価されている)。
「古典」と現代の間のギャップは、埋められてしかるべきものだ。それがどうだろう、未だに漢文の素読の影響が残ってでもいるのか、余計な予備知識なしにまずは飛び込め、体当たりしろ、という。
「どうだ、おまえらも分からないだろ」と言いたいだけじゃないのか?
そんなに「古典」がいいなら、自分は「時間がないから読めないけど」と言い訳が立つと思ってる、いい歳こいた大人がまず読んでみせて手本を示せばいい。
だいたい不朽の「古典」なら、ン十年前に読んだ本だろうが古びてないはずだし、加えて何年かけて読んでもいいはずだし、年くってからの方が味わえることだって多いだろう。
自分にできないことを、他人に、それも自分より若い人に、押し付けるな。適切な手引きも注釈書も挙げられない連中の「古典のススメ」なんて、スノッブな悪趣味でしかないからスルーしよう。
もうひとつ、今度はポジティブな提案だ。
「古典」は、一人で読むのは、本当はもったいない。
かしこい人になるための、ほとんど唯一の方法は、かしこい人と付き合う(継続的に交流を持つ)ことだが、これには、2つの難所がある。(1)かしこいヒトがどこにいるかわからない。(2)(なんとか見つけた)かしこいヒトがつきあってくれるかわからない。
自分だけでは分からない「古典」を何人かで読む(輪読)することは、ふたつの難所をクリアーする助けになる。あと、その人が本当にかしこいかどうかは、一緒に本を読めば、だいたい分かる。
さらに、これはおまけのようなものだが、何冊か本を紹介しよう。
とりあえず『世界名著大事典』全8巻(平凡社)という本を覚えておくといい。
「古典」と言われる本ならだいたい載っていて、概説が読めるだけじゃなく、後世に与えた影響なども解説してある。つまり何故それが「名著」なのか説明してある。
この点は、その辺の「古典推奨オヤジ」との大きな違いだ。彼らは何故それが「古典」であるのか、説明できない。というか、こんな本があることを知らない振りをしているか、本当に知らないこともある(古典を読めとぬかすオヤジが出現したら、この本を知っているか尋ねてみると良い)。
大きな図書館なら必ずある本だ。1987年の新版は古書店でもそこそこするが(某天牛書店で120,000円というのがあった)、1960年のオリジナルの方は8巻揃いで1万円くらいで手に入ることもある。専門以外のことにも通じたPolyhistorianになろうというなら安い投資だろう。
各分野ごとでは、弘文堂の『○○学文献事典』。
これは原則として、著者自身か訳者自身が解説を書くという方針で作られた事典。その分野の基本文献の解題が読める。基本文献を2頁見開き、重要文献は2分の1頁、というのも、短くてよい。
・『宗教学文献事典』
・『文化人類学文献事典』
・『社会学文献事典』
・『日本史文献事典』
・『精神医学文献事典』
などがある。
値段はそこそこ張るが、それより問題は品切れだったり入手困難なものがあること。出会ったら入手しておいた方が良い。
その他、解題ものでいうと、自由国民社の『総解説』シリーズが、各種揃っていて(クオリティはそこそこ)、安く手に入る。SFやミステリー、海洋文学なんてのもある。
文学作品なら、近年類書がいろいろ出たが、その嚆矢のひとつ『日本文学鑑賞辞典 近代編』『日本文学鑑賞辞典 古典編』そして『世界文学鑑賞辞典 1 イギリス・アメリカ編』『世界文学鑑賞事典 2 フランス・南欧・古典』『世界文学鑑賞辞典 3 ドイツ・北欧・中欧編』『世界文学鑑賞辞典 4 ロシア・ソヴィエト編』がコンパクトで、内容は最近のものよりずっとまし。1960年代に出ているので、取り扱う作品も新しいものは入ってないが(日本文学だと第3の新人くらいまで?)、そこがいい。とも言える。
最後に。
世の中には確かに、一人で勘違いに勘違いを重ねながら読み進める、といったやり方でしか読めない本もある。
だが、そんな本に時間を費やすかどうかは、本人が自分の残り時間と、その本と(他の読みたい本たちと)「話をつけて」決める類いのことだ。
必読書なんかじゃまったくない。
というより、必読の書など存在しない。
ある集団に入るのには、そこの儀礼に従う必要があるような形でなら、「読め」と要求される書物はあるだろう。
そこに入る入らないは、これまた本人が、自分の残り時間とやりたいこととの間で「話をつけて」決めるのである。
宗教学文献事典 (2007/12/05) 島薗 進、 商品詳細を見る |
文化人類学文献事典 (2004/12) 小松 和彦、 商品詳細を見る |
社会学文献事典―書物の森のガイドブック (1998/01) 見田 宗介内田 隆三 商品詳細を見る |
日本史文献事典 (2003/11) 黒田 日出男、 商品詳細を見る |
精神医学文献事典 (2003/05) 松下 正明、 商品詳細を見る |
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辞典のたぐいはいきなり読んでもほとんど無意味なものが多い。
本屋に売ってる中で一番簡単そうなものから手をつけるのが王道なんじゃないの。
新書、入門書(3~5回くらい読む)
→原典(岩波文庫とか)
という流れがふつうではないかと。
本屋に売ってる中で一番簡単そうなものから手をつけるのが王道なんじゃないの。
新書、入門書(3~5回くらい読む)
→原典(岩波文庫とか)
という流れがふつうではないかと。
2010/05/06 Thu 10:05 URL [ Edit ]
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2014/07/04 Fri 17:28 [ Edit ]
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