ボヘミアの海岸線

海外文学を読んで感想を書く

【2021年まとめ】海外文学の新刊を読みまくったので、一言感想を書いた

2021年は、海外文学の新刊を読みまくった。

『本の雑誌』の新刊ガイド連載「新刊めったくたガイド」の海外文学担当になったからだ。

「新刊めったくたガイド」は、ジャンルごとにわかれて、毎月4冊以上の新刊を紹介する連載だ。日本文学、海外文学、SF、ミステリ、ノンフィクションと、ジャンルごとに担当者が書いている。

これだけ新刊まみれになるのは人生はじめての経験だったので、記憶が飛ばないうちに、読んだ海外文学の感想を書いておくことにした。

ここで言う「新刊」の定義は以下のとおり(『本の雑誌』ルール)。

・2021年に発売した、海外文学の翻訳
・新訳、復刊は対象外

 

目次

 

■2021年のアイ・ラブ・ベスト本

【アメリカ】ローレン・グロフ『丸い地球のどこかの曲がり角で』

原題『Florida』というど直球のタイトルどおり、フロリダという土地への愛憎を語る作品が集まった短編集。土地と土地への感情が渦巻く「土地サーガ小説」が好きな私にとっては、もうそのたたずまいだけで好きになってしまう。

グロフが描くフロリダは、湿地の影に蛇とワニがうごめき、ハリケーンと亡霊が跋扈する、闇と湿度と耐えがたい暑さに満ちた、異様な土地だ。幻想のフロリダ、メディアの中のフロリダ、記憶の中のフロリダが混沌と混じりあって、もはやフロリダがどんな土地なのか、わからなくなる。癖のある語り手の語り口も、不思議とはまった。

 

【アメリカ】 ジェニー・ザン『サワー・ハート』

『サワー・ハート』は、これまで読んだアメリカ移民小説の中でも、とびきり印象的で、好きな小説になった。

文革下の中国からアメリカに移民した中国人一家の短編集である。1作目から、まずその強烈な極貧生活に驚く。ゴキブリがゼロ距離射程で飛び回り、足がかゆすぎて眠れず、家具が片っ端から盗まれる、すさまじい生活が、ポップな口調で語られる。

家が狭すぎるせいか、社会とのつながりが薄いからか、家族関係もべったりと濃密で、共依存のような幸福と息苦しさが描かれる。「パパとママと私はハンバーガーのような関係」というセリフが印象に残る。また、強烈だったのが、孫に異常な執着を見せる祖母のトランポリンシーンだ。このシュールさはすごい。きっとずっと覚えていると思う。

「家族の絆」どころではない、家族もみくちゃ巨大団子みたいな関係が、時を経て変わっていくのには、しみじみとした。これほど濃密で苦しさを感じたとしても、底にあるのは家族への愛なのだ。

 

【ポルトガル】 ゴンサロ・M・タヴァレス『エルサレム』

読書会を開催したので、エルサレム休暇をとって3回ほど読んだ。この小説は、重ねて読みたくなる小説だ。初読時「よくわからんがすごい」と衝撃を受け、「多層的な作品だから読書会向き」と思って読書会をひらいてまた読んで、読書会中にも読んで、そのたびに発見があった。

誰もが寝静まる夜中に、5人の不眠者たちが、それぞれが孤独に町を彷徨している。彼らは、誰もが狂気交じりの切実さで、なにかを探し求めている。

作品中のほとんどが夜と闇で、人間のうちにひそむ「悪」がぽっかりと口を開けて人間を容赦なく飲みこんでいくのだが、ラストでは夜明け間近の明るさを感じる。

『エルサレム』は王国シリーズのうちの1作らしい。全部読みたいので、全部出してほしい。

 

【エストニア】 アンドルス・キヴィラフク『蛇の言葉を話した男』

はじめて読んだエストニア文学に、みごとに眉間をぶち抜かれた。

エストニアの森に住み、古くから伝わる蛇の言葉を話す「最初で最後の男」が、今はもう滅びた蛇の言葉とその文化を語る。その語りは壮絶で、近代化に飲まれる古代文化の滅びを、容赦なく徹底的に描ききっている。この本を読むと、「滅び」を描く作品の大半が、甘っちょろく見えてくる。

滅びへの筆致だけではなく、登場人物&人外の濃さもすごい。巨大シラミ、「海外文学ヤバいジジイ選手権」トップに躍り出たヤバ祖父など、強烈なキャラクターぞろいで楽しい。

「滅び」を描いた文学として、痛ましくも激しく、素晴らしい。ファンタジー愛好家は、読んで眉間を撃ち抜かれるべし。

 

【ポーランド】 パヴェウ・ヒュレ『ヴァイゼル・ダヴィデク』

みんな大好き「東欧の想像力シリーズ」から、不穏と混沌の闇の底から閃光が漏れて爆発するような青春小説が登場した。

舞台は、第二次大戦後のグダンスク(ダンツィヒ)。グダンスクといえば長らく自由都市として繁栄し、第二次世界大戦ではドイツに占領されるも、戦後にポーランドに復帰した都市だ。ギュンター・グラスの故郷であり、小説の舞台にもなっている。

ヴァイゼルとは、理解の範疇を越えた異質の少年、ユダヤ人少年の名前だ。ヴァイゼルと過ごしたひと夏を、語り手は「すべてが異常な夏だった」と振り返る。腐敗した魚スープと化した港、馬の頭の形をした彗星、戦後の爪痕が残る下町がにおいたつような描写、ヴァイゼルの危険なカリスマ、混沌に足を絡めとられながらも語ろうとする執念がすばらしい。アゴタ・クリストフ『悪童日記』が好きなら、きっと好き。

 

【オーストリア】トーマス・ベルンハルト『推敲』

ベルンハルトの中毒性は、その言葉運び、狂気をうたう音楽的な罵倒にある。『推敲』は、「居住可能な巨大円錐建築」という、文句なしに狂った装置とともに、ベルンハルトの音楽的罵倒狂気を楽しめる。

語り手は、愛する姉のために巨大円錐を建築して自殺した友人を回想しながら、彼の遺稿を読んでいる。田舎への愛着と罵倒、愛する者への執着と偏愛が、同じフレーズを変奏しながらえんえんと繰り返していく。

これほど過剰で重複した語りなのに、するすると読めて、かつ中毒性があるベルンハルトは、いったいなんなのだろう。ハッピーターンのようなものだろうか?

 

【ロシア】 ヌマヌマ編『ヌマヌマ はまったら抜け出せない現代ロシア小説傑作選』

表紙もタイトルも編者コンビも、全方位にやばいアトモスフィアをまとう、ロシア文学アンソロジー。しかし、これはいい沼だった。どっぷりひたって、笑顔で親指を立てながら沈んでいける沼だ。

宇宙飛行士ガガーリンの母が読者を予想外の場所へ連れ出す小説、夏の別荘での思い出を美しく描く小説、ロシアの超特急列車が暴走する小説、レーニンを思わせるヤバい男(呼び名はレーちゃん)を家に引き取った夫婦の破滅譚、、極貧バラックと壮絶なトイレ話とともに語られる青春小説など、変な小説がたくさん楽しめる。

ロシアのトイレ話が大好きなので(ロシアに限らずトイレ話は好きだが、ロシアの壮絶なトイレの話はとりわけ好きだ)、「赤いキャビアのサンドイッチ」が一押し。

 

【アルゼンチン】 ホルヘ・ルイス・ボルヘス&オスバルド・フェラーリ『記憶の図書館 ボルヘス対話集成』

どうか、この分厚さと値段にひるまないでほしい。これは、とてもいいボルヘスなのだから。

なにかと人外メカ扱いされがちなボルヘスが、ちゃんと人間であることがわかる、貴重な対話集である。対話相手は、ボルヘスよりボルヘスに詳しい、ボルヘスオタクのフェラーリ。フェラーリが、時にボルヘスの記憶まちがいを指摘し、「あなたは十数年前にこう言ってましたよね?」と迫る姿は、重症オタクの鑑である。読んでいると、フェラーリが「ボルヘス、あなたは」と語りかけるだけで笑えてくる。

対話でしか出てこないような感想やエピソードは、まさに唯一無二だ。本を媒介にして語る面白さは、対談イベントや読書会と似ている。対話からしか得られない読書体験は、確かにある。

今だったら、ポッドキャストかYouTubeあたりで配信しているだろうし、きっと文学の人気チャンネルになっていたことだろう。

 

【メキシコ】グアダルーペ・ネッテル『赤い魚の夫婦』

生物と人間の運命が溶け合った日常を描く、不思議日常の短編集だ。

魚、菌類、虫、蛇といった生物と暮らしているうちに、生物と人間の境界が曖昧になり、こねあわされて、ひとつの生命体としてともに運命を共にする。

そのせいか、登場人物たちの行動は、どこかちょっと人外っぽい。不倫相手に移された菌を不倫相手のように愛でたり、ゴキブリに恐怖を植えつけるために、わりとヤバめの奇策をとったりする(『サワー・ハート』の直後に読んで、ゴキブリ描写の違いに驚き、汚小説好きの友人たちにおすすめした)。

 

■2021年に読んだ海外文学:新刊

 

【イギリス】 カズオ・イシグロ『クララとお日さま』

カズオ・イシグロといえば、ほっこりした語りで、不穏でじつは恐ろしい社会構造を描く、ほんわか擬態のえぐい作家、という印象がある。そのカズオが「子供向けに書こうと思った小説」と聞いて、いったいどんなトラウマを子供に与える気なのだと、どきどきしながら読んだところ、カズオ作品の中ではハートフルな小説で、ちょっと安心した(あくまでカズオ基準ではある)。

子供向け人型ロボットAF(人工親友)のクララが、体が弱い女の子ジョジーの家に買われて、彼女のためになりたいと願い、世界を学びながら、ある大胆な決断と行動に至る。

子供の教育ディストピアをちら見せするあたりは、通常運転カズオ節だが、クララのピュアな願いが、想定外の世界を構築する展開には驚いた。語りの擬態とうまさは、あいかわらずで、なんだかんだとカズオは読んでしまうのだった。

 

【イギリス】 イアン・マキューアン『恋するアダム』

カズオ・イシグロと並んで、性格の悪い描写に定評があるイアン・マキューアンが、奇しくもカズオと同じくAIロボットを題材にした小説を書いた。ただし、その書き方はぜんぜん違う。

マキューアンが描くのは、人間の男×人間の女×男型ロボットの不穏な三角関係だ。人間のように見えるが人間ではないロボットのアダムが、恋愛というきわめて人間的な関係に介入してくることで、人間の曖昧さと感情が浮かび上がる。

マキューアンはロボットを描くことによって、人間について描こうとしているように思える。メーカー関連の人が読んだらキレまくるであろう、アダムシリーズの杜撰な製品ぶりを見るに、マキューアンはロボットには興味がなく、あくまで人間のほうに興味があるのだな、と感じた。私は、アラン・チューリングが想像以上に大活躍する、チューリング無双小説として楽しんだ。

 

【イギリス】 エドワード・セント・オービン『ダンバー メディア王の悲劇』

現代作家が現代を舞台にして語りなおした、「語りなおしシェイクスピア」シリーズ。

子育て大失敗パパの悲劇、またの名を『リア王』が、現代グローバル資本主義、タワーマンション、資産家パパと娘たちの物語としてよみがえる。

『リア王』を再現しつつ、独自の人物設計と展開がありつつ、「語り直し」の名にふさわしい。Netflixで配信されていたとしても違和感がまったくないな、と思いながら読んでいた。『リア王』はNetflixに向いている家族物語だったのだ、という謎の気づきを得た。

 

【イギリス】 R・L・スティーヴンソン、ファニー・スティーヴンソン『爆弾魔 続・新アラビア夜話』

『宝島』『ジキルとハイド』『新アラビア夜話』などで名高いスティーヴンソンが、夫婦で書いた小説だ。夫婦共作があるなんて、知らなかったから驚いた。

『続・新アラビア夜話』は、王子と悪党と紳士が跋扈して、途方もない悪だくみと事件を巻き起こす『新アラビア夜話』と同じスタイルをとる。違いは、破天荒な女性たちの圧倒的パワーだ。

スティーブンソン夫の作品はいわゆる「男のロマン」もので、だいたい女性は添え物的存在なのだが、『爆弾魔』の女性たちは知略に満ち、度胸と生命力があり、物語を牽引する。妻ファニーの筆魂をびしびしと感じる。

執筆当時、『爆弾魔』の作者名にファニーの名前はなく、夫の名前のみで公表されていた。女性は作家として名前を出しづらい時代だった。成り立ちは鬱屈とするものがあるが、中身は文句なしに楽しい、エンターテインメント。

 

【イギリス】 エドワード・ケアリー『飢渇の人』

エドワード・ケアリーといえば、アイアマンガー三部作でおなじみ、不気味でユーモラスな生物が跋扈する幽霊屋敷めいた世界観がおもしろい作家である。短編集『飢渇の人』でも、ケアリー・ワールドは健在だ。

仕事をめちゃくちゃ邪魔してくる隣人、春に植えるとよいパトリックおじさんなど、面倒で奇妙な隣人たちと共存していく、低空飛行の笑いと諦念がじわじわくる。真顔ユーモアのイラストも、いい味を出している。

 

【イギリス】 ジェローム・K・ジェローム『骸骨』

最高の脱力ユーモア小説『ボートの三人男』を書いた作家ジェロームによる、短編集。ジェロームはこんなにいろいろなタイプの作品を書いていると、はじめて知った。

いかにも英国らしい幽霊譚、幽霊の出てこない怪奇話、ケルト伝説が、軽快でユーモラスな語りで語られる。英国のクラシックなユーモア話は、謎の安定感と安心感がある。それにしても、ジェロームの語りはつくづく職人技だ、と感嘆する。どれもこれもうまい。円熟した筆致による軽やかな語りは、人をだめにするクッションみたいな心地よさがある。

 

【イギリス】 アリ・スミス『冬』

私がイギリスに滞在したのは、スコットランド独立を問う国民選挙にイギリスが沸いた頃だった。私が滞在していた頃から、EUからやってくる移民と労働環境は、日常的に話題になっていた。

ブリグジットをテーマにした「四季シリーズ」は、イギリス人がどうEU離脱をとらえているのか、どう生活に変化をもたらしたのかを描く点で、すごくユニークだ。こんな小説は、アリ・スミスにしか書けない。

『冬』は、Twitterで炎上したエセ環境ブロガー息子、金で雇った移民の代理彼女、金持ちで保守派の老母、リベラル人権活動家の叔母が集まる、奇妙なクリスマスの物語だ。見るからに、わかりあえる要素がなさそうな奇妙な集団で、実際に言葉の多くがすれ違う。

過剰なまでの言葉と嘘に満ちているが、やがて言葉がすこしずつ結びついていく。言葉によって人はすれ違い、言葉によって人は心をつなぐ。分断に抵抗する、言葉の力を感じた。

 

【イギリス】 マギー・オファーレル『ハムネット』

ハムレット、ではない。ハムネット、である。違うけれど、ハムネットはハムレットに深いかかわりがある。

シェイクスピアの長男の名は、ハムネットという。ハムネット少年は幼いころに亡くなっている。なぜ劇作家は、亡くなった息子の名前に寄せた戯曲を書いたのか。『ハムネット』は、わずかな史実を想像力でふくらませ、この謎に迫る。

語りのスタイルと解釈が想像以上に大胆で、驚いた。シェイクスピアは名前すら出てこず、悪妻と言われていた妻が、家族思いで特殊能力を持つ、パワフルな女性として描かれる。

「語り直し」系は、原典好きからはいろいろ反発がありそうだが、『ハムレット』はシェイクスピア大好きなイギリスでも歓迎されたらしい。21世紀になってもなお革新していくシェイクスピアの強さと愛されぶりは、つくづくすごい。人類史上、最強コンテンツのひとつだと思う。

 

【アメリカ】 トマス・ピンチョン『ブリーディング・エッジ』

ピンチョン読書会ではいつも、ピンチョン休暇をとることにしている。『ブリーディング・エッジ』は、発売日にピンチョン発売休暇をとり、読書会前日にはピンチョン休暇をとった。

「IT社会、ドットコムバブル崩壊、9.11」が、ピンチョン節で語られる。ピンチョン十八番のパラノイアと陰謀論が渦巻く世界で、ギーク、ハッカー、マフィア、政治組織といったファンキーでヤバイやつら、急展開に次ぐ急展開とオタクの早口会話で語られる。ピンチョンは相変わらず、背景の書き込みがみっしりびっしりしている。私は西海岸テック・ウェイ系文化の端くれにいるので、その細かさに驚いた。ギークたち、すぐパーティーをするし、謎Tシャツを作るよね、わかる。

読書会では、ピンチョン・マゾヒズム、ピンチョン襲名、ピンチョンの鍵アカTwitter日常日記、クラヴマガ最強など、愉快な話ができて楽しかった。小説はもちろんおもしろいのだが、それ以上に、読書会でわいわい話したことが楽しかった。スゴ本のDain氏の読書会記録もあわせてどうぞ(ピンチョン『ブリーディング・エッジ』読書会が楽しすぎて時が溶けた: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる)

 

【アメリカ・ロシア】ジュリア・フィリップス『消失の惑星』

しばしば小説には、土地と小説が不可分に結びついて一体化した「土地小説」があると思う。『消失の惑星』は、寒いロシアの中でもとりわけ寒い、過酷で異質な閉鎖空間、ロシア北部カムチャッカ半島を舞台にした土地小説だ。

カムチャツカ半島は、海とツンドラと永久凍土に囲まれ、ソ連時代は人の往来が制限された、特殊な地理と歴史を持つ土地だ。人が出るのも入るのも難しいこの過酷な土地で、幼い姉妹の誘拐事件が起きる。

「閉鎖空間」としての半島で「人の消失」が起きるとどうなるか、人々がどう反応するかを描いた群像小説として読んだ(誘拐事件ミステリとして読むと、好き嫌いがわかれそうではある)。とくに、カムチャッカ半島の地理と、そこに住む人の気質、世界観がつながっているところがよかった。やはり土地は、歴史と文化と人を形作るのだ。

 

【アメリカ】リン・マー『断絶』

COVIDの流行は、疫病小説の翻訳を加速させた。『断絶』は、中国深センで発生した未知の病気「シェン熱」が世界を襲い、人類の大半がゾンビとなる疫病小説だ。

ハリウッド的ゾンビパニック小説かと思いきや、『断絶』は驚くべき静謐さを備えている。シェン熱ゾンビは、生きている間に最も慣れ親しんだ行動を繰り返す。生きている人がほとんどいなくなったニューヨークの大都会で、慣れ親しんだ労働(労働がいちばん慣れ親しんでいるなんて!)をしているゾンビたちの姿は、哀切すら感じる。パンデミック小説をいろいろ読んだ中で、いちばん異様で独特な雰囲気があるのが『断絶』かもしれない。

 

【アメリカ】 モナ・アワド『ファットガールをめぐる13の物語』

外見コンプレックスを抱える人たちの苦悩は根深い。ルッキズムへの批判が年々高まり、人々の意識は少しずつ変わっていく兆しはあるものの、意識に深く根をおろした自己否定感と苦しみは、周囲がどうなぐさめようと、当事者をさいなむ。

『ファットガールをめぐる13の物語』は、XXLサイズの体を愛せない女性の小説だ。食事、ファッション、人間関係、住居、仕事、つまりは人生のすべてが「自分の体」への意識なくしては語られない。周囲の人たちは優しいのだが、本人が自分を許せない限り、苦しみは続く。

よくある若者の早口ぶっちゃけトークのスタイルをとりつつ、体への視線とそれを感じ取る意識や、コンプレックスを通過させないと物事を認知できない意識の向かい方を、語りの技巧でたくみに表現している。痩せてハッピー、みたいなルッキズム回帰の結論に至らないところもいい。

身体を描いた身体的な小説であり、身体と精神が不可分であることを示した小説でもあり、自分の体の他者性を描いた小説でもある。

 

【アメリカ】 ウィリアム・フォークナー『土にまみれた旗』

われらが立つこの小さな場所こそが、世界そのもの、宇宙そのものだ、と語る小説家たちがいる。『土にまみれた旗』は、フォークナーの金字塔、血と情念が燃え上がるヨクナパトーファ・サーガの第一作。大幅に削られた版『サートリス』は既訳があるが、完全版の翻訳は初。

物語の中心にいるのは、ヨクナパトーファ一の名家、サートリス一族。サートリスの男は、危険な場所や行動に突っこんで派手に死にがちで、サートリスの女は男たちの宿命を諦めきっている。人間は、宿命を認識して、そのように行動していくし、自分たちを物語の中に組み込んでいく。この独特の諦観と情念が、デビュー作時点で現れているところは、さすがフォークナーだと思った。デビュー作のため、粗削りで冗長な点はあるが、フォークナー世界の原点をようやく読めて、感無量である。

 

【アメリカ】 オーシャン・ヴォン『地上で僕らはつかの間きらめく』

移住を考えるようになってから、移民文学と移民2世文学を読む姿勢がすこし変わった。慣れ親しんだ土地から離れて暮らすこと、ルーツから遠ざかることの影響を考えるようになった。

オーシャン・ヴォンは、ベトナムからアメリカに家族とともに移住した移民2世で、『地上で僕らはつかの間きらめく』は、彼の自伝的小説である。母親は英語を読めず、ベトナム戦争の後遺症と慣れない土地で生きる苦しみから、息子に暴力をふるう。息子のオーシャンも、英語に長らくなじめず、母の暴力と、学校でのいじめに苦しむ。

喪失と痛みに満ちた語りの中から、作家がアイデンティティを見出すシーンは、締め切られた部屋の窓が開け放たれて、風が吹きこんでくるような、さわやかさがある。言葉に苦しめられ、言葉に救われたオーシャン青年が作家になったことに、よかったね……とじんわりきた。

 

【アメリカ】 アイリス・オーウェンス『アフター・クロード』

『アフター・クロード』は、言葉の爆竹だ。「捨ててやった、クロードを。あのフランス人のドブネズミ」という衝撃的な書き出しから始まり、恋人、恋人にまとわりつく女、知り合い、赤の他人、そして全世界に、語り手の女性が銃撃を浴びせまくる。

しかもよく読んでいけば、ひどく身勝手なのはハリエットのほうで、負け戦のほうもハリエットなのだ。しかし、彼女の認知は、完璧に歪んでいる。

きつい現実に、孤軍奮闘で全面戦争をしかけながら、撤退戦を強いられる展開に、読むほうも漏れなくダメージを食らう。読んだ人に感想を聞いたところ、皆が「すごかったよね……」としばしば言葉を失っていた。

 

【アメリカ】 ジェスミン・ウォード『骨を引き上げろ』

超大型ハリケーン・カトリーナを覚えているだろうか。カトリーナが襲来したのはアメリカ南部で、一部の地域は貧困地域ゆえに救助が遅れ、惨事を招いた。

カトリーナが襲来するまでの数日間を描いた、現代のアメリカ南部文学である。貧困層の黒人一家にうまれた少女が、家族とともにハリケーンに備えている時、自身の妊娠に気づく。

フォークナー・リスペクトの描写がいくつも見られるが、この作品はやはり21世紀の南部文学だと思う。とくに、女性の強さが違う。未婚の母、母なるハリケーン、ギリシャ神話の母たちの強さが吹き荒れる。フォークナーの地母神じみた超人女性とはまた違う、男を救わないし男に救われもしない、南部の女性を描いた点で、ウォードの文学は、南部文学の新天地をひらいている。

台風がくるとそわそわしてしまう台風そわそわ族なので、カトリーナがくるシーンはぞくぞくした。

 

【アメリカ】シャーリィ・ジャクスン『壁の向こうへ続く道』

幽霊も、わかりやすい狂人も出てこない、「普通」を目指したシャーリィ・ジャクスンである。登場するのは、中流地区に住む普通の人たち、そしてそこからじわりと漏れ出る、差別、嫉妬、悪意、優越感といった感情ヘドロだ。

サンフランシスコにある、誰もが顔見知りの小さな住宅地で、密接な人間関係と感情が交錯する。その濃密さは、各家の家族構成と家の位置関係をみっしり記した地図と、相互関係のみっしりした描写からうかがえる。この緻密さは、なかば狂気を感じるほどだ。

『くじ』『ずっとお城で暮らしてる』などと比べると、だいぶマイルド・ジャクスンではある。でも、やっぱりジャクスンらしさはあって、最後はどーん、という気持ちになるのだった。

 

【アメリカ】 タナハシ・コーツ『ウォーターダンサー』

コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』によって、逃亡奴隷と、逃亡奴隷を支援する地下組織「地下鉄道」の名前が、日本でも知られるようになった。

『ウォーターダンサー』も、奴隷制度下の南部から逃亡する黒人奴隷と、地下鉄道が活躍する小説だ。『地下鉄道』が、ひとり逃げ出す少女の孤軍奮闘ものだったのにたいして、『ウォーターダンサー』は、奴隷たちは「家族とともに逃げる」ことをめざす。家族をばらばらに売り払う奴隷制度の残虐と苦しみに、焦点が当たる。

想像以上のマジカル展開と、ハリエット・タブマンの活躍ぶりには、だいぶ面食らったが、その後にオクティヴィア・バトラー『キンドレッド』を読んで、マジカル展開の南部文学ワールドにすこし慣れた。抜け出すのが困難な土地だったからこそ、小説においては、あざやかに抜け出す魔法が必要なのかもしれない。

 

【アメリカ】 マシュー・シャープ『戦時の愛』

戦時の愛 (SWITCH LIBRARY)

戦時の愛 (SWITCH LIBRARY)

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異様な世界観と超展開が、わずか数ページで、フラッシュのようにぱっと展開して消えていく、異界のフラッシュモブみたいな超短編集である。

予想ができない、といっても、『戦時の愛』の予想できなさはズバ抜けている。AIのほうがよほど予想しやすいものを書くのでは、と思う。その異様な展開を、平凡な日常を語るような口調で淡々と語る。この落差を楽しむ小説だと思う。ひさびさに、だいぶ変な小説を読んだ、という気持ちになった。

 

【アメリカ】 キャスリーン・デイヴィス 『シルクロード』

それなりに小説を読んで感想を書いてきたつもりだが、『シルクロード』ほど、感想を書きにくいと思った小説はそうそうない。読んでいると頭に霧がかかったようになり、読み終わった後はさらに霧が深くなっている。深い霧の中で、たまに明滅するモチーフとヒソヒソ声が残るぐらいだ。

いちおう、筋らしきものはある。疫病が蔓延した世界で、登場人物たちはヨガをしながら、永久凍土にある移民施設をめざしている。こう書くと『断絶』のようなパンデミック小説のように思えるが、実際のところはぜんぜん違う。小説というより、「読む瞑想」と言ったほうが近い。

予定リストにいれた過去の自分を呪いつつ、読み終わった気がぜんぜんしないまま読み終え、原稿に書くかどうか迷いながらも書いて、迷いとともに編集者に原稿をぶん投げたところ、「逆に気になる」と言われたので、そのまま原稿に残したブック・オブ・ザ・イヤー2021。

 

【アメリカ】 ネイサン・イングランダー『地中のディナ―』

ユダヤ人が「帰還」と呼び、アラブ人が「大災厄」と呼ぶ、イスラエル・パレスチナ問題を背景に、スパイ小説とメロドラマ小説を混ぜ合わせた謎小説。

イスラエルの砂漠にある秘密基地に、囚人Zが長年、拘束されている。囚人Zと看守、ドイツで友情を育む2人の男、パリで運命的に出会った男とウェイトレスと、いくつもの「2人組」が、それぞれスパイ小説やメロドラマ小説のスタイルで描かれる。

この小説は、ひさしぶりに、ラストを読んでぶん投げそうになった。イスラエル・パレスチナ問題は、現在進行形で激化しており、悲惨かつ一方的な虐殺が続いている。この問題にたいして、この作品の認識は、あまりにもお花畑すぎるのではないか。軽薄な主人公らしくはあるが、それを加味したって、現実の残虐からあまりにかけ離れている。問題提起しているようでいて、まるで他人事だ。小説が現在進行形の政治問題を語ることは難しく、技量と信念が問われることを実感した。とりあえず、イスラエル・パレスチナ問題については、岡真理を読んでほしい。

 

【ドイツ】 ジェニー・エルペンベック『行く、行った、行ってしまった』

移民の流入における社会軋轢は、ヨーロッパでは日々のニュースでよく取り上げられる、きわめて身近な話題である。『行く、行った、行ってしまった』は、ドイツにやってきた難民のうち、政治が不安定なアフリカから逃れてきた難民を描いている。

裕福で生活が安定しているドイツ人の老教授が、経済基盤も家もないアフリカからの難民たちに興味を抱き、対話をするために難民施設に通う。

読み始めは、暇で裕福で人道的に正しい白人男性の俺語りに付き合わされるのかと危惧したが、杞憂だった。老教授は聖人でもなんでもなく、挫折して悩み失敗する。

己と他者との境界、国と国との境界の深さに苦悩しながらも、人はなおその境界を飛び越えようとする。一見すると地味だが、静かで力強い小説だ。

 

【ドイツ】アネッテ・ヘス『ドイツ亭』

戦後ドイツの司法と歴史観を根底から変えた歴史的な裁判「アウシュビッツ裁判」をテーマにした小説。

今でこそ、歴史教育を徹底し、ホロコーストを否定すると罪になるドイツだが、第二次世界大戦後10年ぐらいは、ホロコーストに関わった人間たちは沈黙し、関わっていない人間はその存在を知らず、ゼーバルトが言うところの「集団記憶喪失」に陥っていた。そんな歴史の風化に抗ったのが、アウシュビッツ裁判である。

『ドイツ亭』は、実際の裁判記録をもとに描いている。展開について、小説としての出来はいまいち感があるものの、アウシュビッツ裁判を知らない人のための啓蒙を目的とするなら、大いに成功した本だろう。当時の「寝た子は起こすな」的ドイツの陰鬱な空気を感じられるところがよい。

 

【フランス・台湾】 ジョージ・サルマナザール『フォルモサ』

18世紀ヨーロッパに実在した、台湾と日本について大ボラを吹きまくった大ペテン師による、稀代の「偽書」である。

自称・台湾(フォルモサ)人のサルマナザールが、台湾の地理、歴史、政治、経済、宗教、文字、学問、衣食住を、体系的かつ詳細に解説するが、中身はフェイク度100%の妄言だ。「チョーク=マケジンという日本人の宗教家が、太陽神に生贄を捧げるよう台湾人に求めた」など、ヨーロッパ人が考える異国アジアが、設定オタクの早口説明で繰り広げられる。読んでいると、根本からまちがっているし雑なわりに、変なところにこだわりを見せる奇怪な模造品を見ているような気持ちになる。

あまりにも事実無根すぎるので、18世紀当時にも批判や指摘はさんざんあったが、サルマナザールは真実だと言い張った。結果として彼の大ボラは、18世紀ヨーロッパのアジア観に影響を与えるまでになった。現代のフェイクニュースにも通じる展開で、笑えるけれど、笑えない。

 

【ポルトガル】 ジョゼ・サラマーゴ『象の旅』

ポルトガルのリスボンから、オーストリアのウィーンへ、象の一行が旅をした。16世紀ポルトガルで、実際にあった出来事らしい。サラマーゴは、わずかな記録に残る歴史的珍事を、アイロニーとユーモア交じりの群像劇として描いた。

人間たちが、権力や欲望にまみれながら目まぐるしく生きているのを尻目に、象はじつにマイペースで、ゆったりと生きている。インド人象使いと象の関係がじんわりとよい。

そして、サラマーゴの語りはやっぱりうまいと、つくづく思った。人間の悲喜こもごもを軽やかに語る職人的語りを堪能した。

 

【スペイン・バスク】 フェルナンド・アラムブル『祖国』

スペインのバスク地方は、スペイン語とは異なる言語、異なる文化を持つ土地である。ゆえに、20世紀には「独立」と「テロリズム」に揺れ動いていた。祖国への愛国心が高まるほど、その熱意は暴力に近づく。そして、隣人同士が敵となり、共同体は分裂し、加害者と被害者がうまれる。

『祖国』は、愛国とテロリズムによってうまれてしまった、「加害者」一族と「被害者」一族の物語だ。もともと2つの家族は、小さなバスクの村に住む、仲のいい隣人だった。しかし、一方からはテロリストが、もう一方からはテロによる犠牲者が出てしまう。一族同士でも、事件への態度は違う。正当化する人もいれば、家族の犯罪に苦悩する人もいる。『祖国』は、単純に分断せず、人々の心と関係性を、丹念にすくいあげる。

痛ましい事件とバスク問題をめぐる、繊細で緻密な心理描写がすばらしい。バスク問題を知るために、まずおすすめしたい小説。

 

【スペイン】 アナ・マリア・マトゥーテ『小鳥たち』

マトゥーテの描く世界は、繊細で詩的で残酷で、目を離せない魅力がある。

スペインの地域社会を舞台に、繊細で壊れやすい空想と、厳しい現実が衝突する瞬間を描く短編集だ。登場人物たちは、クリスマス、村祭り、恋の予感といった、心躍る出来事を夢想するが、現実は容赦なく、夢心地の人々に忍び寄る。

静謐な幻想絵画のような筆致で、現実の苦さを描くコントラストが独特。とくに表題作「小鳥」のビジョンは強烈だった。絵画のように静止したあの一瞬を、今もまだ思い出せる。

 

【スペイン】 エンリーケ・ビラマタス『永遠の家』

作家とはじつに難儀な生き物で、自分の確かな声、確かなスタイルがあることを願いながら、絶えずそのスタイルから逃れようとする。ビラマタスはとりわけ自身の語りへの意識を深く追求する作家だと思っている。連作短編集『永遠の家』では、語りへの意識と疑念が「腹話術士の男」を中心に語られる。

腹話術師の男は、名声は得たものの、自分の声と、他者をまねた自分の声による対話をしすぎて、自分と他人の境界がわからなくなっている。その曖昧な領域から、文学がうまれてくる。

私も、しばしば他者を憑依しすぎて、自分がわからなくなることがある。自我が混沌としすぎたので、いくつかあった執筆パーソナリティを統合した。私にとっては2つが限界で、3つだと破綻した。虚構に生きることは苦悩をともなう。

 

【デンマーク】 イェンセン『王の没落』

『王の没落』は、予想外の小説だった。タイトル、ノーベル文学賞作家、「20世紀最高のデンマーク小説」との評価から、クラシックな歴史小説を想像していたら、ぜんぜん違った。

歴史小説であることはまちがいない。『王の没落』は、16世紀の北欧に実在した暴君、クリスチャン2世の治世を描く。優柔不断で衝動的な暴君はもちろんやばいのだが、暴君に匹敵する破滅系の男たちが跋扈するので、やばさが過剰供給で、飽和を起こす。主人公のひとりである傭兵ミッチェルは、恨みと衝動が原動力で、息を吸うようにすぐ凶悪犯罪に走る。あまりにも気軽すぎる凶悪犯罪ぶりに、なんど変な声を上げたことか。

王が屈指の優柔不断を見せる場面は、王の精神と行動とデンマークが一体となって揺れ動く名シーンだ。さらに、突然のハガレン的展開など、突っ込みが追いつかない。この疾走感と暴発エナジーは、なかなかお目にかかれないと思う。シックな佇まいからは想像できないほど、いろいろやばい小説。

 

【デンマーク】 イェンス・ピーター・ヤコブセン『ニルス・リューネ』

きらっきらな言葉で、まったくきらきらしていない人生を描いたらどうなるのか。その答えのひとつが『ニルス・リューネ』だと思う。

ニルス・リューネは、美しい人生を夢見る若者だ。だが、夢想するだけで、実現する力はない。夢を見ては失望する過程が、絢爛豪華な絵画のような言葉で語られる。語りの過剰なまでの美しさと、語られるものの陰鬱ぶりの落差が激しく、交感神経と副交感神経が刺激されて、精神から変な汗が出る。

訳文の言葉選びと解説の充実ぶりには、なみなみならぬ翻訳波動を感じた。訳文の言葉選びがすごい2021。

 

【チェコ】 アンナ・ツィマ『シブヤで目覚めて』

外国人が描く、知っているようでいて知らない、謎の国ジャパンが好きだ。とくに渋谷は、10代に最も長く過ごした町だから、特別な思い入れがある。そんなわけで、チェコ人作家の描くシブヤはいったいどんな町なのか、楽しみに読んだ。

日本語を学び日本文学を愛するチェコ人ヤナが分裂し、プラハと東京に同時に存在している。渋谷のヤナは、日本に留まりたい思いが分裂した思念体で、誰にも見つけてもらえず、渋谷から出られない。

この設定だけでもだいぶおもしろいが、文学ピープルの文学談義、優越感と劣等感、文学恋愛など、文学界隈あるあるが出てきて、文学好きはいろいろ悶絶できると思う。元渋谷っ子としては、渋谷エピソードをもっと深堀りしてほしかった。幻想のシブヤだから渋谷ぽくないんだ、という解釈もあるかもしれないが。

 

【セルビア】 ミロラド・パヴィッチ『十六の夢の物語』

古くから伝わる「世界の秘密」に触れるような、幻想短編集。「夢」という幻想文学の王道をふまえつつ、セルビアや東欧に古くから伝わる伝説を駆使して、パヴィッチならではの世界を構築している。

歴代王の秘密を守る扉と鍵と番人、未来に起きるだろう罪のために処刑された中世の修道士とその罪、王妃が隠した財宝伝説、といった東欧の古い伝説が、現在とふいにリンクして迫ってくる。それにしても、松籟社の「東欧の想像力シリーズ」は、だいたい寒い時期の夜更けに読むのがぴったりなものばかりで、その選書にはまいど感嘆する。

 

【ベラルーシ】 サーシャ・フィリペンコ『理不尽ゲーム』

ベラルーシ小説を、はじめて読んだ。ベラルーシは、「ヨーロッパ最後の独裁者」と呼ばれるルカシェンコが君臨する国である。

『理不尽ゲーム』は、事故によって長い昏睡状態を経て10年後に目覚めた少年が、ルカシェンコによって歪んだ祖国を観測する「ベラルーシ浦島太郎」小説だ。政治の歪みはじわじわと起こるため、渦中にいる国民は気づきにくい。しかし、10年の歳月をスキップした少年には、その変化がはっきりと見える。

シンプルな構成でメッセージがはっきりしているがゆえに読解の余地が少なく、小説の技法としてはあまり好みではなかったものの、ゆっくり進む政治腐敗のメカニズムと後戻りの難しさ、諦念は、他人事ではない話だと思った。おばあちゃんパワーがすごい、おばあちゃん小説でもある。

 

【ロシア】 リュドミラ・ウリツカヤ『緑の天幕』

ソ連で生きるとは、どういうことなのか。私はずっとよくわかっていなかった。たしかにソ連時代の小説は多く残っている。一方、普通の人たちの生活については、あの政治情勢でどんな人生を過ごしたのか、あまりわかっていなかった。

スターリンが君臨した1950年代から、ソ連崩壊の1990年代までを生きた、幼馴染たちの群像劇である。登場人物たちは、ごく普通の人たちだ。政治とは適度に距離を置いたり反発したりして、友情を育み、恋愛し、結婚し、子供をつくり、人生を生きている。共産主義がなければ、ごく平穏に人生を終えていただろう。しかし、ソ連の不吉な影がいつもまとわりつき、襲いかかり、耐えがたい傷と痛みを人生に与える。

文学や音楽などの芸術は、きわめて重要なものとして描かれる。芸術は、政治に飲まれないための抵抗であり、堤防だ。ソ連で、地下出版が活発になった理由がうかがえる。

『緑の天幕』で見たソ連世界は、思ったよりも普通で、でもやっぱ耐えがたい大穴が容赦なく口を開ける土地だった。重厚なロシア文学の伝統をくんだ、ソ連文学。

 

【レバノン】 ワジディ・ムアワッド『アニマ』

『アニマ』には、えぐられた。読んで半年以上が経った今も、たまにその傷が顔を出して、血を流す。2021年で、最もえぐられた小説だと思う。

凄惨な殺人と虐殺の記憶を渡り歩いていく、現代の地獄めぐり小説である。妻を惨殺された男が、カナダからアメリカへ、犯人を探す旅に出る。復讐のためではない。犯人が自分ではないことを確かめるためだ。やがて男は、犯人探しの旅をしながら、レバノンの虐殺をめぐる記憶を同時に旅するようになる。

現在の北米地獄めぐりと、過去のレバノン地獄めぐり、土地も時間軸も違う地獄を二重に重ね合わせて接続する手法がすごい。レバノンは現在進行形で地獄が続いているから、きっとこういう地獄の記憶がたくさんあるのだろう。動物=アニマのにぎやかな語りと、目まぐるしい視点移行がなければ、とてもではないが、こんな地獄には耐えられない。

目をそむけたくなる地獄に、目を見開いて、近づき続けた、すさまじい小説。

 

【ナイジェリア】 チゴズィエ・オビオマ『小さきものたちのオーケストラ』

現代の物語を神話の神が語る、ナイジェリアの小さな悲劇の物語。語り手は、イボ族神話の守り神。イボ族の守り神は、うまれた時から人間の近くにいて、その人の一生を見守り、死んだら別の守り神になる。人間は、守り神と対話できないし、見えない。

語り手の守り神が憑りついたのは、貧しい養鶏の男。彼の罪を弁明するために、守り神が正例会の法廷で弁明するところから、物語は始まる。

守り神の饒舌な語りと、ちょいちょい挟まる説明口調がおもしろい。「知ってるとおり」と言いながら神話体系を説明しはじめる守り神は、だいぶ親切神だなと思う。

神の語りはおもしろいが、人間の物語は、かなりつらい。ナイジェリアの身分格差、経済格差、教育格差、社会的つながりの格差が、男の恋愛とキャリアに深い傷を残す。孤独が男を追い詰めるとはいえ、このラストはどうなんだ、と思った。説明口調の神がいて、読者の私は救われた。

 

【マルティニーク】 エドゥアール・グリッサン『マホガニー』

カリブン、ことカリブ文学が、静かに熱い。グリッサンはカリブ文学、マルティニーク文学を代表する作家のひとりで、「クレオール化」「全=世界」という概念を編み出した。フォークナーに影響を受け、奴隷制と独立に至る歴史を雄弁に語る、マルティニーク・サーガ連作を書いている。

『マホガニー』は、数世紀を生きてきたマホガニーの木を軸に、マルティニークの歴史=世界を語る小説だ。マルティニークの歴史を見つめる観測者としてのマホガニーの元に、数十年にいちど、逃亡奴隷たちが身を寄せ、彼らの伝説が語られる。マルティニークの口承文化を取り入れた語り、失われゆく記憶と歴史への意思がすばらしい。

逃亡は闘争であり、抵抗、伝説、歴史、すべての世界でもある。

 

【カリブ海】 テレーズ・ジョルヴェル『カリブ海アンティル諸島の民話と伝説』

グリッサンが現代カリブンなら、こちらは古くから伝わる民話カリブンだ。

カリブ海は、ヨーロッパの入植者、アフリカから連れてこられた奴隷、船乗りたちなどの文化が混ざりあった、"クレオール"の土地である。だから、語られる民話も、各文化のものが入り混じっている。アジアっぽい話もあれば、「青ひげ」やグリム童話のローカライズ版など、ヨーロッパ由来の話もある。

最近『アフリカ文学講義』といった文学書が刊行されており、アフリカ文学、カリブ文学は、じわじわと熱い。

 

【コロンビア】 フアン・ガブリエル・バスケス『廃墟の形』

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歴史を揺るがす大事件は、陰謀論と教信者の大好物である。偉大な政治家の暗殺事件ときたら、なおさらだ。

『廃墟の形』は、20世紀コロンビアの歴史的な暗殺事件をめぐる、陰謀論の狂信者 VS. アンチ陰謀論者の攻防を描く「陰謀論×歴史小説」だ。暗殺された偉大な政治家の脊髄=廃墟に触れた作家が、暗殺事件の真実を追い求める狂信的な男に追い回され、ある本を書くように迫られる。

陰謀論は、どうしてもネガティブなイメージがつきまとい、弊害も多い。『廃墟の形』でも、陰謀論者はガチ狂信者のヤバい人だ。しかしバスケスは「なぜ陰謀論に向かうのか」との問いについて、「信じる人がヤバいから」で終わらせない。「狂信によって世界に挑戦状を叩きつける理由」が、ダンテ『神曲』を思わせる構造で、ぐっとくる。私の中の妄想ボルヘスが好きなタイプの小説。

 

【アルゼンチン】 アドルフォ・ビオイ・カサ―レス『英雄たちの夢』

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すばらしい夢を見た感触だけが残って目覚めたら、もういちどあのすばらしい夢を見たい、なにがそんなに素晴らしかったのか知りたい、と思う。私ならもういちどベッドに潜りこむだけだろうが、『英雄たちの夢』の青年は、狂気じみた執着でもって、すばらしい夢をもういちど体験しようととする。

夢は夢、過去の再現は不可能、と常識人は言うだろう。だが願望成就のために世界を構築するカサーレスにかかれば、不可能は可能になる。

友情と恋に忙しい若者の青春小説かと思いきや、最後はしっかりカサーレス・マジックが出てくる。後は、「母に、自分が怠惰でないことを見せたくて長編を書いた」「ボルヘスが褒めてくれた」など、カサ―レスのぶっちゃけトークが炸裂する序文が笑えておもしろかった。

 

【アルゼンチン】 シルビナ・オカンポ『蛇口』

これまでごくわずかな邦訳しかなかったオカンポの作品集が、2021年冬に2冊続けて出た。圧倒的かつ急速なオカンポ供給は、ちょっとした衝撃だった。

日常の中に亀裂が入り、異界が流れこんでいくるような世界観が、色彩豊かな静物画を思わせる筆致で描かれる短編集だ。家具や光の描写など、ちょっとした背景の描写が、貴族の邸宅を散策しているような美しさがある。洗練された職人技を感じる(この職人技ぶりには、好みがわかれそうなところではある)。

オカンポはこれまで邦訳の少なさから、「ボルヘスとカサ―レスとの関係」といった、人間関係ゴシップでの言及が多かったが、そういう扱いはどうなんだと思っていたので、これからは作品をベースに語られる機会が増えるといいなと思う。

 

【ペルー】 マリオ・バルガス=リョサ『ケルト人の夢』

ストーリーテラーのリョサが、驚くべき人生を語ると、すばらしくおもしろい小説になる。

人権活動家でもあり反逆者でもあった、19世紀に実在した英国外交官、ロジャー・ケイスメントの驚くべき人生を描いた長編小説。植民地のキリスト教化と文明化という夢を抱いて植民地にやってきたロジャーは、おぞましい暴力と搾取を目の当たりにして、植民地主義の邪悪を告発する活動家へと転身する。

ロジャーは、強烈な意思と行動力だけではなく、苦悩と迷いも抱えている。同性愛は、今では考えられないほど迫害されていた。

人類は、他者を救うために戦える存在であり、他者を搾取してすりつぶせる存在でもあることを、陰影深く描き切った大作。

 

【ブラジル】 クラリッセ・リスペクトル『星の時』

「無垢」という言葉には、どこか不穏な影がつきまとう。無垢な人が好き、という言葉には、かすかな優越感や支配欲、加害性がほの見える。

『星の時』に登場するブラジル人の女性は、貧しく、無知で、不幸を不幸と感じず、女優になる夢を見ている。語り手の中年男性は、彼女を見守る体裁で、彼女の無垢を愛でている。

女性の不幸と無知を愛でる男の語りが気持ち悪く、語られる少女の自意識のなさと、語る男の自意識の対比が際立っている。構造の複雑さゆえに、名状しがたい読後感を味わえる。不幸を感じないのだとしたら、少女は不幸ではなかったのではないだろうか?他者が不幸だと言ったら不幸なのだろうか? ものすごく複雑な奇妙な味を味わった感じがして、読んだ後はしばらくこの小説のことを考えていた。

 

【中国】 閻連科『心経』

21世紀においても宗教は生きながらえているが、信仰の形はオリジナルからだいぶ変化している。日本では、神道と仏教とキリスト教のイベントがエンタメとなって、奇妙な形で日常に根づいている。では、中国共産党が支配する中国ではどうなのか、といえば、こちらもかなり奇妙な形で、クラシックな宗教と中国共産主義が共存している。

五大宗教研修センターで、中国政府が活動を認める五大宗教(仏教、道教、イスラム教、カトリック、プロテスタント)の信徒が共同生活を営んでいる。

この状況だけでもかなり異質だが、さらに異質なのが、「五大宗教信徒たちの綱引き」という、文学史上でもかなり謎レベルの高い謎イベントである。いったいなにを読まされているんだ……と混乱したが、綱引き(物理)は、信仰の揺らぎと政治的・恋愛的駆け引きと重なっていて、荒唐無稽のようでいて、そうでない。信仰が共産主義と資本主義に飲みこまれる様子を、諧謔に満ちた語りで描いた、きわめて現代的な宗教小説で、読み始めた時の混乱が昇華されてゆくカタルシスがすごい。

宗教にハードルを感じている人に避けられがちな小説だと思うが、「宗教よくわからん」という人にこそ読んでほしい。宗教は、人間がつくったものであるがゆえに、人間と同じぐらい不完全で、弱いのである。

 

【台湾】 呉明益『複眼人』

呉明益は、古い物語と新しい物語を交差させて語る作家だと思う。その交差点からは、失われたものへの愛着と悲しみ、ノスタルジーがじわりと漏れ出てくる。

『複眼人』は、現代の海洋プラスチックごみ問題と、古くから伝わる海洋神話を寄り合わせた小説だ。現代台湾の沿岸に、巨大な海洋ゴミの渦が漂着する。このゴミ渦を軸に、神話的な世界を生きる追放少年と、台湾人の文学研究者の人生が、撚り合わされる。

現在進行形の環境問題をテーマにしているはずなのに、呉明益ノスタルジアの圏内においては、遠い昔に滅びた地球の話を聞いているような気持ちになる。人間の愚かさを非難するのではなく、変革をうながすのでもなく、失われゆくものへの悲しみを開陳する語りは、熱帯のアジアと呉明益が入り混じった、独特の湿っ気を感じる。あらためて、呉明益はウェットな作家だと感じた1冊。

 

【台湾】 『蝶のしるし 台湾文学ブックカフェ1 女性作家集』

台湾文学を長年にわたって紹介してきた研究者が企画した、台湾文学のアンソロジー「台湾文学ブックカフェ」シリーズが始まった。

1作目は、台湾文学を「女性作家」という観点で編んでいる。コロナ時代の恋愛破綻、子供を持たないキャリアウーマンへの風当たりのつらさ、同性愛者を隠しながらいきる息苦しさなど、台湾の女性がどのような立ち位置にいるかが、垣間見える。おいしそうな台湾料理もよい。アジア的な女性の生きづらさは、韓国も台湾も同じなのだな。

 

【韓国】 キム・オンス『キャビネット』

人はそれぞれ、多かれ少なかれ、それぞれの生きづらさを抱えている。

指からイチョウが生える人、ガラスだけ食べる人、生物学的な人類の定義から少し外れた新人類「シントマー」は、絶対的少数派で社会に適合できないゆえに、生きづらさを抱えている。シントマ―の調書を仕事として集める男もまた、「普通」から足を踏み外していく。

『キャビネット』は、新人類シントマ―の独特な生態を語りつつ、マジョリティがマイノリティの物語を消費する無邪気な残酷さ、マイノリティを有用性で判断する社会の残酷を描く。「マイノリティへの共感」「マイノリティへの好奇心」の薄暗いところをじわりと描いており、冷や汗が出る。海外文学を読む私たちもまた、その一端を担っている。最後の展開にはちょっとびっくりした。

 

【韓国】 クォン・ヨソン『まだまだという言葉』

数ある韓国文学の中で、とりわけクォン・ヨソンが好きな理由を考える。彼女が酒とごはんをこよなく愛する飯酒民であるところ、痛みに肉薄しながらも絶望に陥るギリギリで静止する、独特な姿勢が好きなのかもしれない。

短編集の登場人物たちは、韓国の厳しい競争社会を背景に、精神的、身体的、金銭的な痛みに苦しんでいる。とくに、若者が直面する熾烈な就職競争、不安定な雇用と生活は、胃が痛くなる。それでもヨソン作品は、つらさ100%ではなく、つらさ92%希望8%、ぐらいの絶妙な配分なので、読み進めたくなるのである。

 

【シンガポール】 アルフィアン・サアット『マレー素描集』

はじめて読んだ、シンガポール文学。日常風景の断片を描いた数ページの掌編が降り積もって、シンガポールの日常、多言語国家のシンガポールが浮かび上がる。

タイトルにある「マレー」とは、マレー語話者のことだ。マレー語話者はシンガポールではマイノリティで、社会的に弱い立場にあり、『マレー素描集』でもその立ち位置がほの見える。

鮮やかな風景の断片が現れては消えていくスタイルで、異国をうたう短歌を読んでいる時のような読後感を味わった。あの地域独特の、湿った夕暮れのにおいをかいで、シンガポール料理を食べたくなった。

 

【世界各国】 沼野充義&藤井省三編『囚われて 世界文学の小宇宙2』

アメリカ、イギリス、ロシア、中国、台湾、ブラジル、エジプトと、幅広い国の作品を集めた、海外文学アンソロジー。『ヌマヌマ』のような突き抜けたやばい作品はあまりなく、各国の文化と人類の普遍テーマをバランスよく持ち合わせる作品が選ばれている印象。

このシリーズは、収録作品はもちろんのこと、解説が充実している点がすばらしい。作品ごと、作家の紹介、国や時代の背景、おすすめ本、訳者の感慨や思い出と、フォーマットを統一して、訳者全員が同じトピックを書いている。賛否はあるだろうが、私は個人的な思い入れ話が好きなので、楽しく読んだ。

 

 

■2021年に読んだ海外文学:新訳・復刊

【イタリア】イタロ・ズヴェーヴォ『ゼーノの意識』

「20世紀の傑作」にしばしばノミネートされる、イタリアが誇る「自意識×禁煙文学」。語り手ゼーノが「禁煙できない理由」を自己分析するために精神科医の勧めによって書いた手記という体裁で、禁煙チャレンジの度重なる挫折、生い立ち、恋愛、仕事について赤裸々に告白する。

この自己語りがじつにツッコミどころが満載で、うまい話に乗せられてカモられ、「妻を尊敬しているんだ」と言いながら不倫を繰り返す。

フロイト心理学をとりいれつつ批判した小説の先駆けらしく、自分勝手で自己正当化しがちな人間のセルフ精神解体ショーといった趣で、さまざまな感情をかきたてられる。語りがうまいので、感情のざわめきもはかどる。

 

 

後記

連載を担当する前は、新刊をそれほど熱心に追っているわけではなく、本屋でぶらりと見て回るぐらいだった。いざ担当してみると、ガイブン新刊が思ったより多くて驚いた。この連載がなかったら知らなかったであろう作家や作品にたくさん出会った。

エストニア文学、シンガポール文学、レバノン文学、ベラルーシ文学など、これまで読んだことがなかった国の文学もおもしろかった。

一方、NON新刊(既刊)を読む時間はめっきり減った。原稿と原稿の合間に、2~3冊をどうにか読むぐらいで、せいいっぱいだった。と言いつつ、どかどか本を買うので、既刊山がどんどん増えていった。しょうがないね。

2022年も引き続き、海外文学の新刊を読みまくる予定。ぽっぽー

 

 


 

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