少数派の横暴 民主主義はいかにして奪われるか

はじめに

ヨーロッパと同じようにアメリカにおいても、極右的な有権者は少数派でしかない(これは重要なポイントだが見逃されがちだ)。(略)

しかしヨーロッパの極右政党とは異なり、トランプの共和党は政権のトップへと上り詰めた。

 ここから、さらなる不快な真実へとつながっていく。今日この国が直面する問題の一部は、私たち国民の多くが崇拝するもの――合衆国憲法――のなかに潜んでいる。(略)

成立から二世紀以上にわたって憲法は、度を越えて野心的な大統領の権力を抑え込むことに成功してきた。しかしいま、憲法の欠陥のせいでアメリカ民主主義は危険にさらされている。

 民主主義が確立する以前の時代に設計された合衆国憲法は、少数政党が多数政党を日常的に妨害し、さらには多数派を支配することさえ可能にしている。少数政党に大きな権限を与える制度は、ときに少数派による支配のためのツールとして利用される。(略)

 エドマンド・バークからジョン・アダムズ、ジョン・スチュアート・ミル、アレクシス・ド・トクビル(略)は、民主主義が「多数派による横暴」(数の暴力)になる危険性について不安視していた。(略)

私たちがいま直面している喫緊の脅威は、少数派による支配のほうなのだ。多数派による横暴という怪物から共和国を護ろうとするあまり、アメリカの建国者たちは、少数派の支配という怪物の攻撃に脆弱なシステムを作り出してしまった。(略)

負ける恐怖

 一九八三年一〇月三〇日、アルゼンチンでは一〇年ぶりとなる民主的な選挙の開票が行なわれるなか(略)ペロン党(正義党)支持者たちは衝撃を受けていた。「工業地帯の票はいつ加算されるんだ?」(略)しかし、それらの票はすでに加算されていた。こうして史上はじめて、ペロン党――アルゼンチンの労働者階級のための政党――が自由選挙で敗れたのだった。(略)

元軍人のフアン・ペロンが一九四六年に大統領に初当選して以来、ペロン党はアルゼンチンの第一党として君臨してきた。ペロンは有能なポピュリスト政治家で、アルゼンチンの社会保障制度を築き上げ、労働運動の規模を四倍に拡大し、労働者階級から絶対的な支持を得た。

 一九五五年のクーデターでペロンが失脚し、一八年にわたって国外追放されたあいだも、労働者の忠誠心が潰えることはなかった。その約二〇年の長い期間ペロン主義は禁止されたものの(略)参加が許されたすべての国政選挙で勝利した。一九七三年、年老いたペロンがついに母国への帰国を果たし[大統領当選](略)翌年に彼が亡くなると、アルゼンチンはまたもやクーデターの餌食となり、七年にわたって軍事独裁政権の手に落ちることになった。

 そのような紆余曲折があったにせよ、一九八三年に民主主義体制が復活したときにはほぼ誰もが、ペロン党の大統領候補イタロ・ルーデルが最終的な勝者になると予想していた。

 が、それまでにアルゼンチンは大きく変化していた。(略)産業の衰退によって数十万人分の肉体労働職が失われ、ペロン主義の基盤となる労働者階級は大打撃を受けた。同時に若年層や中流階級の有権者たちは、ペロン党系の保守的な労働組合幹部たちを忌み嫌った。(略)有権者の多くは、ペロン党のライバルである急進市民同盟の人権派候補ラウル・アルフォンシンのほうを好んだ。(略)

候補者は暴力的で現実離れした人物が多く、問題はさらに深刻化した。(略)

エルミニオ・イグレシアスは、物騒な一九七〇年代にペロン党内の対立派閥と撃ち合いになったことで有名な人物だった。開票二日前に行なわれたペロン党の最後の選挙集会において(略)急進市民同盟のロゴが描かれた段ボール製の棺桶を燃やした。国営放送で生中継されたその暴力的なパフォーマンスは、一〇年近く恐るべき弾圧に苦しんできたアルゼンチン人の多くを戦慄させるものだった。

(略)

アルフォンシン優勢の結果が伝えられると、ペロン党の指導者たちは何か裏があるはずだと必死でみずからに言い聞かせ、その状況をすぐには認めようとしなかった。「まだラ・マタンサ(支持基盤の労働者階級地区)の票が数えられていない」(略)

副大統領候補(略)は、労働者階級地区の開票を後まわしにしていると選挙当局を非難した。ところが日付が変わるころまでに、そのような隠れた票などたんに存在しないことが明らかになった。

(略)

 選挙後にペロン党内では、組織としての将来をめぐる大きな議論が巻き起こった。「レノバシオン」(刷新)と呼ばれる新派閥は、アルゼンチン社会の変化に適応しなければペロン主義がふたたび勝利を収めることはないと主張し、既存の党指導部の解任を求めた。(略)党内からは「ジャケットとネクタイをまとったペロニスタ」と批判を受けた刷新派だったが、派閥の指導者たちは徐々に、ペロン党の気性の荒い保守派を脇へと追いやった。そして前時代的な考えの多くを取りのぞき、中流階級層のあいだで党のイメージを向上させることに成功した。結果、その後の二度の大統領選ではペロン党が快勝した。

 これこそ、民主主義のあるべき姿だ。政治学者アダム・プシェボルスキの有名な言葉のとおり、「民主主義とは政党が選挙で負けるシステム」である。

アメリカ初の権力移譲

 敗北を受け容れ、平和的に権力を放棄するという規範は、近代の民主主義の基盤となるものだ。一八〇一年三月四日にアメリカ合衆国は、ひとつの政党からべつの政党への選挙による権力移譲を経験した世界初の共和国となった。

(略)

連邦党の現職大統領ジョン・アダムズ(略)を破ったライバルの民主共和党トーマス・ジェファーソン

(略)

一八〇〇年当時、敗北を受け容れ、対立相手に権力を譲るという規範はまだ定着していなかった。(略)

それまで権力の移譲が行なわれたことはなかったため、将来の選挙で対立相手が同じように移譲を繰り返してくれると断定はできなかった。権力の移譲はまさに、「未知への突入」だった。(略)

彼らはいわば「創設者のジレンマ」に苦しめられていた。新しい政治体制を定着させるためには、その創設者は、自分たちが制度を永遠に支配することはできないという事実を受け容れなくてはいけない。

(略)

 アメリカの最初の野党である民主共和党の出現によって、誕生したばかりの国家の安定性が早くも脅かされることになった。

(略)

連邦党員の多くは、民主共和党をほかならぬ反逆者と見ていた。とくに、彼らがフランスの革命政府に同情的なことに懸念を抱いていた。(略)

連邦党が恐れていたのは、民主共和党員たちが(略)フランスの侵攻を手助けするというシナリオだった。これらの懸念は、南部で相次いだ奴隷の暴動によってさらに強まっていった。

(略)

 連邦党はまず、対立相手を殲滅しようとした。一七九八年、連邦議会は外国人・治安諸法を可決した。連邦党はそれを利用し、政府を批判した民主共和党系の政治家や新聞記者を逮捕した。この法律によって、国の二極化はさらに進んだ。(略)

[外国人・治安諸法を無効とした](略)バージニア州の行動をフランス援護のための「陰謀」の一部だと見たハミルトンは、「バージニアに向かわせるための堅固な軍事力」を築くようアダムズ政権に求めた。それに呼応するように、バージニア州議会は独自の民兵を配備して武装しはじめた。

 暴力、さらには内戦の恐怖という暗雲が、一八〇〇年の大統領選挙直前のこの若い共和国を覆っていた。

(略)

ジョン・アダムズの敗北は明らかだった。しかし、民主共和党のふたりの候補(略)[トーマス・ジェファーソンとアーロン・バー]がそれぞれ七三票を獲得し、手ちがいによって同点となってしまった(略)

[アダムズは渋々ながらも敗北を受け容れたが]

多くの連邦党員はこの選挙の混乱を逆手にとり、強硬手段を繰り出して権力を維持するための好機だと考えた。なかには、選挙をやり直すというアイデアを提案する者もいた。ほかにも、将来の政権で連邦党がなんらかの役割を得るのと引き換えに、あえてバーを大統領に選出するべきだと訴える者もいた。(略)

さらに物議をかもすアイデアが連邦党内で浮上した。それは、一八〇一年三月四日の就任期限まで議論を引き延ばすという作戦だった。(略)そうすれば「政権は連邦党の上院議長代行の手に委ねられる」ことになる。ジェファーソンが「憲法の拡大解釈」と呼んだその種の動きは、ほぼまちがいなく憲法の危機を招くものだった。

(略)

苦々しい六日間、三五回にわたって投票が繰り返されたものの、結果は変わらなかった。八州がジェファーソン、六州がバーに票を投じた。(略)

この行き詰まりを打開するには、少なくとも連邦党議員のひとりがジェファーソンに投票する必要があった。ついに六日目[ジェイムズ・バヤードがバー支持撤回](略)

最終的にジェファーソンは過半数に達する一〇票を確保(略)大統領に就任した。

(略)

バヤードは友人宛ての手紙のなかで投票先を変えた理由について触れ、ジェファーソン以外の選択肢は憲法の崩壊、さらには内戦につながりかねないと恐れたからだと説明した。

(略)

 いったん政党が負けることを学ぶと、民主主義は根づきやすくなる。そして民主主義が根づくと、権力の交代が当りまえのものになり、人々は政権交代を当然の流れとして考えるようになる。

(略)

二極化した選挙運動の末に多くの連邦党員は民主共和党について、自分たちの存亡にかかわる脅威だと考えるようになった。ジェファーソンが勝利すれば(略)連邦党の支持者は貧困に陥り、社会から追放される。(略)

 ところが最終的にハミルトンをはじめとする建国者たちは、ジェファーソンが既存の制度の埒内で活動する現実主義者であると判断した。(略)

どうやら水面下の交渉をとおして連邦党の有力者たちは、ジェファーソン政権のもとでも党の最優先事項が保護されると確信したようだ。その優先事項のなかには、海軍、合衆国銀行、国債などが含まれていた。おまけに退陣する連邦党政権は、一六もの連邦裁判官の地位を新設し、それらの席を身内で固めて裁判所を牛耳ることに成功した。このようにして連邦党員たちは、ジェファーソン政権が破滅的な結果を招くことはないと信じ、権力の中枢から去った。

エリート層を震撼させたタクシン

[タイでは]一九三〇年代以降に軍事クーデターが一〇回以上も発生した。ところが一九九〇年代に入ると、民主主義体制が強化されていった(ように見えた)。一般市民の抗議活動によって軍事政権による支配が終わりを告げ、中流階級を基盤とするタイ民主党――長きにわたって軍と対立してきた政党――が一九九二年の選挙で勝利した。新憲法の制定、一〇年にわたる経済の二桁成長、規模の拡大とともに自信を深める中流階級、それらすべてがタイの民主主義の未来を明るく照らした。

(略)

 しかし、二一世紀はじめに事態は一変した。立てつづけに起きた軍事クーデターによって、生まれたばかりのタイの民主主義は破壊され、軍部が支配的な地位を取り戻した。そして驚くべきことに、一九九〇年代に民主主義のための闘いを先導した民主党が、これらのクーデターを容認してしまった。いったい何が起きたのだろう?

(略)

[2014年の投票日]高学歴の中流階級層を主とした抗議者たちが、街の通りを封鎖(略)

バンコク中心地の広場、ショッピングモール、主要な交差点でお祭り騒ぎにも似た集会を開催した。(略)

 俳優、ポップ歌手、タイ有数の大富豪一家の御曹司がその会場にいた。(略)

抗議者たちは、当時の首相インラック・チナワットを腐敗の象徴として批判し、辞任を求めた。(略)

彼らが訴えるスローガンのひとつに、抗議活動に参加した不動産王スリワラ・イサラが提唱したものがあった「民主主義よりも道徳的な正義を優先せよ!」。

 デモ隊は二〇一四年二月の総選挙を妨害することに成功し、憲法裁判所も最終的にその選挙を無効と判断した。五月、インラック首相は些細な理由によって失職させられた。二週間後、軍が国王の承認を得たと主張して戒厳令を発令し、憲法を破棄した。そして国家平和秩序維持評議会(NCPO)による軍事政権が樹立され、タイの民主主義に終止符が打たれた。(略)

 タイ民主党は古くから、民主主義の擁護者を標榜してきた。そのような中流階級の主流政党が、選挙を拒絶し、クーデターを受け容れるようになったのはなぜだろう?

(略)

アジア通貨危機によって(略)主流政党への国民の支持が低下(略)二〇〇一年の総選挙では、政界のアウトサイダーである大物実業家タクシン・チナワット(略)が大勝利(略)

戦略的な政治家でもあるタクシンは、北部の貧しい農村地域を対象とした政策が選挙に有利に働くことを理解していた。二〇〇一年の選挙でタクシンは、新しい「社会契約」を公約に掲げて活動した。そのなかには、三年間の農民の債務繰り延べ、稲作に偏重した農村経済の多角化のための助成金、野心的な国民皆保険制度などが含まれていた。そして彼は公約を護り、タクシン政権は貧困層向けの公共政策のために数十億ドルもの予算を割り当てた。こうしてタイは、世界ではじめて国民皆保険制度を導入した中所得国のひとつになった。貧困率はとくに農村部で劇的に改善し、数十年ぶりに貧富格差も縮小した。(略)

[2006年の選挙では60%の得票率で圧勝]民主党の三倍近い数字だった。突如として、民主党は競争力を失ってしまった。

(略)

王室との親密な関係やタイのエスタブリッシュメント層からの支持があるにもかかわらず、民主党は二〇〇一年から二〇一一年にかけて総選挙で五連敗を喫した。

 しかし、二〇一三年と二〇一四年に高学歴の会社員を中心とした中流階級の民主党支持者を街頭デモへと駆り立てたのは、党が選挙で勝てないから[でも政権の汚職等でもなく](略)

もっと根深いものだった。バンコクのエリートたちは、タイ社会の権力、富、地位のバランスが変わりつつあることに憤りを募らせていた。彼らは長いあいだ、政治的、経済的、文化的な階層の頂点に君臨してきた。

(略)

エリート層をなにより震撼させたのは、自分たちの反対側の世界で誰が勝利を収めているのかということだった。(略)

[シンハービールの令嬢は]エリートたちが抱くこの感情について代弁した。「タイ人のあいだでは、民主主義に対する真の理解が欠けています。とくに農村部ではその傾向が強くなります」。(略)

[エナジードリンク企業CEO]は、記者にこう話した。「わたしは民主主義に全面的に賛成しているわけではありません……タイ人は、そのための準備がまだできていないと思います。この国には、中国やシンガポールのような強い政府が必要です。独裁国家のようなものかもしれませんが、それこそが国の利益になるのです」。

(略)

 地位が高いタイ人の多くがこのように民主主義に抵抗しようとした背景には、社会から追放されることへの恐怖があった。作家のマーク・サクサーはこう説明する。

 

 都市部の中流階級層は、かつてはタイにおける民主主義的な規範の庇護者だった。しかし二一世紀の最初の一〇年のあいだに彼らは、自分たちが少数派になったことに気づいた。現在、選挙のたびに首尾よく勝利するのは、巧みな政治的企業家に動員された社会の末端の人々のほうだ。都市部の中流階級者たちは、農村部の中流階級者が台頭し、社会と政治への全面的な参加を求めていることにどこまでも無知だった。そんな彼らは、平等な権利や公共財に対する農村部の要求について「貧困層が強欲になっている」と解釈した。

 

(略)彼らの第一目標は「タクシン以前の想像上の理想的な時代」に戻ることだった。「その時代には支配者層と支持者たちが悠然と采配を振るい、地方の有権者は社会の隅へと追いやられていた」(略)

デモ参加者とタイ民主党支持者がなによりも恐れていたのは、自由で公正な選挙だった。(略)かつてはクーデターと絶対王政に猛然と反対していた民主党が、二〇一四年のクーデターをひそかに支持し、のちに軍事政権に加わった理由だった。

(略)

 恐怖はときに、独裁主義への移行を後押しする。政治的な権力を失う恐怖はもちろん、社会におけ自分の支配的地位を失うという恐怖がもたらす影響力はとくに大きい。そして恐怖はときに、主流政党が民主主義に背を向ける要因となる。(略)

タイでは、民主主義への攻撃者を特定するのは簡単だった(略)しかしより確立された民主主義国家では、多くの場合、民主主義を蝕む流れはより見えにくく、より止めるのがむずかしい。

保守本流が右翼暴動を容認したことで…

(略)

フランス社会は混乱の渦に呑み込まれていった。世界恐慌、一連の大きな汚職スキャンダル、治安の悪化、そして不安定な政治状況(略)

 一九三四年二月六日の午後、数万人の怒れる若者たち――多くは退役軍人協会、または愛国青年同盟、アクシオン・フランセーズ、火の十字団などの右翼の民兵組織(略)[がコンコルド広場に集結]

すべての集団が議会制民主主義への敵意によって結ばれていた。なかには、ムッソリーニの黒シャツ隊を模倣した似非ファシストもいた。(略)

国会議事堂内で行なわれる投票の公式集計を妨害することであり、誰もが右派政権の樹立を望んでいた。どの集団も自分たちを愛国者とみなし、「フランス人のためのフランス」といったスローガンを掲げ、リベラル派や社会主義者のライバルを負け犬、さらには裏切り者と位置づけた。

(略)

バスが燃やされた。数万の暴徒たちが椅子、鉄格子、石を投げた。

(略)

議員たちは隠れる場所を探して慌てふためいた。建物内にいたジャーナリストたちは報道記者席に避難し、扉の外に手書きの看板を掲げた――「デモ隊に告ぐ。ここに代議士はいません!」。

(略)

ダラディエ首相はすぐさま辞任。後任には右派のガストン・ドゥメルグが就任したが、それは右翼リーグに配慮した人選だった。こうして、一部の反乱者の目標は達成された

(略)

穏健保守派のアルベール・ルブラン大統領は、暴動を「共和制への攻撃」と非難した。(略)

二月六日の共和制反対デモに参加した一部の極左の共産主義者でさえ、いまや社会主義者やリベラル派と結束を固めるようになった。

(略)

 一方で、フランスの主要な保守政党である共和連盟は(略)驚くほど寛容な態度をとった。(略)

長いあいだエリート政党と位置づけられてきた共和連盟は、積極行動主義と活力の源として愛国青年同盟やほかの右翼リーグに依存するようになった。(略)

少なくとも、三五人の共和連盟の国会議員が愛国青年同盟に属していた。

(略)

フィリップ・アンリオは、愛国青年同盟を自党の「突撃隊」と表現した(のちにアンリオは、ナチス傘下のビシー政権でプロパガンダ担当国務長官を務めた)。

(略)

保守本流派が反民主的な過激派に同情したこと、それが二月六日の危機を引き起こした主たる要因だった。

(略)

反乱者たちは、腐敗、共産主義、政治的機能不全から共和国を救おうとした英雄的な愛国者であり、非難されるべきは警察による残虐行為のほうだと彼らは説明した。

(略)

二月六日の出来事に対する説明責任が果たされることはなく(略)六年のうちに民主主義は死んでしまった。

(略)

襲撃のあいだにケガをした右翼デモ参加者の一部がのちに、〈二月六日の犠牲者の会〉[を結成](略) 

保守界隈で英雄として持て囃された。

 犠牲者の会の代表(略)反ユダヤ主義者ルイ・ダルキエ・ド・ペルポワ(略)

襲撃の日の暴力のスリルと自身が負ったケガが彼に新たな使命を与え、ダルキエは「宝くじの当籤券」を手にしたかのように感じたという。一九四〇年のナチスドイツによる侵攻後、ダルキエや仲間の「犠牲者」の多くが嬉々としてビシー政権の運営に加わった。ダルキエはユダヤ人問題担当のフランス側の責任者となり、強制収容所へのユダヤ人の移送を取り仕切った。(略)

[他のメンバーはパリ市議会議長や]ビシー政権のプロパガンダ担当国務長官になった。(略)

 準忠誠的な行動は、反民主主義的な過激派を保護するだけでなく、彼らの考えを正当化する。健全な民主主義では、反民主主義的な過激派は社会ののけ者として扱われ、マスコミに敬遠される。(略)エスタブリッシュメント側のメンバーは、自身の評判が傷つくことを恐れて過激派との接触を避ける。しかし、著名な政治家からの暗黙の支持があると状況は一変し、過激派とそのイデオロギーがより正常なものとして扱われることもある。主要メディアは、ほかの政治家と同じように過激派について取り上げ、インタビューや討論会に招きはじめる。実業界のリーダーの一部は、過激派の活動に資金を提供しようと考える。(略)

公の場で支援することをためらっていた多くの政治家や活動家が、いまとなっては支援しても問題ないと判断するようになる。

(略)

一九三四年時点の愛国青年同盟の政策の核にあったのは、それまで何十年ものあいだ政界の既成勢力の多くから忌み嫌われてきた考えだった――議会の解体、さらにはフランス第三共和政の民主主義の解体。ますます多くの保守派が、フランスの民主主義は腐敗し、機能不全に陥り、共産主義者とユダヤ人に侵食されていると考えるようになった。すると、権威主義的な「憲法改正論」が右派の主流の考え方になった。急進的な右翼勢力は、ユダヤ人社会主義者レオン・ブルム率いる一九三六年成立の改革派〈人民戦線〉政権について、破滅的なスターリン主義だと批判した。右派のあいだでは、「ブルムよりヒトラーのほうがマシ」というスローガンが流行した。(略)

[保守派は]ドイツを嫌悪していた。しかし一九四〇年までに、共産主義、ソ連の侵入、国内の社会変動に対する恐怖に突き動かされ、保守派は渋々ながらもナチスを黙認するようになった。

(略)

主要政党が反民主主義的な過激派を容認、あるいは陰で支持すると、「反民主的な行動にともなうリスクが小さくなった」という強力なメッセージを送ることになる。

(略)

合法的に破壊される民主主義

インディラ・ガンディーと側近たちはなんとしてでも権力を奪い返そうと数カ月にわたって思案しつづけたものの、確実な方法が見つからなかった。一九七五年六月二四日の夜、首相官邸に呼び出された最側近のシッダールタ・シャンカー・レイは国会図書館からインド憲法を一冊取り寄せ、「解釈学的な厳密さをもって熟読」した。レイが最終的に着目したのは第三五二条だった――インドが「戦争、または外部の侵略、または国内の騒乱」の脅威にさらされた場合、政府は緊急事態を宣言し、憲法が保障する基本的な権利を停止することができる。植民地支配の遺産であるこの条項は、独立以来ずっと「休眠状態」にあった。

(略)

警察が野党指導者たち(略)を含む六七六人の政治家の身柄が拘束された。それまで密輸業者に適用されていた国内治安維持法などの法律を引っぱり出し(略)一一万人以上の敵対者を逮捕した。くわえて、厳しいメディア検閲も行なわれた。たったひとつの署名をとおしてガンディー首相は、三〇年近く続いた民主主義の息の根を止め、「憲法という名の衣をまとった」独裁政治を確立した。

(略)

 政府は法律を回避するだけでなく、法律を適用してライバルを罰することもできる。(略)

ライバルに照準を定めて選択的に法を執行することもできる。その種の政府の行動はいたって合法的なものだ(略)

ペルー大統領を務めた独裁者オスカル・ベナビデスの口癖は、「友人にはすべてを与え、敵には法律を与えるのがいい」というものだった。

(略)

民主主義の後退は、合理的に見える一連の措置によって少しずつ進んでいく。たとえば、表向きは選挙の正常化、汚職の撲滅、司法制度の効率化などを進めるために設計された新しい法律が作られることがある。または裁判所が、現行法に新たな解釈を与える判決を出すこともある。あるいは、長いあいだ使われていなかった法律が都合よく再発見される例もある。そのような措置は合法性のベールをまとっているため、実際には何も変わっていないかのように見える。

 流血騒ぎなどなく、誰も逮捕されず、亡命もしていない。国会も通常どおり開催される。そのため政府の施策に対する批判は、「過剰反応」や「野党の言いがかり」などと片づけられてしまう。しかし徐々に、ときにほとんど気づかないうちに競技場は傾いていく。一見すると無害なこれらの措置の累積効果によって、政権の対立相手による競争がより困難になり、よって現在の権力者たちの立場が強固になっていく。

(略)

オルバーン・ビクトル(略)は、はじめは「リベラル派」として、一九九〇年代のポスト共産主義の激動の時代にはキリスト教民主主義者として活動した。第一次政権のあいだ、オルバーンは民主的に国を統治した。(略)

二〇〇二年の選挙の敗北後にフィデス党は激しく保守化し、民族主義的な路線に舵を切った。(略)

二〇一〇年にフィデス党が政権に復活したとき、オルバーンがハンガリーの民主主義を蝕むことになるとはほぼ誰も予想していなかった。

(略)

フィデス党の得票率は五三パーセントだったが、[「小選挙区制」により]国会の三分の二以上の議席を独占した。(略)直後に憲法改正が行なわれた。

(略)

 オルバーンは国会での党の圧倒的多数を利用し、反対勢力に対する不当なまでの優位を確立した。その最初の動きのひとつが、不都合な判事を取りのぞいて裁判所を抱き込むことだった。(略)

[憲法改正により憲法裁判所判事をフィデス党支持者に入れ替え、裁判官定年を引き下げ]二七四人の裁判官が地位を追われた。(略)

二〇一三年までに司法は骨抜きにされ、「政府の操り人形」に成り代わった。元最高裁判所判事が言ったとおり、「オルバーンは合憲的な手段を用い、合憲性というマントで身を覆いつつ憲法違反のクーデターを成功させた」。

(略)

オルバーン政権下では、公共テレビ放送局は政府のプロパガンダ部門に変わった。

(略)

[親オルバーン経済人がメディアを買収、検閲強化。残った数少ない独立系メディアも新法により認可剥奪。最後に選挙管理委員会が抱え込まれ、選挙区区割りを恣意的に改定]

 これらの試みのすべてが実を結んだ。二〇一四年の総選挙では、フィデス党は二〇一〇年より六〇万も票を減らし、得票率は五三パーセントから四四・五パーセントに下がった。ところが二〇一〇年の選挙と同じ数の議席を獲得し、過半数の票を得ることができなかったにもかかわらず、国会の三分の二の支配を維持した。フィデス党は二〇一八年にもこのトリックを繰り返し、五〇パーセント以下の得票で国会の議席の三分の二を勝ち取った。二〇二二年の選挙でも与党が野党の大連合を破り、オルバーンが「"通常"の状況下で敗北することはない」というハンガリーの新たな社会通念がさらに強まることになった。

 こうしてオルバーン・ビクトルは、途方もない偉業を成し遂げた。彼は成熟した民主主義を破壊しただけでなく、ほぼ完全に合法的な手段でそれを達成した。流血騒ぎも大量逮捕もなく、政治犯や亡命者が出ることもなかった。しかしバイナイ元首相が語ったとおり、「ハンガリー民主主義の背骨は一種ずつ組織的に壊されていった」。

(略)

ウィルミントンのクーデター

 一八九〇年代後半、ノースカロライナ州ウィルミントンは好況に沸いていた。一八世紀の奴隷経済で栄えた沿岸部に築かれたこの港町は、南北戦争後に綿花生産の革新的な工業化システムの拠点となった。新しい鉄道路線が敷かれ、内陸部の生産地域からウィルミントンのレンガ倉庫へと綿花が運搬された。そこに新たに設置された近代的な圧縮機を使えば、かつてないほど効率的に綿俵を生産することができるようになった。街随一の雇用主であるアレクサンダー・スプラント&サンは、アメリカ最大の綿花輸出業者に成長した。その倉庫、波止場、慌ただしい材木置き場では、白人と黒人の労働者が互いに協力し合いながら積み込み、運搬、荷下ろしなどの作業に勤しんでいた。

 ノースカロライナ州最大の都市であるウィルミントンの住民は、黒人が過半数を占めていた。南北戦争後の経済発展にともない、黒人経営の店舗が数多く誕生した。理髪店、食料品店、レストラン、精肉店が軒を連ね、やがて診療所や法律事務所もできた。ウィルミントンの黒人は裕福になり、文学会、公共図書館、野球リーグ、黒人所有の新聞社が設立されるなど、活気あふれる市民生活が営まれた。

(略)

 連邦政府が主導する南北戦争後のリコンストラクション(再建)計画は、一八七〇年代後半までに衰退していった。白人至上主義の擁護者を自認する民主党は、暴力と選挙不正を利用し、南部のほとんどの州政府と地方自治体の支配を奪い返した。それでも多くの黒人たちは、勇敢に投票を続けた。

(略)

人民党が支持を訴えかけたのは、貧しい白人の借地小作農民や分益小作人だった。(略)

一八九三年にノースカロライナの人民党は、アフリカ系アメリカ人から強い支持を受ける共和党とタッグを組んだ。「フュージョン」(融合)と呼ばれたこの連合は、野心的な人種間提携をとおして黒人と農村部の貧しい白人有権者を結びつけた。彼らが目指したのは、学校教育の拡大、影響力の強い事業独占の規制、リコンストラクション終焉後に蝕まれていた投票権の強化だった。

 このありえない提携は(略)民主党のエスタブリッシュメントを恐怖で震え上がらせた。フュージョン派の候補者は、一八九四年のノースカロライナ州議会選挙で圧倒的多数の議席を獲得し、一八九六年には知事選で勝利した。(略)

フュージョン派が多数派を占める州議会は、地域の役人の直接選挙を復活させ、「リコンストラクション後の南部でもっとも公正で民主的な選挙法」と評された法律を制定した。その結果、州全体で黒人の共和党員と白人の人民党員がつぎつぎと公職を勝ち取った。(略)

 まさに、ウィルミントンに多民族民主主義の萌芽が垣間見えた瞬間だった。(略)黒人市民は選挙で大切な一票を投じ、政治家たちは選挙で勝つために黒人を必要としていた。(略)

[しかし]多民族政治の広がりは、激しい反発を引き起こした。(略)

民主党の政治家たちは、「ニグロ支配」に対する白人たちの恐怖を煽った。(略)

「この国に最初に定住した白人たちのみが統治を担うべきである」(略)

「われわれは数でニグロを上まわることはできない。だとすれば、不正や水増しをしてでも相手を打ち負かさなくてはいけない」(略)

白人たちは「赤シャツ隊」と呼ばれる民兵組織を結成し、ウィンチェスター銃を持って街をパトロールし、地元の黒人に殴る蹴るの暴行をくわえて脅し、投票しないよう警告した。(略)

民主党の政治家の扇動によって、白人たちは暴力的な熱狂の渦に巻き込まれていった。

(略)

投票当日、白人政府連合は各地の投票所に「選挙立会人」を配置し、地元紙は黒人に投票しないよう呼びかけ、赤シャツ隊は馬に乗って通りをパトロールした。危険を冒してまで投票に行こうとする黒人はほとんどいなかった。行こうとしても、その多くが銃で脅されて追い返された。圧倒的に黒人が多い選挙区では、投票が締め切られたあとに民主党の暴漢たちが投票所に入り、係員を脅し、投票箱に不正票を入れた。当然ながら民主党は圧勝し、州議会の一一八のうち九八議席を奪取した。(略)

[市の役人を選ぶ次回の選挙は翌年]黒人がまだ要職に就いたままだった。(略)

五〇〇人の白人至上主義者からなる暴徒が(略)[行進し、歩行者を射殺、黒人教会を襲撃、黒人所有の新聞社を焼き払い](略)

市庁舎に突入し(略)市政府の全員を銃で脅して辞任に追い込んだ。(略)

有力な黒人住民の多くが、銃を突きつけられて街から追放され、二度と戻ってくることはなかった。その後、クーデターの主導者であるワデルが新市長に就任した。

(略)

民主党はすぐに州憲法を改正し、投票税(人頭税)、識字能力の試験、資産条件などを含む一連の投票制限を導入した。(略)一八九六年の州知事選挙の黒人の投票率は八七パーセントにのぼったが、一九〇四年にはほぼゼロになった。(略)

一九七二年まで七〇年以上のあいだアフリカ系アメリカ人が市議会議員に当選することはなかった。(略)

合法的に黒人の投票権を奪う

一八七〇年代に民主党を権力の座へと戻した恐怖と不正の戦術は、恒久的な解決策とはなりえなかった。民主党の指導者たちはさらに、目に余る暴力行為がこれ以上続けば、国民からの批判にさらされ、連邦による監視と取り締まりの強化にまたつながりかねないと懸念していた。そこで一八八〇年代後半(略)合法的な手段を通じて民主主義を攻撃しはじめた。

 一八八八年から一九〇八年にかけて彼らは州憲法と投票法を書き換え、アフリカ系アメリカ人の選挙権を剥奪した。憲法修正第一四条と一五条の廃止は無理だとしても(略)「それを法令集のなかで死文化させる」ことを狙った。(略)

まさに憲法違反ぎりぎりの強硬手段だった。(略)

投票税、識字能力の試験、資産条件、居住証明など、憲法では明確には禁止されていない新しい制限を設けたのだ。(略)

[導入された秘密投票は]投票ブース内でひとりで記入しなければならず、(識字能力のある)友人に手伝ってもらうことはできなかった。(略)補助なしでは投票用紙を理解できない黒人有権者をターゲットにした作戦だった。

(略)

[しかし識字テストには]読み書きができない貧しい白人有権者も引っかかってしまった(略)この問題を回避するため(略)識字テストを実施する地域の登記官には、ほぼ例外なく民主党支持者の白人が任命され、白人よりも黒人を厳しく評価した。(略)

「祖父条項」を採用し、識字能力や財産のない(白人)有権者でも、一八六七年以前に投票した経験がある場合、または一八六七年以前の有権者の子孫である場合、有権者登録することができるようになった。(略)

 一九〇八年までに、旧南部連合のすべての州が投票税を導入し、七州が識字テストを採用した。(略)新しい法律は「人種問題に実用的、合憲的、そして幸福な解決策」を与えてくれた。(略)南部民主党は、始まったばかりの多民族民主主義への移行を見事に頓挫させた。

 この「合法的な」選挙権剥奪のプロセスに対する、最後の抑止力がひとつ残されていた。連邦司法制度だ。(略)

 一八九〇年代になると各地の公民権運動団体が州や郡政府を相手に訴訟を起こしはじめ(略)

最大のカギとなったのが一九〇三年の〈ジャイルズ対ハリス〉裁判(略)

判決の多数派意見を書いたのは、オリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア判事だった。マサチューセッツ州の奴隷制反対派の家に生まれ、南北戦争では北軍兵士として三度負傷(略)戦時中の恐怖体験によってホームズは、変革的な考えに冷笑的かつ懐疑的な見方をする現実主義者になった。(略)

彼は、一八八三年の一連の公民権訴訟を含めて保守的な判決が増えつつある司法の流れにしたがうことにした。一八八三年のこれらの判決では、ホテル、劇場、電車などの公共空間における差別から黒人市民を保護する憲法上の権限を連邦議会は有していないと判断された。

(略)

かくして裁判所は、アラバマ州の人種差別的な投票制限を無効にすることを拒み、選挙権剥奪の動きがさらに広がっていくのをただ傍観する道を選んだ。

 一九〇三年の〈ジャイルズ対ハリス〉裁判の判決は、多民族民主主義の実現に向けたアメリカの最初の実験に致命的な打撃を与えた。民主党は一八九二年の大統領選挙と連邦議会の上下両院の選挙で勝利を収め、普遍的な選挙権を保障するリコンストラクション期の施行法の主要部分を廃止した。偉大な奴隷制度廃止論者で公民権運動家だったフレデリック・ダグラスは、自身の死期が近づくなかこう嘆いた。「しっかりと恒久的に定着したと誰もが考えていた原則が……大胆にも攻撃され、根こそぎにされてしまった」

(略)

一八八〇年代後半の短い政治変革の期間、実際にはべつの道筋も示されていた。その道を選べば、この国は異なる方向に進んでいたかもしれない。

 一八八八年、ベンジャミン・ハリソンが大統領に選ばれた。(略)より強固な選挙権保護を声高に支持してきた人物だった。さらに同年に共和党は、連邦議会の上下両院の主導権を取り戻した。(略)

ジョージ・フリスビー・ホアー上院議員とヘンリー・カボット・ロッジ下院議員は、投票権を保護するための国家計画に取りかかった。(略)

[二人には]故郷の州に根づく「奴隷制廃止論者と急進論者の感覚」が体に染みついていた。(略)

法案の骨子は、(裁判所が任命した)独立した連邦監督官に対して、選挙プロセスのすべての段階を精査する権限を与えるというものだった。さらに一般市民の要請によって、国内のどの地区でも連邦による選挙の監督が可能になるよう設計されていた。それは一九六五年の投票権法さえをも地理的に凌駕する、米国史上もっとも野心的な投票法案であり、アメリカの選挙の実施方法を根本から変えようとするものだった。

(略)

[下院で可決されたところで]事態が変わりはじめた。

 銀山を所有する資産家でもあるネバダ州選出のウィリアム・スチュワート共和党上院議員が、南部の民主党議員[らと法案通過妨害を画策。採決は中間選挙後に延期](略)

中間選挙で共和党が大敗を喫し、民主党が下院の主導権を握る(略)

それでもホアー議員は、根気強くふたたびロッジ法案を上院に提出した。(略)

[民主党は]フィリバスターを発動した。彼らは夜遅くまで演説を続け、ありえない修正案を提出し、議論を長引かせ、定足数(略)割れを維持するために本会議場の外を歩きまわった。(略)共和党の指導者たちは、上院規則の変更を提案し、単純過半数票によってフィリバスターを終わらせることができる仕組みを作ろうとした。(略)しかしこの緊急措置も、通貨法案に賛成した民主党議員と西部の「銀族」共和党議員の連携によって阻止されてしまった。かくして、アメリカ全土で公正な選挙を維持するために提案されたロッジ法案は、フィリバスターによって死んだ。

 連邦政府による投票権の保護がなくなると、見せかけだけの南部の民主主義はすぐさま雲散霧消した。一八八〇年には六一パーセントだった黒人の投票率は、一九一二年にはまさかの二パーセント以下にまで減った。ルイジアナ、ミシシッピ、サウスカロライナ州では人口の半分以上をアフリカ系アメリカ人が占めているにもかかわらず、黒人住民のうちわずか一~二パーセントしか投票することができなくなった。

(略)

黒人の選挙権剥奪は政治競争を弱体化させ(略)民主党が七〇年以上にわたって絶大な権力を維持しつづけた。

勝つために白人党へシフトした共和党

[63年]リンドン・ジョンソン率いる民主党――いまや南部の保守派よりもリベラル派が優勢となった政党――が、アメリカにおける公民権の擁護者になろうとしていた。南北戦争後のリコンストラクションがアメリカの「第二の建国」だとすれば(略)

[公民権法と投票権法は「第三の建国」であり]多民族民主主義のためのより強固な法的基盤を築くものだった。今回の改革は、民主党と共和党の両党の過半数の支持によって成し遂げられた。

(略)

世界恐慌とニューディール政策がアメリカ政治を作り変えることになった。(略)

[都市部労働者]が――黒人と白人の別なく――共和党を拒み(略)

流れに乗った民主党は、一九三二年から一九四八年まで大統領選で五連勝を果たす。その陰で共和党は、「万年野党」になる危機に陥っていた。

(略)

第二次世界大戦が終わると、共和党の指導者たちは南部に眼を向けはじめた。(略)

[そこにはつけ入る隙があった、公民権政策は]南部の白人に受け容れられるものではなかった。

(略)

民主党はやがて、公民権の拡大政策と南部白人の支持の両方を維持することができなくなった。

(略)

最終的に勝利を収めたのは保守派のほうだった。(略)

一九六〇年代はじめまでに多くの共和党右派の指導者たちが「白人党へと変わることによって、人種の危機のなかで相当量の政治的な金を採掘できると想定するようになった」。これこそが、「長い南部戦略」の軸となる論理だった。(略)

一九六四年大統領選挙の共和党候補バリー・ゴールドウォーター(略)

「カモのいるところで狩りをする」と自身が名づけた戦略にしたがい(略)南部の白人票の獲得のために積極的に動いた。(略)

大統領選挙で(略)大敗を喫したものの、ディープサウスでは勝利した。(略)

公民権革命は、アメリカの政党制度を大きく揺るがした。一九六四年以降、民主党は公民権擁護の党としての地歩を固め、黒人有権者の大多数の支持を得ることになった。対照的に共和党は、伝統的な人種階層の解体に抵抗しようとする有権者に訴えかけ、人種的保守主義の政党としてみずからを再構築していった。

(略)

共和党は、一九六四年以降のすべての大統領選挙で白人票の最大シェアを獲得した。人種的保守主義は選挙で見返りをもたらした。一九六〇年代、アメリカの人口の九〇パーセント近くが白人だった。(略)

世論調査では、南北両方において白人が公民権の拡大について大きな不安を抱いていることがわかった。公式の人種隔離政策に対する支持は低下していたものの、支持政党を問わず多くの白人は、強制バス通学(略)や少数派の雇用や教育を優遇するアファーマティブ・アクションなどの人種隔離撤廃を目指す政府の政策には反対していた。白人の反発は、一九六五年から一九六八年にかけて起きた都市暴動によってさらに強まっていった。世論調査によれば、一九六六年までに有権者の最大の懸念は公民権から「社会秩序」に変わった。一九六六年末のある調査では、八五パーセントの白人が「人種の平等に向けた黒人政策の動きが速すぎる」と答えた。公民権をめぐる白人の憤りが募っていくと、政治批評家のケビン・フィリップスはこう論じた。「人種をめぐって分断し、さらに白人がいまだ圧倒的多数を占める社会においては、民主党を"黒人の党"と位置づけ、さらに共和党が南部の人種的伝統の擁護者としての地位を確立すれば、共和党は多数派の立場を取り戻すことができる」。(略)民主党と長年の結びつきがあるにもかかわらず、南部の白人は「民主党が黒人党になった瞬間にいっせいに党を見捨てる」とフィリップスは考えた。

 当時の社会では、公然と人種差別的な訴えをすることはもはや不適切だとみなされていた。ところが共和党の政治家たちは、「法と秩序」を強調する黙示的あるいは遠まわしな言葉を巧みに使い、さらに強制バス通学などの人種差別撤廃措置への反対活動をとおして、人種問題について保守的な白人を惹きつけることができた。それこそがリチャード・ニクソンの南部戦略の本質であり、実際にうまく機能した。(略)

 一九八一年に就任したロナルド・レーガン大統領も南部戦略を継続し(略)

新たな柱をつけくわえた――白人キリスト教徒戦略だ。

(略)

[80年以前]白人福音派キリスト教徒のあいだでは支持政党は固定されていなかった。

(略)

[カーター民主党政権が(略)人種隔離を続ける学校から非課税措置の優遇を取り払おうとした。(略)保守派宗教組織モラル・マジョリティーは共和党支持を打ち出し(略)見返りとしてレーガンは福音派の主張を擁護し、その多くを共和党の綱領に組み込んだ。(略)一九八四年の大統領選では、南部白人票の七二パーセント、白人福音派票の八〇パーセントを得てレーガンは再選を果たした。

 この「偉大なる白人への切り替え」が、フィリップスが提唱した「出現しつつある多数派としての共和党」の実現を後押しすることになった。

(略)

それは同時に怪物も生み出した。二〇世紀終わりごろになると、政治学者が「人種的憤り」と呼ぶ指標において白人の共和党支持者の大多数が高いスコアを記録していることがわかった。(略)

次回に続く。

 

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T・レックス マーク・ボランの伝説

逆回転でも美しい アキマツネオ

――どの時代のマーク・ボランがおすすめでしょう。

 順番をつける気はないけど、俺はティラノザウルス・レックスのほうが好きな部分が多いんですよ。結局T・レックスってバンド形態はロックンロールのカテゴリーにはめられたマーク・ボランの世界なんですよ。ティラノザウルスはそういう枠がまったくないからマーク・ボランの純度がもっと全然高いんです。だからそういった意味ではティラノザウルスのほうがものすごくマーク・ボランを感じられて、音楽性もめちゃくちゃに高い。あの二人だけであれだけのサウンドをやってるのはすごいと思う。

――ミッキー・フィンはどういう存在でしょう。

 (略)スティーヴ・トゥック(略)はすごくパーカッションが上手だったですね。それに比べるとミッキー・フィンはやっぱり劣る。コーラスもほとんどできない。ただ、たとえば漫才師ってやっぱり二人であることが大事でしょ。片方はただ頷いているだけでも、でもそれがいないと漫才にはならない。それと同じです。ミッキーはステージングだけの相方ではなくて、たとえば新しい曲ができたりするとマーク・ボランはミッキー・フィンにテープを渡していたらしんですよ。マーク・ボランがそれを忘れてしまった頃にミッキー・フィンがそのなかで気に入った曲を口ずさむと、マーク・ボランがそれを思い出して、それでその曲を実際にやるということもあったらしいです。T・レックスではマーク・ボランのエゴがすごすぎて、それでミッキー・フインが中和役としていつでも存在していたと思います。彼がいたからバンドとして成り立っていたところもあるんじゃないかな。ミッキー・フィンは直接会ったことがありますが、本当にいい人でした。彼は最終的にはT・レックスを首にされているんです。だから嫌な思いをしているところがあるかもしれないけど、マーク・ボランの悪口は一切言わなかったですね。「T・レックスの音楽はほぼ俺の影響がない。マーク・ボランが全部作っていた」と言ってました。「あるとすればビーバップという音楽スタイルがあって、そういうのを教えてあげたことはあったけどね」と。

(略)

 俺は本当にT・レックスしか聴かないから(略)あらゆる聴き方をしているんですよ。逆回転でも聴いているんですよ。

――逆回転だとどう聴こえるんですか。

 他のミュージシャンの曲は逆回転だと聴けた代物じゃない。でもT・レックスは聴ける。特に「テレグラム・サム」のサビはこの世のものとは思えないくらい美しいメロディなんです。(略)

逆回転でレコーディングしているのもあるんですよ。ティラノザウルスの二枚目に入っている、日本語でいったら「デボラ/ラボデ」というタイトルの曲です。(略)

タイトルどおりに、真ん中まで来たら逆回転で折り返すんです。鏡のようになっている曲です。パーカッションから何からすべてが逆回転になっているんだけれども、ただそれは曲として成立しているんですよ。逆回転になることによって、そこから新しいメロディが出てくるんです。Cメロみたいな感じね。途中までギターだったのがアコーデオンみたいな音になったと思ったら、それは単純に真ん中から逆回転で折り返しているものだった。そこでマーク・ボランの曲は逆回転で聴いても良いかもしれないというのがあって、逆回転で聴くようになった。そしたら案の定、格好良かったんです。(略)

T・レックス入門 立川芳雄

[来日公演の評価は散々だった]

ライヴ映像なんかも見ているうちに、悪評の原因がわかったような気がしてきました。ひとことで言うと、当時のファンの抱いていたイメージと、あまりにもかけ離れていたからでしょう。(略)

[ミッキー・フィンが]コンガやタンバリンを叩いたりするんですけど、その音がまったく聞こえない(笑)。まあPAの調子が悪かったのかもしれないんですが、個人的には、演奏よりも、わけのわからない踊りを踊ったり、楽器の上に乗ったりしている彼の姿のほうが、印象に残ってます(笑)。バンドは四人編成で、他の二人(略)のプレイはとにかくシンプルなんですね。そうなると必然的に、マーク・ボランの弾き語りみたいになってくる。これが自己完結型ということなんです。

 しかも彼のギターが独特なんですよ。バッキングの部分とソロの部分が渾然一体としているというか……。(略)

しかもボランは、ギターを弾くのがすごく好きらしい。曲と曲の間に、わけのわからないギター・ソロみたいなものを延々と弾いたりするんです。これ、当時の女性ファンや、ギターに興味のない人にとっては、つまらなかったでしょうね。

(略)

そんなわけでステージはマーク・ボランの一人舞台だったんですが、でも、いわゆるワン・マン・バンドというのとはちょっと違う。上手く言えないんですが、ロック・コンサート特有の「熱さ」みたいなものがあまりなくって、妙に醒めたような感じというか……。いま振り返ると、すごく不思議なライヴだったような気がします。当時、会場に行ったファンの多くは(略)派手な「グラム・ロック」のコンサートを期待していたと思うんですが、ボランのほうには、そうした期待に応えようという気持ちはあまりなかったのかもしれませんね。

 それから、ミュージシャンとしてのマーク・ボランという観点でもう一つ指摘しておくと、彼って、音楽批評家的な面をもった人なんですよ。ボランの伝記本やインタヴューはかなりたくさんあるんですが、それを読むと、彼は他人の音楽作品について積極的に語っている。ミュージシャンって、同業者の話はあまりしない人も多いんですけど、マーク・ボランはけっこう積極的に批評をしています。グラム・ロック系のミュージシャンにはアート・スクール出身だったりして美術系から流れてきた人が多いんですけど、マーク・ボランは

(略)

オーソドックスな音楽好き、楽器好きだったんでしょう。でも、にもかかわらず出す音はかなり変わっているという、不思議な個性のある人ですよね。彼のことをギタリストとして見る人は少ないんですが、もっと評価されていいと思います。映像作品を見るとわかるんですが、ギターの弾き方は典型的な我流ですけれど、左手の使い方が上手い。すごく独特であまりたくさんの指を使わない感じで、ちょっと雑にコードを押さえているよう奏者に見えるんですけど、すごくいい音を出すんですよね。

(略)

[「ライド・ア・ホワイト・スワン」]

とてもいい曲です。リズムはブギで、そこにトニー・ヴィスコンティのアレンジした暗い感じのストリングスが絡む。この曲で、ブギのリズムとイギリスっぽい陰翳のある音を合わせるという独特のスタイルが確立されていますね。

 ヴィスコンティは、自分のストリングス・アレンジは自己流だと話していました。ちゃんとしたオーケストレーションの理論はわかっていないんだけども、少人数のストリングスをロックのバンド・サウンドに付け足して、ちょっとダークな感じにするのが大好きなんだそうです。そういうヴィスコンティの好みと、マーク・ボランの音楽性とが、このアルバムあたりからぴったり噛み合ってきた。

(略)

[『電気の武者』]

 もう一点、このアルバムで注目したいのは、前作から参加している男性バッキング・コーラス、ハワード・ケイランとマーク・ヴォルマンの二人です。(略)

タートルズのなかでも妙な指向性をもっていたのがこの二人で、フランク・ザッパのマザーズにも参加していたし、フロ&エディという名前でかなりユニークなアルバムも発表しています。『電気の武者』ではこの二人のコーラスが冴えまくっています。ひとことで言うと男だか女だかわからないような声なんですね。すごく不思議な感じの中性的なコーラスで、これがマーク・ボランのヴォーカルを追いかけ回すようにしながら、曲をじわじわと盛り上げていく。かなりアブノーマルな感じのコーラスと、ボラン独特のヴィブラートのかかったヴォーカルの組み合わせが絶妙です。

(略)

[76年『銀河系よりの使者』]

ボランがソウル・ミュージックに自己流でアプローチしているんです。(略)

[ボウイの]二作がやっぱりアメリカのソウルに接近している感じなんですね。時期を同じくして、かつてのグラム・ロックの二大スターが自己流ソウル・ミュージックをやり始めたというのが面白い。(略)

ただデヴィッド・ボウイは優秀なスタッフを集めて完成度の高い音を作るんですけど、マーク・ボランは先に言ったとおり基本が弾き語りですから、なんでも自分でやってしまおうとする。そこがうまくいかない原因にもなるんでしょうね。

 この『銀河系よりの使者』が個人的に嫌いになれない理由は、独特のサウンドにもあります。安っぽくてゴージャスなんですよ。ストリングスを入れているんだけど、ヴィスコンティのアレンジしたものと違ってものすごく派手なんですね。ペナペナで安っぽい。でも、案外それがいい。そういうキッチュな豪華さって、マーク・ボランみたいな人じゃないと似合わないじゃないですか。ディスコ風のリズムもあったりして、胡散臭い魅力があるんですよ。(略)

T・レックスという体験 萩原健太

あつく燃え上がった60年代ははるか記憶の彼方へ。(略)ロック系の音楽が生気を失い(略)内省的な手触りを持つ(略)シンガー・ソングライターの音楽が静かなブームを呼び始めた。(略)

ごく私的な体験や内面の揺らめき、そして"私"と"あなた"のパーソナルな関係などを、ナチュラルなアコースティック・サウンドに乗せて歌って人気を博した。

 このような内省的な動きは黒人の間にも広まった。マーヴィン・ゲイ、スティーヴィー・ワンダー、ダニー・ハザウェイ、カーティス・メイフィールド、ロバータ・フラックといった黒人アーティストたちが、白人、黒人の壁を乗り越え、より人間の内省へと分け入った歌詞を作り始めた。サウンド的にも(略)ジャズやクラシック、ロックなどの要素も大胆に取り入れた洗練された音作りを指向するようになった。と同時に、"ブラック・イズ・ビューティフル"(略)の流れの中でファンク・ミュージックが完成。立役者は、もちろんスライ・ストーンだ。スライは先達ジェームス・ブラウンが60年代後半に提唱したブラック・パワーを正当に引き継ぎ、70年代中盤に花開くPファンク軍団の爆発をうながす橋渡しとなった。

 この黒人音楽の動きは、ある意味でルーツの再検討でもあったわけだが(略)ルーツを見直したのは黒人ばかりではない。60年代を通じて、ビートルズに先導される形でロックの可能性を模索しながらやみくもに拡散を進めていた白人ミュージシャンたちもここに至って再度ルーツ帰り。南部のロックンロールやブルースの伝統を掘り起こし始めた。クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル、ザ・バンド、レオン・ラッセル、デラニー&ボニー、オールマン・ブラザース・バンドなど、さらにはそこにエリック・クラプトンやデイヴ・メイソンら英国勢も加わり、その種のルーツ音楽再評価の気運に火を点けた。

 もちろん、英国でも事情は同じだ。ビートルズの解散以降、米シンガー・ソングライター・ブームに呼応する形でキャット・スティーヴンス、アル・スチュワート、ギルバート・オサリヴァンら内省的なシンガー・ソングライターが台頭。エルトン・ジョンも最初はこのフィールドから登場した。(略)

ジャズやクラシック、現代音楽へのプローチから生まれたプログレッシヴ・ロックも、ロックンロール自体が持っていたはずの直截的な"熱"を疑問視するところから生まれた新時代の音楽形態だった。とともに、キッチュでグラマラスな外見を全面に押し立てたデヴィッド・ボウイ、ロキシー・ミュージックら、いわゆるグラム・ロックのアーティストも、結局は何かを諦めるところから"退廃の美学"を構築していった。(略)70年代のロック/ポップ・シーンの色合いを決定付けたのは(略)60年代末への反動ともいうべき"諦観"であり、"達観"であり、当時の流行り言葉でいえば"シラケ"だった。

(略)

ルーツ音楽再訪の気運と、退廃的なグラム・ロックの盛り上がりとを当時もっとも印象的に体現してみせていたのが、我らがT・レックスだった。ぼくはそう位置づけている。「ゲット・イット・オン」はまさにそんな彼らの心意気が託された象徴的なビッグ・ヒットだった

ティラノサウルス・レックス登場

ジャケットのアートワークを担当したジョージ・アンダーウッドは、「コズミックになったウィリアム・ブレイク、って感じの絵を描いて」とマークに依頼されたことを覚えている。(略)「幻視者」ブレイクは、マークによれば「イギリス」そのものなのだった。

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サイモン・ネピア=ベル自伝 その2

前回の続き。

すべてを変えたロバート・スティグウッド

彼は音楽業界のトップに登りつめ、マネージメント、出版、そしてレコーディングという三つの分野にまたがる帝国を築いた最初の人物だった。しかし、ビートルズの出現で音楽業界が最盛期を迎えた時に彼は破産し、やっと六〇年代の終わり頃になって再び浮上して、世界中で最もポップス界に影響を与えた人物となるわけだ。ロバート・スティグウッドはオーストラリア人で、五〇年代の終わり頃(略)大学を出たばかりで、イギリスへのヒッチハイクの旅に出ようとしていたのだ。(略)

イギリスに着いたロバートは、イースト・アングリアで知恵遅れのティーンエイジャーのための学校に職を見つけた。彼の仕事は、寄宿舎の内外を見まわる夜勤だったが、気乗りせず、イライラしていた。

 偶然彼は、ステファン・コムロジーという稀に見る美貌の若者が梯子に登って壁塗りをしているところに出くわした。二人はすぐに意気投合していっしょに商売をやることに決め、小さな劇場風の事務所に演劇関係の代理店を開いた。彼らの初期の大当りのひとつは、ジョン・レイトンという俳優を抱えたことで(略)

[主演]映画は成功し、彼はレコードを出すことになった。そのレコードがまた、どういうわけかチャートのトップになってしまったので、ロバートは必然的に音楽業界に近づいてゆくことになったわけだ。

(略)

[先達との違いは]彼がその仕事を横に広げていった点だった。(略)出版とコンサートのプロモーションにも手を出したのだ。(略)

 ジョー・ミークという男があるアイディアを持ってやって来た。

 歌手を見つけてレコード会社にいき、その歌手とレコーディング契約をしてくれるよう頼み込む代わりに、自分たちの資金でレコードを作り、それをレコード会社に持っていってレコードの定価の何パーセントかを支払って販売してもらうようにはできないだろうか?(略)

 ジョー・ミークは学究肌の人間だった。彼は自分の家の浴室でレコーディングができると考えていた――特殊な音響効果が得られると言うのだ。ジョーに必要なのは、百ポンドの機材だけだった。ロバートはその考えに賛成して彼に金を渡した。ジョーはレコードを作りあげるとロバートのところに来て、レコード会社に売りつけにいく度胸がないと思ったので、ロバートが代わりに行った。それが、ロバートにとってばかりでなく、イギリス音楽産業界全体にとっての、新たな時代の始まりであった。(略)レコード会社とこの型破りの企業家たちの間の新しい相互利益関係をとりもったのは、またもやあのラリー・パーンズのアイディアをとりまとめたEMIのジョセフ・ロックウッドであった――彼はのちにもう一度、今度はブライアン・エプスタインを相手に同じようなことをするハメになる。

 ジョー・ミークのレコードは爆発的なヒットになり、その後引き続きスティグウッドが自ら製作したレコードも同様だった。彼は音楽業界に新たなプロセスを確立し、数年後には独立プロのレコードがチャートの半分以上を占めるようになっていた。しかし、ロバートから見ると多少問題があった――計算してみたら、EMIと取り決めた分配率ではほとんど利益が上がらないことがわかったのだ。彼は先駆者ではあったかもしれないが、自分にとって都合の悪い取り引きをしてしまったわけだ。

 とはいえ、独立プロダクションという方法は音楽業界の企業家たちにまったく新しい自由を与えた。(略)「レコード会社との契約を取りつけてあげられると思う」と言う代わりに、完全な自信を持って、「明日、レコードを作ろう」と言えるわけだ。それに創造的な可能性も広がった。危険を冒さないレコード会社がやりそうにないものでも、ピンときた曲は皆、すぐにレコードにできるのだ。あっという間にそれはレコードのスタイルと方向を変えたが、中でもロバートにとって重要なものはカバー・バージョンだった。

 イギリスのアーティストたちはよくアメリカのヒット曲をコピーしていたが、そういうのはアメリカでのヒットが確固たるものになるまではたいていレコードにはならなかった。で、ロバートはアメリカに飛んで最新の曲を聴き、直ちにイギリスに戻って中でも彼がヒットしそうだと思うもののカバー・バージョンを作った。やがてアメリカでその曲がヒットし始める頃には、すぐにイギリス版を出せるというわけだ。ロバートは、いつも、のろのろしたイギリスのレコード会社の先を行っていた。

 彼は大成功を収めた。(略)

自分のところで出したレコードの一枚がトップ三〇に入らなかった時などロバートは腹立ちまぎれに大きな音楽業界の新聞のひとつを買い占めてしまったこともある。彼はあらゆる点で、最初のイギリス音楽業界の大立物であり(略)成功の模範となる先例を作っていたのだった。

(略)

[頻繁な海外旅行、酒、賭け事で仕事はなおざり]

気に入ったグループを連れてきて週三十ポンドで抱えたまま忘れてしまい、彼が気がつくまで何ヵ月もの間ただブラブラ遊ばせておいたようなことも一度や二度ではなかった。会社の資金は減る一方だった。それに、うまくいっていた時でさえ、レコード製作からはあまり利益が上がらなかったのだから、会社はマネージメントの手数料とアーティストの稼ぎで命をつないでいたのだ。ロバートはコンサートのプロモーションもやっていたので手っ取り早く現金が入り、景気の悪い時期でも帳簿は黒字だった。日曜に有名アーティストのコンサートをやって満席にすれば、とりあえず銀行の残高が増えるわけだ。(略)

最終的にロバートの会社を破産させたのも、このプロモーター稼業だった。

 経済状態を建て直そうと、ロバートはチャック・ベリーのツアーに賭けた。だがこのアメリカ人の歌手は劇場の半分くらいしか客が入らず、その上この男は毎晩演奏の前にギャラの半分を請求するのだった。

(略)

[第二のクリフ・リチャードを狙ったサイモン・スコットの収支も赤字。チャック・ベリーのツアー途中で資金が尽き]

破産管財人を呼び入れた。負債は四万ポンドだった。(略)

 EMIが負債の肩代わりをすることを申し出たが、彼は断った。以前にEMIと取り交わした不利な契約を解消して、もっとよい条件で再契約しようと考えていたのだ。再建にはだいぶ時間がかかりそうだったし、メンツは丸つぶれだった。

(略)

彼は、外面的には破産状態でありながらも、友人たちには、どこかに個人的な資産を隠し持っているようなことを匂わせるという微妙なゲームを演じなければならなかった。彼は運転手つきのリムジンで、破産手続きに現われた。

(略)

カムバックするためには、たとえ会社はつぶれても個人的な財産はしっかり確保しているしたたかなビジネスマンだという印象を与えなくてはならなかった。実際は文字通りの文なしだったのだが(略)

ほとんどの人間が彼の見せかけを受け入れ、彼が何か新しいことを起こそうと苦心している間、債権者たちに待つ心の余裕を与えた。

(略)

 彼は(略)ウェスト・エンドに小さなオフィスを置いた。そして以前に契約していた二つのグループから三人のベスト・ミュージシャンを選んで新しいグループを結成させた。それは二つの解散したグループの粋を集めたものだったのでそのままの名をつけた――「ザ・クリーム」(粋、精華という意味)。

(略)

 ロバートは新しいレコード製作会社をポリドールと契約した。EMIでの取り引き相手だったローランド・レニーという男がポリドールに移ったからであり、そうなるという予測が前からあったので、破産した時も、EMIの肩代わりするという申し出を断ったのだ。ポリドールとは、高いパーセンテージで、しかもレコードの製作費を援助してもらうという条件付きで契約を成立させた。それから彼は、ザ・フーのマネージャーに五百ポンド払って、グループのブッキング・エイジェントになり、彼らをデッカから引き離して自分の新しいレコード・レーベル、"リアクション"とポリドールを通してレコードを出すようにさせた。それでザ・フーの名曲「マイ・ジェネレイション」が、彼の新しいレーベルの最初のヒット曲になったのだ。業界の人々は再び彼を見直し始めた。「ロバート・スティグウッドの魔力が甦ったのかもしれないぞ!」

(略)

[クリームの面々は経験もあり、ロバートの思うままにはならず。ポリドールのオフィスにいたギブ兄弟を連れ去り契約]

ロバートはブライアン・エプスタインと知り合いになった。ブライアンはビートルズで儲けた金で作った"ネムズ"という自分の会社の経営に飽き飽きしていたところだった。

(略)

ロバートが自分の会社の資産をすべて"ネムズ"に与えて、代わりにネムズの株を分けてもらうという契約が成立し、ロバートには、給料と、優先的な立場と、好きな時に"ネムズ"の収入源を利用してよいという特典がついた――そしてついに、新車も。

 数週間後(略)高級な貸し家にぬくぬくと収まって新しい白いベントレーを持つロバートは、ビージーズの次の行動について考えをめぐらせていた。

 今ならレコーディングでもラジオ局を買収するのでも、TVのプロデューサーやディスク・ジョッキーと食事するのでも、気前よく金を使える、というわけで、結果はすぐに表われた。ビージーズの最初のヒット曲が出たのだ。

 しかし誰もがビージーズに恋をしたわけではない。リード・シンガーは出っ歯で高い震えるような声をしていたので、音楽業界では彼のことを"歌う山羊"と言っていた。テレビの時はグループの美しいアーティスティックなイメージを作りあげるために、ロバートの指示で、カメラはリード・シンガーの横顔をアップでとらえ、残りのメンバーたちは遠くの方に小さくライトを浴びて映っていた。彼らはちょうどシンガーの開いた口のあたりに収まり、まるでフランスのカフェにある陽よけのような具合で、シンガーの山羊みたいな歯が小さな人影の上に出っ張るわけだ……だがそれくらいの難点など、エプスタインの資力とロバートの野心の共同体の前ではものの数ではなかった。

ブライアン・エプスタイン

[エプスタインから誘われるも、アイルランド行きの予定があると断る。それでも諦めないブライアン]

 私は彼に"ノー"と言った。(略)人にはそれぞれセックス上の嗜好がある。その気にさせる人間もいれば、その気にさせない人間もいる。

「それじゃあ僕は、『させない』方なんだね」と彼は、悲し気に言った。

(略)

 彼は、突然不機嫌になった。「行けばよかったとあとで思うよ」

「多分ね」私は同意した。「アイルランドは、死ぬほどつまらないだろうな」

「それなら僕のところへ来ればいい!」

「別の機会にね」

「キミにはその機会がないかもしれない」

 私はにっこりと笑った。「ある、と確信しているよ。キミはそれほど簡単には諦めない」

 彼は口をとんがらせて、いら立ったように見えた。「キミはバカだよ。僕はキミにいっしょに来て欲しいしキミも本当はそうしたいんだ。僕は、キミに興味を持たせないかい?」

「ブライアン、考えてみたまえ、キミは偉大だ。(略)

キミがビートルズとともにしたことは、音楽業界にいる誰もが熱望するような夢なんだ。(略)

でも、だからといって僕がキミを全面的に気に入るわけではないし、僕をどこにでもいっしょに連れていけると思うのはキミの考え違いだよ。(略)」

 私は、物事が悪化する前に立ち去るべきだと思い、立ち上がってドアの方へ向かった。「もう行くよ」

 彼には私の言葉が聞こえていないようだった。彼は、憂鬱そうに落ち込んで、何も言わなかった。アームチェアーに沈み込んで真直ぐに壁を見つめ、私的な悲しみに彼の唇はややすぼまり、目は焦点を失っていた。

 私は言った。「上出来だよ、ブライアン。でもベティ・デイビスの映画にそういうシーンがなかったっけ?」

 一瞬、彼の口もとに微笑がきらめいたような気がしたが、それはすぐに消えてしまった。

 私はしばらくためらったが、歩み寄って彼の前に立った。

「OK、ブライアン、僕は行くよ。最高の夕食をありがとう」

 何の動きもなく、笑いも、返事も返ってこなかった。

(略)

 翌朝、私はアイルランドに行った。そこは、信じ難いほどつまらなかった。

(略)

 日曜日の午後、ロンドンにいる友人から電話を受けた。「ブライアン・エプスタインが死んだよ。薬のやりすぎだ」

(略)

 ロンドンに帰る途中、私は考えた。何てわがままな策略だ!ポイントを証明するだけのためにそんなことをするなんて!(略)

私はもっと彼といっしょに時を過ごしたかった。彼の頭の中には、ビートルズの物語のすべてがつまっていたのだ。彼は、そのすべてを奪ってしまった。

 ロンドンに戻ると、アンサーフォンにはたくさんのメッセージが残されていたが、ほとんどがブライアンからのものだった。それは金曜日の朝に始まり(「キミが本当に行ってしまうなんて信じられない」)、土曜日に至るまで続いていた。

 彼と私は、先週初めて会ったばかりだったし、彼が自分から気持を打ち明けたのではあるが、私は既に、彼の感情的な人間関係が移ろいやすいので有名なことを知っていた。(略)そして、北ウェールズでは、いつも笑っているインドのグルが、彼の人生で最も意味があった人物と彼との関係の最後のかけらさえをも奪おうとしていたのだった。その週末に出かけていってしまったのは、私だけではなかったのだ。

 ブライアン・エプスタインは、おそらく、その最後の外界に対する感情を私に向けたのだろう。しかし、彼が私のアンサーフォンに語った死の間際の言葉は、本当はまったく私に向けられたものではなく誰か他の人間に向かって語られたとも受け取れるものだった。

(略)

「キミが僕に会いに戻ってきているという予感がした。もし戻っているのならすぐに電話してくれ、お願いだ」

 しばらくして彼は、再びかけてきていた。

「キミは行くべきではなかったんだ」彼の声は、不明瞭だった。「僕は行かないでくれと頼んだのに。キミの気持を変えられるかもしれないと思ったんだ。キミとまた以前のように話がしたい」

 そのあとに、土曜日に残されたと思われるメッセージがあった。その一部は、まったく私あてのものとは思えなかったし、本当のところ、私としてはそうでなかったと考えたい。この最後のメッセージは特に混乱していたし、我々の短期間の関係とは、何のつながりもないことに触れているように思えた。

 多分それは、私がアンサーフォンを持っていて、あのマハリシのホリデーキャンプにはそれがなかった、というだけのことだったのだろう。

アシッド革命により、シングルからアルバムへ

 ブライアン・エプスタインの死は、いろいろな意味で、ひとつの時代の終わりを告げていた。それは、音楽業界が世界最大の利益を上げる娯楽産業に成長した時代の終わりだった。レコード会社の力は弱まり、旧式の出版業者は、もはや、作曲家から金をむしり取ることができなくなった時代、新しい種類の企業家たち、つまり、ポップ・マネージャーたちの出現によって大きな変化のあった時代の終わり。どこか素人っぽく、道楽でやっているような場合も多いが、事を成すにあたってはいつも独自のやり方を見つけ出し、業界の慣習を受け入れようとはしなかった、そういう新しいマネージャーたちの中で最も有名なのが、ブライアン・エプスタインだった。(略)

ブライアンは、あらゆる点でアマチュアっぽく、彼がこの競争の激しいポップ・ミュージックの世界にひかれたのも、性的な理由からだった。そして、自分が大きな業界の中に巻き込まれてしまったことに気づいた時には、もう、絶望的な深みにはまり込んでしまっていたのだ。

 その音楽業界も変わった。六〇年代初期のグループは、年を取って賢くなり、自分たちの音楽やイメージばかりか、財政面までも自分でコントロールするようになっていた。そして、彼らは皆アシッドに走り、偉大な"自己破壊者"と化すことによって、レコード産業界の景気をかつてないほどに煽っていた。

 "コミューン"という思想(略)ティーンエイジャーたちは、その文化の"高僧"たちによって供給されるすべてのレコードを従順に買い求めたのだ。(略)

アシッド革命の裏にあった本当の力は、レコード会社だった――頭が混乱したサイケデリック少年少女たちをできるだけ早く動揺させ、その購買の主力をシングル盤からアルバムへ移行させようと目論んでいたのだ。(略)アシッド音楽はアルバム音楽であり、アルバムの価格はシングル盤の四倍もするのだ。

ピンチにキース・ムーン

 マーク・ボランの加入したジョンズ・チルドレンはザ・フーと共にドイツツアーへ向かった。

(略)

[バンドのためにブツを仕入れに行くキット・ランバートに帯同。ドアを開けると十代男娼二人が迎え入れる]

「ここはすばらしい。信じられないくらい退廃的だぜ。キミは男のコ、好きかい?」

(略)

「それほど好きじゃないよ。でもキミがよかったら、そうすれば」

「もちろん!」とキットは傲慢に言い放った。「実際のところ二人にしようかと思ってる」

(略)

ハンス・バンバーガーが彼にブツは三十分ほどで用意できると言っているのが聞こえた。

(略)

[十分後、隣室から叫び声]

廊下に出てみるとバンバーガーを乱暴に揺すっているところだった。すると二人の強そうな若者が階段を登ってきてキットを押さえた。(略)

バンバーガーが言った。「ホントにキット、あなたは時々非常に無作法ですね。怒鳴ることはないでしょう。少年たちのことで文句があるなら静かに私に話せばいいでしょう」

「あいつはムカつくような泥棒だ!」とキットは激しく叫んだ。「お前は知ってるくせに」

「でもキット(略)あのコはとてもいいコですよ。イギリスから来たポップス界のトップの皆さんはよくあのコを相手に選びますよ。とびきりのコだと思いますがね」

「奴は汚ねえ盗人だ。オレは金を払わないぞ!」(略)

「でもあのコは何も盗らなかったでしょ」(略)

「ああ、今はな(略)でも盗ったんだ、以前にな」(略)

[押し問答の最中に]キットの頼んだドラッグを持って別の少年が到着し(略)キットの手にその包みを押し込んだ。キットはバッと椅子から立ち上がると叫んだ。「来い、サイモン」

 彼は狂ったように階段を駆け降り、私は心もとなげにそのあとを追った。(略)さっきキットを押さえつけたタフな二人が待ちかまえていた(略)

 突如そこへキース・ムーンが到着した!?(略)

ドアのベルが鳴って、タフな二人の片方がドアを開けると、キースが私の知らない奴といっしょに立っていた。

 彼らはすぐに中に駆け込んできて、蹴飛ばし、叫び、手当たり次第に殴りつけながら私にキットとドアから逃げ出せと言った。次の瞬間には我々はメルセデスをすごいスピードで走らせていた。キットは狂ったように大笑いしていた。(略)

キットは、キースに感謝するどころか叱りつけた。「遅かったじゃないか!」

 キースはそれを無視して尋ねた。「金を盗った奴はどうした?見つかったのか?」

(略)

キットは愉快そうに叫んだ。「そいつとやったんだよ、俺は。終わるまでそいつだってことに気がつかなかったんだ」

「"ブツ"は持ってきたろうな」とキースは言って、キットの手の中の包みを心配そうに取った。

私はキットに尋ねた。「いったいどういうことなんだ?(略)なんで俺をこんな気違い沙汰に巻き込んだんだ?」

(略)

「キミには関係ないことさ。キミはただのサポート・バンドのマネージャーにすぎない。(略)」

 キースはもう少し愛想がよかった。「前にドラッグを買うために俺たちから金を盗んだ奴がいてね、それで、自分たちの金を取り返そうかと思ってね」(略)

「売春宿から人を救出するのは俺のお得意のひとつみたいだな」

 それは二人の間で通じるジョークだったようで、キットとキースはいっしょにゲラゲラと笑い出した。

レコード会社、契約のフェイク

 六七年に私はやはりあてにならないEMIの役員のひとりと昼食をとり、したたかに酔っ払った。シャンペンをたっぷり飲まされて、まるで強姦よろしくEMIのオフィスに連れていかれた。手にはペンが握らされ、契約書が眼の前でグルグルまわっていた。そのちょっとした失敗のせいで、私は向こう五年間、私の作るレコードすべてをEMIに託すことになってしまった。前渡金も他のどんな種類の報酬もなく、残ったのはシャンペンの抜けたあとのすごい二日酔いだけだった。

 その後、私は一枚のレコードも作らないという報復手段を取った(略)

そのうちに、またレコードを作りたくなったのだが、その契約のおかげでEMIはレコード製作の金を援助する義務はなく、私は作ったものをすべてEMIに渡さなくてはならないという状態だった。(略)

[弁護士とEMIに出向き解約を求めたが相手にされず]

ジョンズ・チルドレンがトラック・レコードに移ったことか、あるいは何年か前私がヤードバーズのために引き出した二万五千ポンドのことで未だに腹を立てているのかもしれなかった。(略)

 弁護士がすばらしいアイディアを思いついた。「あなた自身でレーベルをお作りなさい。レコードには、プロデューサーの名前は入れないで、レーベル名はS・N・Bとしなさい。そうすれば、業界の人々には誰が作ったかは一目瞭然でしょうし、EMIとの契約書上の名前は出していないんだからEMIには手が出せません」

(略)

[CBSと]話がまとまり、SNBと描かれたきれいなブルーのレーベル・マークが印刷され、私は数枚のレコードを作った。レコードはかなりの評判になった。(略)

EMIに彼らが私を失ったことをわからせ、もう一度戻ってほしいのならまた友好関係を築いて私をあの契約から解放するしかないということを知らせるための行動だった。

 EMIが折れたので私はCBSにお礼を言ってSNBレーベルをやめ、やっと自由を取り戻した。

(略)

 六〇年代初期、レコード会社の連中は、ピカピカ光るスーツを着てポップ・ナンバーを歌うソロ・シンガーがすたれつつあることに気づき始めた。グループが脚光を浴び始めていた。(略)最も重要なのは、彼らが自分たち自身で曲を作ったことだった。出版者は譜面を印刷してレコーディングしてくれる歌手を見つける必要がなくなった。(略)演奏権協会に登録するだけでよく、濡れ手に粟といったところだ。レコード会社は彼らをねたみ、自分たちも一枚加わりたいと考えた。

 ある大手のレコード会社がすごい策略を編み出した。野心に満ちた若いグループがその会社にぶらりと訪れたとする。(略)歓待され、おだてられ、驚くべきことにレコード契約まで与えられる。十分後、彼らは大喜びで自分たちの将来を約束する紙切れを手にオフィスを出る――レコード会社は向こう一年の間に三枚のシングルを出すと言ってる、俺たちもスターになれるぞ……。

 時が経ってもレコード会社からは何の音沙汰もない。(略)やっと誰かと話ができてもいつもレコーディングをもう少し延期するまことしやかな理由しか聞けない。

 半年ほど経ってとうとう彼らは怒り出す。(略)

[会社に出向き契約を解除する]グループはまた自由の身だ。

 だがしかしいつも小さな障害がつきまとうのだ。契約書の細かな文字の中に慎み深く隠れている第八十八条には、グループのメンバーが作った曲はすべて自動的にそのレコード会社が出版権を有すると書かれている。そして当然、解約の書類にもレコーディング契約は破棄するが、その条項は有効であることが言葉巧みに記されているのだ!このちょっとしたトリックで、そのレコード会社はロンドンの未来のロック・スターの大部分と長期にわたる出版権契約を取りつけ(略)彼らのうちかなりの者が最終的には成功を収め、そのレコード会社は五年間にわたってその出版権を確保した。(大儲け!)

 別の手を使う会社もあった。海外のレコード発売に関しては、海外の会社にレコードを賃貸して生じる利益をレコード会社とアーティストが分け合うという契約書の条項があり、これだけではまったく公平に思えるのだが、それは実のところレコード会社が自分の子会社にひどく安く貸し出すことを意味している。こういったレコード会社の横暴を最初に打ち壊したのは、それまで騙されてきたバンド自身と企業家的な新しいタイプのマネージャーの出現だった。(略)

ヒットせずに金を儲ける方法

 音楽業界で大金を儲ける最短コースとは(略)[ヒットの]次に手っ取り早い方法は、完全な失敗作を作ることなのだ。(略)

 まず、グループと契約するのだが、なるべくなら才能もなくほとんど何も知らないグループを選ぶ。(略)

グループとは七パーセントの印税率で契約するのだが、どっちみち実際に支払うことはないのだから何パーセントでもかまわない。

(略)

ポイントはレコードがヒットしないこと(略)

[会社からは]レコードが一枚売れる度に定価の三〇パーセントを受け取るとして、その分を前金で十万ドルもらうのだ。そして、レコードがヒットしない限り、その金はすべてあなたのものだ――グループには一枚売れる毎に七パーセント支払わなくてはならないが、そもそも売れないように作ったのだから十万ドルはほとんど減らないはずだ。それにレコードの製作費を差し引くとしても、自分が何をしようとしているのかわかってさえいれば、それも大した金額であるはずがない。

(略)

話を六九年に戻すと、私はそのトリックを改良した独自の方法を編み出していた。

(略)

レコード会社に前記の"特別"なレコードを売りつける代わりにまったくの"幻想"を売ることにした。

 世界中のA&Rマンは豪華なステレオ・セットのあるオフィスで救いの神であるナンバー・ワン・ヒットを携えたプロデューサーが現われるのをイライラして待っている。(略)

A&R部の"ヘッド"とは、駄作の中からヒットする可能性のある曲を選び、生意気なガキどもの中からロック・スターになりそうな者を見出し、いいかげんなレコードとヒット・レコードを区別できる人間のことだ。だが、それができる人間なら独立して年間五万から百万も稼げるのだから、年棒一万五千でレコード会社にとどまっているとすれば、そいつは気違いか仕事ができないかどちらかだ。

 つまり、A&R部の"ヘッド"とは、バカか見かけ倒しのどちらかということになる。

(略)

 このA&Rマンに、音楽業界始まって以来のすごいグループを見つけたと少々興奮気味に言ったとする。彼はその言葉を信じたいがあまり、本来の懐疑的な姿勢を忘れて(略)勝手にヒット・レコードを夢想し始める(略)

私は、こういった連中を相手にするには、彼らに実際の音楽を聴かせないようにするしかないと考えた。

 その考えを楽しく実行するために、私はレイ・シンガーというコメディアンとチームを組んだ。

(略)

[テープを聴かせろというABCの重役にレイは]

「テープには録ってないんです。あまりに興奮してしまった、そのまままっすぐにあなたに会いにきてしまったんです。(略)」

(略)

「で、そのグループは何というんだね?」と彼は尋ねた。

 一瞬の間があいた。バカげたことだが、私とレイは念入りに計画を練ったにもかかわらずグループの名前を何にするか決めていなかったのだ!(略)

私は言った、「ブラット」。レイが言った、「プラス」。(略)

私は説明をでっちあげた。「そのグループは『プラス』と言うんですがあまりいい名前だとは思えないので『ブラット』に変えようかとも思っているところなんです」

 "ずんぐり山"はお気に入りの葉巻をくちゃくちゃかんで言った。「プラスというのは非常にいい名だと思う。それは変えん方がイイ」

 それで取り引きが成立した。(略)

一度うまくいくことがわかると、レイは俄然ハッスルし出した。我々は再びRCAにアタックし、CBSとMCAも訪問し、ロスに飛んでキャピトルとトゥエンティス・センチュリーに出向いた上、デトロイトではモータウンにも寄った。それからロンドンに戻り、新しいロールス・ロイスを注文し、スタジオを三ヵ月予約し、山のような契約書のそれぞれにあてがう二流のグループを揃えるために、あらゆる"アマチュア・ロック・コンテスト"に出かけていった。

(略)

[グループは当然下手くそなのでセッション・ミュージシャンを使い]

ヴォーカリストがあまりにひどい場合は"セッション・シンガー"でカバーした。そうして、どうにかこうにか、なかなかの出来のレコードを取り揃えることができた。

(略)

インストルメンタル・グループの「サクシィ・レキシィ」、本当は相棒のレイがヴォーカルをやった「アントン」、もうひとつレイが声を変えてヴォーカルをやった「ヘヴィ・ジェリー」、「プラス」、「ブラット」、「フレッシュ」、「プディング」、etc、etc……。

 全部のレコーディングを終えると我々はすぐにアメリカに飛んで、レコード会社にそれぞれのテープを渡した。そして各社がその出来を絶讃しているうちにもうひとめぐり各社と新たな契約を取り結んだ。この金儲け方の鉄則のひとつは、最初のレコードが発売される前に次の取り引きを成立させよ、というものだった。第一陣がすべて失敗に終わった場合、次に契約するのは難しいが、常に送り込み続けていれば相手の気持をひきつけていられるわけだ。

 それで、アメリカのレコード会社が我々の作ったレコードに宣伝費を注ぎ込んでいる時、我々は再び、実際には存在しないアーティストたちとの契約書を山のように抱えてイギリスに舞い戻った。かなりの成功を収めたグループに、「フレッシュ」というのがあった。そのグループのレコーディングはレイが昼食の間中不平を言い続けるほど大変だった。「まったく何てひどい奴らなんだ。ブタ箱にでもぶち込んでおくべきだぜ」そいつはまったくいい考えだったので、我々はそのグループのアルバム・タイトルを『フレッシュ・アウトオブ・ボースタル(ム所から出たてのホヤホヤ)』とした。連中を、独学のミュージシャン――芸術的はけ口を求めてもがいている若き犯罪者たち―として売り出せば、彼らの音楽性の欠如の言いわけにもなるだろう。我々は何らかの形で必ず、"閉じ込められた"というニュアンスが入っている曲ばかりを集め、次に、アレクサンドラ・パレスの鉄の門のところにグループを立たせて刑務所風の写真を撮った。アルバム・ジャケットの裏側にはでっちあげた強盗シーンの写真を使ったし、演劇学校の学生を連れてきて、刑務所に入るようになったいきさつを即興で語らせたりした。

 結果はまさに芸術作品で、誰もがそれに惚れ込んだ。アメリカではそれをイギリス刑務所の作った正真正銘の傑作と謳い上げ(略)俳優のサル・ミネオは一万枚も買った上にクリスマス・カードとして皆に送りつけた。

詐欺師マイク・ジェフリーズ

 ある日我々がRCAにいるとマイク・ジェフリーズが現れた。彼はアニマルズのマネージャーをやり、次にジミ・ヘンドリックスを手がけた男だ。彼はRCAの社長に胸が痛むような話をして聞かせた……。(略)

[ジミの死で]ショックのあまり六ヵ月にわたって姿を隠した。 (略)ジミは親しい個人的な友人だったのだ。悲劇だ。深い悲しみ。だが遂に彼は気を取り直し、自分に言い聞かせた、「マイク、生きなきゃいけないぞ」。そして表に出て行った、次のヘンドリックスを見つけようと。

 彼はオーディションを行ない、アメリカとイギリスを隈なく捜し、聞きまくり、求め続けた。そして遂に発見した……。

 ここで彼はテープを取り出して社長に渡した。(略)マイクが今後の人生を捧げようとしている人物の作品だった。それは七〇年代最大の出来事となるだろう……感動的な瞬間だった……社長はあふれ出る涙を拭うのに忙しく、そのテープは聴かれもしなかった。

 マイクのその取り引きは何十万ドルというものだったが、彼は他にバーミンガムにあるデモテープ用のスタジオでまとめて録ったテープを二十本くらい持っていて、そこら中で同じような取り引きをしたのだった。例の物語で社長の涙を誘い、その結果、会計係の涙を誘う……。我々は数段上をゆく詐欺師を前にしているということを認めざるを得なかった。だが不運なことに彼は、たったひとつ間違いをしでかした。取り引きを終えた彼の乗った飛行機が事故を起こし、命と儲けを失うハメになってしまったのだ。

ピンチにアイツが……

 突然レコード会社との取り引きがまったくおもしろくなくなった。(略)

[以前から言っていた通り30歳で引退することに。モロッコから戻り、ビッグ・ヒットで最後を飾れたら良かったのにと思いつつ]

最後の利益をかき集めにRCAの経理部に行った。(略)

[デスクにプレスリーの「この胸のときめきを」を発見]

「これは何だ!?(略)いったいいつ発売されたんだ!?」

「何カ月も前だよ(略)どこにいたんだい?(略)

トップ・テンに入ってるよ。怪物だね。まだ上がり続けてる」

(略)

[というわけで、めでたく引退]

 一九七二年、私はモンバサにいた。

[ロリータという中国娘に誘われ部屋に行くと、家賃に五十シリング要る、ウェディング・ドレスを着てほしいなら五十シリング、キスするなら五十シリング……と料金を上乗せされ、ようやく脱がせると]

 パンティーの下には皮のサポーターがあり、そこにはあるべきでない大きなふくらみをおおっていた。(略)

私はほほえんで言った。「ブロー・ジョブに戻った方がいいようだね」

彼女(彼)は驚いて言った。「アナタ、気にしないか?」

私は肩をすくめた。「ここまで来たんだから今やめる手はなかろう?」

「でもワタシ気にしない男好きじゃナイ。本物の男とても気にするべきヨ。本物の男バカにした言って、ワタシぶつ。ワタシ、本物の男の方が好き」

私はもうイイかげんうんざりしたので(略)彼女をベッドに突き飛ばすと右側の尻をピシャッと叩いた。

彼女はくるりと振り向くとすぐに身体を起こした。「ワタシをぶちたいのネ。五十シリング追加ヨ」(略)

[なんだかんだでお約束の展開]

ナイフを持った狂暴な顔つきの殺し屋が出現(略)

「ミスター、俺の女に三百シリング払ってもらおうか」

(略)

 するとその時、廊下を隔てた向いの部屋からすさまじい物音が聞こえたと思うと、突然そのドアが開いた。実にドラマチックな登場!満場の拍手喝采!――ズボンをたくし上げながら飛び出してきたのは、キース・ムーンだった!?キースは、ナイフを手にした男の前で、死んだように立ちすくんでいる私を見た。

「何と!サイモン・ネイピア=ボロックスじゃないの!こんなところで何やってんだ?」

(略)

[キースはまとわりつく娘を払いのけ]アラブ人の殺し屋めがけて飛びかかった。(略)ボサッと突っ立っていたその男の喉にキースの空手が命中した!

 我々は飛ぶように階段を駆け降りて外へ飛び出した。そして熱帯の夜の闇にまぎれて、キースと私は、もと来た道を目指し、それぞれ反対の方向に向かって一目散に走り去った。

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