憲法の機能をめぐる認識のズレ
憲法記念日であるので憲法をお題に何か書くことにしますが、さして詳論したいと思うことも無いので、あまり指摘されていないと思うことだけを、なるたけ簡潔に話します。
左派的な立場から憲法が論じられるのを見聞きすると、「そもそも憲法とは国家権力を縛るためのものにある」といった趣旨にしばしば出くわします。もう少し学識の豊かな方だと、「公権力に一定の制約を加えることこそが近代的な意味での憲法の本義である」などといった形に、憲法の意味を歴史的に限定した上で話されます。これらはごく自然な理解であり、決して間違っているわけではありません。現に、樋口陽一氏や長谷部恭男氏などの権威ある憲法学者による、一般によく読まれている憲法入門書などでは、そういった自由主義≒立憲主義的な憲法理解が説かれています。
しかしながら、そういった立場は、あくまでも特定の意味において「憲法」なる語を解した場合における正統な理解であって、憲法の意味や理解がこの立場に限定されるわけでは、本来ありません。大学の講義で定番の教科書として長年親しまれている芦部信喜『憲法』(第4版、高橋和之補訂、岩波書店、2007年)の冒頭では、憲法の意味が大きく2つに分けられています。大略は次の通りです。
- (1)形式的意味の憲法…「憲法」という名で呼ばれる成文の法典(憲法典)。「日本国憲法」がこれにあたる。英国のような不文憲法の国には無い。
- (2)実質的意味の憲法…成文・不文にかかわらず、ある特定の内容によって国家の基礎を定める法。
(2)の実質的意味の憲法に含まれる法文は、憲法典だけには限られません。例えば皇室典範や国会法、教育基本法などのように、果たしている役割によって「国家の基礎」を規定していると解釈されるものは(2)の意味で「憲法」と見做し得るのです。
さらに、実質的意味の憲法は2種類の下位分類を持つとされます。それらを含めると、全体のカテゴリ分けは以下のようになります*1。(1)を含めて全部で3つの意味が登場するので、それぞれに通し記号a〜cを振っておきました。
既におわかりでしょうが、先に挙げた立場において語られている「憲法」とは、②の意味を指しています。この意味の憲法が成立するのは一般的に「マグナ・カルタ」からであるとされており、憲法学が形成されていくのもそれ以降です。①には例えば、「十七条の憲法」などが含まれます。憲法学の対象が主として②であり、憲法学の議論で「十七条の憲法」が普通扱われないのは、憲法学の成り立ちそのものを支えたのが②の意味の憲法とともに発展してきた自由主義≒立憲主義の考え方だからです。
言うまでもありませんが、樋口氏や長谷部氏などがこの分類を知らないわけではありません。しかし、彼らの著書を読んでとにかく「憲法=国家権力を制約するもの」と覚えた人の中には、「憲法」という語の多義性を意識しない人も多そうです。もちろん、日本国憲法のみならず大日本帝国憲法も②に含まれますが、それはこれらの法典が基本的に②としての機能を果たしているからそう解されているだけであって、別に①と解そうとすることが不可能なわけではありません。つまり、今の憲法は社会的な「事実」として②ですが、それを①の方へと変えていくべきだという「主張」そのものは有り得るわけです。
こうした主張をしていると思われる論者は少なくありません。「憲法」なる語をこのような意味で使うとか、こういう理解で使うべき、などと明示的に述べている人はあまりいませんが、例えば近代主義への反発を軸に議論を構成している西部邁氏などは、明らかに「憲法」という語を非近代的な意味で使っていると思います(私は西部氏の良い読者ではありませんが、数年前に大学院の授業で『ナショナリズムの仁・義』(PHP研究所、2000年)を読んだときにこのことを思いました)。
自由主義≒立憲主義的な意味に限定して「憲法」を考えている人々は、なかなかこの点に思いが至らないようです。憲法に「国民の義務」をもっと盛り込もう、などといった動きとの(「論争」ではなく)「すれ違い」は、ここから生じている部分が大きいと思います。左派的な立場の人々は、「憲法とはそもそも国家を縛るためのものだから」、そういった主張はそもそも憲法とは何かを理解していない、と考えてしまいがちです。けれども、そこで異なる立場を採る側は憲法の意味を理解していないのではなく、実はそもそも別の意味で「憲法」なる語を使用しているのだとしたらどうでしょう。
そもそも憲法学の対象が(c)であるからといって、一つの法典(a)としての日本国憲法の条文についての論争が(c)の意味の憲法理解に縛られる必然性はありません。逆に言えば、(c)の意味の「憲法」を問題にしたいのであれば、必ずしも(a)の意味の「憲法」に拘泥する理由は無いわけです。憲法典以外の法規・方針やそれらについての解釈、及びその他の政治慣行を含む全体としての“constitution”を重視すべきではないか、といった議論は杉田敦先生が提示しているところです(『政治への想像力』(岩波書店、2009年)などの他に、長谷部氏との対談『これが憲法だ!』(朝日新書、2006年)も政治学者による憲法への独特なアプローチが刺激的です)。
相手は憲法の意味も理解していないと考えてしまうと、一方が「馬鹿」だから問題外という話になって生産的な議論には発展しようがありません。それゆえ、憲法についての有意義な論争を望むのであれば、どちらかが「事実」を理解していない「馬鹿」なのではなくて、日本国憲法が果たすべき主たる機能についての異なる「主張」が対立していると考えるべきでしょう。そろそろ、憲法論争が「ネクスト・ステージ」に進むことを期待したいものです。
- 作者: 西部邁
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2000/12
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (1件) を見る
- 作者: 杉田敦
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2009/01/27
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 8回
- この商品を含むブログ (10件) を見る
- 作者: 長谷部恭男,杉田敦
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 2006/11
- メディア: 新書
- 購入: 1人 クリック: 20回
- この商品を含むブログ (71件) を見る
参考
ここでは言葉の問題に終始したので、せっかくの「記念日」だから憲法の中身についてもう少し考えてみたい、という方のために関連する拙エントリへのリンクを張っておきます。
- 憲法9条については、護憲論を鍛え直すことを企図して書いた比較的包括的な検討が既にあります(α)。
- その他、9条については以下など。
-
- 「安心担保装置としての九条」(2005年5月16日)
- 「私は爆弾で死にたくない―9条論への蛇足」(2007年5月3日)
-
- 「0を0.5と数えるべきではない」(2007年4月26日)
- 他に憲法関連では、以下など。
-
- 「イスラーム戦争の時代の憲法とは何か」(2006年5月8日)
- 「『世界』5月号雑評」(2007年4月11日)
- 歴史関連では、以下など。
-
- 「沖縄戦における住民集団自決に何を見るか」(2007年6月25日)
- 「経験と継承、あるいは不継承」(2009年8月15日)
- 平和と平和主義について根元的に考察したものは、以下に整理してあります(β)。
-
- 「平和論ノート(1)平和を諦める」(2007年1月17日)
- 「平和論ノート(2)平和をたぐり寄せる」(2007年1月18日)
- その後に書いた平和や暴力に関するものとしては、以下。
-
- 「平和主義についての何度目かの呟き、あるいは思想の継承と発展について」(2007年5月23日)
- 「暴力とは何か」(2008年6月15日)
- 「正しい戦争など無い」(2009年1月4日)…(γ)
色々挙げましたが、まとまったものとしては(α)と(β)、比較的最近で、かつコンパクトに要点を押さえたものとしては(γ)を読んで頂ければ十分かと思います。
*1:なお、カテゴリ分け自体はテキストに沿っていますが、各カテゴリの説明については私の理解が含まれていますので、必ずしもテキスト本文と一致しないところがあります。