安心担保装置としての九条
2005/05/16(月) 17:32:45 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-69.html
死刑制度の廃止を主張する時に、死刑に犯罪抑止効果が無いことを論証しようとしても、それ程世論に訴えかけない。その要因のひとつには、完全な証明は不可能に近いことがある。しかし、最大の要因は、死刑制度維持によって社会が得ている主なものが、犯罪抑止効果という事実ではなく、抑止効果への信仰によってもたらされる安心だからである。
抽象的な全体像としての社会をにらんでいる博士・大臣などと違って、ミクロで具体的な一個の生活を営んでいる市民にとって重要なのは、事実よりもむしろ実感である。必要とされるのは、虚構の暴露よりもむしろ盲信による充足である。それ自体が盲信に過ぎずとも、フィクションとしての制度を疑うことが無い状態が維持される限り、社会はそれなりの整合性を持って滞りなく上手く回ってくれる。啓蒙や暴露も、フィクションへの日常的疑問を抱く市民へのカタルシスとして働くことで、フィクションの維持を助ける。一時的なガス抜きで充足を得た市民は、再びフィクションの中にはまり込んでいくことができる。
死刑制度が担保しているものが抑止の事実ではなく、抑止されている「はず」という安心である限り、ただ抑止効果を否定して死刑廃止の論拠に十分とすることはできない。死刑の無い社会を現実に生きる為には、死刑による抑止効果という盲信に代わる、新たな社会の安心担保装置を用意し、それを社会に信じ込ませなければならない。それなくして死刑を廃止したところで、いたずらに既存の安心秩序を崩壊させ、社会を混乱に陥れたという非難にさらされるだけであろう。
本題は憲法の話である。内田さんのエントリにインスパイアされた。
死刑制度のもたらす安心構造は憲法にも適用できるのではないか。
戦後のある時期から最近まで、日本国民の過半数は憲法九条を肯定してきた。それとは背理する自衛隊の存在と共に。
大雑把に言って、戦後の日本国民は一貫して、「九条+自衛隊+日米安保」という路線維持により安心を享受していた。
内実がどうあれ、市民から十分な信頼を得ている安心担保装置は社会に一定の秩序をもたらす。その虚構性をやかましく叫んだところで、仮にその叫びが全く妥当だったとしても、既存の安心担保装置を捨て去る理由にはならない。市民に説得的な代替装置を示し得ていないからである(もちろん、そこには、現行のシステムはただ現行であるというだけで説得が有利になる問題はある)。
九条の改正、例えば二項の削除を主張するのであれば、それによってこれまでの秩序と比べてより良い秩序が得られるということを、市民に信じ込ませなければならない。
なお、「できれば無いほうが望ましい制度を無くす」ものである死刑廃止論に要求される代替的安心担保装置は代替的機能に留まるもので構わないだろうが、「できれば有るほうが望ましい制度を無くす」ものである九条改正論には、より積極的な意義を見出すことが可能なように、既存装置と比較して「より良い」機能が求められて然るべきである。
念のため述べておくと、公的殺人制度である死刑が「無いほうが望ましいこと」および、公的殺戮組織である軍隊を廃棄する条項が「有るほうが望ましい」ことについての異論は無かろうと思う。別にそれを封じようとするものではないが。
しかし、最近の世論調査を見る限りでは、日本国民は既存の安心担保装置に以前ほど執着していないように見える。もちろん、九条改正の中身が如何様なものかも知れない現状では、変革可能性に支持を与えているだけかもしれず、安心担保装置の根本的変革まで容認する射程を持ち得るのかどうかは判然としない。
おれには九条改正論者が代替的安心担保装置を魅力的に示し得ているようには思えないので、世論の変化が彼らに説得されてのものだとは考えにくい。制度は変化せずとも状況が変化した為に、既存装置では以前ほど安心が得られなくなったと感じているのだろうか。
そうだとすれば、九条擁護論者は既存装置が未だ有効であると唱えるだけではなく、九条を変えないままで安心が維持できるような戦略を示していかなければ、市民の不安をカバーしきることはできない。裏を返せば、九条改正論者は既存装置の失効を叫ぶだけでなく、新たな装置を構築するにあたって、なぜ九条の改正が必須なのかを市民に信じ込ませなければならない。
九条を一つの軸としてきた日本の安全保障政策の未来に必要なのは、安心担保装置として失効した九条の代替なのか、未だ効力を保ちつつも十分でない九条の補完なのか。論点はここじゃないのか。
九条を改正するとして、自衛隊や日米安保と並ぶものは何だろうか。厳格で具体的な武力行使制限規定だろうか。しかし究極の武力行使制限である軍隊廃棄条項を持ちながら、世界有数の軍隊を他国が遠隔地で始めた戦争の後方支援に送り込むことまでできる現状を横目にして、「普通の」武力行使制限規定で安心が得られるだろうか。ここで必要なのは、この憲法下でこれほどアクロバティックな暴挙が可能であるこの国家を憲法以外にどう縛るかだと思うのだがどうか。
北朝鮮なんかよりも、露骨な対米追従政策ゆえに日本と日本人がテロリストの標的になることのほうがよっぽど怖い今日この頃、九条改正でどう新しい安心を担保できるのか識者の明晰なご意見を拝聴したく思う。日本国民諸兄が既存装置から安心を得られなくなったからといって、むやみに新しい装置(中身は古いが)に走って失敗しなければよいのだが。本当にその装置で安心できるのか、熟慮してもらいたいところだ。皆が安心できるんなら…、まぁ、その限りではいいのかもしれない。
ともあれ、まともな代替策を用意しないまま既存装置を破壊した結果は悲惨で、その結果をこうむらざるを得ない人々は不幸だ。その構図は今回の米国によるイラク攻撃とその後に現れている。明確なビジョン無くして既存の秩序を破壊する無かれ。今こそ保守主義の叡智が役立つときではないのか。ケナンを読んで出直して来い。
TB
九条燃ゆ前に(1) http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070119/p1