正しい戦争など無い


いかなる暴力も正しくない。戦争は暴力の津波である。だから、この世に正しい戦争など存在しない

正しい戦争の存在を認めないと、暴力の範囲を最低限に抑制すべく規律正しく穏当に遂行された戦争と、無際限の冷酷かつ残虐な行為を伴った戦争とを区別することができなくなる、と言われることがある。「そもそも戦争そのものがよくない」と言うことで、現実にある戦争を道徳的な方向へと引き上げることを不可能にしてしまう、とされるのである。

しかし、この論理はまるっきり間違えている*1。私たちが「そもそも人を殺すことはよくないことだ」と言ったからといって、瀕死の重傷を負って既に助かる見込みのない人から数時間の苦痛を取り去るために命を奪うことと、自分が楽しむために他人の精神や肉体を弄んだ挙句に死へ導いたり、その死体に意図的に損傷を加えたりすることとを区別できなくなると考える人はいない。

殺人を道徳的に正当化することはできないとしても、より「マシ」な殺し方を考えることはできるし、より「マシ」な動機を見定めることはできる。そして、複数の殺し方や動機の中に「マシ」かどうかの比較基準を持ち込むことは、「マシ」な方の殺人を正当化する――「正しい」と主張する――ことを意味しない。ある行為が悪であることを一般的に言明したからといって、当該行為の個別具体例を区別して評価することができなくなるわけではない。

したがって、正しい戦争の存在を認めずとも、現実にある戦争の中に道徳的な優劣を見出すことはできる。とはいえ、繰り返すように、それがまだしも「マシ」な戦争だからといって、正しい戦争になるわけではない。いかなる局面においても、暴力を正当化することは欺瞞である。正しい暴力など存在しない。正しい殺人など存在しない。正しい戦争など存在しない。

暴力は正当化できないが、私たちは暴力抜きには生きられない。だから、こう言うしかない。正しい戦争は存在しない。存在するのは、遂行すべき戦争だけである。より正確に言うなら、発話主体自身が遂行を求める戦争、遂行して欲しいと考える戦争だけが存在する。私はいかなる意味でも平和主義者ではない。だから遂行すべき戦争の存在を否定しない――できない。しかし、ある行為を遂行すべきであると主張することと、その行為が正しいと主張することは違う。正しくなくても行うべきことは在る。

だが、何度でも繰り返すが、単に自らが欲するに過ぎない行為について道徳的正当性の偽装を施すことは決して為すべきではない。それがいかに決定的な重要性を伴った「遂行すべき戦争」であったとしても、それが暴力にほかならない以上、「正しい戦争」の名を騙ることは、絶対に許されないのである*2

*1:以下に示すようにこの論理が錯誤であるとしても、こうした論理の周辺に複雑かつ微妙な問題が横たわっていることは否定できない。対象の全否定が帰結的に全肯定をもたらすという罠――反・改良主義者がかかる罠――は多くの人によって指摘されてきたが、私がここで示すのは一旦全否定した後でも全肯定を避けることはできる――改良に携わることはできる――という事実であると思う。しかし、こうした事実の提示によって私たちが別種の罠へと近づく結果になりかねないことにも、注意を喚起しておく必要がある。現実を否定的に評価しつつも、その現実から離れずに改良を試みることは素晴らしく真摯な営為であるが、その際に改良を導く準拠点に現実から遠く離れた実現不可能な理想を設置することは、断じて避けなければならない。現実の外にある理想への準拠は、その理想を解釈する立場の人間を特権化し、経験的・恣意的な独断に客観的・絶対的な響きを持たせてしまうからである。したがって、クソッタレな現実にかじりついた改良の営為は、まずどこにも無いユートピア――暴力の無い世界――を断念した後で始められなければならない。それが、それだけが、現実の泥沼にも理想の魔力にも絡め取られずに「自立」する方法である。

*2:なお、正戦論を考える導入として以下を参照。

「正しい戦争」は本当にあるのか

「正しい戦争」は本当にあるのか

絶対平和主義の立場からの議論としては、以下に所収のダグラス・ラミスの論文を参照。
平和学の現在

平和学の現在