本の世界の扉の鍵を――読書リストに寄せて(執筆者・古屋美登里)

 
 その昔、新潮社から出版された『ヘンリー・ミラー全集』の十一巻に『わが読書』(田中西二郎訳)が入っています。若いころに夢中で読んだはずなのですが、情けないことにまったく内容を覚えていません。ところが巻末の附録は、いまでもはっきりと思い出すことができます。
 附録の[I]は「著者に最も大きな影響を及ぼした百冊の書目」というタイトルで、ボッカチオの『デカメロン』やセリーヌの『夜の果ての旅』、チェスタトン『アシジの聖フランシス』、ペトロニウス『サチュリコン』などがあり、[II]の「著者が今後に読むつもりの書目」には、トマス・アクィナス『神学大全』、フィールディング『トム・ジョーンズ』、スタンダール『パルムの僧院』などが挙げられています。
 いまその附録のページを見たら、著者名と題名のところに鉛筆で小さな丸がとびとびについています。読んだ作品につけた印なのでしょうが、全体の三分の一もありません。やがてはこの百冊すべてを読んでみせる、と当時の私が思っていたかどうかわかりませんが、ちょっとした熱気と意気込みが伝わってきて面映さを覚えます。
 
 七年前に明治大学商学部の学生に「外国文学」を教え始めたとき、おそらくこの附録のことが頭のどこかにあったのでしょう。夏休みの前に、これだけは知っていてほしい(そしてできれば読んでほしい)本という意味で百五十冊ほどの読書リストを作って学生に配るようになりました。掲載作品は毎年少しずつ変わっていきますが、たいした変動はありません。
 本をあまり読まない学生を念頭に置いたリストなので、一般に公開することには躊躇いもあったのですが、こんなリストでも何かのお役に立てるならばと思い、思い切って公開することにしました。ご覧になって、あの作家がいない、この作品がない、とご不満を覚える方もいらっしゃると思いますが、どうぞご寛容のほどを。
 さらに、どうして倉橋由美子の作品がこんなに多いのか、と疑問に思う方もいらっしゃるでしょう。私は学生時代から、倉橋由美子が書物について書いたエッセイから大きな刺激を受け、そのエッセイを通してたくさんの作品を知り、手当たり次第読んでいた時期があります。それが私の大きな財産になっています。倉橋由美子はまことに稀有な作家であり優れた読み手でした。明治大学は、その倉橋由美子の母校です。学部こそ違え、倉橋由美子の後輩に当たる学生たちに倉橋の作品を読ませることがこのリストの大きな目的でもありました。
 
 このリストがここで公開されることになったいきさつについて、少し説明いたします。九月の初めに、この読書リストを手に入れた他大学の学生からメールが届きました。読書リストをもとにこの夏休みに読んだ四十冊のうちの何冊かについて感想文を送ってくれたのです。初めて読む作品を初々しい言葉で論じたメールには、もっとたくさんのことを知りたいという熱意がこもっていて心を動かされました。そのことを twitter で呟いたところ、何人かの方からその読書リストを見てみたい、どうやったら手に入れられるのか、という返信がありました。ダイレクトメールでメール・アドレスを教えてくれた人にデータを送る、という方法しかそのときには思いつかなかったのですが、DMは相互フォローの相手でなければ送れません。それで、「リストがほしい、という方がいらしたら、フォローしてください。こちらからもフォローします。DMでメールアドレスをお知らせください。データをお送りします」とツイートしたのが九月七日のことでした。
 わたしはtwitterを甘く考えていました。希望なさるのは、せいぜい二、三十人の方だろうと思っていたのです。ところがそうツイートしたとたん、次々にデータ希望のフォローが増え続けていったのです。急いでこちらからもフォローするとたちまちDMが送られてきました。びっくりしていると、どんどんその数が増えていったのです。私はそこに記されたメールアドレスにデータを送り続けました。
 そして、七日八日の二日間で三百人以上の方がフォローしてくださり、二百人以上の方からデータを希望するという連絡をいただき、慣れないことなのでいろいろ不手際もありましたが、なんとか全員に送ることができました(その中に、名のある詩人、作家、ライター、書評家の方々、書店員や教師をしている方々がいらしたのは嬉しい驚きでした)。
 本を読みたいと思っている方、読書の指針となるものを探している方がこんなにたくさんいらっしゃると知ったことは、出版に携わる者として何より心強いことでした。そして、twitter の威力に改めて圧倒されました。
 それから間もなく、早速書店や古本屋をまわって本を集め始めた、読み始めた、という返信やメールが次々に届き始めました。おひとりおひとりに返信はできませんでしたが、どれもありがたく拝読しました。
 そんなときに本サイトを運営している方から、公開したらどうですか、というご提案をいただきました。個人ではとてもさばけない状態になっていたので、これはとてもありがたいお申し出でした。先ほども述べましたが、これには躊躇いもあったのですが、多くの方がすぐにデータを利用できる点がなにより魅力的に思えました。それで、データの送信はやめて、ご希望の方には本サイトに公開されるリストをご覧くださいと返信することにしたのです。
 
 このリストは、まだ本の世界の楽しさを知らない学生に、その扉の鍵を渡すつもりで作ったものです。その鍵がどんな働きをしているのか、あるいは引き出しの中で眠っているだけなのか、こちらとしては想像するしかないのですが、こんなことがありました。
 あるパーティでひとりの卒業生に会いました。在学中からよく本を読んでいた子でしたが、私の姿を見るや近づいてきて、バッグからしわくちゃになった紙を大切そうに取り出して見せてくれたのです。二〇〇七年に私が配った読書リストでした。赤と青のボールペンで線が引いてあったり丸がついていたり、小さな文字で書き込みがしてあったりして、端のほうはぼろぼろになっていました。「これをいつも持ち歩いているんです。読んだ本と、買った本に印をつけています」とその教え子は言いました。私は胸がいっぱいになって思わず教え子を抱きしめていました。
 リストがどこかでだれかの支えになっていることを目の当たりにしたのはそのときが初めてでした。学生の多くは、無数の本が並ぶ書店で何を選んでいいのかわからないでいます。このリストがそのきっかけを与えることができたらどんなに嬉しいことでしょう。
 
 twitter でたくさんの方が読書リストの感想を呟いてくださっていますが、その中である方の、「読書リストを見て、改めて『いろんな本を読んでいいんだ!』という気持ちになった。『こういう本を読まなきゃ!』というリストではなく、『いろんな本を読んでいい!』というリストに感動」、という言葉がとても印象的でした。まさに、私はそのことをささやかなメッセージとして伝えたいと思っています。
 そして本はどこかできっと何かの力になってくれる、と信じています。
 
 最後に、ここで公開したらどうですか、と声をかけてくださったシンジケート事務局の方にはとてもお世話になりました。私のリストは授業中に配り、各作品の内容に触れたり、翻訳者や出版社について説明を加えたりしているので、著者と題名だけしか記していないものが多かったのですが、事務局のほうで翻訳者や出版社を調べてくださり、備考までもつけてくださいました。
 拙いデータながら、完全な形で公開できるようになったのは事務局のおかげです。この場を借りてお礼を申し上げます。ありがとうございました。
 



 
●読書リスト見本
 クリックで見本(JPEGファイル)をごらんになれます。

 
PDFファイルの表示は【こちら】
 
PDFファイルのダウンロードは【こちら】
 
■PDFファイルは約130KB、印刷時にはA4横、全6ページです。
 

 
 
古屋 美登里(ふるや みどり)


 訳書にイーディス・パールマン『双眼鏡からの眺め』(早川書房)、ラッタウット・ラープチャルーンサップ『観光』(ハヤカワepi文庫)、エドワー・ケアリー『望楼館追想』(文春文庫)、ダニエル・タメット『ぼくには数字が風景に見える』(講談社)など。明治大学商学部兼任講師。倉橋由美子作品復刊推進委員会会長。「サンデー毎日」で月に一回「海外書籍」の書評担当。
 Twitterアカウントは @middymiddle
 
ヘンリー・ミラー全集〈第11〉わが読書 (1966年)

ヘンリー・ミラー全集〈第11〉わが読書 (1966年)

夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫)

夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫)

夜の果てへの旅〈下〉 (中公文庫)

夜の果てへの旅〈下〉 (中公文庫)

パルムの僧院(上) (新潮文庫)

パルムの僧院(上) (新潮文庫)

パルムの僧院(下) (新潮文庫)

パルムの僧院(下) (新潮文庫)

双眼鏡からの眺め

双眼鏡からの眺め

ネザーランド

ネザーランド

森の奥へ

森の奥へ

アルヴァとイルヴァ

アルヴァとイルヴァ

観光 (ハヤカワepi文庫)

観光 (ハヤカワepi文庫)

望楼館追想 (文春文庫)

望楼館追想 (文春文庫)

ぼくには数字が風景に見える

ぼくには数字が風景に見える

奪われた人生 18年間の記憶

奪われた人生 18年間の記憶