コント:ポール君とグレッグ君(2011年第2弾&第3弾)

一応拾っときます。

リフレ政策のケーススタディとしてのグレッグ君

ポール君
Mark Thoma経由で知ったんだが、マンキューとWeinzierlが共著論文を書き、ゼロ金利下限においても財政拡張策を選択肢として考えるべきではない、その場合でも将来の金融政策に対し信頼できるコミットメントができれば金融政策は機能する、と論じている。

彼らが認めているように、将来の金融政策の潜在的役割というのは新たな洞察というわけじゃあない。僕の最初の分析の核心もそこにあったし、Eggertsson and Woodfordでも中心的なテーマとなっている。

しかし、実際にそうした政策が機能するのに必要なだけのコミットメントを考えた場合、将来の金融政策に対する信頼できるコミットメント、という概念はどの程度信頼が置けるのだろうか? ここで、僕が最初の分析で表現したように、中央銀行は「無責任になることを信頼できる形で約束する」必要があることを頭に入れておこう。つまり、高インフレを創造ないし許容することにコミットする必要がある、というわけだ。それがどれくらい難しいかについてのケーススタディが欲しければ、グレッグ君の最近の経験と行動を見てみるが良い。

今回の危機の初期に、グレッグ君は自身の分析が意味するところを公けに論じた。FRBは高インフレを約束する必要がある、それにより実質金利がマイナスになる、と述べたんだ。

僕が知るところでは、彼は読者から猛反発を食らった。こうした反発を受けて、彼は一歩も譲らず、インフレは本当に正しい政策だと繰り返し論じたそのテーマについて論じることを何とは無しにやめてしまった。

ここで覚えておいて欲しいのは、インフレが効果を発揮するようなコミットメントを行うためには、中央銀行家は単にインフレタカ派の圧力に抗する――議会で証言しなければならないことを考えると、それはハーバードの教授としてそうした圧力に抗するよりも数段難しい――だけでは十分ではなく、そうした圧力に1年や2年ではなく相当の期間抗すると投資家たちに信じてもらう、というさらに困難なことをやってのけなければならない、ということだ。

財政拡張策の良いところは、人々がそれを信じなくても良い、という点にある。もし政府が橋をたくさん作れば、政府がそれを継続するというコミットメントを信じる信じないに関わらず、人々を職に就かせることになる。実際のところ、何らかのリカード効果が働くならば、人々がそれが継続しないと信じるほど財政政策はむしろ効果を発揮するんだ。

個人的な覚書:僕が2008-2009年に財政拡張策を支持したのは、まさに、モデル上はうまくいくはずのコミットメントに基づいた非伝統的金融政策が現実に導入可能などと信じられなかったからなんだ。それ以降に見聞きしたことは、その点についての僕の見解を変えることは無かった。
グレッグ君
僕がフォローしているブロガーの幾人かが、最適な安定化政策に関するMatthew Weinzierlと僕との共著論文についてコメントしてくれた。スコット・サムナーは気に入ってくれたようだ。予想通り、ポール君は嫌味を書いているね。追記:エコノミスト誌のGreg Ipもこの件を取り上げた。

もしマケインが大統領だったら?

ポール君
敢えて言おう、淡水学派の経済学者はすべて保守派であり、塩水学派の経済学者は概ねリベラル派である、と。ただ、保守的な政治観と塩水学派的な経済観を併せ持った経済学者も少なからずいる。マーチン・フェルドシュタイン、グレッグ君、ジョン・テイラーはその典型例だ。
ヘンリー・ファレルのモデルからは、こうした保守派の塩水学派の多くは自分たちの経済観と政治観に矛盾が生じた時――リベラルな民主党政権が塩水学派の理論を自らの政策の裏付けに用いようとする場合がそうだが――には自身の以前の分析を否定する方向に走る、と予想されるが、まさにその通りになっていると言える。
デロングに言わせれば、マケイン大統領がオバマ大統領が実際に実施したのとまったく同じ財政政策を取ったならば、今はあらゆる理由を持ち出してオバマ政策に難癖をつけている共和党派経済学者の多くが支持したことだろう、との由。それに付け加えるならば、量的緩和には、バーナンキが共和党政権下で実施していた場合に受けたであろうよりも遥かに多くの懐疑論が投げ掛けられている。
ということで、今日は経済学者にとって栄光の時代、というわけにはいかないようだ…。