最近のインフレの非線形フィリップス曲線観の脆弱性について

というNBER論文が上がっている(ungated版へのリンクがある著者の一人のページ)。原題は「On the Fragility of the Nonlinear Phillips Curve View of Recent Inflation」で、著者はPaul Beaudry(ブリティッシュコロンビア大)、Chenyu Hou(サイモン・フレイザー大)、Franck Portier(ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)。
以下はその要旨。

The paper examines whether the US evidence in favour of a nonlinearity in the Phillips curve is robust or fragile. To this end, we use both cross city and aggregate time series data. We are particularly concerned with the possibility that the evidence in favour a nonlinear Phillips curve may is fact be driven by improperly controlling for inflation expectations. Our finding suggest that the evidence in support of a nonlinear Phillips curve is very fragile.
(拙訳)
本稿は、フィリップス曲線の非線形性を支持する米国の実証結果が頑健か脆弱かを調べた。そのために我々は、都市ごとのデータとマクロの時系列データの双方を用いた。非線形フィリップス曲線を支持する実証結果が実はインフレ予想を不適切にコントロールしたことでもたらされている可能性を我々は特に懸念した。我々の発見は、非線形フィリップス曲線を支持する実証結果が非常に脆いことを示した。

この論文が標的にしている非線形フィリップス曲線観は、It’s Baaack:2020年代のインフレ高騰と非線形のフィリップス曲線の復活 - himaginary’s diaryで紹介したBenigno=Eggertssonが提唱したものである。

結論部によると、2020年以降の高インフレの解釈は、労働市場が非常に逼迫していたこととフィリップス曲線がかなり非線形であることの組み合わせで生じた、という見方と、フィリップス曲線はほぼ平坦だったが供給ショックを受けて短期のインフレ予想が上放れしたことで生じた、という見方の2つがある。両者を識別するのは難しいが、ここでは都市の横断データから時間ダミーを用いて共通のインフレ予想を取り出したとの由。その手法だと、インフレ予想の測定方法について決まった立場を取る必要がないという。その分析からはフィリップス曲線の非線形性は見い出されなかったとのことである。
著者たちはまた、マクロレベルの実証結果はインフレ予想の測定法に非常に敏感で、専門家のインフレ予想が重要だという立場に立てばフィリップス曲線が非常に非線形という結論に達するが、家計や企業のインフレ予想が重要だという立場に立てばフィリップス曲線は平坦に近く、短期の予想が最近のインフレ動向では重要な役割を果たした、という逆の結論に達する、と述べている。

関税はインフレを引き起こすか?

と題したエントリ(原題は「Do tariffs cause inflation?」)をマンキューが上げている。

There has been some debate between Trump critics and Trump defenders about whether tariffs cause inflation. Some defenders, including the Commerce Secretary Howard Lutnick, say that tariffs don't necessarily cause inflation. My view is that these defenders have a point, but not a good one.
Tariffs reduce productivity because they prevent the international marketplace from allocating resources to their best use. Lower productivity means lower real incomes. Lower real incomes could take the form of either (1) a higher price level for given nominal incomes or (2) lower nominal incomes for a given price level. Whether (1) or (2) occurs depends largely on monetary policy.
When Trump critics say that tariffs cause inflation, they are implicitly assuming case (1). That case may be the more likely one, but it is not necessarily the way things will play out.
Bottom line: Trump critics should say that the tariffs will reduce American living standards (as well as living standards abroad) without invoking the word "inflation."
(拙訳)
トランプ批判者とトランプ擁護者の間で、関税がインフレを引き起こすかどうかについて議論があった。ハワード・ルトニック商務長官を含む一部の擁護者は、関税がインフレを引き起こすとは限らない、と言う。私の見方では、これら擁護者にも一理あるが、ただし良い理屈ではない。
関税は、国際市場が資源を最適利用されるように配分するのを妨げるため、生産性を下げる。生産性の低下は実質所得の低下を意味する。実質所得の低下は、(1) 所与の名目所得について物価水準が上昇、もしくは、(2) 所与の物価水準について名目所得が低下、のいずれかの形を取る。(1)と(2)のどちらが起きるかは金融政策に大きく左右される。トランプ批判者が関税はインフレを引き起こすと言う時、彼らは暗黙裡に(1)のケースを想定している。そのケースの方が可能性が高いかもしれないが、実際にそうなるとは限らない。
結論:トランプ批判者は、「インフレ」という言葉を使わずに、関税は米国の生活水準(ならびに海外の生活水準)を下げる、と言うべきである。

一方、サマーズはマンキューの言う(1)の観点からの試算をツイートで引用している。

President Trump has some explaining to do in tonight's State of the Union address given the economic damage of his tariff policy.
Trump's tariffs will cost average household $1,600 in higher prices according conservative estimate by @The_Budget_Lab.
Trump's tariff policy has already taken $2 trillion off the value of the US stock market.
Protectionism is bad policy because it raises prices and reduces employment.
This week's policies are particularly bizarre and problematic.
Even if one thought protectionism was wise, excluding oil we run a balance surplus trade with Canada. These tariffs will mean more production in Asia and Europe.
No wonder Wall Street's fear gauge is up by one-third.
(拙訳)
トランプ大統領は、彼の関税政策が経済に損害を与えたことについて、今晩の一般教書演説で説明すべきである。
@The_Budget_Labの控えめな推計でも、トランプ関税は物価上昇によって平均的な家計に1600ドルの負担となる。
トランプの関税政策は既に米株式市場の時価総額から2兆ドルを取り去った。
保護主義は物価を上げて雇用を減らすため、悪い政策である。
今週の政策は特に奇妙で問題含みのものだった。
保護主義が賢明だと思うにしても、原油を除くと我々はカナダに対して貿易黒字を計上している。今回の関税はアジアと欧州の生産を増やすことを意味している。
ウォール街の恐怖指数が1/3上昇したのも不思議ではない。

以下はぐぐって表示されるVIX指数の直近の推移。

財務長官の罪と罰

サマーズがXでトランプ政権を批判し、特にベッセント財務長官を槍玉に挙げている。

2/25ツイート

What the Trump administration seems to be proposing — and to be fair, we have not seen all the details — is a Versailles-like agreement imposed, not on aggressors, but imposed on the victims of aggression.
https://bloomberg.com/news/articles/2025-02-24/summers-calls-us-demands-in-ukraine-talks-beyond-versailles?utm_source=website&utm_medium=share&utm_campaign=twitter via @bpolitics
(拙訳)
トランプ政権が提案しているようにみえるものは――公平を期すために言っておくと、すべての詳細を我々はまだ目にしていない――ヴェルサイユのような条約を、侵略者にではなく、侵略の被害者に課す、というものである。
https://bloomberg.com/news/articles/2025-02-24/summers-calls-us-demands-in-ukraine-talks-beyond-versailles?utm_source=website&utm_medium=share&utm_campaign=twitter via @bpolitics

3/1ツイート

Sad spectacle today of the United States government siding with Russian aggressor against Ukraine. I would have resigned from any Administration that behaved so grotesquely.
Secretary Bessent says I am wrong to have described him as seeking to impose Versailles-like terms on Ukraine the victim, rather than the aggressor.
https://youtu.be/5vnNnSR6ymk?si=tLghwPGY6uiMzBPv via @YouTube
Bessent misses the point when he focuses on debt vs. equity. Either way, his trip to Ukraine was to demand that Ukraine give a stream of income to the US as some kind of compensation. Read Keynes. This was the central error of Versailles.
A close look at the relative value of growth linked and regular Ukraine debt supports the view that the Bessent deal was bad for Ukraine’s economy.
(拙訳)
米国政府がロシアの侵略者の肩を持ってウクライナに対峙するというのは悲しい光景である。そのようなグロテスクな行動を取る如何なる政権からも私は辞任することだろう。
ベッセント長官は、ヴェルサイユのような条件を侵略者ではなく被害者であるウクライナに課そうとしている、と私が彼を描写したのは誤りだと言う。
https://youtu.be/5vnNnSR6ymk?si=tLghwPGY6uiMzBPv via @YouTube
債務と株式に力点を置いている時、彼はピントがずれている。いずれにせよ、彼がウクライナを訪問したのは、ある種の補償として所得の流列をウクライナが米国に支払うことを要求するためだった。ケインズを読むべし。それこそがヴェルサイユの誤りの核心だった。
連動対象の成長の相対価値とウクライナの通常債務を良く見てみると、ベッセントの取引はウクライナ経済にとって悪いものだという見方が支持される。

3/3ツイート

After the events of Friday afternoon in the Oval Office, I wonder if Treasury Secretary Bessent stands by his view that President Trump should receive a Nobel Prize for his efforts with respect to Russia and Ukraine. It might be the most absurd, offensive and sycophantic comment ever made by a Treasury Secretary.
A responsible Treasury Secretary would be trying to mobilize resources for Ukraine, rather than extracting compensation from Ukraine.
(拙訳)
オーバルオフィスでの金曜午後の出来事の後、ロシアとウクライナの件に関する貢献でトランプ大統領はノーベル賞を受賞すべきである、という自身の見解をベッセント財務長官は維持するのだろうか、と思う。これはこれまで財務長官が出した中で最も馬鹿げていて不愉快なお追従のコメントである。
責任のある財務長官ならば、ウクライナから補償を引き出そうとするのではなく、ウクライナのために資源を動員しようとするだろう。

自身がかつて務めた財務長官の座をベッセントによって汚されたように感じているのかもしれない。

2つの驚くほど馬鹿な考え

と題したエントリ(原題は「Two Amazingly Stupid Ideas」)をマンキューが上げている。

It is hard to tell which is worse:
The Trump administration may exclude government spending from GDP
Trump calls for creation of a ‘crypto strategic reserve’
Bad as these ideas are, neither is as dangerous and morally bankrupt as cozying up to the autocratic war criminal who is trying to violently annex his neighbor.
(拙訳)
どちらが悪いかを言うのは難しい:
トランプ政権はGDPから政府支出を除外か
トランプは「暗号通貨戦略準備」の創設を要求
これらの考えは悪しきものだが、どちらも、隣国を暴力的に併合しようとしている専制主義的な戦争犯罪人に擦り寄るほど危険で倫理的に破綻しているわけではない。

マンキューとウクライナ - himaginary’s diaryで紹介したエントリでマンキューは「今回の危機へのバイデン政権の対応についてはコメントしない。私には外交政策の専門知識はなく、関係するトレードオフの複雑さを完全に理解することは私の手に余ることは承知している。しかし我々の指導者が正しいことをする勇気と手段を持っていることを祈りたい。長い目で見て、人類のために。」と書いていたが、さすがにトランプの行動は目に余ったようである。

政策介入とコロナ禍の初期段階における中国の株式市場

というNBER論文が上がっている(ungated版)。原題は「Policy Interventions and China’s Stock Market in the Early Stages of the COVID-19 Pandemic」で、著者はSteven J. Davis(スタンフォード大)、Dingqian Liu(アメリカン大)、Xuguang Simon Sheng(同)、Yan Wang(同)。
以下はその要旨。

China’s stock market greatly outperformed other national markets during the first several months of the COVID-19 pandemic, and it did so even before it became evident that early containment efforts would flounder in the United States and many other countries. As to why, one view holds that aggressive monetary and credit easing propped up Chinese equity values. To assess this view, we consider several interventions that eased monetary and credit conditions in the first six months of 2020. Our analysis finds clear evidence that these interventions raised implied stock market volatility but little evidence that they influenced stock price levels. We also consider policy actions that restricted short selling, limited stock sales, and boosted stock purchases. These efforts to raise net equity demand were small in scale and highly time-limited, as we discuss, suggesting that any direct effects on stock prices were also modest. Neither our study nor other work known to us provides a ready explanation for the extraordinary performance of China’s stock market in the first half of 2020. This performance is even more striking in hindsight, given later developments in China’s economy and stock market.
(拙訳)
中国の株式市場は、コロナ禍の最初の数か月において他国市場を大きく上回り、それは、米国や他の多くの国が初期の封じ込めに四苦八苦することが明らかになる前に既にそうであった。その理由については、積極的な金融と信用の緩和が中国の株式価値を支えた、というのが一つの見方である。この見解を評価するため、我々は2020年の最初の6か月において金融と信用の状況を緩和した幾つかの介入を検討した。我々の分析は、それらの介入が株式市場のインプライドボラティリティを上昇させたという明確な証拠を見い出したが、株価水準に影響したという証拠はほぼ見い出さなかった。我々はまた、空売りの制限、株式売却の制限、株式購入の促進を行った政策措置を検討した。純株式需要を高めようとしたそれらの措置は、我々が論じるように規模が小さく、時間の制約が極めて大きいため、株価への直接的な影響はやはり小さいことが示唆される。我々の研究、もしくは我々の知る他の研究のいずれも、2020年前半における中国株式市場の非常な好成績をすぐに説明することができない。この好成績は、その後の中国経済と株式市場に基づく後知恵からすると一層驚くべきものである。

以下は論文の図。

この図を見ると金融政策措置が株価を押し上げたようにも見えるが、論文ではイベントスタディを基にその効果を否定している。素人目にはイベントスタディが対象とするような短い時間スパンではなく、時間を掛けながら政策効果が浸透していったように見えなくもない。
なお、コロナ禍の封じ込めに比較的成功したことが株価に寄与したという見方もできるが、これについて論文では、同様に封じ込めに比較的成功した韓国の株価が2月17日から3月23日に掛けてほぼ半値になったことを反証に挙げている。ただ、「2020年のアジア株式市場の振り返りと見通し 新型コロナの影響により回復力に格差が生じたアジア株式市場 | 三井住友DSアセットマネジメント」に掲載されている以下の図を見ると、その後韓国株価は盛り返して中国株価と概ね同様の経路を辿っているので、一時的な暴落の差に過ぎないようにも見える。

金融政策当局者にとって使えるマクロ経済理論の発展する中核

というシカゴ連銀論文ã‚’Mostly Economicsが紹介している。原題は「The Evolving Core of Usable Macroeconomics for Policymakers」で、著者は同銀の Jonas D. M. Fisher、Bart Hobijn、Alessandro Villa。
以下はその要旨。

We provide a brief primer on how the core of usable macroeconomic theory for monetary policymakers has evolved over the past 50 years. Today’s policy discussions center on the New Keynesian (NK) synthesis, which builds on the Neoclassical growth model and the AS-AD framework. It incorporates nominal and real rigidities, financial and labor market frictions, the importance of expectations, and inspired terms used by policymakers such as “anchored inflation expectations” and “forward guidance.” While essential for communication during the Great Recession and Covid-19 pandemic, these events also revealed the NK model’s limitations. Newer models incorporating heterogeneous agents potentially offer richer policy insights but add complexity and the challenge of distilling their main policy implications going forward.
(拙訳)
我々は、金融政策当局者にとって使えるマクロ経済理論の中核が過去50年間にどのように発展してきたかについて、簡単な手引きを提供する。今日の政策論議は、新古典派成長モデルとAS-ADの枠組みを基礎とするニューケインジアン(NK)総合を中核としている。それは名目と実質の硬直性、金融市場と労働市場の摩擦、予想の重要性を織り込んでおり、それを受けて「アンカーされたインフレ予想」や「フォワードガイダンス」といった言葉を政策当局者が用いるようになった。大不況やコロナ禍におけるコミュニケーションでは基本的なものとなったが、それらの事象はNKモデルの限界も明らかにした。不均一主体を織り込んだより新しいモデルは、政策へのより豊かな洞察を提供する可能性があるが、複雑性と、主要な政策的含意を引き出す難しさを増す可能性もある。

以下はFOMCで使われる用語の推移と、関連するトピックならびに研究を示した論文の図。

1980年代半ばまではマネタリズムが主たるパラダイムであり、それは固定された垂直に近い総供給(AS)曲線に沿って総需要(AD)曲線がシフトするという考え方に基づいていたが、キッドランド=プレスコット(1977)(KP)は、AS曲線は固定されておらず、中央銀行の信認に左右されると論じた。KPは、裁量よりもルールに基づく政策が良いことを示し、インフレ目標の採用(1989年のニュージーランと2012年のFRB)につながった。また、信認も1970年代後半から1980年代初めにかけての高インフレ期に繰り返し言及されるようになり、グリーンスパンが議長に就任した後、ならびに合理的期待が経済の主流の一部になるにつれ、その傾向はさらに顕著になった。
インフレ予想は、KPの議論の中核であったものの、ニューケインジアンモデルが生み出された1990年代初めまであまり言及されることがなかった。ニューケインジアンモデルは、合理的期待を初めてDSGEに組み込んだRBCモデル(キッドランド=プレスコット、1982)が、名目硬直性のモデル、就中カルボ(1983)などの粘着的な価格のモデルと組み合わさって生み出された。
ニューケインジアンモデルの中核は、AS曲線、政策ルール、AD曲線に相当する3本の方程式から構成されている。AS曲線に相当するのはニューケインジアンフィリップス曲線(NKPC)、政策ルールはテイラールール(1993)であり、AD曲線相当は消費のオイラー方程式から傾きと位置が決定される。
Gertler, Gali and Clarida(1999)はNK研究の初期のサーベイで、3方程式モデルを詳細に論じている。 Woodford(2003)はNKモデルの参考書の決定版である。
Erceg, Henderson and Levin(2000)の拡張(資本と賃金の粘着性の追加)を経て、Christiano, Eichenbaum and Evans(2005)が拡張したNKモデルは、FRBを含む各国中銀の標準モデルとなり、シナリオ分析などに使われるようになった。FOMCの会議資料に取り入れられた代替シナリオ(Alternative Scenarios)などのシナリオ分析は、リスク管理への言及の高まりに対応したものだが、この分野においては理論が実務に遅れを取っており、Evans et al.(2015)などの研究はあるものの、いまだ初期段階にある。

NKモデルが導入された1990年代半ば以降の幾つかの出来事で、NKモデルの3つの方程式の限界も明らかになった。
テイラールールは、中銀が名目金利をゼロより下にできないことを織り込んでいなかったが、日本のデフレはゼロ金利下限(Zero Lower Bound、ZLB)の問題を浮き彫りにし、クルーグマン(1998)は流動性の罠に陥る危険性を明らかにした。
エガートソン=ウッドフォード(2003)は、フォワードガイダンスを一つの解決策として提示した。2008年の金融危機時にFOMCはそれを採用し、1994年以降に公表されるようになったFOMCの会議後の声明は、そのためのコミュニケーションツールとして有用であった。
ただ、フォワードガイダンスの定量分析には問題があり、ベースラインのNKモデルにおける消費のオイラー方程式上は家計がかなりフォワードルッキングであるため、フォワードガイダンスの政策効果も強力なものとなった。そこからKaplan, Moll and Violante(2018)のHANKモデルなど、借り入れ制約により一部の家計の消費や貯蓄が金利にあまり反応せず、手持ちの流動性資産の量に依存するモデルが開発された。
フォワードガイダンス以外のZLBへの対策としては、量的緩和(QE)があった。世界金融危機後、FRBを始めとする中銀はQEを実施した。しかしこれにも理論上の問題があり、ベースラインのNKモデルでは、政策ルールとフォワードガイダンス以外では長期金利に中銀が影響を及ぼせないはずであった。そのため、Gertler and Karadi(2013)のような、そうした直接的なリンクが壊れており、QEが伝統的な金融政策を超えた影響を及ぼせるモデルが開発された。
2020年以降の関心は、低インフレと流動性の罠から、コロナ禍後のインフレの急上昇と急低下の説明に移った。研究者は、需給間の新たな相互作用の追究や、非線形性のミクロ的基礎付けによるNKPCの再検討(Harding, Lindé and Trabandt, 2023)を行っている。こうした研究はまだ揺籃期にあるが、金融政策当局者にとって使えるマクロ経済理論の中核の発展の次の段階の重要な一部になると思われる。

一時的な現金給付はマクロ経済を刺激するか? 4つのケーススタディの実証結果

というNBER論文が上がっている(ungated版へのリンクがある著者のページ)。原題は「Do Temporary Cash Transfers Stimulate the Macroeconomy? Evidence from Four Case Studies」で、著者はValerie A. Ramey(スタンフォード大)。

This paper re-evaluates the effectiveness of temporary transfers in stimulating the macroeconomy using evidence from four case studies. The rebirth of Keynesian stabilization policy has lingering costs in terms of higher debt paths, so it is important to assess the benefits of these policies. In each case study, I analyze whether the behavior of the aggregate data is consistent with the transfers providing an effective stimulus. Two of the case studies are reviews of evidence from my recent work on the 2001 and 2008 U.S. tax rebates. The other two case studies are new analyses of temporary transfers in Singapore and Australia. In all four instances, the evidence suggests that temporary cash transfers to households likely provided little or no stimulus to the macroeconomy.
(拙訳)
本稿は、4つのケーススタディの実証結果を用いて、一時的な所得移転がマクロ経済を刺激する効果を再評価した。ケインズ的な安定化政策の復活は、債務経路の上昇という後に残るコストをもたらすため、そうした政策の便益を評価することは重要である。各ケーススタディについて私は、所得移転が効果的な刺激をもたらした、ということとマクロデータの推移が整合的であったかどうかを分析した。ケーススタディのうち2つは、2001年と2008年の戻し減税についての私の最近の研究*1における実証結果の総説である。他の2つのケーススタディはシンガポールとオーストラリアにおける一時的な所得移転についての新たな分析である。4つの事例すべてにおいて、実証結果が示すところによれば、一時的な家計への現金給付はマクロ経済に刺激をあまり、もしくはまったくもたらさなかった可能性が高い。

この論文は昨年11月14-15日のIMFの25回目のジャック・ポラック(Jacques Polak*2)コンファレンス「Rethinking the Policy Toolkit in a Turbulent Global Economy」におけるマンデル=フレミング講演に基づくもので、IMF Economic Reviewに掲載予定とのこと。

結論部では、税制変更による大きな乗数効果を見い出したローマー=ローマー(2010*3)などの研究と自分の結果は矛盾するものではない、と指摘している。というのは、自分の研究は一括の所得移転を対象にしているのに対し、それらの研究は歪んだ税制の変更を対象にしているから、とのことである。Rameyは、Axelle FerriereとGaston Navarroの最近の研究を引きながら、税制の歪みを拡大するような財政再建はGDPの観点から高く付くかもしれない、と警告している。
また、今回の結果の一般性については、自分のケーススタディは先進国が対象だったので低中所得国にはそのまま当てはまらないかもしれないが、そこで取り上げたのと同様の問題は他の経済や他の状況でも影響するだろう、と述べている。そのほか、コロナ禍は特殊な状況なのでケーススタディの対象にしなかった、と断っている*4。

*1:マクロの反実仮想を用いた尤もらしさの評価:2001年の戻し減税の限界消費性向を用いた説明 - himaginary’s diaryで紹介した論文(Economic Journal掲載予定)と、そのエントリでリンクした2008年の戻し減税を分析した論文(掲載版=Micro MPCs and Macro Counterfactuals: The Case of the 2008 Rebates* | The Quarterly Journal of Economics | Oxford Academic)。

*2:Jacques J. Polak - Wikipedia。

*3:cf. これ。

*4:コロナ禍支援はどの程度効果的だったのか? - himaginary’s diaryで紹介した論文ではRameyの研究も参照されていたが。