靖国神社と昭和天皇に関する高橋哲哉教授のコラムです。
去年の8月、日本経済新聞が報じた富田メモに対して「捏造だ~!」という
キイキイ声が、東京裁判を否定したい人たちを中心にあがったことは記憶に新しいところですね。でも東京裁判って、アメリカによる日本の占領政策をうまく進めるうえで“政治的に”うまいことまとめたものだったのに、それを否定したがる人たちって、そのへんのゴタゴタをまとめて受け入れる覚悟はあるのかな。
それではハンギョレの12月2日の記事です。どうぞ。
ヒロヒトが東京裁判を喜んだ理由は/高橋哲哉
久しぶりに靖国問題の話から始めたい。“始めたい”という表現を使ったのは、事案が一介の神社の問題で終わるものではなく、“戦後日本”全体に関する問題になりつつあるからだ。いわゆる“富田メモ”については既にこのコラムで扱った(2006年8月8日付)。1988年当時、富田朝彦宮内庁長官が昭和(裕仁)天皇の非公式発言を書き留めたメモのことだ。このメモには太平洋戦争を主導した東条英機など“A級戦犯”の靖国神社合祀に強い不快感を抱いた昭和天皇が、1975年を最後に靖国参拝を中断したという内容が書かれている。
日本の右派や靖国派の論客たちは、このメモが事実であれば自分たちの立場が大幅に狭まるため、メモの捏造説まで持ち出してその証拠能力をどうにかして否定しようと試みた。ところがその後、富田メモの内容と合致する様々な資料が公表された。昭和天皇の侍従を務めた卜部亮吾の日記や、昭和天皇に和歌を教えていた岡野弘彦の著書で紹介された徳川喜弘元侍従長の発言がそれだ。いかに右派でも、もうそれを否定することは難しくなったと言えるだろう。
ところで、ここに天皇自身に関連する奥深い問題が潜んでいるという点を見逃してはならない。日本の右派や靖国派、特に東京裁判(極東国際軍事裁判)否定論者が決して取り上げないある事実がある。昭和天皇が東京裁判の結果に感謝したという事実だ。1951年4月15日、占領軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥と昭和天皇の最後の会談(11回目)が開かれた際に、天皇はマッカーサーにこのように述べた。「戦争裁判に関して司令官がとられた態度に対し、この機会に謝意を表したい」マッカーサーの答えはこうだ。「ワシントンから天皇裁判についての意見を問われたが、もちろん反対した」このような対話内容は、会談で昭和天皇の通訳を務めた外交官、松井明の手記で明らかになったものだ。(『朝日新聞』2002年8月5日付報道)
それならばなぜ昭和天皇は東京裁判の結果に感謝したのだろうか?東京裁判の最大の政治的焦点は、昭和天皇が戦犯として起訴されるのかということだった。アメリカの世論やオーストラリアなど他の連合国の訴追論を抑え、天皇不起訴を決定したのは、占領統治や親米政権確立のために天皇を利用しようと考えたアメリカ政府だった。東京裁判はこのような意味で、A級戦犯にすべての責任を負わせ、天皇に免罪符を与えた裁判だったと言える。
これは、日本政府以上に天皇自身にとっても至上命令だった“国体護持”(国体である天皇を守るという意味)が達成されたということを意味する。もし昭和天皇が訴追されていたら、天皇の地位にとどまることはできなかったであろうし、天皇制自体がどうなっていたかも分からない。天皇制を最大の危機から救ったのが実は東京裁判だった。そのため、昭和天皇がアメリカ政府やマッカーサー元帥に感謝の気持ちを持っていたのは当然のことだ。
ところで、そのような昭和天皇に靖国のA級戦犯合祀はどのように映ったのだろうか?天皇制を救い、“戦後日本”がアメリカの庇護の下で象徴天皇制国家として“首尾よく”出発できるようにしてくれた東京裁判に対する公然とした挑戦に見えたのではないだろうか?ここに昭和天皇の不快感と参拝中止の本質的な理由がある。昭和天皇にとって東京裁判の結果を覆すことは、認めることができないことだ。“天皇の神社”と称された靖国は、こうして巨大な自己矛盾を抱えることになったのだ。
高橋哲哉/東京大学教授・哲学
(ハンギョレ2007年12月2日)