このごろ読んだ小説 コルタサル、トルストイ、ドストエフスキー

このごろなんか短編小説を読む感じになっているので、いくらか読んだ。夏なので一つ一つを記事にするパワーがない。まとめてメモしておく。

 

『遊戯の終わり』コルタサル

 

なにやらガルシア=マルケスの『百年の孤独』が流行っているらしいが、おれは大昔に読んだのでいいや。でも、おれは勝手に南米文学のマジック・リアリズムから大きな影響を受けたと思っているので、またちょっと読んでみるかとコルタサル。

あるホテルで夜な夜な赤ん坊の泣き声が聴こえてくる「いまいましいドア」。あるコンサートでの狂乱を描く「バッカスの巫女たち」。そして、生きている人間が自分の生まれ変わりを見つける「黄色い花」。自分と水槽の中の山椒魚の境界が崩れていく「山椒魚」。

おれは「黄色い花」がよくて、自分の生まれ変わりを見つけたと主張する男が、これにより人間の不死を説くところがよかった。これはオーギュスト・ブランキの『天体による永遠』を思い浮かべた。自分のバリエーションが宇宙に存在し続けることによって、人間は不死で永遠なんだ。

コルタサルを読むのは初めてだったが、マジックさよりもリアルが強いというか、もちろん幻想の世界が繰り広げられることもあるんだが、突飛さはひかえめなタイプかと思った。それがベルギー生まれでいったん戻ったけどまたフランスで暮らしたとかいう経歴と関係あるかどうかとかは知らない。

『天体による永遠』ルイ・オーギュスト・ブランキ - 関内関外日記

 

「悪魔」トルストイ

 

 

短い方の「悪魔」だけ読んだ。若くて人々から信頼される好人物である主人公。傾きかけた領地を受け継ぎ、その経営に勤しむ。そんななかで、健康のために、領地のなかの美しい人妻を人を通じて遊び相手として買う。やがて、若い妻を娶り、妻は妊娠。幸せな新婚生活……と、思っていたら、かつて関係を持った人妻が屋敷のお手伝いとして登場。主人公はまたその魅力に心かき乱されて……。関係を持とうとするところの二歩、三歩手前くらいで踏みとどまる。人に頼んで「金は出すからあの夫婦をどこかべつの場所へ引っ越させられないか」みたいなことすらする。

それなのに、そういう思いが芽生えてしまった自分の心に絶望する。ここがすごい。ちょっと目が合ったり、話したりしたくらいだ。それなのに、結局、主人公は妻を殺して人妻を選ぶか、人妻を殺して妻を選ぶかというところに追い詰められる。追い詰められて、第三の道を見つける。自分が死ねばいい。主人公は死ぬ。

これはトルストイの性に対する強烈な純潔主義のあらわれのようだ。この主人公など、まさに、聖書にある「姦淫したいと心の中で思ったときにはッ!、その時スデに行動は終わっているんだッ!」というプロシュート兄貴の言葉そのままだ。偶然たくし上げられたスカートから脚を見たくらいだ。

ちなみにトルストイは姦淫などするべきではないと第一に考え、どうしても無理なら一夫一妻制ならいい、というくらいであったという。トルストイ自身は子沢山で、若い頃は放蕩していた。

 

「地下室の手記」「ぼた雪によせて」ドストエフスキー

 

翻訳者が「こんなやつどうやって訳したらいいのか困った」みたいなことを書いていた。この人はエロフェーエフの『酔いどれ列車』も訳している人。なやんで一人称を「俺」にしたという。

「俺」はいかにもどうしようもなくしょうもないやつで、しょうもないやつさが光る。英雄でも大悪人でも、こういうしょうもないやつをドストエフスキーより前に小説にした人間がいたのかどうか知らないが、しょうもないやつをえぐり出すように描いていてしびれる。

しかしなんだろう、おれも小学生のころ、「呼ばれてもいないお誕生会に、呼ばれていないことを悟りつつも、意地で参加してしまう」というトラウマがあるので、この主人公の行動には嫌な汗が出る。

あと、あれだな、風俗で説教するおっさんというのもこの時代にいたのか、時代を越えるのかという感想も抱いた。が、なんか説教するつもりでいて、いきなり自分が泣きわめくモードに入るあたりのしょうもない感じもいい。

ドストエフスキーはやっぱり挑んでおかなきゃいけないだろうと、『死霊』だか『悪霊

』だかを読んでそれっきりだったが、ドストエフスキーのエッセンスが詰まったような「地下室の手記」読んで、またちょっと興味が湧いた。とはいえ、ドストエフスキーの長編に挑むには、しばらく小説というものを読んでいなかった衰えからのリハビリが必要であろう。

ドストエフスキーの『悪霊』で打順組んでみた。 - 関内関外日記

ソ連・地下出版のベストセラー酒クズ小説『酔いどれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行』を読む - 関内関外日記

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