同人誌と表現を考えるシンポジウム――論点整理のために

 豊島公会堂で開催された「同人誌と表現を考えるシンポジウム」に参加。

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 第一部「今,どうなっているのか? 〜現場からの発言〜」では,即売会を運営する側(各準備会)と商業流通に携わる者(とらのあな+メロンブックス)から,わいせつ性の強い同人誌を頒布することに関してどのような運用がなされているのか,実態の紹介があった。こちらについては,即売会という場を設定する運営者からクリエイターへ向けての情報提供がなされていた。この点,対内的コンセンサスの形成に寄与するものではあったが,これまで積極的な対外的アピールをする姿勢に欠けていたことはパネラー達,とりわけ永山薫氏(id:pecorin911:20070521:1179764392)からも指摘されていた通りであろう。
 続く第二部での「どうすべきなのか 〜有識者討論〜」であるが,もどかしさを感じるものであった。松文館事件の被告人側弁護士である望月克也氏からは,チャタレー事件最高裁判決を引用してわいせつ性にかかる司法判断の枠組みについて簡単ながら述べられていたものの,その意味するところを司会の坂田文彦氏(ガタケット事務局)らが理解できておらず,焦点のボケた流れになってしまっていた。

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 望月弁護士からは刑法175条に該当する猥褻物の判断につき「一般社会において行われている良識すなわち社会通念」によって判断がなされていることについて触れるくだりがあった。

ところが,司会者はそこから話を児童ポルノ規制へと繋げ,児童であるか否かの判断基準が18歳であることの当否へと移してしまった(坂田氏の言では,どの年齢で成人と児童を区切るのかというところで「社会通念」を用いていた)。これは幾つかの論点を混濁させてしまっているものであり,シンポジウムの進行としては不適切であったと思う。つまり,「青少年がポルノ性を有する表現物に接触すること」と「表現物の中で青少年が性的行為に関わっていること」とは分けられて然るべきであろう。
 ポルノ規制は憲法学や行政法学では基礎的な問題であるけれども,今回のパネラーには法律家が一人しか含まれておらず,しかも事件に携わった弁護士という立場であったので,上記のような議論の流れを抽象化して整理できていなかったことが惜しまれる。

 司会者が「同人誌文化は素晴らしいものであり、安易に規制してはならない」という素朴な信仰に支えられているため、議論が広がらなかった恨みが残る。

http://d.hatena.ne.jp/yskszk/20070519#p1

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 では,「青少年がポルノ性を有する表現物に接触すること」については,どのような観点から論じられるべきであろうか。
 シンポジウムの中では斎藤環氏(精神科医)にコメントを求めていたが,引き出された返答は予想された通りのものであり,児童がポルノに接触したとしても性犯罪を引き起こすわけではない――というものであった。この議論の組み立ては,森昭雄『ゲーム脳の恐怖』をめぐるそれと同じである。

 しかしここで思い起こされるべきは,『ゲーム脳』に対しての理性的な反論が親たちには届かなかったという現実ではないだろうか。すなわち,ポルノ規制をめぐる議論においては親たちの持つ曖昧な不安を抜きにして論じることはできない。
 伊藤剛氏(id:goito-mineral:20070512:1178922782)が繰り返し「調整」という言葉を用いて発言していたが,その内容についてまで検討は及んでいなかった。これについて私から議論を提起してみようと思う。
 先に挙げたチャタレー事件とは「表現の自由」と「芸術性」とが衝突を起こしていた。その後の四畳半襖の下張事件(最高裁第二小法廷判決・昭和55年11月28日・刑集第34巻6号433頁)は「表現の自由」と「思想性」とが衝突している。*1

 ここで「バーチャル社会のもたらす弊害から子供を守る研究会」が提起した問題を捉え直してみよう。これは,同人誌を介した「表現の自由」と親が持つ「子女に教育を受けさせる権利」とが衝突したものではないだろうか。すなわち,親がその保護する子供に何を与えるか(換言すれば,子供を何から遠ざけるか)は親の持つ権限なのであって,その表現物が有する猥褻性・有害性は副次的なレヴェルに後退する論点なのである。
 今回のシンポジウムは即売会主宰者が中心であったということが影響して,同人誌における表現の自由を如何に護るかに主眼が置かれていた。それ故,クリエイターに対してコンセンサスを得るという構図になってしまったのは否めない(そのこと自体は有益であったと思う)。だが,今回の問題に関して言うならば,説得すべき相手は「親」であることを意識しておかねばなるまい。

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 ここで,研究会の名称に「バーチャル社会」という文言が入っていることを再確認しておく必要がある。すなわち,同人誌の頒布に関しては即売会という場をモデルにした理念系では擁護論を構築し切れていないことを実態の指摘として捉えねばならないだろう。
 思うに,ポルノ(わいせつ表現)に関しては(1)実体的問題と(2)手続的問題とがある。市川孝一氏(コミケット準備会)や武川優氏(日本同人誌印刷業組合)は,実態報告として黒塗り・消し・モザイクなどについて述べたが,これらは主に実体的問題についてのものであって,何が刑法175条にいう猥褻物に該当するかについての話題に留まるものである。
 シンポジウムにおける討論では,即売会における対面頒布を念頭に置いていたため,ポルノに関わる手続的問題(流通プロセス)への配慮が欠けていたように感じた。
 この点につき「虎の穴」や「メロンブックス」の代表者からは,自主的に内容審査をしていることや売り場のゾーニングを試みていることが述べられていた。だが,即売会における頒布者を代理している(クリエイターから作品をお預かりしている)という意識があまりにも強いため,流通過程における独自の役割を期待されているにも関わらずそれに応えられていないように見受けられた。
 《漫画のわいせつ性》や《児童ポルノ,チャイルド・アビューズ》も関連する問題ではあるが,表現の自由そのものをめぐる話題であって,利害の「調整」は馴染みにくい。それに対して《18禁》は「調整」の余地が多分にある。青少年保護育成条例が多くの都道府県で定められている以上,そこで求められている配慮を尽くすことは送り出す側の責務であろう。親の保護下にある青少年がポルノ性を含む同人誌・同人ゲームに対して接触しにくい状態(=システム)を用意することが,検討課題ではないだろうか。*2
 シンポジウムの中では「コンセンサス」というのが繰り返し持ち出されていたのだが,ガバナンスの問題として見た場合には不十分と言わざるを得ない。例えば企業が不祥事に問われた場合,いくら「がんばってきました」と弁解してもダメで,問題の発生を未然に予防するための制度(システム)を構築し運用してきたのかどうかが責任問題を判断する際の指標となる。
 シンポジウムの第一部において語られていた性表現に関する内部的ガイドラインにしても,刑法175条にかかる猥褻物についての判断基準に過ぎない。これを“マナー”の問題として捉えた場合には,より広範な配慮が検討の対象となるのだという認識が弱いように思われる。即売会の会場内では配置(ゾーニング)で対処される問題に留まるかもしれないが,司法判断では「性行為の非公然性の原則」というものが登場したこともある。商業流通(さらにはネット経由での頒布)においては,表紙において性行為を描いたり乳房を露出させていることで目に付きやすい状態にしていることの是非も考慮の余地があるところだろう。

 今回はあくまで18禁への自主規制の取組を問われている。18禁何とかせい、との警察の問いかけに、「ワイセツの自主規制しっかりやってます」では、厳密に言うと話がズレているような気がする。
 18禁についての取組を語るべきなのに、ワイセツに話が摩り替わっている。

http://blog.livedoor.jp/analstrike/archives/50797747.html

 ポルノ性のある表現物へ子供が接触することを「親」が嫌っている場合,性表現に対する態度(信条)もまた尊重されるべきものであることを相手側当事者として認めなければなるまい。クリエイターの側においても,かかる信条に対して配慮していることを具体的な形で示さなければ,表現の自由を振りかざすだけに終わってしまう。松文館事件の敗訴が教えるように,表現の自由といえども絶対的価値ではない。
 まずは同人誌の送り手における対内的コンセンサスを得ることが先決だとしても,その次には,対外的にも説得性を持つシステムとして構築する作業が課題となるのではないか。成年コミックが“黄色い楕円”という制度を導入したことから教訓を引き出しておきたいところだと思う。


▼ 関連資料

*1:余談であるが,松文館事件の弁護人主張を読んだとき,これまでに構築されてきた最高裁判例の枠組みに従う限り敗訴するであろうと私は感じた(事実,第一審も控訴審も有罪判決になっている)。それというのも,弁護人は『蜜室』の芸術性なり思想性について主張することをしていなかったからである。

*2:もっとも,同人活動は商業誌・美少女ゲーム・映画などと状況が異なり,統一的に取り組むことが難しいとの意見が出てくると思われる。そこでは,ISOの各種認証制度が参考になるのではなかろうか。任意団体を設立して《18禁》ガイドラインを策定し,当該ガイドラインに準拠していることを表示する,というのもアイデアである。利権が絡んできそうで不安であるけれども。