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動物園は哀しからずや

生まれて初めて、自分の意志で動物園に行ってみようと思った。
上野動物園の前を通り過ぎることたぶん数百回、中に入ったのは親戚の子を連れていった(つれていかれた?)のがただ一度あるだけ。生来、鳥獣虫魚の世界に縁無く、それを残念にも思っていなかった。ところが、ここ数ヶ月鳥類図の歴史を調べていて、描かれた鳥の美しさと多様さにすっかりトリつかれた。ぜひ本物を確かめてこなくてはと、このたびの宗旨変え。
とはいっても、獣虫魚までには関心は広がらないから、それらについて好奇心をもつにはあと3回くらいは生まれ変わってこなくてはいけないのだろう。

動物園は哀しからずや_a0023387_0124273.jpg池之端にある門からから入ってすぐ。セメントでできた記念碑でもあるのかと思ったら、生きた鳥だった。ハシビロコウ(右・写真)。体長は1メートルを超える大きな鳥、全く動かない。騒がしき人間どもの嬌声をものともせずあたりを払う堂々としたその様は威容というに値する。
彼はこうして日がな身じろぎもせずその生を送っているようにみえるが、実は、アフリカの平原にいたときには、池を前にして好物のライギョの影を追って、走りもし、飛びもしたのであるらしい。永遠にライギョが現れることのない小さな人工池を前に彼は、アフリカの太陽と水と空とそして好物のライギョを懐かしんでいるにちがいない。

僕は、そもそも動物園に鳥がこんなにたくさん飼われているということさえ知らなかった。だいたいパンダとサルとゾウとライオンがいるところだと思っていた。日本の野鳥や水禽から外国産のタカやワシまでとても半日くらいでは見切れないほど。
しかし、次々と見ていくうちにこれらの飼われた鳥たちがどんどんかわいそうになってきた。モズはオリの隅にうずくまって飛び立つこともしない。毎年数千キロの旅をする渡り鳥たちは、数メートルのオリの中を網にぶつからないようにわずかに飛ぶばかり。ワシもタカも岩にじっとすがりつくように止まっている。
鳥ではないが、ミーアキャットという小動物も見た。彼らは、伸びをするように二本足ですっくと立ち上がっては、永遠にやってくることのない天敵を見張るために四角い空を見上げている。

そう、もちろん、動物園のあるおかげでこんなに珍しい動物たちとこんなに簡単に出会うことができたのだけれど、彼らの生き方をこんなに変えてしまうのはなんと酷いことだろう、とも思うのだ。
しかし、翻って考えてみれば、この哀しさは動物園に飼われた動物によりもいっそう、僕ら人間にこそあてはまるのかもしれない。地上に現れて以来、数百万年という途方もない時間を自然の中で暮らしていたのに、今では、狭いコンクリートの建物の中に閉じ込められ、夏はクーラー無くしては生きることもできない。実体無きカネの幻に頭を占領され数字の魔力にひれ伏している。
現代社会という「動物園」に飼われて、生きる意味を忘れてしまった哀しい動物。僕は動物園に行って、自分を見ることになるとは思いもよらなかった。動物園は哀しからずや。
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