善き”女”のためのソナタ、が必要だ
映画「善き人のためのソナタ」に登場する人物の中で、どうしても納得がいかない、感情移入ができない、好きになれない、人物がいる。劇作家ドライマンの恋人でもある女優クリスタだ。
彼女は、違法な薬物を入手していたために逮捕・尋問されるのだが、自分の女優生命が絶たれしまうことを恐れて、いともあっさりとドライマンの秘密をシュタージに漏らしてしまう。その証言をもとにドライマンのアパートの家宅捜索が行われるや罪の意識から、走る自動車に飛び込んで死んでしまう。
なぜ、彼女は恋人を裏切ってまで女優として生き残ることを望んだのか、そんな背信が女優としてどころか人間としての尊厳を逆に決定的に断ち切ってしまうだろうということがなぜ理解できないのか、なぜ唾棄すべき権力者と寝てまでも女優でありつづけたいと思うのか、次々とわく疑問に対して、映画は彼女を一人の人間として十分に描く努力をしていないから、それは彼女が人間として弱かったからだ、もしくはもっと一般化して、女は弱いものだ、という紋切り型の偏見を観客に忍び込ませることになる。
「大尉」と呼ばれるシュタージの男をはじめ、「劇作家」や「老演出家」や反体制的な数多くの人たち、さらにはシュタージの長官と部長などの醜い権力者たちまでもが、良し悪しは別にしてもそれにふさわしい個性と思想をもった人物として描かれているのに、クリスタには主要な登場人物でありながら薄っぺらな人物像しか与えられていないことには驚くばかりだ。
この映画は男性の登場人物には気を使うが、女性のそれにはきわめて冷淡だ。男性には論理と目標があるが、女性には弱さとその場の感情しかない、と言わんばかり。さらに、この映画で死をもって終わるのは、男性は老演出家一人、女性はクリスタ一人、ともに自殺。老演出家はその節を曲げない気骨をもってその死を飾られているが、クリスタの死には何ほどかの意味が与えられているだろうか。その上、あの醜いシュタージ長官ですら壁崩壊後も生き残っているのであってみれば、これではクリスタは死んでも死にきれまい。
この映画の中に登場する少なくとも何ほどかの言葉を話す女性はクリスタのほかに2人。1人は劇作家のアパートの向かいの部屋に住む老婦人。劇作家のアパートに盗聴装置をつけている現場をみてしまった彼女は、口封じを命じられるといわれるがままそれを守るだけだ。もう一人は「大尉」に呼ばれてセックスするコールガール。いっさいの感情ぬきに、時間どおり「仕事」を終えてまた次の「仕事」にむかう、まるで性の機械のような女性。
クリスタはいったいどんな「違法」な薬物を飲んでいたのだろう? なんのためにその薬物を飲んでいたのだろう? 彼女の国民的な人気はどのようにして形づくられたのだろう、それにはどんなきっかけがあったのだろう?
向かいの部屋に住む老婦人が、たまたま劇作家のネクタイを結ぶときに、彼女は何かしらの合図を送ることはできなかったのだろうか? コールガールこそあらゆる男たちのそれこそ「秘密」をたくさん知っているのではなかろうか、その秘密は映画の中で有効に使うことはできなかったのだろうか?
そういうところからでも彼女たちの人間像をもっとこまやかに描くことができたはずだ。そうすれば、彼女たちにも男性たちが行ったような権力に対する抵抗の機会を、同じように与えることができたにちがいない。
映画の中にブレヒトを引用している映画監督が、ブレヒトがかかわった唯一の映画『死刑執行人もまた死す』(監督フリッツ・ラング 1943年)を知らなかったはずがない。プラハを舞台にナチの占領支配に対する痛烈な批判を展開するこの映画の中で、権力に屈しない女性たちがことごとく魅力ある人物として描かれていたことを思い出せば、この映画はそれとは好対照だ。
楽譜「善き人のためのソナタ」は男性から男性へと手渡され、受け取った男性がくれた男性のために演奏し、それをまた別の男性が聞く。回想録『善き人のためのソナタ』は男性によって書かれ、男性に捧げられる。見事なまでにこの円環から 女性は排除されている。
この映画は、女性を弱々しく、愚かな存在とみなし、人間的な厚みを与える手間さえ惜しんでいるようにみえる。女性たちの人間像がもっと生き生きと描かれていれば、彼女たちの苦悩に僕ら観客は深い共感をもつことができただろうし、なにより権力の恐怖と横暴と愚劣さがもっとあざやかに僕らに示されただろうに。
彼女は、違法な薬物を入手していたために逮捕・尋問されるのだが、自分の女優生命が絶たれしまうことを恐れて、いともあっさりとドライマンの秘密をシュタージに漏らしてしまう。その証言をもとにドライマンのアパートの家宅捜索が行われるや罪の意識から、走る自動車に飛び込んで死んでしまう。
なぜ、彼女は恋人を裏切ってまで女優として生き残ることを望んだのか、そんな背信が女優としてどころか人間としての尊厳を逆に決定的に断ち切ってしまうだろうということがなぜ理解できないのか、なぜ唾棄すべき権力者と寝てまでも女優でありつづけたいと思うのか、次々とわく疑問に対して、映画は彼女を一人の人間として十分に描く努力をしていないから、それは彼女が人間として弱かったからだ、もしくはもっと一般化して、女は弱いものだ、という紋切り型の偏見を観客に忍び込ませることになる。
「大尉」と呼ばれるシュタージの男をはじめ、「劇作家」や「老演出家」や反体制的な数多くの人たち、さらにはシュタージの長官と部長などの醜い権力者たちまでもが、良し悪しは別にしてもそれにふさわしい個性と思想をもった人物として描かれているのに、クリスタには主要な登場人物でありながら薄っぺらな人物像しか与えられていないことには驚くばかりだ。
この映画は男性の登場人物には気を使うが、女性のそれにはきわめて冷淡だ。男性には論理と目標があるが、女性には弱さとその場の感情しかない、と言わんばかり。さらに、この映画で死をもって終わるのは、男性は老演出家一人、女性はクリスタ一人、ともに自殺。老演出家はその節を曲げない気骨をもってその死を飾られているが、クリスタの死には何ほどかの意味が与えられているだろうか。その上、あの醜いシュタージ長官ですら壁崩壊後も生き残っているのであってみれば、これではクリスタは死んでも死にきれまい。
この映画の中に登場する少なくとも何ほどかの言葉を話す女性はクリスタのほかに2人。1人は劇作家のアパートの向かいの部屋に住む老婦人。劇作家のアパートに盗聴装置をつけている現場をみてしまった彼女は、口封じを命じられるといわれるがままそれを守るだけだ。もう一人は「大尉」に呼ばれてセックスするコールガール。いっさいの感情ぬきに、時間どおり「仕事」を終えてまた次の「仕事」にむかう、まるで性の機械のような女性。
クリスタはいったいどんな「違法」な薬物を飲んでいたのだろう? なんのためにその薬物を飲んでいたのだろう? 彼女の国民的な人気はどのようにして形づくられたのだろう、それにはどんなきっかけがあったのだろう?
向かいの部屋に住む老婦人が、たまたま劇作家のネクタイを結ぶときに、彼女は何かしらの合図を送ることはできなかったのだろうか? コールガールこそあらゆる男たちのそれこそ「秘密」をたくさん知っているのではなかろうか、その秘密は映画の中で有効に使うことはできなかったのだろうか?
そういうところからでも彼女たちの人間像をもっとこまやかに描くことができたはずだ。そうすれば、彼女たちにも男性たちが行ったような権力に対する抵抗の機会を、同じように与えることができたにちがいない。
映画の中にブレヒトを引用している映画監督が、ブレヒトがかかわった唯一の映画『死刑執行人もまた死す』(監督フリッツ・ラング 1943年)を知らなかったはずがない。プラハを舞台にナチの占領支配に対する痛烈な批判を展開するこの映画の中で、権力に屈しない女性たちがことごとく魅力ある人物として描かれていたことを思い出せば、この映画はそれとは好対照だ。
楽譜「善き人のためのソナタ」は男性から男性へと手渡され、受け取った男性がくれた男性のために演奏し、それをまた別の男性が聞く。回想録『善き人のためのソナタ』は男性によって書かれ、男性に捧げられる。見事なまでにこの円環から 女性は排除されている。
この映画は、女性を弱々しく、愚かな存在とみなし、人間的な厚みを与える手間さえ惜しんでいるようにみえる。女性たちの人間像がもっと生き生きと描かれていれば、彼女たちの苦悩に僕ら観客は深い共感をもつことができただろうし、なにより権力の恐怖と横暴と愚劣さがもっとあざやかに僕らに示されただろうに。
by espritlibre
| 2007-11-13 00:38
| L ブレヒト