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かくも独創的なイメージ ~ 石田徹也展を見る

かくも独創的なイメージ ~ 石田徹也展を見る_a0023387_13543592.jpg石田徹也(1973~2005)の展覧会が今、練馬区立美術館で開かれている。12月28日まで。東京で開催される初めての大規模個展だ。

僕は、石田の死後まもなくして出た『石田徹也遺作集』(求龍堂 2006年刊)を初めて見たときの驚きを忘れない。擬人化という言葉をもじれば、さまざまに”擬物化”された青年の、その深刻でもあり滑稽でもあるような状況のなかで、どこか遠くを見つめる、怯えたような、また、悲しそうな、また、絶望的でもあるような、うつろな目。青年の顔はすべてよく似ていて同一人物であるようだった。

今回僕はこの展覧会で、初めてその作品を直接見た。”衝撃”、のひとことだ。
石田の作品は、思ったよりずっと大きかった。だいたい1m×1.5mくらいという作品が多い。印刷では、どこかイラストレーションのように見えてしまう印象が拭えなかったが、実際の作品はまったくそうでない。会場に入って最初の作品を見たとたん、足が動かない、息が止まる、絵が飛び出してくる。

石田はリアリストだ。社会と現実を見る目は、研ぎ澄まされて隠されたものを暴いてしまわずににはいない。その手もまた徹底してリアリストの手だ。現実を写し取るために画面のすみずみまでその手を動かしつづけている。机の上に置かれた小さな消しゴムには、商品バーコードのみならずその下の数字まで写し取ってあるのだ。そうした写実を積み上げてできあがった画面はまったくこの世にあるべくもない世界。溢れてとどまることを知らない奔放なイメージの連鎖。

その上、この氾濫するイメージが、まったく独創的なのだ。石田の絵は、他の誰の絵にも似ていない。つまり、世界をこんな風に見た人は他にいない、ということだ。
絵画はメッセージではない。その絵画にたとえどんなに痛切で深刻なメッセージを読みとることができようとも、それがイメージとして自立していなければ(人を感動させることはないだろう。石田のイメージは独創的であるだけでなく、挑発的で、それでいて神秘的、見る者の心をゆさぶらずにはおかない。

すぐれた芸術が時代を写す鏡であるとしたら、石田の作品は僕らの時代を写す最もすぐれた鏡であると僕は思う。石田の作品を見た後では、現実はもう今までのそれとは違って見えてくる。現実は芸術を模倣する、のだ。
石田の掲げる鏡の反射は今を生きる僕たちの目を、心を強烈なまぶしさで射抜く。しかし光が強ければ強いほど影は濃い。光の後ろにたたずむ作者石田がその影に覆われていなかったとどうして言えるだろうか。
by espritlibre | 2008-11-18 05:05 | 美術
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