万物相和して性を謳う~一枚の春画から
まずは、右端の詞書から。「臘月 寒ごゑや てうど丁子のあふたどし (ろうげつ 寒声や ちょうど調子の合うた同士)」 十二月、寒中に屋外に出て大声で歌曲の猛訓練をしていると二人の調子がだんだんうまくあってきた、というくらいの意味だろう。描かれた少年と少女は、一方は音曲を謡い、一方は三味線を引く、ともに修行中の芸人なのだろう。ついさっきまで「寒声」の練習中だったわけだ。場所は、日も暮れかかった町屋の二階の物干し台。外は雪が積もっている。
写真ではよく見えないが、少女の左側の床の上と少年の足元にそれぞれ書き入れがある。それも読んでみよう。少女「おまへ 此のごろハ こへがわりがしたの」 最近あんた声変わりしたんじゃないの。 少年「きつい ごせんぎ(詮議)さ」 きびしいお取り調べだねぇ。
この書き入れの意味がよくわからないが、僕の解釈はこうだ。「いつまでも子どもだとおもっていたけれど、あんたも声変わりがするような年になって、もう一人前の男だね」 「姉さん、そんなこと面と向って言われるとはずかしいよ」
そうして思わずその言葉に乗るかのようにして、少年が左手で三味線を押しのけ右手は少女の胸のあたりにしなだれかかるようにあてて少女に身を寄せるや、少女はもっていたバチを置き、左手を少年の性器にあてがって自分のもとへと導いたわけだ。少女の三味線と少年の歌声の調子がさっきぴったり合ったことは、二人の心も体もまたぴったりと合体することの先がけだった。少年の右側に置かれた赤い火鉢の中で熱く燃える炭火とその上に置かれたチンチンと湯をたぎらせている土瓶が恋人たちの燃えるような性的興奮を暗示しているのは言うまでもない。
この交合は二人にとって初めての性的結合だったにちがいない。絵をよく見れば、軒先から見える外の風景は、恋人たちの空間が色刷りであるのに反して墨一色で描かれているのであるが、それは人の世界と区別された自然界を表しているのであるとしても、その暮れかかった空に二人の恋人たちと同調するかのように舞うニ羽の鳥おそらくは雁か鴛鴦(おしどり)、さらに雪をかぶった夫婦松はともに夫婦和合の、また左に見える鬼瓦は魔除招福の、それぞれシンボルになっているのだろう。こうして万物相和して、若い恋人達の初めての契りと幸福を寿ぎ願っているように思われる。それに答えるかのように、絵の中心では、二人のまだ幼げな白く細い手が、それでもしっかりと三味線の棹を握っているのであって、そのことは音曲の世界に生きようとする二人の将来を暗示するものになっているのではなかろうか。絵と文字が響き合い、人と自然とが一体となって万物交感するこの作品を僕は美しいと思う。
作品は、磯田湖龍斎『風流十二季の栄花』 (1773年刊) から「その十二」
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2011年5月7日 追記
この記事を書いたのはもう5年も前だが、最近になって、この作品を取り上げた本を読んだ。早川聞多(他)著『現代語訳 春画』(新人物往来社 2010年刊)。p.107-8。解説は短いので、その全文を引く。
<町家の二階の物干台で、若者が恋人の娘の三味線に合わせて寒声稽古の最中。娘が「お前、この頃声変わりしたね」と言ったのに対して、若者が「これはきびしいお訊ねだ」と応えていますが、なんだか変な応答です。おそらく若者は「心変わりしたね」と聞き間違えたものと思われます。そこで怯んだ若者が疑惑を打ち消そうとして、思わず一儀におよんだというところでしょうか。しかし娘が男の一物を自ら導いているところを見ますと、娘の方も内心この機を願っていたということでしょう。
娘の弾く三味線と若者の声の調子が合った時、二人の心身も「ちょうど調子が合った」ということでしょう。しかし、向かいの家の鬼瓦が恐い顔して睨んでいます。>(本文は、歴史的仮名遣だが、現代仮名遣に変え、脱字は補った。)さらに、著者は別の箇所(p.202)で、「寒稽古で一回声をつぶしますから、娘のほうが声変わりしたねと言ったわけです。それを男性は心変わりしたねと聞き違えて、ドキッとしたわけです。やましいことがあったんでしょうね。」とも付け加えている。
僕は、早川の解釈があざやかであることを認めた上で、それでもなお、その説に完全に納得しているというわけではない。以下、三点にまとめる。
まず、第一。「声変わりしたね」と娘が言ったのを、若者は「心変わりしたね」と聞き間違えたのだとする、早川の解釈には説得力がある。たしかに、これで若者の「きついご詮議さ」という応答の意味がわかりやすくなった。
しかし、「きびしいお訊ねだ」というトンチンカンな若者の答えを娘はただ聞き流したのだろうか。たいていは、「それって、どういうこと?」というような話になりはしないだろうか。僕のまことに乏しい経験からすれば、そうなれば、しばし嫉妬と後ろめたさが引き起こす痴話喧嘩がそこに出来するのではあるまいか。たとえその喧嘩が修復されたにしても、画面が持つ幸福感に至るにはかなりの時間ないしは日数を必要とする、多分。
早川説では詞書はうまく理解できても、この絵の語る所をうまく説明しない、と僕は思う。
第二。若者の方に「やましいこと」があったと考えるには、二人は、また、二人を取り囲む世界は、あまりに祝福されたものではないだろうか。僕には、これが、まだ幼さを残す二人のそれぞれにとって「初体験」であっ他に違いないと思うが、それは、たとえば少女が少年に手を添えてしかるべき部位に導いている所にも示されていよう。鬼瓦でさえも魔除招福のために、二人を「恐い顔して」見守っている、のではないだろうか。
第三。「声変わり」を寒稽古でつぶれたせいだとする点はさらに納得できない。もし、そうだとすれば、なぜわざわざ訊かなくてもわかるようなことを相手に訊くのだろう。僕は、これはやはり思春期の変化を捉えたものだと思う。それが、性的行為への導火線になっているのでなければ、この絵にその詞書が書かれた理由がわからない。
浮世絵春画の専門家に対して、まったく的はずれな批判をしているのかもしれないが、あとは読者の判断にお任せしよう。ただ、春画の名作5作品の詞書と書入れをすべて翻刻・解説する早川のこの本は、春画の魅力を分かりやすく伝えていて読むに値する。春画についての最良の入門書の一つ、といって過言でないということは付け加えておきたい。