「善き人のためのソナタ」再説~「大尉」が読んだブレヒト
彼が読んでいるブレヒトの詩は、字幕によればこうだ(DVD版)。「9月のブルームーンの夜 スモモの木陰で 青ざめた恋人を抱きしめる 彼女は美しい夢だ 真夏の青空 雲が浮かんでる 天の高みにある白い雲 見上げるともうそこにはなかった」
これはなんとも支離滅裂な詩ではないだろうか、なんだ、そのブルームーンって?そもそも今は夜なの、それとも昼間なの?
僕は元の詩にあたってみた。題名は「マリー・Aの思い出」。映画字幕が原文を簡略化するのは致し方ないとしても、原文の「月」の意味を読み違えたあげく、理屈をあわせるために原文にあるはずもない「夜」まで付け足しているのはまったくいただけない。映画では読まれなかった第2連、第3連も含めて全文を引用してブレヒトの名誉を回復しておきたい。[野村修・訳 『家庭用説教集』(晶文社1981年刊 原著は1927年刊)または『ベルトルト・ブレヒトの仕事 3』(河出書房新社 新装新版2007年刊)。なお、関心をお持ちの方もおられようかと思って、最下段の注にドイツ語原文と、あわせて英訳・仏訳も引用しておいた。]
マリー・Aの思い出 (ベルトルト・ブレヒト)
1
九月はあおい空、その月のあの日に
ひっそりと、若いスモモの木の根もとに
あの子を、蒼いひっそりとしたこいびとを
ぼくは抱いた、優しいゆめを抱くように。
ぼくらの上にはすみきった夏空に
ひとひらの雲、じいっとぼくは見つめた
白くて、気のとおくなるほど高い雲、
また眼をあげると、もう消えてしまってた。
2
あのときから、いくつもいくつもの月が
ひっそりと沈みさりながれさっている。
スモモの木はもう伐られてしまったろう。
問うのか君は、こいびとはどうしている?
むろん誰のことなのかはわかるのだが。
その子の顔はほんとに憶えていない
あのときたしかに顔にキスしたんだが。
3
キスさえ、とうにわすれてしってたろう
もしあのときにあの雲がなかったら、
あれはまだ憶えてる、たぶんいつまでも
とても白く、とても高くにあったから。
スモモの木はいまも咲いてるかもしれぬ
あの子もげんきで、子が七人もいよう、
でもあの雲はあおのつかのま咲いたきり
眼をあげると風にとけこんでいた、もう。
ブレヒトのこの「マリー・Aの思い出」は彼の詩の中でもとりわけ有名な作品だ。高い雲の浮かぶ青い9月の空が青春時代の恋人との切ない愛を思い出させた。
映画のなかで、「大尉」と呼ばれる男は、劇作家と女優の燃えるような熱い愛の歓びの声を盗聴したあと、それに刺激をうけたかのようにコールガールを自宅のアパートに呼んで味気ないセックスをする。彼女が帰ったあと、ひとりソファに横たわって彼はこの詩を読む。彼には、この詩が歌う愛の思い出は、そときいっそう切なくも美しくも響いたのではないだろうか。
劇作家と女優の愛情に満ちた交歓、それに対して愛のない刹那の快楽だけのセックス。この対比は、劇作家と女優の多くの本とピアノのある部屋に対して、一冊の本も家具らしい家具もない「大尉」の寒々とした部屋、といったようにあちこちで強調されているが、この詩を読み終えたときには、「大尉」の部屋の中に異質な、なにか豊かな、いわば人間的なものが持ち込まれたと観客は確信するだろう。
さて、ここからは映画とは関係ない(はずだ)が、このブレヒトの詩自体がその成立において、映画のこのシーンと奇妙な符合を示しているということを付け加えておきたい。訳者の野村修の文章を引用すると
ブレヒトが1920年2月21日、7時、のちにたいへん有名になった愛の歌「マリー・Aの思い出」を、ベルリンに向かう列車のなかで手帳に書き記したとき、その歌の標題はまだ「感傷的な歌、1007番」となっていた。昔の恋のこの思い出を、そしてかれは、手帳の同じページに「枢密顧問官クラウス」なる男の一文を引用することで、異化していた。「精嚢がみちているとき」男は「あらゆる女のなかにアフロディーテ」を見る、というのである。このように、愛の感傷的な位相と(自然科学的とはいわないまでも)地上的な位相とは、かれにあっては最初から連れ立っている。(野村修著『ブレヒト愛の詩集』(晶文社1984年刊 p.327)
映画のなかにおける大尉の「地上的な」性行為は、この詩に引き継がれることによって逆に「異化」されているのであって、それは、その後の彼の行動がいわば”天上的な”愛へと向かう起源となっているのだ。
ドイツ語原文
Erinnerung an die Marie A
1
An jenem Tag im blauen Mond September
Still unter einem jungen Pflaumenbaum
Da hielt ich sie, die stille bleiche Liebe
In meinem Arm wie einen holden Traum.
Und über uns im schönen Sommerhimmel
War eine Wolke, die ich lange sah
Sie war sehr weiß und ungeheur oben
Und als ich aufsah, war sie nimmer da.
2
Seit jenem Tag sind viele, viele Monde
Geschwommen still hinunter und vorbei.
Die Pflaumenbäume sind wohl abgehauen
Und fragst du mich, was mit der Liebe sei?
So sag ich dir: ich kann mich nicht erinnern
Und doch, gewiß, ich weiß schon, was du meinst.
Doch ihr Gesicht, das weiß ich wirklich nimmer
Ich weiß nur mehr: ich küßte es dereinst.
3
Und auch den Kuß, ich hätt ihn längst vergessen
Wemnn nicht die Wolke dagewesen wär
Die weiß ich noch und werd ich immer wissen
Sie war sehr weiß und kam von oben her.
Die Pflaumebäume blühn vielleicht noch immer
Und jene Frau hat jetzt vielleicht das siebte Kind
Doch jene Wolke blühte nur Minuten
Und als ich aufsah, schwand sie schon im Wind.
(Bertolt Brecht , Hausepostille, 1927)
英訳(第1連のみ引用)
Remembeing Marie A.
It was a day in that blue month September
Silent beneatn a plum tree's slender shade
I held her there ,my love so pale and silent
As if she were a dream that must not fade
Above us in the shining semmer heaven
There was a cloud my eyes dwelt long upon
It was quite white and very high above us
Then I looked up, and that it had gone.
(Eyre Methun社刊)
仏訳(第1連のみ引用)
Souvenir de Marie A.
C'était par un beau jour du blue septembre,
Silencieux, sous un jeunne prunier,
Entre mes bras comme en un rêve fendre,
Je la tenais, la calme et pâle almée.
Par dessus nous, dans le beau ciel d'été,
Il y a avait tout là-haut un nuage,
Toute blancheur, longuement je le vis,
Et quand je le cherchai, il avait fui.
(L'arche社刊)