731部隊 単語

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731部隊満洲第七三一部隊)とは、大日本帝国陸軍部隊のひとつ。
満州関東軍に所属し、後世様々な悪名を背負った部隊である。 

概要

正式部隊名称は「関東軍防疫給水部本部」で、「満洲第七三一部隊」(731部隊)とは通称号。初代部隊長は石井四郎陸軍軍医中将。彼の力から石井部隊と呼ばれることもある。他にも異名があるが石井四郎にまつわる異名どで、彼の力の高さが伺える。

陸軍医学校防疫部防疫研究室・満州出先機関として作られた関東軍防疫班が発展して出来た部隊であり、関東軍所属ながら、陸軍医学校防疫部に近しいという特殊な性質を持つ部隊となっている。なお組織改編に伴って「満洲第七三一部隊」となったのは1940年のことのようだが、それ以前から上記の「防疫研究室」「防疫班」等を背景として石井四郎や彼が率いる部隊は活動していた。「東郷部隊」「加茂部隊」などの名称を用いていたとされ、「加茂部隊石井四郎」の名は国立公文書館アジア歴史資料センター開されている軍の公文書内にも登場する[1]

な任務は防疫・給任務であり1939年ノモンハン事件では出動部隊の給を行い、新ペストが流行した際には防疫に協力すべく出動し成果を挙げている。他にも防疫給で結果を出し、第六軍に派遣された防疫給部は衛生部隊として史上初となる感状授与の栄誉を受け[2]石井四郎も金鵄勲章と陸軍技術有功賞[3]を受けた。日本軍といえば劣悪環境でバタバタ死んだイメージが強いが、少なくとも彼らの力が届く位置では不衛生さはあまりなかったということであろう。

ちなみに「関東軍防疫給水部本部」の通称号が「満洲第七三一部隊」(731部隊)であるが、「本部」の付かない「関東軍防疫給水部」の通称号は「満洲六五九部隊」(659部隊)である。つまり「659部隊」の中に、その「本部」たる「731部隊」も存在した……という位置づけとなる。「本部」(731部隊)以外にも、「関東軍防疫給水部」(659部隊)内には「口支部」(162部隊)、「牡丹江支部」(643部隊)等々の様々な支部が存在した。

この「659部隊」の隊員らの名簿(つまり731部隊の隊員も含む)は国立公文書館に所蔵されており、2020年現在ではそのカラースキャン画像がインターネット開もされている。その名簿に関する情報も含めて、詳細は「659部隊」の記事を参照されたい。

年表

出来事
1931年 満州事変勃発
1932年 満州国
陸軍医学校に「防疫研究室」発足
この頃、満洲国の「背陰河」に研究施設が建設される
1936年 関東軍防疫部」発足
発足理由については、公文書において「定計ノ如ク昭和十一年度ニテ急性染病ノ防疫施及流行スル不明疾患其他特種ノ調研究細菌準備ノ爲東軍防疫部ヲ新設ス」(予定計画のごとく、昭和十一年度において急性伝染病の防疫対策実施および流行する不明疾患その他特種の調研究らび細菌戦準備のため関東軍防疫部を新設す)と記載されている[4]
1937年 日中戦争開戦
1939年 ノモンハン事件
1940年 関東軍防疫部」が「関東軍防疫給水部」(満洲六五九部隊)に改編。そのうち満州国房の防疫給部本部が「満洲第七三一部隊」となる
1945年 8月8日 ソ連による対日宣戦布告
8月9日未明 ソ連対日参戦、ソ連軍の満州国侵攻
その後、8月14日までに施設爆破などの作業、行して列車による撤退
11月1日 米軍が元731部隊員を尋問した最初のレポート『サンダース・レポート』
11月10日 千葉県石井四郎の偽装葬儀が行われる
1946年 1月9日 GHQより大日本帝国政府へ、石井四郎の捜索・護送命が通達
1月16日 日本政府よりGHQへ「石井四郎の居所が不明」という返答
1月24日 「石井四郎を自宅にて尋問している」という米軍記録
5月31日 米軍が元731部隊員を尋問した2番のレポート『トムソン・レポート』
1947年 1月 ソ連より731部隊での人体実験に関する情報、及び石井四郎らに対する尋問要米軍に届く。これを受けて米軍による731部隊員への再尋問の準備開始
6月20日 再尋問に基づき作成された3番のレポート『フェル・レポート
12月12日 更なる詳細が掲載された4番のレポート『ヒル・レポート』
1948年 1月26日 帝銀事件発生。その後の警察の捜資料内に、石井四郎を含む元731部隊員の供述内容が残されている
1949年 12月25日 ソ連にてハバロフスク裁判開廷
1955年 8月13日 二木秀雄、731部隊幹部の戦友会「精会」の代表として多摩霊園に「懇心等万霊供養」建立[5]
1956年 秋山浩『特殊部隊七三一』出版。731部隊を題とした一般書として最初のものか
1959年 石井四郎
1975年 8月10日 TBSテレビポルタージュ『魔の731部隊』放映。731部隊を題としたテレビ番組として最初のものか

生物・化学兵器部隊として

その一方、防疫を逆手に取った細菌兵器に代表される生物兵器ガスなどの化学兵器研究も行っていた、と言われる。

そもそも、陸軍に防疫部が出来たのも欧視察・研究を行って帰した石井四郎が、「などに乏しいにはこういった(生物化学兵器)安上がりで威力のあるものは重要である」などと提言し、軍上層部のを惹いたからとする説もある。その説に則れば陸軍防疫部の末裔であり、ソ連中華民国といった仮想敵が多い満州所属の731部隊がこの研究をするのはある意味必然とも言えるのかもしれない。

こういった研究は行われたのであれば極秘裏に進められただろうし、終戦時に731はソ連への資料流出を恐れ少なくない資料を破棄したことなどの様々な理由から、今でもこの辺りの実情はわからないことが多い。

ハバロフスク裁判では性病コレラなどを媒介する生物兵器や、びらん性のガスなどの研究を行った特殊部隊であると認定された。ただ、ハバロフスク裁判も東京裁判やニュルンベルク裁判同様、戦勝一方的に裁く性質があったため100%信頼は出来ないということは付記しておく。 

ただしハバロフスク裁判の資料だけでなく、日本側の政府開資料中でも、以下のように731部隊の生物化学兵器に関する記述は見つかる。

たとえば石井部隊所属の人物の出張記録哈尓賓在石井部隊における出張並調報告書』では「この出張的は、一つは大量生産用の培地研究で、もう一つは昆虫兵器研究の参考にするためである」「当部隊的は細菌の大量生産である」といった意味の記述がある。この資料は元は陸軍軍医少将松崎陽」氏の寄贈により防衛庁防衛研修所戦史室が所蔵していたもので、現在では日本政府機関国立公文書館 アジア歴史資料センター」にてインターネット開されている。[6]

   一、緒言
 今般ノ小官等ノ出張ニハ的アリキ。一ハ大量生産ヲ中心トシテノ培地研究、他ハ攻擊武器トシテノ昆研究考ニ資セムガ爲ナリ
 抑モ隊ノ的トスル所ノ細菌ノ大量生産式ニツキテ考察セムニ、(後略)

(書き下し:今般の小官らの出張には二様の的ありき。一つは大量生産を中心としての培地研究、他は攻撃武器としての昆虫研究の参考に資せんがためなり。
 そもそも当隊の的とする所の細菌の大量生産の様式につきて考察せんに、)

同じく「アジア歴史資料センター」で開されている、『衛軍密偵スフバートル供述に係る同軍の衛生装備其他の状況に就て[7]は、石井部隊に所属する軍医少佐と軍医大尉が特務機関の協力のもとにソ連赤軍の密偵(スパイ)を尋問して得た、赤軍の衛生装備その他に関する情報記録である。その中には以下のように「の飲用に慎重になることで防げて」「奇襲に使える」特殊な兵器であるらしい「B.K」を赤軍に使用することを検討する内容が含まれている。

10. 瓦斯B.Kニ関スル智識

(中略)
B.Kニシテハ何等教ヘラタル所ナシ然レトモノ飲用ニ重ナル態度ヲ持セルヨリ見レハ幹部級ニハ相備智識アルモノト想像セラル。
(後略)

(書き下し:10. ガス戦ならびB.Kに関する知識

B.Kに対しては何ら教えられたる所なし、しかれどもの飲用に対し慎重なる態度を持せる所よりみれば、幹部級には相当の予備知識あるものと想像せらる。)

13. 結論

之ヲ要スルニ外軍ノ備並生智識ハ甚タ幼稚ナルモノヽ如ク特ニB.Kニ関シテハ全然ノ無知ノ現況ニアリ奇襲スヘキ好個ノナリ(後略)

(書き下し:これを要するに、外衛軍の衛生装備ならびに衛生知識は、はなはだ幼稚なるもののごとく。特にB.Kに関しては全然の無知の現況にあり、奇襲すべき好個の対なり。

よって「何もかもが、戦勝の裁判で一方的に決めつけられた」というわけではなく、少なくとも「昆虫兵器細菌大量生産の研究をしていた」「B.Kと呼ばれる特殊な兵器を扱っていた」らしいことは日本側に残る政府開資料からも確認はできる。

ちなみにこの「B.K」だが、実は『陸軍校防疫研究報告 第2部』(陸軍医学校防疫研究報告 第2部)という、石井部隊と関連が深い陸軍医学校が出版した書籍内に「BK」が登場する記事がある[8]。それらの記事では「BK」は明らか細菌兵器の事をしている。さらにこの書籍内には細菌兵器に関連するドイツ語の書籍を翻訳した記事があり、その中で細菌兵器ドイツ語で「Die Bakteriologische Kriegswaffe」(直訳すれば「細菌学的戦闘兵器」)と表記されている[9]。この「Bakteriologische Kriegswaffe」の略称が「BK」「B.K」であろうと思われる。

また同じ『陸軍校防疫研究報告 第2部』内には、「茂」による『ケオピスネズミノミ(Xenopsylla cheopis Rothschild)成の低圧耐性に関する実験研究[10]や『ケオピスネズミノミ(Xenopsylla cheopis Rothschild)に関する実験研究 第5編[11]などという研究報告が掲載されており、前者には

ペスト菌媒介者たるケオピスネズミノミの高ける生理を知らんと欲し、先ず低圧環境に対する之が耐性を観察せり

とあり、また後者には

P攻撃用武器たるP菌感染蚤輸送用規制策に当り、先ず以て考慮すべき重要なる条件は生きたる運動自由なる蚤が斯くの如き容器の間隙より遁走せざることなり

頃者満洲第731部隊、金子順一軍医大尉殿は上記輸送容器試作の基礎的要件たる本問題に関し余にその測定実験を慫慂せらる

とも記されているという。後述する『金子順一論文集』内には『PXノ効果略算法』というペストに感染させたノミを航空機から散布した際の効果を論じた論文があるが、それとよく合致するものと言える。

また生物兵器だけではなく、資料『きい弾射撃ニ因ル皮膚傷並一般臨床的症状観察』(後述)からは、化学兵器開発実験を行っていたことも確認できる。

軍内部ではないが、軍の兵器開発に協力していたという政治家回想録にもわずかに記載がある。政治家亀井貫一郎」の回想録『亀井貫一郎氏談話速記』に以下の記述がある。[12]

昭和十八年五月一日 戦争遂行のため、各の技術情報集し、科学技術者を動員し、その研究により、企画を立案し、大本営に進言するところの内閣技術院、陸海軍省に協力する機関として、「財団法人戦技術協会」を設立せられることとなり、その理事長に就任す。爾後、専ら、新兵器開発することと、民間産業を軍需産業に調整することと、中小企業大企業の正しい系列に置くことと民の食糧の開発とその保存の技術開発等とに従った。
㋑液体液体酸素及びその魔法壜(協会自ら当る)。㋺ロケットミサイル、その誘導体は東芝西堀三郎氏と住友電気の梶井剛氏(協力)。㋩風船爆弾関東軍防疫給水部石井中将部隊細菌爆弾及び謀略兵器ANTHRAX(脾脱疽菌)開発(協力)。陸軍登戸研のレーサー[13](いわゆる殺人線)、(連絡)。

また、この『亀井貫一郎氏談話速記録』には以下のように、亀井秘密兵器に関する事柄を米国提供した見返りとして、兵器研究開発者の戦犯免除の交渉を成功させたという記載もある。

昭和二十年九月 終戦となる。陸軍の依嘱に基き協会として日本海軍開発したる一切の秘密兵器を復元し、米国防総省担当者に引渡し、研究関係者の戦犯の特免の了解を得る。

これに関しては、米国側が情報開している当時の資料にも、確かに亀井貫一郎がそういった交渉の場に出ていたことが記録されている。

例えば、1947年4月21日付のJWC資料番号「228/01」、題名「Conversation with KAMEI, Kanichiro」(亀井貫一郎との会談)という資料。「Alerts Dr. Fell to undisclosed information by Japanese of its offensive developments of BW.」(フェル博士に、日本による生物兵器の攻撃的開発に関する未情報があるという警告)といった内容であるとのこと。[14]

また1947年5月7日付のJWC資料番号「228/07」、題名「Telephone conversation with KAMEI, Kanichiro」(亀井貫一郎との電話会談)という資料は「Business associate of ISHII, Mr. Miyamoto, states ISHII wants "documentary guarantee of immunity."」(石井宮本氏とのビジネス上の関係、石井が「免責の文書化された保」をめているという明」)といった内容であるとのこと。[15]

人体実験や生物化学兵器の使用に関する資料・記録

そういった生物化学兵器開発の途上で、捕虜や民間人をマルタ丸太)などと呼び同意を得ない非人的な人体実験を行ったといわれる。

3000人をえる犠牲者が出たとも言われるが、言によって人数がばらついたりするので断定出来るほど材料いのが現状である。ある意味では南京事件と似たような様相を示す事例となっている。文書が少ないことや言者に撫順戦犯管理所帰りが混ざるのもそっくりである。

肯定「資料は部隊ぐるみで隠滅したから存在しない、言に頼らざるを得ないし彼らがウソを付くはずがない」 といい、それに対して否定日本軍は巨大な官僚組織であって、文書が発行されていないのに大掛かりな行動は出来ない、あり得ない」と返す、という論争が何十年も続いている。

実際に、当時大本営参謀だった陸軍中佐枝繁インタビューにて「自分があらゆる拠を隠滅する命石井四郎に言い渡した」といった内容を話している[16]ため、この命が厳守されていれば拠は残っていないはずだった。

だが、後述するように日本アメリカ合衆国ソビエト連邦などからそれぞれ資料・記録が提出・発見されてきており、「言しかない」という状況は既に過去のものとなっている。言とそれらの資料・記録較検討して「各々の言や資料・記録がどの程度信頼できるのか、確認していく」ことが可な状況になってきているとも言える。

これらの記録に基づいて、「同部隊人体実験は行われていなかった」とする歴史学分野や医学分野の専門はほぼ存在しなくなっている。

日本医学系学術団体を統括する「日本医学会」は2022年に行われた「創立120周年記念事業」の一環として、過去振り返り未来を展望して社会に提言する文書『未来への提言』を2023年に発表したが、その中にも731部隊で行われた人体実験について「事実」「過去の過ち」と記した箇所がある(「第4章 医療倫理研究倫理の深化」>「1. 120年間の振り返り」)。

 わがも、これまで医学・医療の名において、人々に大きな犠牲を強いた過去を持つ。戦時中に石井機関と七三一部隊で中国人ロシア人等を対とした非人的な人体実験が広範に行われ、この研究には当時の日本医学界をリードしていた大学教授たちが多く参加していた事実がある。その後も、ハンセン病患者に対する強制隔離や優生手術を行った事件やエイズ事件等の重大な事例、さらには、「旧優生保護法」に徴される生命倫理原則や基本的人権インフォームド・コンセントのが起こった。私たちは、こうした過去の過ちに学び、将来にわたって非倫理的な状況が再び起こることのないよう、私たち自身の倫理を確固たるものとし、時には流れに抗うことも医学に携わる者の責務であることを改めて認識する。

日本に残る資料

かつて陸軍軍医中佐であり後に陸上自衛隊衛生学校長となった人物が私的に所蔵していた『きい弾射撃ニ因ル皮膚傷並一般臨床的症状観察』『破傷風素並芽胞接種時にける筋『クロナキシー』に就て』といった資料が、本人が死去した後に遺族がチリ交換に出し、その品業者が古書店に持ち込んだことで1983年に発見されている。これらの資料においては人体実験に関する記述がある。

凍傷ニ就テ

また、一旦米国に回収されたものの返還された文書として『凍傷ニ就テ(第一五回満州医学会哈爾支部特別講演)』があり、国立公文書館デジタルアーカイブとしてインターネット上でも開されている[17]

この文書内の手書きの箇所には、凍傷が生じる過程を精するために「の皮膚温度が0℃以下になり白色固結して膨張るまで、つまり指に凍結するまで冷却する」という過酷な「実験1」を行っていたことが明記されている。

(前略)
シテ更ニ温度低下ガケバ動脉収縮ノ爲ニ容積ハ益々減少シ遂ニ皮膚温ハ零度以下ニ低下ス
コレ組織過冷却現象ナリシテ点ニ皮膚温ハ急ニ上昇シコノ時白色ナリ固結ス
容積モコノ時急ニ増加ス
之ハ過冷却状態ガ破レテ組織氷結スル爲ニ温度上昇シ同時ニ氷結ヨリテ容積膨スルモノト考フベキナラン
即チ凍傷ノ始リハ全ク組織凍結ナリ
(後略)

(書き下し:しかして更に温度低下が続けば、動脈収縮のために容積はますます減少し、ついに皮膚温は0度以下に低下す。これ組織過冷却現象なり。
 しかしてある点において皮膚温は急に上昇し、この時、白色となり固結す。容積もまたこの時、急に増加す。これは過冷却状態が破れて組織氷結するために温度上昇し、同時に氷結によりて容積膨するものと考うべきならん。

 すなわち凍傷の始まりは、全く組織凍結なり。)

さらに後段にあるタイプ打ち記述の表現により、この「実験1」が動物ではなく人に凍傷を発生させていたこともわかる。

(前略)論コノ血管ニハ個人的ニ大ナル差(体質的差異)アリテ人ニヨリテハコノ抵抗性甚ダ小ニシテ容易ニ凍傷ヲ生シ得ル事ハ験1ノ例ニ明カナレ共ママ(後略)

(書き下し:もちろん、この血管反応には個人的に大なる差(体質的差異)ありて、人によりてはこの抵抗性、はなはだ小にして容易に凍傷を発生しうることは実験1の例に明らかなれども、)

この文書に関しては単独記事『凍傷ニ就テ』も参照されたい。

これら『きい弾射撃ニ因ル皮膚傷並一般臨床的症状観察』『破傷風素並芽胞接種時にける筋『クロナキシー』に就て』『凍傷ニ就テ(第一五回満州医学会哈爾支部特別講演)』は現在では『七三一部隊作成資料』という書籍にも収録されている。

陸軍中将遠藤三郎日誌

意外なところでは、地方の施設にも731部隊(の前身)が行った人体実験に関連する資料が保管されている。埼玉県狭山市博物館には陸軍中将だった「遠藤三郎」と言う人物の遺品が寄贈されている[18]のだが、その中に『陸軍中将遠藤三郎日誌』と呼ばれる日誌や諸文書がある。

この日誌や諸文書は通常は非開であるが、研究的の者が遠藤の遺族の許可を得れば閲覧可となる。これらに記録された戦時中の情報はその他の公文書と照らし合わせても事実関係に矛盾いため正性が高いとされ、例えば関東大震災後の救助活動についてや、満州での関東軍の対ソ地下軍事要塞についてなど、雑多な分野の著書や論文が参照元としている。

その長大な資料中のごく一部ではあるが石井四郎が率いた部隊人体実験に関する記録があり、宮武剛の著書『将軍の遺言: 遠藤三郎日記』(毎日新聞社、1986年)や鴻鵬の論文『陸軍中将遠藤三郎日中戦争 :「遠藤日誌」を中心に』(名城大学博士(法学)論文、2015年度)などで紹介されている。

後者の論文は名城大学の学術リポジトリにおいてインターネット上で開されている[19]ため、その第四部「遠藤三郎の対ソ連論と行動」より該当部を抜き出して紹介すると、

(一九三二年)一月二十日()曇
......石井軍医正来リテ 細菌戦ノ必要ヲ力説ス 共鳴スル点多シ速々実験セシムベク処置ス......

(一九三二年)八月一日(
......石井軍医正ノ細菌戦ニ関スル講話ヲ聞キ 且活動(映画)ヲ見ル......

 例えば、1932年9月10日の「日誌」には「正午石井軍医正ニ招待セラ大和ホテル[20]ニ行キ医師連中ト会食ス」と記され、翌33年8月5日の「日誌」には「(長)西公園ニテ石井式濾器ヲ見学ス」と記され、(後略)

(一九三三年)十一月十六日(木)快晴
午前八時半 安達大佐立花中佐ト共ニ交通中隊内試験場ニ行キ試験ノ実情ヲ視察ス
第二班瓦斯液ノ試験 第一班電気試験等ニ各二名ツヽノ匪賊ニツキ実験ス ホスゲンニヨル五分間ノ瓦斯試験ノモノハ炎ヲ起シ重体ナルモ 昨日ヨリ生存シアリ 十五mg注射ノモノハ約二十分ニテ意識ヲ失ヒタリ 二万ボルト電流ニ依ル電撃ハ数回実施セルモ死ニ至ラズ 最後ニ注射ヨリ殺シ 第二人ハ五千ボルト電流ニ依ル試験数回ニ及ブモ死ニ至ラズ 最後ニ連続数分間ノ電流通過ヨリ焼死セシム 塚田大佐ト午後十一時半話シ 床ニツキシモ安眠シ得ズ

(書き下し:午前8時半、安達大佐立花中佐と共に交通中隊内試験場に行き、試験の実情を視察す。
第二班:ガス液の試験、第一班:電気試験等に、各2名ずつの匪賊共産党員や抗日パルチザン)につき実験す。ホスゲンによる5分間のガス試験のものは、炎を起こし重体なるも昨日よりなお生存しあり。15mg注射のものは、約20分にて意識を失いたり。2万ボルト電流による電撃は、数回実施せるも死に至らず、最後に注射により殺し、第2人は5千ボルト電流による試験もまた数回におよぶも死に至らず、最後に連続数分間の電流通過により焼死せしむ。塚田大佐午後11時半まで話し、床につきしも安眠しえず。)

とある。「試験」についての概要を感情が消失したかのように淡々と挙げていく一方、最後に「塚田大佐午後11時半まで話し、床につきしも安眠しえず」とあることから、視察によりかなりの精神的ショックを受けていたことが覗える。

なお論文著者の「鴻鵬」博士中国人であることを疑いの材料にしようとする人も居ようが、同様の引用は上記の1986年の宮武剛の書籍にも含まれている[21]

日本憲兵正史

731部隊で人体実験の対となっていた死刑囚(いわゆる「マルタ」)らの出自については、抗日運動スパイと疑われて逮捕され有罪とされた人々を、憲兵組織が「特移扱(特別移送扱い)」や「特移送」という呼称の元に731部隊へと送り込んでいたものであると語られることが多い。

こちらについては、憲兵の戦友会の全組織である「全友会連合会」がまとめて1976年に出版した回想録『日本憲兵正史』内にも、それを一部肯定するような記述がある。[22]

また、ソ連側のスパイもあらゆる手段を使って石井部隊秘密を探ぐろうとしたが、失敗している。ところが人間とは弱いもので、石井部隊の関係者が、ハルピンの料亭などの席で漫す談話の片鱗で、相手の秘密研究が行われていることがわかった。これらの情報を得るたびに、ハルピン憲兵隊では防諜上の立場から、石井部隊責任者に警告を発していたのであった。石井部隊憲兵とそう深い関係もないので省略するが、全く内容に触れないのでは不切とも思われるので、その一端を紹介しておく。まず、人体実験の問題が巷間噂され、現在も多くの出版物に面く描かれているが、これは事実で、チチハル憲兵隊などから、ハルピン憲兵隊宛「丸太一本送る」と連絡があると、これは死刑囚石井部隊へ送ることであった。しかも、この丸太である死刑囚は、石井部隊に送られると、起居就寝から食事運動に至るまで最高の待遇をされて、健康死刑囚に仕立上げられる。部隊内の食事材料はすべて自給自足であった。その食事たるや栄養満点のものである。しかも、死刑囚の独房というより居室は、全滅菌された部屋で、冷暖房から太陽線まで、これまた最高の設備である。さらに、医者はつね健康管理を導するのであるから、数ヵ月経過すると体的には全に健康死刑囚となる。この死刑囚ペスト菌をもつノミをくわせ、健康人間ペスト病になっていく経過を記録研究する。この実験のやり方や収容されていた死刑囚そのものに、実は問題もあったのだが、これは憲兵史なので遠慮させてもらう。とにかく、細菌ガス研究が、学問的に見る限り素晴らしいものであったのは事実である。その他、多くの研究成果があるが、これまでも石井部隊についてはいまわしき流言が多く、潤に書けないのが残念である。石井部隊研究実験方法と戦争に利用されたのではないかというところから、多くの非難があるのは当然だが、正しく人類社会に利用される限り、研究そのものは重である。

終戦時、関東軍は石井部隊に対し建物および一切の設備品の爆破と、部隊全員の内地帰還を速かに実施させたので、ソ連軍がハルピンに侵入して、あらゆる手段を講じて石井部隊の内情を調したが、何も得られなかった。この点だけは関東軍は手際のよさを見せたのであった。また、石井部隊が給ポンプを研究開発製作して、民の生活に貢献した事実もあったことを付記しておく。

該当部分の記述者は、「いまわしき流言」が多いと石井部隊が悪名として語られることを非難し、また「学問的に見る限り素晴らしいものであった」「ポンプを研究開発製作して、民の生活に貢献した」とも記している立場からは、記載者は基本的には石井部隊の活動を擁護するスタンスにあったようだ。逆に言えば、そのような意見を持つ人物であっても、石井部隊人体実験が行われていたことは事実として認めていることがわかる。

大塚備忘録

他にも防衛庁防衛研究図書館には通称『大塚備忘録』と呼ばれる「大塚文郎」という軍医の日誌の写しが保管されており、その中のごく一部ではあるが1944年記録として「マルタ実験」「丸太500名」「丸太使用実験」といった記述が細菌実験に関する文脈で登場するという。

この文書はインターネット上にスキャン画像等が存在しておらず、また現在では写しの開もされていないため直接の確認は困難だが、開されていた頃に閲覧して内容を転載した書籍や文書がいくつかあり、それらの書籍・文書の内容紹介というかたちでいくつかのウェブサイトに文面が掲載されている[23][24][25]

生物兵器使用関連

生物兵器使用やその計画(当時もジュネーブ議定書で使用は禁止、ただし日本が批准したのは戦後)もあったとされるが、こちらも現存する資料は乏しい。

わずかに残る生物兵器使用に関する資料としては、1993年防衛庁防衛研究図書館で発見された『井本男業務日誌』や、2011年国立国会図書館関西部で発見された『金子順一論文集』などがあり、これらにおいては生物兵器を散布したことに関する記述がなされている。

この『金子順一論文集』内では『PXノ効果略算法』などペストノミを実際に散布した際の効果について推算する論文があるが、本記事の「生物化学兵器部隊として」の節で既に紹介した「茂」による『ケオピスネズミノミ(Xenopsylla cheopis Rothschild)成の低圧耐性に関する実験研究』や『ケオピスネズミノミ(Xenopsylla cheopis Rothschild)に関する実験研究 第5編』の内容とよく合致している。なお論文表題にもある「PX」とは、ペストす「Pest」あるいは「Plague」と、上記のケオピスネズミノミの学名「Xenopsylla cheopis」(あるいは単にネズミノミ属全般をす「Xenopsylla」)の頭文字をとったものと思われる。

ちなみにこの防衛庁防衛研究図書館にある『井本男業務日誌』だが、研究者が書籍や論文で引用していることからもわかるとおり、当初は開されていた資料であった。しかし後に非開化されてしまっている。その理由に関して平成10年1998年)に国会において防衛庁職員と国会議員問答をしたことがあるが、防衛庁側の答弁によれば「業務日誌ではあっても個人日誌であるので公文書ではない。よってプライバシーの観点から開できない」という理由で[26]開化されたとのこと。

帝銀事件

また、1948年に起きた殺人事件「帝銀事件」の捜資料にも、731部隊に所属していた人物が「生体解剖」について言及する箇所が記録されている。

帝銀事件とは、1948年1月26日に起きた有名な殺人事件である。物を用いて銀行職員らを多数殺し、その隙に銀行内の金品を奪って犯人が逃走した。

問題は、この帝銀事件において犯人が特殊な物を使用したことである。現場の保存が不十分であったため「この物が何であったのか」が不明となってしまったが、青酸カリ説やアセトシアノヒドリンニトリル)説などが挙がった。警察物/化学兵器に詳しい者の犯行であると推定。戦時中にそれらを扱っていた部隊に所属していた者が疑わしいとみて、該当する部隊について捜し始めた。

その捜の対の中には、731部隊も含まれるようになった。この事件の捜記録は捜主任だった警視庁一課係長甲斐文助が『手記』(『甲斐手記』や『帝銀事件手記』などとも通称される)という冊子にまとめており、その中では「なぜ731部隊が捜線上に挙がったのか」「捜内で731部隊について挙がった言」が記されている。

この『捜手記』によれば、犯人の偽名として使われた人物(松井蔚という厚生省の技官で、医学博士)の関係先から「石井四郎なる軍医が細菌毒薬研究を行い、原住民殺を揮した」という情報1948年2月15日警察に寄せられていたという[27]その後も陸軍関係者よりたびたび「元第731部隊員が犯人なのではないか」という意見が寄せられるようになった。また「731部隊設立前の話」とのことではあるが以下のような言も得られていた。

石井らは第731部隊設立前に,ハルビン郊外の背陰河(はいいんが)に実験場を開設していた。実験場での活動について,警察に報告された一例は,1933(昭和8) 1935(昭和10)年頃,ハルビン特務機関と連携し,「祝杯」と見せかけ,青酸カリ入りのロシアスパイに飲ませ殺,遺体はすぐに軍医(後の第731部隊員)によって解剖されたというものだ。[28]

このような言に基づいて、捜員は731部隊の長だった石井四郎にも面会している。このとき石井ニトリルについては「分子式は分るが自分の部隊では研究してないので効果は判らぬ」と解答するものの、青酸カリについては「分量により時間的に生命を保持させられるか否か出来る 致死量多くすればすぐ倒れる 分量により五分―八分 一時間三時間翌日 どうでも出来る(之は絶対的のものである) 研究したものでないと判らぬ」と詳細に解答している。[29]

また、731部隊に所属していた医師/研究者であった「早川清」「岡本耕三」などの記録も含まれており、その中には「生体解剖」「人体実験」「殺」に関する言、およびGHQ/米軍との裏取引に関する言もある。

【資料6】『甲斐手記』別巻(1948年7月26日
元軍医大佐 早川清[256][中略]
生体解剖に就て
帝銀事件が発生した頃は未だ進んでいなかったけれ共[256]/最近に至ってGHQの吉二世を通じて私達の身柄を/保障してれると米軍では申し若し戦争が開始をされた/際には身柄はへ移す事になっていると聴いている。/細菌戦術の優れた点も幾分認めて居るらしい。[中略]
当時使用した物方法(詳細)・人員等につき聴くに/
GHQで調された際関係者同志本件については絶対口外/せぬ様誓約したのであるから勘弁してれとの事で語らなかった
生体解剖の件も戦犯にならぬ事が最近判ったので申した次第で/すと附言す(GHQでは本件に関しては秘密を厳守するがお前達の方から墓を掘る様な事の/無様 警察官の中にも共産党あり 警察官にも口外せざるとの事である 何万かの部下/を保護する為にも)

出典:捜一課係長甲斐文助『帝銀事件手記』別巻(帝銀事件再審弁護団所蔵)
255 -257 。/は原文の改行。[ ]内は山田の補足[30]

岡本の言に依れば研究の場合は一度に捕虜15名くらいを試験台に供し病死の前に発病後3日4日う具合に其の病状を研究する為に、殺して死体解剖に附したと死体は何れも窒息死であった為恐らく加里を以って殺したものと思うが殺の下手人はであるか判らぬとう。それは死体だけを研究の為されていたからである。[31]

この捜資料中の記録は「中立性」という意味で重要である。後述する米軍の『ヒル・レポート』『フェル・レポート』やソ連の「ハバロフスク裁判」は「戦勝側の資料」であるので「そんなもの、戦勝捏造したのだ」と言いることはできなくもない。しかしこれらの記録は「日本警察によって」「基本的に戦犯審理と関係がい、別件の殺人事件の捜内で」行われたものであるため、戦勝論理などは関係がい。また、捜官は「彼らの戦犯を追及する」的で言させているわけではないので、これらの言を誇して捜手記に残す動機も乏しい。

またこの捜手記以外にも、医学・医療業界の業界である『日本医事新報』の1948年10月号に以下のような文章が掲載されている[32]。当時はこの件に関してはマスコミ報道規制が敷かれていたと言われるが、『日本医事新報』は一般的なマスコミではなく「あくまで医療関係の業界」という特殊な立ち位置であったためにその報道規制の網にかからなかったものか。

ハルピンの石井氏はいち疾く引揚げてたが追放の爲めたつきに窮しりで宿屋をんで居る。今度の帝銀事件その虐さからつて、警視では恐らく石井部隊の兵員であろうというのでその方面を探索し、石井氏も搜に協力したそうである。

このように、こちらでも「石井部隊の元隊員の関与が疑われ、石井四郎も捜に応じた」という話が語られている。また石井部隊の元隊員であろうと推測された理由は「犯行の残虐さ」である、と当時の医学業界人が認識していたこともわかる。

『日本傳染病學會雜誌』掲載論文

日本染病誌』(日本伝染病学会雑誌)とは、「日本染病」(日本伝染病学会)という学会の会誌であり、伝染病分野の医学雑誌である。この「日本染病」は後に「日本感染症学会」に改組され、『日本染病誌』も『感染症学雑誌』を後継雑誌として現在も発刊が継続している。

この『日本染病誌』において1967年1968年に、石井部隊に所属していた軍医「池田苗夫」が著した、「死の危険がある伝染病を、健康人に意図的に感染させる」という人体実験についての記載がある論文が掲載されている。もちろん、さすがに「マルタ(捕虜や囚人)を使った」等と記載されたものではなく、感染させた対は「有志」と表現されているが。

以下に該当部分の引用を掲載するが、これらの論文は総合学術電子ジャールサイト「J-STAGE」にて2011年から開されているため、でも実際にダウンロードして閲覧することができる。興味がある方は文献名に付けた脚注リンク先から、論文データを直接閲覧されたい。

まず、1967年に掲載された論文『流行性出血熱の流行学的調研究[33]から。

死亡率は流行初期に最多で,極期にはこれに次ぎ,流行末期には減少した.昭和16年の総致命率は15%である

陸軍病院長の許可を得て,有志2名の内1名には臀筋内に桜庭患者の有熱期の血液10mlを注射 し,他の1名には同患者の血液5.0mlを上腕皮下に注射を試みた

この後、この2名の「有志」は流行性出血熱を発症したらしく、「A患者」「B患者」などと呼称された上で血液検査データや診察所見などが論文内に登場する。また、「有志」となる前にどこにいて元の職業がなんであったのか、ということを調もしていたようだ。

2月2日:A,B,両患者の原籍地,原職業家族歴を調記録する.

次に、1968年に掲載された論文『流行性出血熱のシラミ,ノミによる感染試験[34]から。

わたしは,流行性出血熱の病は,本病患者の血液に存在することを確認し得たので,新たに本病媒介者として,吸血昆虫の内,特に重きをコロジラミとノミとに置き,いわゆる化シラミ,化ノミによる人への感染試験に着手した

人工ふ化育成したコロジラミを流行性出血熱患者,並びに耐過者に附着吸血せしめて,いわゆる化シラミとなし,1夜空のまま放置し,その5ない50匹を上記金網底ガラス器に入れ,毎日2030分間にわたり健常人に附着せしめて感染試験を行なつた.なお,ノミをもつてする感染試験も,おおむねシラミをもつてした感染試験に準拠して行なつた.

ノミ試験は本病患者4例でヒトノミ20匹ないし61匹.ケオプスネズミノミ7匹ないし202匹を,下部,内股部に,吸血せしめ,吸血時間は1520分として実施した.新たに有志健康被検者4人を供試し,化ノミによる流行性出血熱感染試験を行なつた.すなわち,ヒトノミ,ケオプス779匹を下部に吸血,吸血時間は,約20分とした.この感染試験における成果は,4例ともいずれも感染可であつた.

そこで,わたくしは,シラミ,ノミに重点を置き,本症患者に附着のコロジラミを採つて,その化シラミを用い,一方人工ふ化飼育の健常シラミを本病患者に附着吸血させ,その化シラミを有志被検者2名に附着吸血せしめたるに,いずれも,明かに,本病に感染発症した

要するに、『流行性出血熱の流行学的調研究』の方は「流行性出血熱の患者の血液を採取して健康な「有志」に注射すると、「有志」を流行性出血熱に感染させることができた」という内容であり、次の『流行性出血熱のシラミ,ノミによる感染試験』の方は「流行性出血熱の患者の血液を吸ったシラミやノミを集めて、健康な「有志」の皮膚から吸血させると、「有志」を流行性出血熱に感染させることができた」という内容である。

さて、この「有志」とはいかなる人材なのであろうか? 引用したように、池田自身が流行性出血熱の当時の死亡率は15%程度と記載している。「15%程度の確率で死ぬ伝染病にかかってもらう人体実験をするので、協力してくれないか」と乞われて、自ら協力するものだろうか?

また、この「有志」たちの名前が全く登場しないのはなぜだろうか? 上記引用部分にも「桜庭患者」というフレーズが登場するが、この「桜庭」とは患者の苗字のようで、他にも軍人とおぼしき流行性出血熱患者たちはこれらの論文内で実名が記載される。一方、この感染させられた「有志」たちは一人も名前が記載されていないのであった。

アメリカ合衆国

アメリカと取引して生物化学兵器人体実験データを渡したなどとも言われる。

石井四郎を含む731部隊の上層部が戦犯訴追を逃れたことや、上記のように亀井貫一郎の回想録の記述、GHQ統治下で起こった帝銀事件の捜中に得られた米軍との裏取引の言などがそれを補強しているとされる。

実際にアメリカでは、機密定期限を過ぎて開示された731関連の公文書が何種類か発見されており、亀井貫一郎に関しては既に述べたように亀井本人の回想録の記述と合致する内容が記されている。

更には、アメリカが731部隊について調・報告した『サンダース・レポート』『トムソン・レポート』『フェル・レポート』『ヒル・レポート』などがある。このうち、後期に作成された『フェル・レポート』や『ヒル・レポート』で人体実験に関すると思われる記述がある。

フェル・レポート』や『ヒル・レポート』の一部は慶應義塾大学松村高夫などが自らの文献に転載しており、それが慶應義塾大学機関ポジトリで開されているためにインターネット上で参照できる[35]

また、これらのレポートは、アメリカの「国立公文書記録管理局」(National Archives and Records Administration、略して「NARA」)のサイト内にある「ナチス戦争犯罪および日本帝国政府記録に関する政府機関間作業班」(Nazi War Crimes and Japanese Imperial Government Records Interagency Working Group、略しても長すぎるので最後の「Interagency Working Group」の頭文字のみ取って「IWG」)が調べものの助けとして提供している、資料カタロPDFSelect Documents on Japanese War Crimes and Japanese Biological Warfareexit』内に名称が挙げられている。

このPDFはあくまで「資料のカタログリスト」であるため全な内容を含むわけではないのだが、部分的な画像スキャンが添えられている。そのため、その画像を閲覧することで、部分的ながらも松村高夫などの日本研究者を通さない内容をインターネット上で参照することができる。

ちなみに上記の「IWG」について、「IWGが調したが731部隊の人体実験などを示す報告書は見つからかった」という日本語圏のインターネット上でかなり流布されている。こちらについては本記事下部の「731部隊に関するデマ」の節を参照されたい。

フェル・レポート

フェル・レポート』のうち、上記のIWGの配布PDF内にスキャン画像が掲載されていて閲覧可な部分内にも、生物化学兵器人体実験に関する記述が存在している。一部のみ抜して紹介する。

i. It was disclosed that there were available approximately 8,000 slides representing pathological sections derived from more than 200 human cases of disease caused by various B.W. agents. These had been concealed in temples and buried in the mountains of southern Japan.

(和訳:「i. 様々な生物化学兵器によって患した200人以上の人間の症例から取得された病理学切片を示す、約8000枚のスライドが現存することが判明した。これらは寺院の中に隠匿されたり、日本南部山中に埋められたりしていた。」)

3. The human subjects used at the laboratory and field experiments were said to be Manchurian coolies who had been condemned to death for various crimes. It was stated positively that no American or Russian prisoners of war had been used at any time (except that the blood of some American POW's had been checked for antibody content), and there is no evidence to indicate that this statement is untrue. The human subjects were used in exactly the same manner as other experimental animals, i.e., the minimum infectious and lethal dosage of various organisms was determined on them, they were immunized with various vaccines and then challenged with living organisms, and they were used as subjects during field trials of bacteria disseminated by bombs and sprays.

(和訳:「研究室内や野外での実験で使用された人間の被験者には、様々な罪で死刑を言い渡された満州人の苦力が使用された。アメリカ人やロシア人の戦争捕虜は全く使用していない(数名のアメリカ戦争捕虜の血液が、抗体含量の調のために検されたことを除いては)と明確にされ、この虚偽であると示す根拠は発見されていない。人間の被験者は、全に他の実験動物と同様に扱われた。例えば、様々な病原微生物の最小感染量や致死量は彼らを使用して決定されたし、様々なワクチン免疫を付けられた上で生きた病原微生物を投与されたし、微生物爆弾スプレーで散布する野外試験でも被験体として使用された。」)

この引用部分以外の原文は、「フェル・レポート」の記事に掲載されているので参照されたい。

また、大阪市立大学の准教授土屋志」氏は、同学のサーバー内にある自らのホームページにおいて講義ノート開しているのだが、ある講義ノート内で研究者「常石敬一」が1984年に著作『標的・イシイ』内でフェル・レポートを訳出した部分を引用紹介している。「フェル・レポート」の記事ではその引用内容の要約を掲載しているが、具体的には下記のリンクから同講義ノートを直接参照されるか、さらには書籍『標的・イシイ』自体を入手して参照されたい。

ヒル・レポート[36]

ヒル・レポート』の中では、「AEROSOLS」(エアロゾル)について

For human experiments two concentrations of bacterial suspensions were used

(和訳:「人体実験のためには2種類の濃度の細菌懸濁液を使用した」)

などと、割と直接的に人体実験に関する記録が記されている。また「ANTHRAX」(炭疽菌)について

Bomb tests ―10 M and other animals ―4 experiments

(和訳:「爆弾テスト ―10体のMとその他の動物 ―4試験」)

とあったり、「BOTULISM」(ボツヌス)について

Experiment in M were conducted with 5 subjects who were fed a 2-day old culture. Two of the subjects died.

(和訳:「Mを対とした実験は、2日間培養された検体を提供された5被験体で実施された。これらの被験体のうち2体が死亡した」)

などとあったりと、繰り返しM」という何かに対する実験も特記されている。松村高夫らはこのの「M」について「人間を意味している」と考えている。

ヒル・レポート』ではこれらの内容について

Such information could not be obtained in our own laboratories because of scruples attached to human experimentation.

と記しており、これを松村高夫らは

かような情報々自身の研究所では得ることができなかった。なぜなら、人間に対する実験には疑念があるからである。

と訳している。ただし「scruple」は『(事実に対する)疑念』あるいは『良心の呵責』という意味の言葉としては既に廃語となっており、的な文章ではともかくとして近現代の一般的な表現としては単に『』を意味する。[37]また「human experimentation」は『人体実験human experiments)の実行』であり、人体実験という明確な定訳があるのにわざわざ『人間に対する実験』という曖昧な言葉を選ぶことはい。[38]よって「人間に対する実験には疑念があるからである」というより「人体実験の実行にはが伴うためである」とした方が原文のニュアンスはハッキリするだろう。

まあそんな良識ぶったことを言っているくせに、『ヒル・レポート』においてこの記述の前後には「重なデータであるので他者の手に渡らないようにせねばならない」といった意味のこと("These data were secured with a total outlay of \250,000 to date, a mere pittance by comparison with the actual cost of the studies. ... every effort will be taken to prevent this information falling into other hands.")が記されているのだが。

The Report of "G"

その他、陸軍生物化学兵器研究所「Dugway Proving Ground」で発見された、元は「TOP SECRET定だった文書『The Report of "G"』などについても「人体実験に関する文書ではないか?」と疑いので見ている研究者がいる。この文書は「皮膚から疽菌に感染した者16名とから疽菌に感染した者5名の合計21名が死亡するまでの日数を記録較し、解剖して各種臓器の変化を見た」という内容で、戦後GHQに「要請」された731部隊の細菌学者が、部隊での研究資料を基に作成したものと見られている。アメリカ議会図書館のウェブサイトで、一部の画像データが公開されているexit

もちろん感染「させた」のではなく、「不幸にも自然感染した者や、研究中の事故で感染した者に対して十分な治療を行い、それでも残念ながら亡くなってしまった後に解剖した」という可性もあるかもしれず、その場合は倫理的にも問題がい。ただし、報告中の全患者において『いつ感染した者なのか』『経皮感染と経感染のどちらで感染した者なのか」が判明した上での記録となっている。これは自然感染者を集めたにしては説明が付けづらい点である。

ソビエト連邦

また、ソ連側も731部隊のデータを欲していたとされており、アメリカに対して石井四郎などに対する尋問を盛んに要していたという。アメリカソ連のこういった「綱引き」が、731部隊上層部が戦犯訴追から免れた遠因にもなったと言われている。

731部隊に所属していて終戦の際に逃げ遅れ、侵攻してきたソ連軍に捕まった者たちも居る。「その内30名ほどの細菌学者が、モスクワ付近で細菌学研究をさせられている」とするアメリカ陸軍防諜部隊の報告書も存在している。

これらソ連に捕縛された731部隊関係者のうち数名は、同じく防疫部隊だった100部隊関係者などとともに1949年ソ連が行った軍事裁判「ハバロフスク裁判」にて被告にもなっている。この被告ら12名は全員有罪とされ、矯正労働収容所への収容処分となっている。ただしその期間は被告によって1年25年とかなり幅広い。

NHKは後にモスクワの「ロシア国立記録アーカイブ」でこの「ハバロフスク裁判」における彼らの言の音記録を発掘、その記録を元にした報道番組を2017年に放映している(『731部隊の真実 ~エリート医学者と人体実験~exit』)。

ただし「ハバロフスク裁判」は勝者側による裁判であり、言した彼らはソ連に抑留中の身であったことも考慮に入れる必要はある。実際、この裁判の被告の一人であった三友一男(731部隊ではなく100部隊所属)は自らの回想録『細菌戦の罪』において、取り調べの過程についてや裁判で付けられた弁護士に対する不満を書き残している。

731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟

90年代1990年代)後半00年代2000年代)にかけて日本で行われた裁判で、731部隊の活動について民事訴訟として争われたことがある。この裁判は細菌戦の被害者であるとする中国人らが原告となって、日本国謝罪と賠償める請であった。

この裁判において被告である細菌戦の事実の有について争点としない立場を取り、裁判自体も「仮に事実が原告が訴える通りであったとしても日本国には謝罪と賠償を行う法的義務がない」という趣旨の判断が下って原告が敗訴。その後、高裁や最高裁でも控訴・上告が棄却されたため、原告敗訴が確定している。

事実の有が争点としなかったため、この民事訴訟の判決文[39]では、細菌戦の事実の有に関する部分には以下のように記されている。

この点については原告らが立活動をしたのみで,被告は全く何の立(反)活動もしなかったので,本件において事実認定するにはその点の制約ないし問題がある。また,本件の事実関係は,多方面に渡る複雑な歴史事実に係るものであり,歴史審判に耐え得る詳細な事実の確定は,最終的には,制限の資料に基づく歴史学医学,疫学,文化人類学等の関係諸科学による学問的な考察議論に待つほかはない。

ただしその制約の上で、東京地方裁判所裁判官らは「人体実験」や「細菌兵器の実戦使用」などの点については「事実だと認定できると考える」との趣旨を判決文内で表明している。

しかし,そのような制約ないし問題があることを認識しつつ,当裁判所として本件の各拠を検討すれば,少なくとも次のような事実は存在したと認定することができると考える認定に供した拠は,各認定事実の末尾に記載する。)。

(ア) (前略)中国各地から抗日運動の関係者等が731部隊に送り込まれ,同部隊細菌兵器研究開発の過程においてこれらの人々に各種の人体実験を行った。(後略)

(イ) (前略)中国各地に対し細菌兵器の実戦使用(細菌戦)が行われた。(後略)

(ウ) これらの細菌兵器の実戦使用は,日本軍戦闘行為の一環として行われたもので,陸軍中央のにより行われた。(後略)

(エ)(本件細菌戦によるペストコレラ被害の内容・程度)(後略)

731部隊に関するデマ

「ただの防疫部隊であり細菌兵器とは関連が無い」というデマ

「731部隊はただの防疫・給部隊であり、防疫給活動で人々を救ったのみであり細菌兵器などとは関連が全くい」というインターネット上で流布されていることがある。たしかに731部隊は防疫給活動も行っていた。

しかし本記事内でも既に触れているが、『在満兵備充実に対する意見の件』内の「第二十三東軍防疫部の新設増強」、『哈尓賓在石井部隊における出張並調報告書』、『外衛軍密偵スフバートル供述に係る同軍の衛生装備其他の状況に就て』といった日本国立施設「国立公文書館 アジア歴史資料センター」で表されている当時の各種公文書において、同部隊や前身組織における細菌兵器等に関する調研究活動については明言されている。よって「731部隊は細菌兵器とは全く関係がい」というはこれらの公文書記録と矛盾してしまう。

亜種として「敵が使用する細菌兵器に備えて対処するための研究のみを行っていた」とされることもある。だが、上記の『外衛軍密偵スフバートル供述に係る同軍の衛生装備其他の状況に就て』においては敵に「B.K」を用いて奇襲することを検討する記述があるので、このもかなり苦しい。

証言者に関するデマ

「証言者は洗脳されたか強引に自白させられた者たちばかりだ」というデマ

「731部隊が人体実験をしたとか細菌兵器を使用したと言するのは、皆中国ソ連の収容所で洗脳を受けたか強引に自させられたやつらばかりだ」という意見がインターネット上に書きこまれることがある。

かしこれは事実ではなく、中国ソ連の収容所に入ったという経歴が確認されない言者は複数存在している。

例えば細菌戦に関する言がある元隊員「溝渕俊美」は引き揚げの際の特別列車への乗に間に合っており[40]昭和20年9月には鳥取に上陸したとも言している[41]

また、「1945年8月11日マルタを収容していた特設監から煙が出ており、煙が消えてから中に入って拾いをやらされた」などの言をしている別の少年隊員「清水英男」も、1945年8月14日に引き揚げ列車に乗り、それから内地への帰還に成功したことを言している。[42]

また「マルタを連行してにくくりつけた近くで細菌爆弾を炸裂させ、身体がどのように変化するのか記録した」といった言をしている別の少年隊員「須永久太」も、「朝鮮を経て日本に戻った」と言している。[43]

「731部隊に入ったのが14歳などと年齢が幼すぎるから嘘だ」というデマ

14歳で731部隊に入ったなどという言者がいるが、そんな年少で軍人になれるわけがないからだ」という言説も流布されている。

かしこれは731部隊に存在した「少年隊」のことを「軍人」だと勘違いした結果出た話であると思われる。当時14歳などの年少で「少年隊」に所属していたと言する人々は複数存在しているが、その中には「少年隊」や「錬成隊」は軍人ではなく軍属(「員」(人)や「雇員」)であった、と明言している人々がいる[44]。すなわち「14歳で軍人になれるわけがない」という批判は的を射ていない。

また2010年代後半にインターネット開された部隊の名簿において、少年隊に所属していたと言する人々の名前も確かに記載されていた。さらに2020年開された、戦後間もない時期に作成されたと思われる厚生労働省公文書においても、関東軍防疫給水部内に存在した「少年隊」に関して言及されていた。これらの点においても彼らの言の信頼性は増している。

詳細は「少年隊(731部隊)」の記事を参照されたい。

『悪魔の飽食』に関するデマ

731部隊に関する書籍として最も有名であるためか、この書籍については多くのデマが流されている。

例えば「731部隊が生物化学兵器を使用したとか人体実験をしたという話は全て『悪魔の飽食』を根拠としている」、「『悪魔の飽食』はフィクションであり作者もそれを認めている」、「人体実験の被験者をマルタという単語は本作の創作」などなど。

これらのデマについては、『悪魔の飽食』の記事で詳述されているため参照されたい。

『きい弾射撃ニ因ル皮膚傷害並一般臨床的症状観察』に関するデマ

『きい弾射撃ニ因ル皮膚傷並一般臨床的症状観察』について「きい弾=マスタードガスは眼部の症状がしいのに眼部の症状の記載がい、これはおかしい」というインターネット上で流布されていたことがある。

しかし実際には『きい弾射撃ニ因ル』内には眼部の症状の記載がある[45]

『破傷風毒素並芽胞接種時に於ける筋『クロナキシー』に就て』に関するデマ

破傷風素並芽胞接種時にける筋『クロナキシー』に就て』について「潤背筋という筋肉について記載されている。この筋肉は人には筋肉であるため、これは人ではなく実験だ」というインターネット上で流布されていたことがある。

しかし「闊背筋・濶背筋」は現在で言う「広背筋」の当時の言い方に過ぎず[46]人間にも存在する上に、『破傷風素並芽胞接種時にける』内では人体における実験方法が解説されている[47]

アメリカ合衆国の資料に関するデマ

「アメリカが10万ページの資料を調べたが、731部隊の人体実験や細菌戦の証拠は全く無かった」というデマ

上記の「ナチス戦争犯罪日本帝国政府記録の各省庁作業班」略して「IWG」について、「アメリカのIWGが10万ページの資料を調べたが、731部隊の人体実験細菌戦の拠は全く見つからなかった」という話がインターネット上で盛んに流布されている。

しかしそれが正しければ『フェル・レポート』や『ヒル・レポート』については「あると言われていたけどIWG的には見つからなかったよ」ということになってしまうはずだが、上記のIWG提供リストPDFSelect Documents on Japanese War Crimes and Japanese Biological Warfareexit』には『フェル・レポート』や『ヒル・レポート』がしっかり掲載されている。つまり明らか矛盾してしまっており、デマであることがわかる。

実は、このデマ流は判明している。まず2007年1月18日に、「IWGが報告をまとめた」ことを産経新聞社ウェブサイトSankei WEB」が報じた。この記事の内容自体はデマではない。

この記事は731部隊の人体実験細菌戦を否定する内容のものではなかった。そして、この記事の中に以下のような一節があった(傍線は引用者)。

連合軍の捕虜に細菌実験が行われた形跡がないかを戦後調べたことが判明した。同じく本土に対しても、日本からの風船爆弾細菌戦に使われないか、米海軍研究所が回収した現物を大戦末期に調べ、「細菌の散布装置がついていないことから、当面は細菌戦を想定していない」と結論づけた文書も開された。

このニュースを元に、とあるネット右翼系のブログ2007年2月10日に以下の記事を掲載する。

だがこのブログは「要約」と称して、ニュース記事の上記に引用した部分をこう改変してしまった(傍線は引用者)。

連合軍の捕虜に細菌実験が行われなかったかを調べたり、日本からの風船爆弾細菌戦に使われないかを調べたりしたが、「当面は細菌戦を想定していない」と結論づけた文書も開された。 つまり、アメリカが持っていた731部隊に関する10万ページの機密文書には、731部隊が人体実験を行ったり細菌戦を行った拠は全くなく、戦後に言われたことは全てっぱちのでっち上げだったのだ。

つまり、元のニュースでは「連合軍の捕虜に細菌実験が行われなかったかを調べた」と「細菌の散布装置が付いていないので、風船爆弾での細菌戦は当面想定していないと結論した」の両者は別々のトピックだったのに、ブログではこれらを恣意的に切り貼りして「調べても捕虜に細菌実験が行われてたり風船爆弾細菌戦に使われてたりはしていなかったので、国家戦略として当面は細菌戦を想定していないと結論した」とも解釈可な文面に改変してしまい、さらに論理を飛躍させて「731部隊が人体実験を行ったり細菌戦を行った拠は全くなかった」というアクロティックな結論を導いてしまったのだ。

以上が結論ありきの意図的な操作であったのか、はたまた単なる誤読による勘違いであったのは不明である。しかしながら、これが流となって現在も「10万ページの資料を調べても……」というデマが流布され続けているのが現状である。

派生形「IWGの文書内に、証拠が見つからなかったと明記してある」というデマ

IWGに関するデマについては、生形として「IWGの文書内に、拠が見つからなかったと明記してあった」というものがある。これは文書の一部を読んではいる分、上記のデマよりはかなりマシだが、やはり誤読に基づくデマである。

IWGは、彼らの調に基づいて『Researching Japanese War Crimes: Introductory Essaysexit』というPDF文書を開している。

この文書の、以下の部分がこのデマの元と思われる。

As for Unit 731, researchers found no new classified evidence related to Gen. Ishii’s experiments or the unit’s treatment of POWs.

(和訳:「731部隊に関しては、研究者らは石井中将による実験、またはこの部隊による戦争捕虜の治療に関連する、新たな機密情報を発見できなかった。」)

As for the primary question of Unit 731’s alleged experimentation on captured Americaservicemen, multiple government agencies conducted exhaustive searches in intelligence, military, and diplomatic records but found no definitive evidence.

(和訳:「731部隊が捕虜になったアメリカ兵士に対して人体実験を行ったのではないかという最大の疑惑に関しては、複数の政府機関によって諜報軍事外交記録底的な精が行われたが、明確な根拠は何も発見されなかった。」)

上記のデマを信じている人がこの部分を流し読むと「やっぱり731部隊の人体実験拠なんてなかったじゃないか」と頷きたくなる気持ちもわかる。

しかし、このPDFファイルではしっかり以前から知られていたものとして『フェル・レポート』『ヒル・レポート』について触れている。つまり別に「『フェル・レポート』や『ヒル・レポート』なんて見つからなかった!」と否定するものではなく、「新たな情報や「アメリカ兵士人体実験を行った情報は発見されなかった、というだけの記述である。つまり、上記の記述を元に「731部隊の人体実験拠はIWGにも見つけられなかったのだ」としている場合、それは資料の誤読でしかない。

「『ヒル・レポート』では731部隊で人体実験が行われたか疑わしい、と結論している」というデマ

本記事でも触れた『ヒル・レポート』では731部隊の人体実験について明記されているわけだが、その『ヒル・レポート』について「人体実験を行ったか疑わしい、と書かれている」というがなされることがある。実際の『ヒル・レポート』の内容とは逆であるので、なぜこのデマが生まれるのかわかりづらいところではある。

おそらく、上記のように『ヒル・レポート』の「Such information could not be obtained in our own laboratories because of scruples attached to human experimentation.」と言う文章が松村高夫の著作内で「かような情報々自身の研究所では得ることができなかった。なぜなら、人間に対する実験には疑念があるからである。」と和訳されているところ、この和訳部分「だけ」を読んで勘違いしたものか。

先述した通り、英単語「scruple」の近現代における意味は『』であり、『疑念』という意味では既に廃語である。まあ松村ら訳文の「疑念」を敢えて尊重して強引に解釈するなら「(人体実験を行うことについての、倫理等に照らし合わせた上での)疑念」とでもなるだろうが、件の訳文によって「(人体実験が実際に行われたかどうかの)疑念」と解釈する余地が生じてしまう可性は低くないかもしれない。とはえ、この「疑念がある」を「(731部隊が人体実験を行ったかどうか)疑わしい」という意味に取ってしまっては前後の文章とのつながりがくなってしまうし、第一この文だけでもきちんと原文を当たってさえいればこのような誤解は生じなかっただろう。ソースは重要である。

「石井四郎などの731部隊幹部が東京裁判で裁かれていないので、人体実験などは事実無根」というデマ

人体実験などを行っていれば東京裁判で裁かれるはず。しかし石井四郎をはじめとする部隊の幹部は全く裁かれていない。よって人体実験事実根である」という話も流れている。

しかし本記事の「帝銀事件」の節で触れたように、「731部隊員はGHQ/米軍と取引して戦犯訴追を逃れた」と受け取れる言が日本警察の捜手記に残されている。

また、前掲の慶應義塾大学松村高夫らによる調[48]によれば、米国公文書内にもその取引を裏付けるような記述が発見されている。

石井石井部隊員の戦犯免責が文書で与えられるならば,細菌化学研究計画について詳しく述べるとアメリカ側と取引きし,マッカーサーは,これに対し「日本細菌情報情報チャンネルのなかに留め,そのような資料を『戦犯』の拠として使用しないように」と進言した(47年5月6日付,極東軍最高官の電報C 52423。これに対し,務省(極東小委員会)は,47年9月8日に,「戦犯拠としないと確約することは是認できない」とし,マッカーサー石井たちにはなんらの言質を与えずに従来通りの方法で情報を一つ残らず入手する作業をすべきであるとした。マッカーサー宛のメッセージは,つぎのようなものである。「必要な情報石井と彼の関係者から入手することは,情報諜報チャンネルのなかに留め,『戦犯』の拠としては使わないという言質アメリカが与えなくても可だろう。また危険な言質は後日アメリカを深刻な事態に追いこむ原因になりかねない。そうした言質を与えることは得策ではない。しかし安全保障のために,下は石井とかれの関係者を戦犯訴追にするべきでなく,言質を与えずに,従来通りの方法で全ての情報を一つ残らず入手する作業をつづけなければならない。

(47年9月8日付、SFE 188/3)

なお、松村高夫らがこの記述の根拠とした「1947年5月6日付の電報『C 52423』」や「1947年9月8日付の『SFE 188/3』」は、上記の米国政府機関「IWG」提供の資料リストPDFSelect Documents on Japanese War Crimes and Japanese Biological Warfareexit』の中にもちゃんと名称が掲載されている。

「731部隊が残虐だったという話は、ハバロフスク裁判の証言が初出だ」というデマ

前述のように、1949年に行われたハバロフスク裁判では731部隊で人体実験などの残虐行為が行われていたという言が被告人らから述べられている。

このハバロフスク裁判の言について、「抑留された先での強いられた自であるため信頼できない」とし、かつ「そして、731部隊が残虐だったなどと言う話は、この信頼できないハバロフスク裁判の言が初出である」として、731部隊の残虐行為について疑義を提示する意見もネット上に流れている。

しかし「帝銀事件」の節で触れたように、ハバロフスク裁判よりも前の『日本医事新報』の1948年10月号には既に「今度の帝銀事件はその虐さからつて、警視では恐らく石井部隊の兵員であろうというのでその方面を探索し、石井氏も搜に協力したそうである。」と、同部隊と「残虐さ」を結びつける文章が掲載されている。

「731部隊の非人道的な活動には岸信介が関与していた」というデマ

「731部隊」「岸信介」でウェブ検索Twitter検索を行うと流布されている話として「731部隊の非人的行為は岸信介許可の元で行われていた」「731部隊の裏で実験を握っていたのが岸信介」というものがある。

岸信介昭和期の官僚政治家で、満洲国の重職を歴任した人物ではある。「満洲国運営が成り立っていなければ731部隊の活動も成り立たなかった」と考えれば、まあこじつければ「遠い関係がある」と言えなくもないかもしれない。しかしは軍人でも医師でも学者でもなく、731部隊との縁が近いとも思われない。CiNiiやJ-STAGEなどで論文検索などを行っても、またac.jpドメインに限定して検索を行っても、岸信介と731部隊に直接の関係があったと結びつける学術的な記述は見つからない。よって現時点において、「731部隊の非人的な活動には岸信介が関与していた」という話は根拠のないデマ陰謀論であると言えよう。

この話の出所を探ると、どうも流は「カナダde日本語exit」という反自民党系のブログサイト2006年7月29日に掲載された「昭和天皇が嫌っていた松岡洋右と安倍晋三は親戚だった!そして岸信介がA級戦犯不起訴になった本当の理由。exit」という記事の記述が初出のようだ。このブログ記事内に、

そんなことを調べていると、安倍晋三の祖である岸信介は七三一部隊と密な関係にあることがわかった。

ナナナナナント!ちょうど岸信介満州国務院実業部総務長に就任した1936年昭和11年)に軍畜に対する細菌兵器開発を担当しており、人体実験も行っていた「軍防疫」が満州に設立されたのであった。1941年には、「満州100部隊」と改称されたそうだ。

つまり、満州での人体実験細菌兵器開発は当時の総務長であった岸信介許可なしには行われなかったのであり、七三一部隊を率いていた石井四郎の背後で岸信介が実権を握っていた感がある。

という記述があった。「関東軍が軍事機密の研究をやるときにも満洲国官僚許可を取ってから行ったはずだ」という首を傾げざるを得ない仮定に基づいている上、「許可を取ったはず」という話がなぜか「実権を握っていた感がある」という話に突然スライドしており、根拠に欠ける陰謀論の域は出ない。

かしこの記述が類似の論調のウェブサイトなどに転載されていき、最終的に出所もあいまいなままに流布されてしまっているようだ。

「731部隊の写真」として流布されるデマ写真・疑わしい写真

「731部隊の写真」として流布されている写真は数多い。しかしその中にはデマや疑わしい説明を付けられた写真も混じっている。

デマ写真の例1

例えば、2020年3月にTwitterに投稿されて、注目を集めたスペイン語ツイートexit(※リンク先は、多数の遺体写真や、凍傷で腫れ上がった手の写真など、刺の強い写真を含むツイート。苦手な方は閲覧注意。「Unit 731: Armas biogicas y experimentación en seres humanos.」(和訳:「731部隊:生物兵器人体実験」)という言葉を添えて、4枚の写真を掲載している。

このショッキング写真を含むツイートは数日のうちに数千回リツイートされ、1万回以上の「いいね」が押された。

だが、このツイートに掲載された4枚の写真について調べてみると、

とこのように、写真の素性がわかってくる。

少なくとも(2)と(3)は731部隊とは直接の関係はない。(1)も731部隊と同じ「防疫給部に属する軍人」の写真ではあるようだが、初出の新聞記事での扱われ方としては「敵兵を救護する様子」の写真である。

デマ写真の例2

こちらの写真付きツイートexit(※リンク先は、遺体が明瞭に映っている写真を含むツイート閲覧注意マスクを付けた眼鏡男性が、台に乗せた遺体を触って何らかの検をしているように見える写真であり、ツイートは「731部隊の蛮行」「生き人を切り刻んでいる。」という文章を付している。

しかし実際には、この写真1928年に発生した「済南事件」における日本人犠牲者の写真であると思われる。「国立公文書館  アジア歴史資料センター」にて開されている「済南事件邦人惨殺写真」という写真集[52]や「国立公文書館 デジタルアーカイブ」にて開されている「済南にける邦人惨殺死体写真送付の件」という資料[53]にて、同じ写真が掲載されている。(※こちらのリンク先は、遺体が明瞭に映っている写真をより多数含んでいる。閲覧注意

疑わしい写真の例

こちらの写真付きツイートexit。防護を着込んだ人物2名が、横たわった小柄な人物(子供?)に対して、一斗缶から手押しポンプでくみ上げた液体を噴している写真であり、ツイートは「731部隊員が子供ペスト菌を吹き付けて居る写真子供は死ぬしかいのです。」という文章を付している。

確かにこの写真2014年1月中国の新社通信が「中国省の資料館が日本軍が残した資料の中から、731部隊関連の資料を発見した」と報道したときに開された写真である[54]中国の有名な731部隊の記念館である「侵日軍第七三一部隊罪陳列館」のウェブサイト内の1ページにも掲載されている[55]

しかし上記の2014年当時のニュース記事でも、そして「侵日軍第七三一部隊罪陳列館」のページでも、どちらにおいてもこの写真に付けられているキャプション

这是翻拍的伪满民生部保健员参加1940年11月省农安县疫“防疫”活动照片

日本語訳:「これは偽満洲国満洲国中国ではこう呼称している)の民生部の保健派遣参加した、1940年11月の吉省農安県のペスト"防疫"活動の写真スキャンである」)

というもの。「"防疫"」という引用符付きの書き方をしていることから「純な防疫的だったか疑問だ」という含みはあるのかもしれないが、「ペスト菌を吹き付けている」などといった情報は全く含まれていない。

仮にペストに感染させようとするにしても、この写真のようにペスト菌を含む液体を近くで直接噴するといった実行者にとっても危険すぎる方法をとる意味は全くなく、「ペスト菌を吹き付けている」という上記ツイートのような説明は不自然すぎる。

当時から既に「ペスト菌はノミに媒介されて伝染していく」ことが知られていたため、「殺剤を噴してノミを除去している光景」という説明の方がより妥当な推定ではないかと思われる。

関連動画

関連項目

脚注

  1. *寒天調弁価格に関する件 昭和15年9月30日 加茂部隊長 石井四郎 - 国立公文書館 アジア歴史資料センターexit
  2. *神戸大学附属図書館 デジタルアーカイブ(神戸大学経済経営研究所) 新聞記事文庫・「感状・上聞に達す 衛生隊に初の栄誉 ノモンハン勇戦部隊」大阪毎日新聞 1940.5.23 (昭和15) 軍事(国防)(49-162)exitより
  3. *神戸大学附属図書館 デジタルアーカイブ(神戸大学経済経営研究所) 新聞記事文庫・「陸軍技術有功賞初の授与 世界的の新兵器 殊勲は輝く二十八件」東京日日新聞 1941.11.15 (昭和16) 技術問題(2-049)exitより。なお同リンク先では「少尉石井四郎(軍学校」となっているがこれはおそらくOCRの読み取りミスで、元のスキャン画像では「少将石井四郎(軍学校」とある
  4. *在満兵備充実に対する意見の件 昭和11年04月23日 関東軍参謀長 板垣征四郎 - 国立公文書館 アジア歴史資料センターexit168画像中93画像の「第二十三東軍防疫部の新設増強」のページより
  5. *「何も刻まれていない『731部隊』の精魂塔」 懇心平等万霊供養塔×二木秀雄 – TheNews(ザ・ニュース)exit
  6. *新京 公主嶺 奉天 撫順 熊岳城 大連方面出張報告/1 諸言 | 哈尓賓在石井部隊における出張並調査報告書 | 国立公文書館 アジア歴史資料センターexit
  7. *防衛省防衛研究所 > 陸軍一般史料 > 満洲 > 満蒙 > 外蒙赤衛軍密偵スフバートル供述に係る同軍の衛生装備其他の状況に就て > 3.密偵の供述内容 | 国立公文書館 アジア歴史資料センターexit
  8. *278号 北條圓了「細菌戦に就いて」exit「15年戦争と日本の医学医療研究会」ウェブサイトexit「陸軍軍医学校防疫研究報告」プロジェクトチームによる号別概要解説ページexitより。
  9. *73号 内藤良一「(翻訳)細菌兵器」exit、同上。
  10. *547号 村國茂「ケオピスネズミノミ(Xenopsylla cheopis Rothschild)成虫の低圧耐性に関する実験的研究」exit、同上。
  11. *165号 村國茂「ケオピスネズミノミ(Xenopsylla cheopis Rothschild)に関する実験的研究 第5編」exit、同上。
  12. *亀井貫一郎氏談話速記錄 - 亀井貫一郎 - Google ブックスexit
  13. *レーザー」ではなく「レーサー」なのは原文ママ
  14. *Select Documents on Japanese War Crimes and Japanese Biological Warfareexit』、140ページ
  15. *同上、141ページ
  16. *近藤昭二「細菌戦部隊の史料と一将校の顛末」『15年戦争と日本の医学医療研究会会誌』第12巻第1号1~8ページ(リンク先からPDFファイル閲覧可能)exit2011年12月、15年戦争日本医学医療研究会)
  17. *凍傷ニ就テ(第一五回満州医学会哈爾浜支部特別講演) | 国立公文書館 デジタルアーカイブexit
  18. *「"遠藤三郎"」の検索結果一覧 2件 - saitamalog 埼玉県市区町村議会議事録検索 #saitamalogexit
  19. *CiNii 博士論文 - 陸軍中将遠藤三郎と日中戦争 :「遠藤日誌」を中心にexit
  20. *当然ながら、この「大和ホテル」は戦艦大和あだ名ではなく、満州に存在していた南満州鉄道株式会社系列の高級ホテルの事と思われる
  21. *将軍の遺言: 遠藤三郎日記 - 宮武剛 - Google ブックスexit
  22. *日本憲兵正史 - 全国憲友会連合会. 編纂委員会 - Google ブックスexit/(引用した文章の一部ずつを「この書籍内から」の検索ボックスに入力して検索していくと、少しずつではあるが以下の文章全体がプレビューにて閲覧できる。なおOCR読み取りエラーと思われる誤植を数か所、引用時に修正した)
  23. *731部隊(4)高級軍幹部の証言 - 南京事件-日中戦争 小さな資料集exit:『季刊戦争責任研究』No21993年季号)に転載された内容を紹介している。
  24. *ぼんぼん雑記: 細菌戦関係史料exit吉見義明・香俊哉『七三一部隊と天皇陸軍中央』岩波ブックレット389(1995年)に転載された内容を紹介している。
  25. *西里扶甬子『生物戦部隊731』-2: さとし君の日ごろexit:西里扶甬子『生物部隊731―アメリカが免罪した日本軍戦争犯罪』(2002年)に転載された内容を紹介している。
  26. *第142回国会 参議院 総務委員会 第7号 平成10年4月7日 | 国会会議録検索システムexitより
  27. *甲斐文助『捜手記』2巻130ページ明治大学学術成果リポジトリ 塚本百合子 『甲斐捜査手記』より明らかになった旧日本陸軍の毒物研究とネットワークおよびGHQと交わされた“ギブ・アンド・テイク” 明治大学平和教育登戸研究所資料館 館報 第5号 2019年度 1-26頁, 2019年9月exitより孫引き
  28. *甲斐文助『捜手記』別巻241242ページ,267268ページ。同上
  29. *甲斐文助『捜手記』5巻25-26ページ明治大学学術成果リポジトリ 山田朗 帝銀事件と陸軍登戸研究所―捜査手記から明らかになる旧日本陸軍の毒物研究― 明治大学平和教育登戸研究所資料館 館報 第5号 2019年度 27-57 頁, 2019年9月exitより孫引き
  30. *同上、山田朗exit
  31. *同じく甲斐文助捜手記。常石敬一が自らのウェブサイトに掲載している、2004年4月29日にフィラデルフィア大学で行った講演資料の日本語訳PDFexitより孫引き
  32. *国立国会図書館デジタルコレクション検索を繰り返すとexit、該当の文章を読むことができる
  33. *池田 苗夫, 流行性出血熱の流行学的調査研究, 日本傳染病學會雜誌, 1967-1968, 41 巻, 9 号, p. 337-346exit
  34. *池田 苗夫, 流行性出血熱のシラミ,ノミによる感染試験, 日本傳染病學會雜誌, 1968-1969, 42 巻, 5 号, p. 125-130exit
  35. *松村高夫, 金平茂紀 『ヒル・レポート』(上) : 731部隊の人体実験に関するアメリカ側調査報告(1947年) 三田学会雑誌 (Keio journal of economics). vol84, no.2 (1991.7), p.508(206)-526(304). 慶應義塾経済学会exit
  36. *松村高夫, 金平茂紀 『ヒル・レポート』(上) : 731部隊の人体実験に関するアメリカ側調査報告(1947年) 三田学会雑誌 (Keio journal of economics). vol84, no.2 (1991.7), p.508(206)-526(304). 慶應義塾経済学会exit
  37. *scrupleexit - ウィクショナリー英語版
  38. *一応誤解のいように付言すると、「人体実験」(human experiments)は、一般的には『生きた人間に対する(医学的・薬学的な、しばしば非人的な)実験』をすが、科学的には『人間を対にした(医学的・薬学的はもちろん、社会学的・心理学的等々を含む)あらゆる実験の総称』とかなりの違いがあり、松村らは敢えてその辺りの誤解を回避する的で『人間に対する実験』と訳した可性がある。しかしながら、この文中での「human experimentation」が一般的なニュアンスであることについては、文脈で容易に判断できる。
  39. *731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟 | 第一審 | 判決文全文exit第1事件・損害賠償請求事件 第2事件・損害賠償等請求 - 平成9年(ワ)第16684号 - 東京地方裁判所 | 判例検索β - 無料の裁判例検索サービス | 裁判.inexit下級裁裁判例 平成9(ワ)16684  第1事件・損害賠償請求事件 第2事件・損害賠償等請求 平成14年8月27日  東京地方裁判所exit
  40. *15才の少年隊員に人体実験を手伝わせた731部隊 | | まなナビexit
  41. *戦争体験談「実際に行われた細菌戦」|西宮市ホームページexit
  42. *原文夫「元731部隊少年隊員に体験を聞く―長野県上伊那郡在住・清水英男さん」『15年戦争と日本の医学医療研究会会誌』第18巻第2号31~36ページ(リンク先からPDFファイル閲覧可能)exit2018年5月、15年戦争日本医学医療研究会)
  43. *731部隊の元少年兵が激白…「残虐な人体実験が我々の日常だった」(現代ビジネス編集部) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)exit
  44. *七三一部隊元隊員証言記録exitにおける森下清人の言、および原文夫「元731部隊少年隊員に体験を聞く―長野県上伊那郡在住・清水英男さん」『15年戦争と日本の医学医療研究会会誌』第18巻第2号31~36ページ(リンク先からPDFファイル閲覧可能)exit2018年5月、15年戦争日本医学医療研究会)における清水英男の
  45. *きい弾射撃に因る皮膚傷害並一般臨床的症状観察 | 南京事件-日中戦争 小さな資料集exit
  46. *闊背筋・濶背筋(かっぱいきん)とは - コトバンクexit
  47. *破傷風毒素並芽胞接種時に於ける筋『クロナキシー』に就て | 南京事件-日中戦争 小さな資料集exit
  48. *松村高夫, 金平茂紀 『ヒル・レポート』(上) : 731部隊の人体実験に関するアメリカ側調査報告(1947年) 三田学会雑誌 (Keio journal of economics). vol84, no.2 (1991.7), p.508(206)-526(304). 慶應義塾経済学会exit
  49. *ブログ記事「731からフクシマまで!!: この世の地獄!731部隊・南京大虐殺exit」内の掲載画像より孫引き
  50. *ブログ記事、日本現代誌: 「731部隊―実像と虚像」講演録 14exitより
  51. *西山勝夫. 総説:立命館大学平和ミュージアム所蔵澤正夫使用資料. 15年戦争日本医学医療研究会会誌. 14(2). 42-56. 2015
  52. *「済南事件邦人惨殺写真」 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110921600、磯谷資料 其1(別冊)(防衛省防衛研究所)exit。該当写真は7ページ下段。
  53. *「済南に於ける邦人惨殺死体の写真送付の件」 国立公文書館デジタルアーカイブ 農林省・一般文書・昭和3年exit。該当写真は9ページ
  54. *“731”档案证实:细菌战是日军侵略扩张的重大战略之一--新闻中心exit
  55. *七三一陈列馆研究部工作人员前往长春对农安鼠疫受害者进行调查取证 - 侵华日军第七三一部队罪证陈列馆exit
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