731部隊(満洲第七三一部隊)とは、大日本帝国陸軍の部隊のひとつ。
満州の関東軍に所属し、後世様々な悪名を背負った部隊である。
正式部隊名称は「関東軍防疫給水部本部」で、「満洲第七三一部隊」(731部隊)とは通称号。初代部隊長は石井四郎陸軍軍医中将。彼の影響力から石井部隊と呼ばれることもある。他にも異名があるが石井四郎にまつわる異名が殆どで、彼の影響力の高さが伺える。
陸軍軍医学校防疫部防疫研究室・満州出先機関として作られた関東軍防疫班が発展して出来た部隊であり、関東軍所属ながら、陸軍軍医学校防疫部に近しいという特殊な性質を持つ部隊となっている。なお組織改編に伴って「満洲第七三一部隊」となったのは1940年のことのようだが、それ以前から上記の「防疫研究室」「防疫班」等を背景として石井四郎や彼が率いる部隊は活動していた。「東郷部隊」「加茂部隊」などの名称を用いていたとされ、「加茂部隊長石井四郎」の名は国立公文書館アジア歴史資料センターで公開されている軍の公文書内にも登場する[1]。
主な任務は防疫・給水任務であり1939年のノモンハン事件では出動部隊の給水を行い、新京でペストが流行した際には防疫に協力すべく出動し成果を挙げている。他にも防疫給水で結果を出し、第六軍に派遣された防疫給水部は衛生部隊として史上初となる感状授与の栄誉を受け[2]石井四郎も金鵄勲章と陸軍技術有功賞[3]を受けた。日本軍といえば劣悪環境でバタバタ死んだイメージが強いが、少なくとも彼らの力が届く位置では不衛生さはあまりなかったということであろう。
ちなみに「関東軍防疫給水部本部」の通称号が「満洲第七三一部隊」(731部隊)であるが、「本部」の付かない「関東軍防疫給水部」の通称号は「満洲第六五九部隊」(659部隊)である。つまり「659部隊」の中に、その「本部」たる「731部隊」も存在した……という位置づけとなる。「本部」(731部隊)以外にも、「関東軍防疫給水部」(659部隊)内には「林口支部」(162部隊)、「牡丹江支部」(643部隊)等々の様々な支部が存在した。
この「659部隊」の隊員らの名簿(つまり731部隊の隊員も含む)は国立公文書館に所蔵されており、2020年現在ではそのカラースキャン画像がインターネット公開もされている。その名簿に関する情報も含めて、詳細は「659部隊」の記事を参照されたい。
年 | 出来事 |
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1931年 | 満州事変勃発 |
1932年 | 満州国建国 陸軍軍医学校に「防疫研究室」発足 この頃、満洲国の「背陰河」に研究施設が建設される |
1936年 | 「関東軍防疫部」発足 発足理由については、公文書において「豫定計畫ノ如ク昭和十一年度ニ於テ急性傳染病ノ防疫對策實施及流行スル不明疾患其他特種ノ調査研究竝細菌戰準備ノ爲關東軍防疫部ヲ新設ス」(予定計画のごとく、昭和十一年度において急性伝染病の防疫対策実施および流行する不明疾患その他特種の調査研究ならびに細菌戦準備のため関東軍防疫部を新設す)と記載されている[4] |
1937年 | 日中戦争開戦 |
1939年 | ノモンハン事件 |
1940年 | 「関東軍防疫部」が「関東軍防疫給水部」(満洲第六五九部隊)に改編。そのうち満州国平房の防疫給水部本部が「満洲第七三一部隊」となる |
1945年 | 8月8日 ソ連による対日宣戦布告 8月9日未明 ソ連対日参戦、ソ連軍の満州国侵攻 その後、8月14日までに施設爆破などの作業、平行して列車による撤退 11月1日 米軍が元731部隊員を尋問した最初のレポート『サンダース・レポート』 11月10日 千葉県で石井四郎の偽装葬儀が行われる |
1946年 | 1月9日 GHQより大日本帝国政府へ、石井四郎の捜索・護送命令が通達 1月16日 日本政府よりGHQへ「石井四郎の居所が不明」という返答 1月24日 「石井四郎を自宅にて尋問している」という米軍の記録 5月31日 米軍が元731部隊員を尋問した2番目のレポート『トムソン・レポート』 |
1947年 | 1月 ソ連より731部隊での人体実験に関する情報、及び石井四郎らに対する尋問要求が米軍に届く。これを受けて米軍による731部隊員への再尋問の準備開始 6月20日 再尋問に基づき作成された3番目のレポート『フェル・レポート』 12月12日 更なる詳細が掲載された4番目のレポート『ヒル・レポート』 |
1948年 | 1月26日 帝銀事件発生。その後の警察の捜査資料内に、石井四郎を含む元731部隊員の供述内容が残されている |
1949年 | 12月25日 ソ連にてハバロフスク裁判開廷 |
1955年 | 8月13日 二木秀雄、731部隊幹部の戦友会「精魂会」の代表として多摩霊園に「懇心平等万霊供養塔」建立[5] |
1956年 | 秋山浩『特殊部隊七三一』出版。731部隊を主題とした一般書として最初のものか |
1959年 | 石井四郎没 |
1975年 | 8月10日 TBSのテレビルポルタージュ『魔の731部隊』放映。731部隊を主題としたテレビ番組として最初のものか |
その一方、防疫を逆手に取った細菌兵器に代表される生物兵器や毒ガスなどの化学兵器の研究も行っていた、と言われる。
そもそも、陸軍に防疫部が出来たのも欧米視察・研究を行って帰国した石井四郎が、「鉄資源などに乏しい我が国にはこういった(生物・化学兵器)安上がりで威力のあるものは重要である」などと提言し、軍上層部の耳目を惹いたからとする説もある。その説に則れば陸軍防疫部の末裔であり、ソ連や中華民国といった仮想敵国が多い満州所属の731部隊がこの研究をするのはある意味必然とも言えるのかもしれない。
こういった研究は行われたのであれば極秘裏に進められただろうし、終戦時に731はソ連への資料流出を恐れ少なくない資料を破棄したことなどの様々な理由から、今でもこの辺りの実情はわからないことが多い。
ハバロフスク裁判では性病やコレラなどを媒介する生物兵器や、びらん性の毒ガスなどの研究を行った特殊部隊であると認定された。ただ、ハバロフスク裁判も東京裁判やニュルンベルク裁判同様、戦勝国が一方的に裁く性質があったため100%信頼は出来ないということは付記しておく。
ただしハバロフスク裁判の資料だけでなく、日本側の政府公開資料中でも、以下のように731部隊の生物・化学兵器に関する記述は見つかる。
たとえば石井部隊所属の人物の出張記録『哈尓賓在石井部隊における出張並調査報告書』では「この出張の目的は、一つは大量生産用の培地研究で、もう一つは昆虫兵器研究の参考にするためである」「当部隊の目的は細菌の大量生産である」といった意味の記述がある。この資料は元は陸軍軍医少将「松崎陽」氏の寄贈により防衛庁防衛研修所戦史室が所蔵していたもので、現在では日本の政府機関「国立公文書館 アジア歴史資料センター」にてインターネット公開されている。[6]
一、緒言
今般ノ小官等ノ出張ニハ二樣ノ目的アリキ。一ハ大量生産ヲ中心トシテノ培地研究、他ハ攻擊武器トシテノ昆蟲研究ノ參考ニ資セムガ爲ナリ。
抑モ當隊ノ目的トスル所ノ細菌ノ大量生産ノ樣式ニツキテ考察セムニ、(後略)(書き下し:今般の小官らの出張には二様の目的ありき。一つは大量生産を中心としての培地研究、他は攻撃武器としての昆虫研究の参考に資せんがためなり。
そもそも当隊の目的とする所の細菌の大量生産の様式につきて考察せんに、)
同じく「アジア歴史資料センター」で公開されている、『外蒙赤衛軍密偵スフバートル供述に係る同軍の衛生装備其他の状況に就て』[7]は、石井部隊に所属する軍医少佐と軍医大尉が特務機関の協力のもとにソ連赤軍の密偵(スパイ)を尋問して得た、赤軍の衛生装備その他に関する情報記録である。その中には以下のように「水の飲用に慎重になることで防げて」「奇襲に使える」特殊な兵器であるらしい「B.K」を赤軍に使用することを検討する内容が含まれている。
(中略)
B.Kニ對シテハ何等教ヘラレタル所ナシ然レトモ水ノ飲用ニ對シ愼重ナル態度ヲ持セル所ヨリ見レハ幹部級ニハ相當ノ豫備智識アルモノト想像セラル。
(後略)B.Kに対しては何ら教えられたる所なし、しかれども水の飲用に対し慎重なる態度を持せる所よりみれば、幹部級には相当の予備知識あるものと想像せらる。)
13. 結論
之ヲ要スルニ外蒙赤衞軍ノ衞生裝備並衞生智識ハ甚タ幼稚ナルモノヽ如ク特ニB.Kニ関シテハ全然ノ無知ノ現況ニアリ奇襲スヘキ好個ノ對象ナリ(後略)
(書き下し:これを要するに、外蒙赤衛軍の衛生装備ならびに衛生知識は、はなはだ幼稚なるもののごとく。特にB.Kに関しては全然の無知の現況にあり、奇襲すべき好個の対象なり。)
よって「何もかもが、戦勝国の裁判で一方的に決めつけられた」というわけではなく、少なくとも「昆虫兵器や細菌大量生産の研究をしていた」「B.Kと呼ばれる特殊な兵器を扱っていた」らしいことは日本側に残る政府公開資料からも確認はできる。
ちなみにこの「B.K」だが、実は『陸軍軍醫學校防疫研究報告 第2部』(陸軍軍医学校防疫研究報告 第2部)という、石井部隊と関連が深い陸軍軍医学校が出版した書籍内に「BK」が登場する記事がある[8]。それらの記事では「BK」は明らかに細菌兵器の事を指している。さらにこの書籍内には細菌兵器に関連するドイツ語の書籍を翻訳した記事があり、その中で細菌兵器はドイツ語で「Die Bakteriologische Kriegswaffe」(直訳すれば「細菌学的戦闘兵器」)と表記されている[9]。この「Bakteriologische Kriegswaffe」の略称が「BK」「B.K」であろうと思われる。
また同じ『陸軍軍醫學校防疫研究報告 第2部』内には、「村國茂」による『ケオピスネズミノミ(Xenopsylla cheopis Rothschild)成虫の低圧耐性に関する実験的研究』[10]や『ケオピスネズミノミ(Xenopsylla cheopis Rothschild)に関する実験的研究 第5編』[11]などという研究報告が掲載されており、前者には
とあり、また後者には
P攻撃用武器たるP菌感染蚤輸送用規制策に当り、先ず以て考慮すべき重要なる条件は生きたる運動自由なる蚤が斯くの如き容器の間隙より遁走せざることなり
とも記されているという。後述する『金子順一論文集』内には『PXノ効果略算法』というペストに感染させたノミを航空機から散布した際の効果を論じた論文があるが、それとよく合致するものと言える。
また生物兵器だけではなく、資料『きい弾射撃ニ因ル皮膚傷害並一般臨床的症状観察』(後述)からは、化学兵器開発・実験を行っていたことも確認できる。
軍内部ではないが、軍の兵器開発に協力していたという政治家の回想録にもわずかに記載がある。政治家「亀井貫一郎」の回想録『亀井貫一郎氏談話速記録』に以下の記述がある。[12]
昭和十八年五月一日 戦争遂行のため、各国の技術情報を蒐集し、我国朝野科学技術者を動員し、その研究により、企画を立案し、大本営に進言するところの内閣技術院、陸海軍省に協力する機関として、「財団法人聖戦技術協会」を設立せられることとなり、その理事長に就任す。爾後、専ら、新兵器を開発することと、民間産業を軍需産業に調整することと、中小企業を大企業の正しい系列に置くことと国民の食糧の開発とその保存の技術開発等とに従った。
㋑液体酸液体酸素及びその魔法壜(協会自ら当る)。㋺ロケットミサイル、その誘導体は東芝の西堀栄三郎氏と住友電気の梶井剛氏(協力)。㋩風船爆弾。関東軍防疫給水部、石井中将部隊の細菌爆弾及び謀略兵器。ANTHRAX(脾脱疽菌)開発(協力)。陸軍登戸研のレーサー[13](いわゆる殺人光線)、(連絡)。
また、この『亀井貫一郎氏談話速記録』には以下のように、亀井が秘密兵器に関する事柄を米国に提供した見返りとして、兵器研究開発者の戦犯免除の交渉を成功させたという記載もある。
△昭和二十年九月 終戦となる。陸軍の依嘱に基き協会として日本陸海軍の開発したる一切の秘密兵器を復元し、米国国防総省担当者に引渡し、研究関係者の戦犯の特免の了解を得る。
これに関しては、米国側が情報公開している当時の資料にも、確かに亀井貫一郎がそういった交渉の場に出ていたことが記録されている。
例えば、1947年4月21日付のJWC資料番号「228/01」、題名「Conversation with KAMEI, Kanichiro」(亀井貫一郎との会談)という資料。「Alerts Dr. Fell to undisclosed information by Japanese of its offensive developments of BW.」(フェル博士に、日本による生物兵器の攻撃的開発に関する未公開情報があるという警告)といった内容であるとのこと。[14]
また1947年5月7日付のJWC資料番号「228/07」、題名「Telephone conversation with KAMEI, Kanichiro」(亀井貫一郎との電話会談)という資料は「Business associate of ISHII, Mr. Miyamoto, states ISHII wants "documentary guarantee of immunity."」(石井と宮本氏とのビジネス上の関係、石井が「免責の文書化された保証」を求めているという声明」)といった内容であるとのこと。[15]
そういった生物化学兵器の開発の途上で、捕虜や民間人をマルタ(丸太)などと呼び同意を得ない非人道的な人体実験を行ったといわれる。
3000人を超える犠牲者が出たとも言われるが、証言によって人数がばらついたりするので断定出来るほど材料が無いのが現状である。ある意味では南京事件と似たような様相を示す事例となっている。文書が少ないことや証言者に撫順戦犯管理所帰りが混ざるのもそっくりである。
肯定派は「資料は部隊ぐるみで隠滅したから存在しない、証言に頼らざるを得ないし彼らがウソを付くはずがない」 といい、それに対して否定派が「日本軍は巨大な官僚組織であって、文書が発行されていないのに大掛かりな行動は出来ない、あり得ない」と返す、という論争が何十年も続いている。
実際に、当時大本営参謀だった陸軍中佐の朝枝繁春がインタビューにて「自分があらゆる証拠を隠滅する命令を石井四郎に言い渡した」といった内容を話している[16]ため、この命令が厳守されていれば証拠は残っていないはずだった。
だが、後述するように日本・アメリカ合衆国・ソビエト連邦などからそれぞれ資料・記録が提出・発見されてきており、「証言しかない」という状況は既に過去のものとなっている。証言とそれらの資料・記録を比較検討して「各々の証言や資料・記録がどの程度信頼できるのか、確認していく」ことが可能な状況になってきているとも言える。
これらの記録に基づいて、「同部隊で人体実験は行われていなかった」とする歴史学分野や医学分野の専門家はほぼ存在しなくなっている。
日本の医学系学術団体を統括する「日本医学会」は2022年に行われた「創立120周年記念事業」の一環として、過去を振り返り未来を展望して社会に提言する文書『未来への提言』を纏め2023年に発表したが、その中にも731部隊で行われた人体実験について「事実」「過去の過ち」と記した箇所がある(「第4章 医療倫理・研究倫理の深化」>「1. 120年間の振り返り」)。
わが国も、これまで医学・医療の名において、人々に大きな犠牲を強いた過去を持つ。戦時中に石井機関と七三一部隊で中国人やロシア人等を対象とした非人道的な人体実験が広範に行われ、この研究には当時の日本の医学界をリードしていた大学教授たちが多く参加していた事実がある。その後も、ハンセン病患者に対する強制隔離や優生手術を行った事件や薬害エイズ事件等の重大な事例、さらには、「旧優生保護法」に象徴される生命倫理原則や基本的人権、インフォームド・コンセントの蹂躙が起こった。私たちは、こうした過去の過ちに学び、将来にわたって非倫理的な状況が再び起こることのないよう、私たち自身の倫理を確固たるものとし、時には流れに抗うことも医学に携わる者の責務であることを改めて認識する。
かつて陸軍軍医中佐であり後に陸上自衛隊衛生学校長となった人物が私的に所蔵していた『きい弾射撃ニ因ル皮膚傷害並一般臨床的症状観察』『破傷風毒素並芽胞接種時に於ける筋『クロナキシー』に就て』といった資料が、本人が死去した後に遺族がチリ紙交換に出し、その廃品業者が古書店に持ち込んだことで1983年に発見されている。これらの資料においては人体実験に関する記述がある。
また、一旦米国に回収されたものの返還された文書として『凍傷ニ就テ(第一五回満州医学会哈爾浜支部特別講演)』があり、国立公文書館デジタルアーカイブとしてインターネット上でも公開されている[17]。
この文書内の手書きの箇所には、凍傷が生じる過程を精査するために「指の皮膚温度が0℃以下になり白色固結して膨張するまで、つまり指が完全に凍結するまで冷却する」という過酷な「実験1」を行っていたことが明記されている。
(前略)
而シテ更ニ温度低下ガ續ケバ動脉収縮ノ爲ニ指容積ハ益々減少シ遂ニ皮膚温ハ零度以下ニ低下ス
コレ組織過冷却ノ現象ナリ而シテ或点ニ於テ皮膚温ハ急激ニ上昇シコノ時指ハ白色トナリ固結ス
指容積モ亦コノ時急激ニ増加ス之ハ過冷却状態ガ破レテ組織氷結スル爲ニ温度上昇シ同時ニ氷結ニヨリテ容積膨張スルモノト考フベキナラン
即チ凍傷ノ始リハ全ク組織凍結ナリ
(後略)(書き下し:しかして更に温度低下が続けば、動脈収縮のために指容積はますます減少し、ついに皮膚温は0度以下に低下す。これ組織過冷却の現象なり。
しかしてある点において皮膚温は急激に上昇し、この時、指は白色となり固結す。指容積もまたこの時、急激に増加す。これは過冷却状態が破れて組織氷結するために温度上昇し、同時に氷結によりて容積膨張するものと考うべきならん。すなわち凍傷の始まりは、全く組織凍結なり。)
さらに後段にあるタイプ打ち記述の表現により、この「実験1」が動物ではなく人に凍傷を発生させていたこともわかる。
(前略)勿論コノ血管反應ニハ個人的ニ大ナル差(体質的差異)アリテ人ニヨリテハコノ抵抗性甚ダ小ニシテ容易ニ凍傷ヲ發生シ得ル事ハ實験1ノ例ニ明カナレ共(ママ)、(後略)
(書き下し:もちろん、この血管反応には個人的に大なる差(体質的差異)ありて、人によりてはこの抵抗性、はなはだ小にして容易に凍傷を発生しうることは実験1の例に明らかなれども、)
この文書に関しては単独記事『凍傷ニ就テ』も参照されたい。
これら『きい弾射撃ニ因ル皮膚傷害並一般臨床的症状観察』『破傷風毒素並芽胞接種時に於ける筋『クロナキシー』に就て』『凍傷ニ就テ(第一五回満州医学会哈爾浜支部特別講演)』は現在では『七三一部隊作成資料』という書籍にも収録されている。
意外なところでは、地方の施設にも731部隊(の前身)が行った人体実験に関連する資料が保管されている。埼玉県狭山市の市立博物館には陸軍中将だった「遠藤三郎」と言う人物の遺品が寄贈されている[18]のだが、その中に『陸軍中将遠藤三郎日誌』と呼ばれる日誌や諸文書がある。
この日誌や諸文書は通常は非公開であるが、研究目的の者が遠藤家の遺族の許可を得れば閲覧可能となる。これらに記録された戦時中の情報はその他の公文書と照らし合わせても事実関係に矛盾が無いため真正性が高いとされ、例えば関東大震災後の救助活動についてや、満州での関東軍の対ソ地下軍事要塞についてなど、雑多な分野の著書や論文が参照元としている。
その長大な資料中のごく一部ではあるが石井四郎が率いた部隊の人体実験に関する記録があり、宮武剛の著書『将軍の遺言: 遠藤三郎日記』(毎日新聞社、1986年)や張鴻鵬の論文『陸軍中将遠藤三郎と日中戦争 :「遠藤日誌」を中心に』(名城大学博士(法学)論文、2015年度)などで紹介されている。
後者の論文は名城大学の学術リポジトリにおいてインターネット上で公開されている[19]ため、その第四部「遠藤三郎の対ソ連論と行動」より該当部を抜き出して紹介すると、
(一九三二年)一月二十日(水)曇
......石井軍医正来リテ 細菌戦ノ必要ヲ力説ス 共鳴スル点多シ速々実験セシムベク処置ス......
例えば、1932年9月10日の「日誌」には「正午石井軍医正ニ招待セラレ大和ホテル[20]ニ行キ医師連中ト会食ス」と記され、翌33年8月5日の「日誌」には「(長春)西公園ニテ石井式濾水器ヲ見学ス」と記され、(後略)
(一九三三年)十一月十六日(木)快晴
午前八時半 安達大佐立花中佐ト共ニ交通中隊内試験場ニ行キ試験ノ実情ヲ視察ス
第二班毒瓦斯毒液ノ試験 第一班電気ノ試験等ニ各二名ツヽノ匪賊ニツキ実験ス ホスゲンニヨル五分間ノ瓦斯室試験ノモノハ肺炎ヲ起シ重体ナルモ 昨日ヨリ尚生存シアリ 青酸十五mg注射ノモノハ約二十分ニテ意識ヲ失ヒタリ 二万ボルト電流ニ依ル電撃ハ数回実施セルモ死ニ至ラズ 最後ニ注射ニヨリ殺シ 第二人目ハ五千ボルト電流ニ依ル試験モ亦数回ニ及ブモ死ニ至ラズ 最後ニ連続数分間ノ電流通過ニヨリ焼死セシム 夜塚田大佐ト午後十一時半迄話シ 床ニツキシモ安眠シ得ズ(書き下し:午前8時半、安達大佐・立花中佐と共に交通中隊内試験場に行き、試験の実情を視察す。
第二班:毒ガス・毒液の試験、第一班:電気の試験等に、各2名ずつの匪賊(共産党員や抗日パルチザン)につき実験す。ホスゲンによる5分間のガス室試験のものは、肺炎を起こし重体なるも昨日よりなお生存しあり。青酸15mg注射のものは、約20分にて意識を失いたり。2万ボルト電流による電撃は、数回実施せるも死に至らず、最後に注射により殺し、第2人目は5千ボルト電流による試験もまた数回におよぶも死に至らず、最後に連続数分間の電流通過により焼死せしむ。夜、塚田大佐と午後11時半まで話し、床につきしも安眠しえず。)
とある。「試験」についての概要を感情が消失したかのように淡々と挙げていく一方、最後に「塚田大佐と午後11時半まで話し、床につきしも安眠しえず」とあることから、視察によりかなりの精神的ショックを受けていたことが覗える。
なお論文著者の「張鴻鵬」博士が中国人であることを疑いの材料にしようとする人も居ようが、同様の引用は上記の1986年の宮武剛の書籍にも含まれている[21]。
731部隊で人体実験の対象となっていた死刑囚(いわゆる「マルタ」)らの出自については、抗日運動家やスパイと疑われて逮捕され有罪とされた人々を、憲兵組織が「特移扱(特別移送扱い)」や「特移送」という呼称の元に731部隊へと送り込んでいたものであると語られることが多い。
こちらについては、憲兵の戦友会の全国組織である「全国憲友会連合会」がまとめて1976年に出版した回想録『日本憲兵正史』内にも、それを一部肯定するような記述がある。[22]
また、ソ連側のスパイもあらゆる手段を使って石井部隊の秘密を探ぐろうとしたが、失敗している。ところが人間とは弱いもので、石井部隊の関係者が、ハルピンの料亭などの酒席で漫す談話の片鱗で、相手の秘密研究が行われていることがわかった。これらの情報を得るたびに、ハルピン憲兵隊では防諜上の立場から、石井部隊の責任者に警告を発していたのであった。石井部隊は憲兵とそう深い関係もないので省略するが、全く内容に触れないのでは不親切とも思われるので、その一端を紹介しておく。まず、人体実験の問題が巷間噂され、現在も多くの出版物に面白く描かれているが、これは事実で、チチハル憲兵隊などから、ハルピン憲兵隊宛「丸太一本送る」と連絡があると、これは死刑囚を石井部隊へ送ることであった。しかも、この丸太である死刑囚は、石井部隊に送られると、起居就寝から食事運動に至るまで最高の待遇をされて、健康な死刑囚に仕立上げられる。部隊内の食事材料はすべて自給自足であった。その食事たるや栄養満点のものである。しかも、死刑囚の独房というより居室は、完全滅菌された部屋で、冷暖房から太陽の光線まで、これまた最高の設備である。さらに、医者はつねに健康管理を指導するのであるから、数ヵ月経過すると肉体的には完全に健康な死刑囚となる。この死刑囚にペスト菌をもつノミをくわせ、健康な人間がペスト病になっていく経過を記録研究する。この実験のやり方や収容されていた死刑囚そのものに、実は問題もあったのだが、これは憲兵史なので遠慮させてもらう。とにかく、細菌、毒ガスの研究が、学問的に見る限り素晴らしいものであったのは事実である。その他、多くの研究成果があるが、これまでも石井部隊についてはいまわしき流言が多く、迂潤に書けないのが残念である。石井部隊の研究、実験方法と戦争に利用されたのではないかというところから、多くの非難があるのは当然だが、正しく人類社会に利用される限り、研究そのものは貴重である。
終戦時、関東軍は石井部隊に対し建物および一切の設備品の爆破と、部隊員全員の内地帰還を速かに実施させたので、ソ連軍がハルピンに侵入して、あらゆる手段を講じて石井部隊の内情を調査したが、何も得られなかった。この点だけは関東軍は手際のよさを見せたのであった。また、石井部隊が給水用ポンプを研究、開発、製作して、国民の生活に貢献した事実もあったことを付記しておく。
該当部分の記述者は、「いまわしき流言」が多いと石井部隊が悪名として語られることを非難し、また「学問的に見る限り素晴らしいものであった」「給水用ポンプを研究、開発、製作して、国民の生活に貢献した」とも記している立場からは、記載者は基本的には石井部隊の活動を擁護するスタンスにあったようだ。逆に言えば、そのような意見を持つ人物であっても、石井部隊で人体実験が行われていたことは事実として認めていることがわかる。
他にも防衛庁防衛研究所図書館には通称『大塚備忘録』と呼ばれる「大塚文郎」という軍医の日誌の写しが保管されており、その中のごく一部ではあるが1944年の記録として「マルタ実験」「丸太500名」「丸太使用実験」といった記述が細菌実験に関する文脈で登場するという。
この文書はインターネット上にスキャン画像等が存在しておらず、また現在では写しの公開もされていないため直接の確認は困難だが、公開されていた頃に閲覧して内容を転載した書籍や文書がいくつかあり、それらの書籍・文書の内容紹介というかたちでいくつかのウェブサイトに文面が掲載されている[23][24][25]。
生物兵器使用やその計画(当時もジュネーブ議定書で使用は禁止、ただし日本が批准したのは戦後)もあったとされるが、こちらも現存する資料は乏しい。
わずかに残る生物兵器使用に関する資料としては、1993年に防衛庁防衛研究所図書館で発見された『井本熊男業務日誌』や、2011年に国立国会図書館関西部で発見された『金子順一論文集』などがあり、これらにおいては生物兵器を散布したことに関する記述がなされている。
この『金子順一論文集』内では『PXノ効果略算法』などペストノミを実際に散布した際の効果について推算する論文があるが、本記事の「生物・化学兵器部隊として」の節で既に紹介した「村國茂」による『ケオピスネズミノミ(Xenopsylla cheopis Rothschild)成虫の低圧耐性に関する実験的研究』や『ケオピスネズミノミ(Xenopsylla cheopis Rothschild)に関する実験的研究 第5編』の内容とよく合致している。なお論文表題にもある「PX」とは、ペストを指す「Pest」あるいは「Plague」と、上記のケオピスネズミノミの学名「Xenopsylla cheopis」(あるいは単にネズミノミ属全般を指す「Xenopsylla」)の頭文字をとったものと思われる。
ちなみにこの防衛庁防衛研究所図書館にある『井本熊男業務日誌』だが、研究者が書籍や論文で引用していることからもわかるとおり、当初は公開されていた資料であった。しかし後に非公開化されてしまっている。その理由に関して平成10年(1998年)に国会において防衛庁職員と国会議員が問答をしたことがあるが、防衛庁側の答弁によれば「業務日誌ではあっても個人日誌であるので公文書ではない。よってプライバシーの観点から公開できない」という理由で[26]非公開化されたとのこと。
また、1948年に起きた殺人事件「帝銀事件」の捜査資料にも、731部隊に所属していた人物が「生体解剖」について言及する箇所が記録されている。
帝銀事件とは、1948年1月26日に起きた有名な殺人事件である。毒物を用いて銀行職員らを多数殺害し、その隙に銀行内の金品を奪って犯人が逃走した。
問題は、この帝銀事件において犯人が特殊な毒物を使用したことである。現場の保存が不十分であったため「この毒物が何であったのか」が不明となってしまったが、青酸カリ説やアセトシアノヒドリン(青酸ニトリル)説などが挙がった。警察は毒物/化学兵器に詳しい者の犯行であると推定。戦時中にそれらを扱っていた部隊に所属していた者が疑わしいとみて、該当する部隊について捜査し始めた。
その捜査の対象の中には、731部隊も含まれるようになった。この事件の捜査の記録は捜査主任だった警視庁捜査一課係長の甲斐文助が『捜査手記』(『甲斐捜査手記』や『帝銀事件捜査手記』などとも通称される)という冊子にまとめており、その中では「なぜ731部隊が捜査線上に挙がったのか」「捜査内で731部隊について挙がった証言」が記されている。
この『捜査手記』によれば、犯人の偽名として使われた人物(松井蔚という厚生省の技官で、医学博士)の関係先から「石井四郎なる軍医が細菌と毒薬の研究を行い、原住民の毒殺を指揮した」という情報が1948年2月15日に警察に寄せられていたという[27]その後も陸軍関係者よりたびたび「元第731部隊員が犯人なのではないか」という意見が寄せられるようになった。また「731部隊設立前の話」とのことではあるが以下のような証言も得られていた。
石井らは第731部隊設立前に,ハルビン郊外の背陰河(はいいんが)に実験場を開設していた。実験場での活動について,警察に報告された一例は,1933(昭和8)~ 1935(昭和10)年頃,ハルビン特務機関と連携し,「祝杯」と見せかけ,青酸カリ入りの酒を白系ロシア人スパイに飲ませ毒殺,遺体はすぐに軍医(後の第731部隊員)によって解剖されたというものだ。[28]
このような証言に基づいて、捜査員は731部隊の長だった石井四郎にも面会している。このとき石井は青酸ニトリルについては「分子式は分るが自分の部隊では研究してないので効果は判らぬ」と解答するものの、青酸カリについては「分量により時間的に生命を保持させられるか否か出来る 致死量多くすればすぐ倒れる 分量により五分―八分 一時間三時間翌日 どうでも出来る(之は絶対的のものである) 研究したものでないと判らぬ」と詳細に解答している。[29]
また、731部隊に所属していた医師/研究者であった「早川清」「岡本耕三」などの証言記録も含まれており、その中には「生体解剖」「人体実験」「殺害」に関する証言、およびGHQ/米軍との裏取引に関する証言もある。
【資料6】『甲斐捜査手記』別巻(1948年7月26日)
元軍医大佐 早川清[256頁][中略]
生体解剖に就て
帝銀事件が発生した頃は未だ進んでいなかったけれ共[256頁]/最近に至ってGHQの吉橋と云ふ二世を通じて私達の身柄を/保障して呉れると米軍では申し若し米ロ戦争が開始をされた/際には身柄は早速米本国へ移す事になっていると聴いている。/細菌戦術の優れた点も幾分認めて居るらしい。[中略]
当時使用した薬物方法(詳細)・人員等につき聴くに/
GHQで調査された際関係者同志本件については絶対口外/せぬ様誓約したのであるから勘弁して呉れとの事で語らなかった
生体解剖の件も戦犯にならぬ事が最近判ったので申した次第で/すと附言す(GHQでは本件に関しては秘密を厳守するがお前達の方から墓穴を掘る様な事の/無様 警察官の中にも共産党あり 警察官にも口外せざるとの事である 何万かの部下/を保護する為にも)出典:捜査一課係長・甲斐文助『帝銀事件捜査手記』別巻(帝銀事件再審弁護団所蔵)
255 -257 頁。/は原文の改行。[ ]内は山田の補足[30]
岡本の言に依れば研究の場合は一度に捕虜15名くらいを試験台に供し病死の前に発病後3日目4日目と云う具合に其の病状を研究する為に、殺して死体を解剖に附したと云う。死体は何れも窒息死であった為恐らく青酸加里を以って毒殺したものと思うが毒殺の下手人は誰であるか判らぬと云う。それは死体だけを研究の為廻されていたからである。[31]
この捜査資料中の記録は「中立性」という意味で重要である。後述する米軍の『ヒル・レポート』『フェル・レポート』やソ連の「ハバロフスク裁判」は「戦勝国側の資料」であるので「そんなもの、戦勝国が捏造したのだ」と言い張ることはできなくもない。しかしこれらの記録は「日本の警察によって」「基本的に戦犯審理と関係が無い、別件の殺人事件の捜査内で」行われたものであるため、戦勝国の論理などは関係が無い。また、捜査官は「彼らの戦犯を追及する」目的で証言させているわけではないので、これらの証言を誇張して捜査手記に残す動機も乏しい。
またこの捜査手記以外にも、医学・医療業界の業界紙である『日本医事新報』の1948年10月号に以下のような文章が掲載されている[32]。当時はこの件に関してはマスコミに報道規制が敷かれていたと言われるが、『日本医事新報』は一般的なマスコミではなく「あくまで医療関係の業界紙」という特殊な立ち位置であったためにその報道規制の網にかからなかったものか。
ハルピンの石井四郞氏はいち疾く引揚げて來たが追放の爲めたつきに窮し牛込邊りで宿屋を營んで居る。今度の帝銀事件はその殘虐さから云つて、警視廳では恐らく舊石井部隊の兵員であろうというのでその方面を探索し、石井氏も搜査に協力したそうである。
このように、こちらでも「石井部隊の元隊員の関与が疑われ、石井四郎も捜査に応じた」という話が語られている。また石井部隊の元隊員であろうと推測された理由は「犯行の残虐さ」である、と当時の医学業界人が認識していたこともわかる。
『日本傳染病學會雜誌』(日本伝染病学会雑誌)とは、「日本傳染病學會」(日本伝染病学会)という学会の会誌であり、伝染病分野の医学雑誌である。この「日本傳染病學會」は後に「日本感染症学会」に改組され、『日本傳染病學會雜誌』も『感染症学雑誌』を後継雑誌として現在も発刊が継続している。
この『日本傳染病學會雜誌』において1967年~1968年に、石井部隊に所属していた軍医「池田苗夫」が著した、「死の危険がある伝染病を、健康人に意図的に感染させる」という人体実験についての記載がある論文が掲載されている。もちろん、さすがに「マルタ(捕虜や囚人)を使った」等と記載されたものではなく、感染させた対象は「有志」と表現されているが。
以下に該当部分の引用を掲載するが、これらの論文は総合学術電子ジャーナルサイト「J-STAGE」にて2011年から公開されているため、誰でも実際にダウンロードして閲覧することができる。興味がある方は文献名に付けた脚注のリンク先から、論文データを直接閲覧されたい。
まず、1967年に掲載された論文『流行性出血熱の流行学的調査研究』[33]から。
黒河陸軍病院長の許可を得て,有志2名の内1名には臀筋内に桜庭患者の有熱期の血液10mlを注射 し,他の1名には同患者の血液5.0mlを上腕皮下に注射を試みた.
この後、この2名の「有志」は流行性出血熱を発症したらしく、「A患者」「B患者」などと呼称された上で血液検査データや診察所見などが論文内に登場する。また、「有志」となる前にどこにいて元の職業がなんであったのか、ということを調査もしていたようだ。
次に、1968年に掲載された論文『流行性出血熱のシラミ,ノミによる感染試験』[34]から。
わたしは,流行性出血熱の病毒は,本病患者の血液に存在することを確認し得たので,新たに本病毒媒介者として,吸血昆虫の内,特に重きをコロモジラミとノミとに置き,いわゆる毒化シラミ,毒化ノミによる人への感染試験に着手した.
人工ふ化育成したコロモジラミを流行性出血熱患者,並びに耐過者に附着吸血せしめて,いわゆる毒化シラミとなし,1昼夜空腹のまま放置し,その5ない50匹を上記金網底ガラス器に入れ,毎日20~30分間にわたり健常人に附着せしめて感染試験を行なつた.なお,ノミをもつてする感染試験も,おおむねシラミをもつてした感染試験に準拠して行なつた.
ノミ毒化試験は本病罹患者4例でヒトノミ20匹ないし61匹.ケオプスネズミノミ7匹ないし202匹を,下腹部,内股部に,吸血せしめ,吸血時間は15~20分として実施した.新たに有志健康被検者4人を供試し,毒化ノミによる流行性出血熱感染試験を行なつた.すなわち,ヒトノミ,ケオプス7~79匹を下腹部に吸血,吸血時間は,約20分とした.この感染試験における成果は,4例ともいずれも感染可能であつた.
そこで,わたくしは,シラミ,ノミに重点を置き,本症患者に附着のコロモジラミを採つて,その毒化シラミを用い,一方人工ふ化飼育の健常シラミを本病患者に附着吸血させ,その毒化シラミを有志被検者2名に附着吸血せしめたるに,いずれも,明かに,本病に感染発症した.
要するに、『流行性出血熱の流行学的調査研究』の方は「流行性出血熱の患者の血液を採取して健康な「有志」に注射すると、「有志」を流行性出血熱に感染させることができた」という内容であり、次の『流行性出血熱のシラミ,ノミによる感染試験』の方は「流行性出血熱の患者の血液を吸ったシラミやノミを集めて、健康な「有志」の皮膚から吸血させると、「有志」を流行性出血熱に感染させることができた」という内容である。
さて、この「有志」とはいかなる人材なのであろうか? 引用したように、池田自身が流行性出血熱の当時の死亡率は15%程度と記載している。「15%程度の確率で死ぬ伝染病にかかってもらう人体実験をするので、協力してくれないか」と乞われて、自ら協力するものだろうか?
また、この「有志」たちの名前が全く登場しないのはなぜだろうか? 上記引用部分にも「桜庭患者」というフレーズが登場するが、この「桜庭」とは患者の苗字のようで、他にも軍人とおぼしき流行性出血熱患者たちはこれらの論文内で実名が記載される。一方、この感染させられた「有志」たちは一人も名前が記載されていないのであった。
アメリカと取引して生物・化学兵器の人体実験のデータを渡したなどとも言われる。
石井四郎を含む731部隊の上層部が戦犯訴追を逃れたことや、上記のように亀井貫一郎の回想録の記述、GHQ統治下で起こった帝銀事件の捜査中に得られた米軍との裏取引の証言などがそれを補強しているとされる。
実際にアメリカでは、機密指定期限を過ぎて開示された731関連の公文書が何種類か発見されており、亀井貫一郎に関しては既に述べたように亀井本人の回想録の記述と合致する内容が記されている。
更には、アメリカが731部隊について調査・報告した『サンダース・レポート』『トムソン・レポート』『フェル・レポート』『ヒル・レポート』などがある。このうち、後期に作成された『フェル・レポート』や『ヒル・レポート』で人体実験に関すると思われる記述がある。
『フェル・レポート』や『ヒル・レポート』の一部は慶應義塾大学の松村高夫などが自らの文献に転載しており、それが慶應義塾大学の機関リポジトリで公開されているためにインターネット上で参照できる[35]。
また、これらのレポートは、アメリカの「国立公文書記録管理局」(National Archives and Records Administration、略して「NARA」)のサイト内にある「ナチス戦争犯罪および日本帝国政府記録に関する政府機関間作業班」(Nazi War Crimes and Japanese Imperial Government Records Interagency Working Group、略しても長すぎるので最後の「Interagency Working Group」の頭文字のみ取って「IWG」)が調べものの助けとして提供している、資料カタログPDF『Select Documents on Japanese War Crimes and Japanese Biological Warfare』内に名称が挙げられている。
このPDFはあくまで「資料のカタログリスト」であるため完全な内容を含むわけではないのだが、部分的な画像スキャンが添えられている。そのため、その画像を閲覧することで、部分的ながらも松村高夫などの日本の研究者を通さない内容をインターネット上で参照することができる。
ちなみに上記の「IWG」について、「IWGが調査したが731部隊の人体実験などを示す報告書は見つから無かった」という主張が日本語圏のインターネット上でかなり流布されている。こちらについては本記事下部の「731部隊に関するデマ」の節を参照されたい。
『フェル・レポート』のうち、上記のIWGの配布PDF内にスキャン画像が掲載されていて閲覧可能な部分内にも、生物化学兵器や人体実験に関する記述が存在している。一部のみ抜粋して紹介する。
i. It was disclosed that there were available approximately 8,000 slides representing pathological sections derived from more than 200 human cases of disease caused by various B.W. agents. These had been concealed in temples and buried in the mountains of southern Japan.
(和訳:「i. 様々な生物化学兵器によって罹患した200人以上の人間の症例から取得された病理学切片を示す、約8000枚のスライドが現存することが判明した。これらは寺院の中に隠匿されたり、日本の南部の山中に埋められたりしていた。」)
3. The human subjects used at the laboratory and field experiments were said to be Manchurian coolies who had been condemned to death for various crimes. It was stated positively that no American or Russian prisoners of war had been used at any time (except that the blood of some American POW's had been checked for antibody content), and there is no evidence to indicate that this statement is untrue. The human subjects were used in exactly the same manner as other experimental animals, i.e., the minimum infectious and lethal dosage of various organisms was determined on them, they were immunized with various vaccines and then challenged with living organisms, and they were used as subjects during field trials of bacteria disseminated by bombs and sprays.
(和訳:「研究室内や野外での実験で使用された人間の被験者には、様々な罪で死刑を言い渡された満州人の苦力が使用された。アメリカ人やロシア人の戦争捕虜は全く使用していない(数名のアメリカ人戦争捕虜の血液が、抗体含量の調査のために検査されたことを除いては)と明確に主張され、この主張が虚偽であると示す根拠は発見されていない。人間の被験者は、完全に他の実験動物と同様に扱われた。例えば、様々な病原微生物の最小感染量や致死量は彼らを使用して決定されたし、様々なワクチンで免疫を付けられた上で生きた病原微生物を投与されたし、微生物を爆弾やスプレーで散布する野外試験でも被験体として使用された。」)
この引用部分以外の原文は、「フェル・レポート」の記事に掲載されているので参照されたい。
また、大阪市立大学の准教授「土屋貴志」氏は、同学のサーバー内にある自らのホームページにおいて講義ノートを公開しているのだが、ある講義ノート内で研究者「常石敬一」が1984年に著作『標的・イシイ』内でフェル・レポートを訳出した部分を引用紹介している。「フェル・レポート」の記事ではその引用内容の要約を掲載しているが、具体的には下記のリンクから同講義ノートを直接参照されるか、さらには書籍『標的・イシイ』自体を入手して参照されたい。
『ヒル・レポート』の中では、「AEROSOLS」(エアロゾル)について
For human experiments two concentrations of bacterial suspensions were used
などと、割と直接的に人体実験に関する証言記録が記されている。また「ANTHRAX」(炭疽菌)について
Experiment in M were conducted with 5 subjects who were fed a 2-day old culture. Two of the subjects died.
(和訳:「Mを対象とした実験は、2日間培養された検体を提供された5被験体で実施された。これらの被験体のうち2体が死亡した」)
などとあったりと、繰り返し「M」という何かに対する実験も特記されている。松村高夫らはこの謎の「M」について「人間を意味している」と考えている。
『ヒル・レポート』ではこれらの内容について
Such information could not be obtained in our own laboratories because of scruples attached to human experimentation.
と記しており、これを松村高夫らは
と訳している。ただし「scruple」は『(事実に対する)疑念』あるいは『良心の呵責』という意味の言葉としては既に廃語となっており、詩的な文章ではともかくとして近現代の一般的な表現としては単に『躊躇』を意味する。[37]また「human experimentation」は『人体実験(human experiments)の実行』であり、人体実験という明確な定訳があるのにわざわざ『人間に対する実験』という曖昧な言葉を選ぶことは無い。[38]よって「人間に対する実験には疑念があるからである」というより「人体実験の実行には躊躇が伴うためである」とした方が原文のニュアンスはハッキリするだろう。
まあそんな良識ぶったことを言っているくせに、『ヒル・レポート』においてこの記述の前後には「貴重なデータであるので他者の手に渡らないようにせねばならない」といった意味のこと("These data were secured with a total outlay of \250,000 to date, a mere pittance by comparison with the actual cost of the studies. ... every effort will be taken to prevent this information falling into other hands.")が記されているのだが。
その他、米陸軍の生物化学兵器研究所「Dugway Proving Ground」で発見された、元は「TOP SECRET」指定だった文書『The Report of "G"』などについても「人体実験に関する文書ではないか?」と疑いの目で見ている研究者がいる。この文書は「皮膚から鼻疽菌に感染した者16名と鼻から鼻疽菌に感染した者5名の合計21名が死亡するまでの日数を記録・比較し、解剖して各種臓器の変化を見た」という内容で、戦後にGHQに「要請」された731部隊の細菌学者が、部隊での研究資料を基に作成したものと見られている。アメリカ議会図書館のウェブサイトで、一部の画像データが公開されている。
もちろん感染「させた」のではなく、「不幸にも自然感染した者や、研究中の事故で感染した者に対して十分な治療を行い、それでも残念ながら亡くなってしまった後に解剖した」という可能性もあるかもしれず、その場合は倫理的にも問題が無い。ただし、報告中の全患者において『いつ感染した者なのか』『経皮感染と経鼻感染のどちらで感染した者なのか」が判明した上での記録となっている。これは自然感染者を集めたにしては説明が付けづらい点である。
また、ソ連側も731部隊のデータを欲していたとされており、アメリカに対して石井四郎などに対する尋問を盛んに要求していたという。アメリカとソ連のこういった「綱引き」が、731部隊上層部が戦犯訴追から免れた遠因にもなったと言われている。
731部隊に所属していて終戦の際に逃げ遅れ、侵攻してきたソ連軍に捕まった者たちも居る。「その内30名ほどの細菌学者が、モスクワ付近で細菌学研究をさせられている」とするアメリカ陸軍防諜部隊の報告書も存在している。
これらソ連に捕縛された731部隊関係者のうち数名は、同じく防疫部隊だった100部隊関係者などとともに1949年にソ連が行った軍事裁判「ハバロフスク裁判」にて被告にもなっている。この被告ら12名は全員有罪とされ、矯正労働収容所への収容処分となっている。ただしその期間は被告によって1年~25年とかなり幅広い。
NHKは後にモスクワの「ロシア国立音声記録アーカイブ」でこの「ハバロフスク裁判」における彼らの証言の音声記録を発掘、その記録を元にした報道番組を2017年に放映している(『731部隊の真実 ~エリート医学者と人体実験~』)。
ただし「ハバロフスク裁判」は勝者側による裁判であり、証言した彼らはソ連に抑留中の身であったことも考慮に入れる必要はある。実際、この裁判の被告の一人であった三友一男(731部隊ではなく100部隊所属)は自らの回想録『細菌戦の罪』において、取り調べの過程についてや裁判で付けられた弁護士に対する不満を書き残している。
90年代(1990年代)後半~00年代(2000年代)にかけて日本で行われた裁判で、731部隊の活動について民事訴訟として争われたことがある。この裁判は細菌戦の被害者であると主張する中国人らが原告となって、日本国に謝罪と賠償を求める請求であった。
この裁判において被告である国は細菌戦の事実の有無について争点としない立場を取り、裁判自体も「仮に事実が原告が訴える通りであったとしても日本国には謝罪と賠償を行う法的義務がない」という趣旨の判断が下って原告が敗訴。その後、高裁や最高裁でも控訴・上告が棄却されたため、原告敗訴が確定している。
事実の有無を国が争点としなかったため、この民事訴訟の判決文[39]では、細菌戦の事実の有無に関する部分には以下のように記されている。
この点については原告らが立証活動をしたのみで,被告は全く何の立証(反証)活動もしなかったので,本件において事実を認定するにはその点の制約ないし問題がある。また,本件の事実関係は,多方面に渡る複雑な歴史的事実に係るものであり,歴史の審判に耐え得る詳細な事実の確定は,最終的には,無制限の資料に基づく歴史学,医学,疫学,文化人類学等の関係諸科学による学問的な考察と議論に待つほかはない。
ただしその制約の上で、東京地方裁判所の裁判官らは「人体実験」や「細菌兵器の実戦使用」などの点については「事実だと認定できると考える」との趣旨を判決文内で表明している。
しかし,そのような制約ないし問題があることを認識しつつ,当裁判所として本件の各証拠を検討すれば,少なくとも次のような事実は存在したと認定することができると考える(認定に供した証拠は,各認定事実の末尾に記載する。)。
(ア) (前略)中国各地から抗日運動の関係者等が731部隊に送り込まれ,同部隊の細菌兵器の研究,開発の過程においてこれらの人々に各種の人体実験を行った。(後略)
(イ) (前略)中国各地に対し細菌兵器の実戦使用(細菌戦)が行われた。(後略)
(ウ) これらの細菌兵器の実戦使用は,日本軍の戦闘行為の一環として行われたもので,陸軍中央の指令により行われた。(後略)
「731部隊はただの防疫・給水部隊であり、防疫給水活動で人々を救ったのみであり細菌兵器などとは関連が全く無い」という主張がインターネット上で流布されていることがある。たしかに731部隊は防疫給水活動も行っていた。
しかし本記事内でも既に触れているが、『在満兵備充実に対する意見の件』内の「第二十三.關東軍防疫部の新設増強」、『哈尓賓在石井部隊における出張並調査報告書』、『外蒙赤衛軍密偵スフバートル供述に係る同軍の衛生装備其他の状況に就て』といった日本の国立施設「国立公文書館 アジア歴史資料センター」で公表されている当時の各種公文書において、同部隊や前身組織における細菌兵器等に関する調査研究活動については明言されている。よって「731部隊は細菌兵器とは全く関係が無い」という主張はこれらの公文書記録と矛盾してしまう。
亜種として「敵が使用する細菌兵器に備えて対処するための研究のみを行っていた」と主張されることもある。だが、上記の『外蒙赤衛軍密偵スフバートル供述に係る同軍の衛生装備其他の状況に就て』においては敵に「B.K」を用いて奇襲することを検討する記述があるので、この主張もかなり苦しい。
「731部隊が人体実験をしたとか細菌兵器を使用したと証言するのは、皆中国やソ連の収容所で洗脳を受けたか強引に自白させられたやつらばかりだ」という意見がインターネット上に書きこまれることがある。
しかしこれは事実ではなく、中国やソ連の収容所に入ったという経歴が確認されない証言者は複数存在している。
例えば細菌戦に関する証言がある元隊員「溝渕俊美」は引き揚げの際の特別列車への乗車に間に合っており[40]、昭和20年9月には鳥取に上陸したとも証言している[41]。
また、「1945年8月11日にマルタを収容していた特設監獄から煙が出ており、煙が消えてから中に入って骨拾いをやらされた」などの証言をしている別の少年隊員「清水英男」も、1945年8月14日に引き揚げ列車に乗り、それから内地への帰還に成功したことを証言している。[42]
また「マルタを連行して杭にくくりつけた近くで細菌爆弾を炸裂させ、身体がどのように変化するのか記録した」といった証言をしている別の少年隊員「須永鬼久太」も、「朝鮮を経て日本に戻った」と証言している。[43]
「14歳で731部隊に入ったなどという証言者がいるが、そんな年少で軍人になれるわけがないから嘘だ」という言説も流布されている。
しかしこれは731部隊に存在した「少年隊」のことを「軍人」だと勘違いした結果出た話であると思われる。当時14歳などの年少で「少年隊」に所属していたと証言する人々は複数存在しているが、その中には「少年隊」や「錬成隊」は軍人ではなく軍属(「傭員」(傭人)や「雇員」)であった、と明言している人々がいる[44]。すなわち「14歳で軍人になれるわけがない」という批判は的を射ていない。
また2010年代後半にインターネット公開された部隊の名簿において、少年隊に所属していたと証言する人々の名前も確かに記載されていた。さらに2020年に公開された、戦後間もない時期に作成されたと思われる厚生労働省の公文書においても、関東軍防疫給水部内に存在した「少年隊」に関して言及されていた。これらの点においても彼らの証言の信頼性は増している。
詳細は「少年隊(731部隊)」の記事を参照されたい。
731部隊に関する書籍として最も有名であるためか、この書籍については多くのデマが流されている。
例えば「731部隊が生物化学兵器を使用したとか人体実験をしたという話は全て『悪魔の飽食』を根拠としている」、「『悪魔の飽食』はフィクションであり作者もそれを認めている」、「人体実験の被験者を指すマルタという単語は本作の創作」などなど。
これらのデマについては、『悪魔の飽食』の記事で詳述されているため参照されたい。
『きい弾射撃ニ因ル皮膚傷害並一般臨床的症状観察』について「きい弾=マスタードガスは眼部の症状が激しいのに眼部の症状の記載が無い、これはおかしい」という主張がインターネット上で流布されていたことがある。
しかし実際には『きい弾射撃ニ因ル~』内には眼部の症状の記載がある[45]。
『破傷風毒素並芽胞接種時に於ける筋『クロナキシー』に就て』について「潤背筋という筋肉について記載されている。この筋肉は人には無く馬の筋肉であるため、これは人ではなく馬の実験だ」という主張がインターネット上で流布されていたことがある。
しかし「闊背筋・濶背筋」は現在で言う「広背筋」の当時の言い方に過ぎず[46]人間にも存在する上に、『破傷風毒素並芽胞接種時に於ける~』内では人体における実験方法が解説されている[47]。
上記の「ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班」略して「IWG」について、「アメリカのIWGが10万ページの資料を調べたが、731部隊の人体実験や細菌戦の証拠は全く見つからなかった」という話がインターネット上で盛んに流布されている。
しかしそれが正しければ『フェル・レポート』や『ヒル・レポート』については「あると言われていたけどIWG的には見つからなかったよ」ということになってしまうはずだが、上記のIWG提供のリストPDF『Select Documents on Japanese War Crimes and Japanese Biological Warfare』には『フェル・レポート』や『ヒル・レポート』がしっかり掲載されている。つまり明らかに矛盾してしまっており、デマであることがわかる。
実は、このデマの源流は判明している。まず2007年1月18日に、「IWGが報告をまとめた」ことを産経新聞社のウェブサイト「Sankei WEB」が報じた。この記事の内容自体はデマではない。
この記事は731部隊の人体実験や細菌戦を否定する内容のものではなかった。そして、この記事の中に以下のような一節があった(傍線は引用者)。
連合軍の捕虜に細菌実験が行われた形跡がないかを戦後調べたことが判明した。同じく米本土に対しても、日本からの風船爆弾が細菌戦に使われないか、米海軍研究所が回収した現物を大戦末期に調べ、「細菌の散布装置がついていないことから、当面は細菌戦を想定していない」と結論づけた文書も公開された。
このニュースを元に、とあるネット右翼系のブログが2007年2月10日に以下の記事を掲載する。
だがこのブログは「要約」と称して、ニュース記事の上記に引用した部分をこう改変してしまった(傍線は引用者)。
連合軍の捕虜に細菌実験が行われなかったかを調べたり、日本からの風船爆弾が細菌戦に使われないかを調べたりしたが、「当面は細菌戦を想定していない」と結論づけた文書も公開された。 つまり、アメリカが持っていた731部隊に関する10万ページの機密文書には、731部隊が人体実験を行ったり細菌戦を行った証拠は全くなく、戦後に言われたことは全て嘘っぱちのでっち上げだったのだ。
つまり、元のニュースでは「連合軍の捕虜に細菌実験が行われなかったかを調べた」と「細菌の散布装置が付いていないので、風船爆弾での細菌戦は当面想定していないと結論した」の両者は別々のトピックだったのに、ブログではこれらを恣意的に切り貼りして「調べても捕虜に細菌実験が行われてたり風船爆弾が細菌戦に使われてたりはしていなかったので、国家戦略として当面は細菌戦を想定していないと結論した」とも解釈可能な文面に改変してしまい、さらに論理を飛躍させて「731部隊が人体実験を行ったり細菌戦を行った証拠は全くなかった」というアクロバティックな結論を導いてしまったのだ。
以上が結論ありきの意図的な操作であったのか、はたまた単なる誤読による勘違いであったのは不明である。しかしながら、これが源流となって現在も「10万ページの資料を調べても……」というデマが流布され続けているのが現状である。
IWGに関するデマについては、派生形として「IWGの文書内に、証拠が見つからなかったと明記してあった」というものがある。これは文書の一部を読んではいる分、上記のデマよりはかなりマシだが、やはり誤読に基づくデマである。
IWGは、彼らの調査に基づいて『Researching Japanese War Crimes: Introductory Essays』というPDF文書を公開している。
この文書の、以下の部分がこのデマの元と思われる。
As for Unit 731, researchers found no new classified evidence related to Gen. Ishii’s experiments or the unit’s treatment of POWs.
(和訳:「731部隊に関しては、研究者らは石井中将による実験、またはこの部隊による戦争捕虜の治療に関連する、新たな機密情報を発見できなかった。」)
As for the primary question of Unit 731’s alleged experimentation on captured American servicemen, multiple government agencies conducted exhaustive searches in intelligence, military, and diplomatic records but found no definitive evidence.
(和訳:「731部隊が捕虜になったアメリカ兵士に対して人体実験を行ったのではないかという最大の疑惑に関しては、複数の政府機関によって諜報・軍事・外交記録の徹底的な精査が行われたが、明確な根拠は何も発見されなかった。」)
上記のデマを信じている人がこの部分を流し読むと「やっぱり731部隊の人体実験の証拠なんてなかったじゃないか」と頷きたくなる気持ちもわかる。
しかし、このPDFファイルではしっかり以前から知られていたものとして『フェル・レポート』『ヒル・レポート』について触れている。つまり別に「『フェル・レポート』や『ヒル・レポート』なんて見つからなかった!」と否定するものではなく、「新たな」情報や「アメリカ兵士に人体実験を行った」情報は発見されなかった、というだけの記述である。つまり、上記の記述を元に「731部隊の人体実験の証拠はIWGにも見つけられなかったのだ」と主張している場合、それは資料の誤読でしかない。
本記事でも触れた『ヒル・レポート』では731部隊の人体実験について明記されているわけだが、その『ヒル・レポート』について「人体実験を行ったか疑わしい、と書かれている」という主張がなされることがある。実際の『ヒル・レポート』の内容とは真逆であるので、なぜこのデマが生まれるのかわかりづらいところではある。
おそらく、上記のように『ヒル・レポート』の「Such information could not be obtained in our own laboratories because of scruples attached to human experimentation.」と言う文章が松村高夫の著作内で「かような情報は我々自身の研究所では得ることができなかった。なぜなら、人間に対する実験には疑念があるからである。」と和訳されているところ、この和訳部分「だけ」を読んで勘違いしたものか。
先述した通り、英単語「scruple」の近現代における意味は『躊躇』であり、『疑念』という意味では既に廃語である。まあ松村ら訳文の「疑念」を敢えて尊重して強引に解釈するなら「(人体実験を行うことについての、倫理等に照らし合わせた上での)疑念」とでもなるだろうが、件の訳文によって「(人体実験が実際に行われたかどうかの)疑念」と解釈する余地が生じてしまう可能性は低くないかもしれない。とは云え、この「疑念がある」を「(731部隊が人体実験を行ったかどうか)疑わしい」という意味に取ってしまっては前後の文章とのつながりが無くなってしまうし、第一この文だけでもきちんと原文を当たってさえいればこのような誤解は生じなかっただろう。ソースは重要である。
「人体実験などを行っていれば東京裁判で裁かれるはず。しかし石井四郎をはじめとする部隊の幹部は全く裁かれていない。よって人体実験は事実無根である」という話も流れている。
しかし本記事の「帝銀事件」の節で触れたように、「731部隊員はGHQ/米軍と取引して戦犯訴追を逃れた」と受け取れる証言が日本の警察の捜査手記に残されている。
また、前掲の慶應義塾大学の松村高夫らによる調査[48]によれば、米国の公文書内にもその取引を裏付けるような記述が発見されている。
石井は石井や部隊員の戦犯免責が文書で与えられるならば,細菌化学戦研究計画について詳しく述べるとアメリカ側と取引きし,マッカーサーは,これに対し「日本の細菌戦情報を情報チャンネルのなかに留め,そのような資料を『戦犯』の証拠として使用しないように」と進言した(47年5月6日付,極東軍最高司令官の電報C 52423)。これに対し,国務省(極東小委員会)は,47年9月8日に,「戦犯の証拠としないと確約することは是認できない」とし,マッカーサーは石井たちにはなんらの言質を与えずに従来通りの方法で情報を一つ残らず入手する作業をすべきであるとした。マッカーサー宛のメッセージは,つぎのようなものである。「必要な情報を石井と彼の関係者から入手することは,情報は諜報チャンネルのなかに留め,『戦犯』の証拠としては使わないという言質をアメリカが与えなくても可能だろう。また危険な言質は後日アメリカを深刻な事態に追いこむ原因になりかねない。そうした言質を与えることは得策ではない。しかし安全保障のために,貴下は石井とかれの関係者を戦犯訴追にするべきでなく,言質を与えずに,従来通りの方法で全ての情報を一つ残らず入手する作業をつづけなければならない。」
なお、松村高夫らがこの記述の根拠とした「1947年5月6日付の電報『C 52423』」や「1947年9月8日付の『SFE 188/3』」は、上記の米国の政府機関「IWG」提供の資料リストPDF『Select Documents on Japanese War Crimes and Japanese Biological Warfare』の中にもちゃんと名称が掲載されている。
前述のように、1949年に行われたハバロフスク裁判では731部隊で人体実験などの残虐行為が行われていたという証言が被告人らから述べられている。
このハバロフスク裁判の証言について、「抑留された先での強いられた自白であるため信頼できない」とし、かつ「そして、731部隊が残虐だったなどと言う話は、この信頼できないハバロフスク裁判の証言が初出である」と主張して、731部隊の残虐行為について疑義を提示する意見もネット上に流れている。
しかし「帝銀事件」の節で触れたように、ハバロフスク裁判よりも前の『日本医事新報』の1948年10月号には既に「今度の帝銀事件はその殘虐さから云つて、警視廳では恐らく舊石井部隊の兵員であろうというのでその方面を探索し、石井氏も搜査に協力したそうである。」と、同部隊と「残虐さ」を結びつける文章が掲載されている。
「731部隊」「岸信介」でウェブ検索やTwitter検索を行うと流布されている話として「731部隊の非人道的行為は岸信介の許可の元で行われていた」「731部隊の裏で実験を握っていたのが岸信介」というものがある。
岸信介は昭和期の官僚・政治家で、満洲国の重職を歴任した人物ではある。「満洲国の運営が成り立っていなければ731部隊の活動も成り立たなかった」と考えれば、まあこじつければ「遠い関係がある」と言えなくもないかもしれない。しかし岸は軍人でも医師でも学者でもなく、731部隊との縁が近いとも思われない。CiNiiやJ-STAGEなどで論文検索などを行っても、またac.jpドメインに限定して検索を行っても、岸信介と731部隊に直接の関係があったと結びつける学術的な記述は見つからない。よって現時点において、「731部隊の非人道的な活動には岸信介が関与していた」という話は根拠のないデマや陰謀論であると言えよう。
この話の出所を探ると、どうも源流は「カナダde日本語」という反自民党系のブログサイトに2006年7月29日に掲載された「昭和天皇が嫌っていた松岡洋右と安倍晋三は親戚だった!そして岸信介がA級戦犯不起訴になった本当の理由。」という記事の記述が初出のようだ。このブログ記事内に、
そんなことを調べていると、安倍晋三の祖父である岸信介は七三一部隊と親密な関係にあることがわかった。
ナナナナナント!ちょうど岸信介が満州国国務院実業部総務司長に就任した1936年(昭和11年)に軍馬や家畜に対する細菌兵器の開発を担当しており、人体実験も行っていた「軍獣防疫廠」が満州に設立されたのであった。1941年には、「満州第100部隊」と改称されたそうだ。
つまり、満州での人体実験や細菌兵器の開発は当時の総務司長であった岸信介の許可なしには行われなかったのであり、七三一部隊を率いていた石井四郎の背後で岸信介が実権を握っていた感がある。
という記述があった。「関東軍が軍事機密の研究をやるときにも満洲国の官僚に許可を取ってから行ったはずだ」という首を傾げざるを得ない仮定に基づいている上、「許可を取ったはず」という話がなぜか「実権を握っていた感がある」という話に突然スライドしており、根拠に欠ける陰謀論の域は出ない。
しかしこの記述が類似の論調のウェブサイトなどに転載されていき、最終的に出所もあいまいなままに流布されてしまっているようだ。
「731部隊の写真」として流布されている写真は数多い。しかしその中にはデマや疑わしい説明を付けられた写真も混じっている。
例えば、2020年3月にTwitterに投稿されて、注目を集めたスペイン語ツイート(※リンク先は、多数の遺体の写真や、凍傷で腫れ上がった手の写真など、刺激の強い写真を含むツイート。苦手な方は閲覧注意)。「Unit 731: Armas biológicas y experimentación en seres humanos.」(和訳:「731部隊:生物兵器と人体実験」)という言葉を添えて、4枚の写真を掲載している。
このショッキングな写真を含むツイートは数日のうちに数千回リツイートされ、1万回以上の「いいね」が押された。
だが、このツイートに掲載された4枚の写真について調べてみると、
とこのように、写真の素性がわかってくる。
少なくとも(2)と(3)は731部隊とは直接の関係はない。(1)も731部隊と同じ「防疫給水部に属する軍人」の写真ではあるようだが、初出の新聞記事での扱われ方としては「敵兵を救護する様子」の写真である。
こちらの写真付きツイート(※リンク先は、遺体が明瞭に映っている写真を含むツイート。閲覧注意)。マスクを付けた眼鏡の男性が、台に乗せた遺体を触って何らかの検査をしているように見える写真であり、ツイート主は「731部隊の蛮行」「生き人を切り刻んでいる。」という文章を付している。
しかし実際には、この写真は1928年に発生した「済南事件」における日本人犠牲者の写真であると思われる。「国立公文書館 アジア歴史資料センター」にて公開されている「済南事件邦人惨殺写真」という写真集[52]や「国立公文書館 デジタルアーカイブ」にて公開されている「済南に於ける邦人惨殺死体の写真送付の件」という資料[53]にて、同じ写真が掲載されている。(※こちらのリンク先は、遺体が明瞭に映っている写真をより多数含んでいる。閲覧注意)
こちらの写真付きツイート。防護服を着込んだ人物2名が、横たわった小柄な人物(子供?)に対して、一斗缶から手押しポンプでくみ上げた液体を噴霧している写真であり、ツイート主は「731部隊員が子供にペスト菌を吹き付けて居る写真。 子供は死ぬしか無いのです。」という文章を付している。
確かにこの写真は2014年1月に中国の新華社通信が「中国吉林省の資料館が日本軍が残した資料の中から、731部隊関連の資料を発見した」と報道したときに公開された写真である[54]。中国の有名な731部隊の記念館である「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」のウェブサイト内の1ページにも掲載されている[55]。
しかし上記の2014年当時のニュース記事でも、そして「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」のページでも、どちらにおいてもこの写真に付けられているキャプションは
这是翻拍的伪满洲国民生部保健司派员参加1940年11月吉林省农安县鼠疫“防疫”活动照片
(日本語訳:「これは偽満洲国(満洲国を中国ではこう呼称している)の民生部の保健司が派遣参加した、1940年11月の吉林省農安県のペスト"防疫"活動の写真のスキャンである」)
というもの。「"防疫"」という引用符付きの書き方をしていることから「純粋な防疫目的だったか疑問だ」という含みはあるのかもしれないが、「ペスト菌を吹き付けている」などといった情報は全く含まれていない。
仮にペストに感染させようとするにしても、この写真のようにペスト菌を含む液体を近くで直接噴霧するといった実行者にとっても危険すぎる方法をとる意味は全くなく、「ペスト菌を吹き付けている」という上記ツイートのような説明は不自然すぎる。
当時から既に「ペスト菌はノミに媒介されて伝染していく」ことが知られていたため、「殺虫剤を噴霧してノミを除去している光景」という説明の方がより妥当な推定ではないかと思われる。
掲示板
684 ななしのよっしん
2024/04/23(火) 18:00:20 ID: Va1S5D+3js
韓国からポスト多いなと思ったらドラマやってるのね
「731部隊」を描いた韓国ドラマから日本人は何を学ぶか。パク・ソジュン主演「京城クリーチャー」が問いかけること
https://
ハフポストが加藤哲郎、呼んで記事書いてるけど俺の記憶通り朝鮮系は一桁というか4人で半島内での活動は全くない
半島系からの論争は基本無視を再確認出来てよかった
685 ななしのよっしん
2024/08/31(土) 14:16:05 ID: hnZ3uQXrm2
文献とされるものを調べたがそれ自体が捏造だったのかリンク切れや根拠となる他の情報源が見つからないものが見られる
一度全部精査したほうがいい
少なくとも現段階では記事としての正確性に欠ける
686 ななしのよっしん
2024/09/20(金) 01:09:06 ID: owqjaKwl3j
https://
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最終更新:2024/12/23(月) 20:00
最終更新:2024/12/23(月) 20:00
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