靖国神社(やすくにじんじゃ)とは、東京都千代田区九段北にある神社。江戸時代末期から明治に掛けて起こった事件や内戦、明治から昭和に掛けて起こった事件や対外戦争に於いて日本国の為に戦った軍人・兵士・民間人などを「護国の英霊246万6千余柱」たる祭神として祀っている。 祭祀形式などは他の神社と基本的に同じだが、神社本庁には属さない。
1869年(明治2年)に東京招魂社として設立され陸軍省と海軍省(一時期は内務省も含む)によって管轄された。
歴史上に名を残すような祭神を祀った神社は1柱、もしくは複数でも序列を決めるのが一般的であるが、創建当初の複雑な事情から多岐多数にわたる祭神を平等の格で祀り、尚且つ祭神が膨大に増える可能性がある特殊な方式の神社になっている。
1946年(昭和21年)から、政教分離に伴い国の手を離れ、宗教法人「靖国神社」となった。
年間予算は約20億円。収入は戦没者遺族・戦友団体の奉納金、奉賛会など各方面からの寄付、附属する遊就館(後述)の入館料など。
宗教法人「靖国神社」の思想(歴史観)はさまざまな議論を呼び、日本の首相が祭神を追悼するために参拝しようとするだけでも韓国と中国と北朝鮮の三国が抗議声明を発表するなど問題が起こっている。この国家間の外交レベルでの抗議声明以外にも「神池庭園の池に放尿事件」や「神門への放火未遂事件」、「靖国爆弾事件」等の個人による犯罪問題も発生している。また終戦の日には通常の参拝者以外に様々な主義主張を訴える団体(靖国問題からそうでないものまで多岐にわたる)が九段下駅から田安門交差点(靖国神社外苑前)の区間に溢れかえる。
靖国神社の規模は約10万㎡(9万3000~9万9000と正確なところは不明)。東京都内にある神社の中では明治神宮の約70万㎡に次ぐ2番目の広さであり、3番目は杉並区の大宮八幡宮の約5万㎡となる。
これは単純に外苑内苑を含めた敷地面積であり、御神体がある本殿や一般参拝が行われる拝殿の規模、内苑の規模、神社だけでなく寺院も含める等、何を基準として順位を定めるかにより順位は変わってしまう。
ちなみに出雲大社は約2万7000㎡、伊勢神宮は約5500万㎡とされている。
「国家のために一命を捧げられた方々の霊を慰め、その事績を後世に伝えること」
「身分・勲功・男女の区別なく、祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として一律平等に祀られている神霊は」(中略)「『祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の神霊』であるという一点において共通しているのです。」
「我が国には今も、死者の御霊を神として祀り崇敬の対象とする文化・伝統が残されています。 日本人は昔から、死者の御霊はこの国土に永遠に留まり、子孫を見守ってくれると信じてきました。 今も日本の家庭で祖先の御霊が「家庭の守り神」として大切にされているのは、こうした伝統的な考えが神道の信仰とともに日本人に受け継がれているからです。 そして同様に、日本人は家庭という共同体に限らず、地域社会や国家という共同体にとって大切な働きをした死者の御霊を、地域社会や国家の守り神(神霊)と考え大切にしてきました。 靖国神社や全国にある護国神社は、そうした日本固有の文化実例の一つということができるでしょう。」
1869年(明治2年)6月、明治政府により官軍全体のための招魂社として東京招魂社が創建される。戊辰戦争で亡くなった全国諸藩の藩士を祭神として合祀した(新政府軍の為の招魂社であり、敵軍の戦没者は合祀されていない)。また奉納大相撲も始まり毎年の慣例行事として多くの観客を集める様になる。それ以外にもサーカスや花火といった催事も行われた。
1871年(明治4年)、東京招魂社の敷地に東京湾を見下ろせる和洋折衷の灯台「常燈明台」が完成して東京湾の漁師が利用する目印として機能する。
1872年(明治5年)、4月に東京招魂社の管轄が陸軍省・海軍省と定められる。5月には尾張藩の棟梁である伊藤平左衛門による本殿が竣工する。境内では従来の催事以外に西洋式競馬の奉納競馬も始まる。
1879年(明治12年)、東京招魂社は靖国神社に改称されると共に社格が別格官幣社になる。これにより神社としての整備が進められて祭典儀式を軍人が行っていたのが宮司が執り行うようになると共に官幣社に合わせたルールが決められた。また国事に殉じた戦没者を祀る役割を持つようになり管轄も陸軍省・海軍省・内務省の三省になる。この神社としての整備は西南戦争で祭神が1万柱を超えたことが起因している。靖国の由来は春秋左氏伝の「吾国を靖んずるなり」の一節より採ったとされている。
この改称したときの祭文が「明治元年という年より以降、内外の荒振る寇等を討罰め、服わぬ人を言和し給う時に、汝命等の赤し清き真心を以て、家を忘れ身を擲て、各も各も死亡にし其の大き高き勲功に依りして、大皇国をば安国と知食す事ぞと思食すが故に、靖国神社と改め称へ、別格官幣社と定め奉りて、幣帛奉り齋い奉らせ給い、今より後、彌遠永に、怠る事無く祭り給わんとす。」となっている。この祭文の中には「吾国を靖んずるなり」と同義の仏教用語「安国」が「大皇国をば安国と知食す事ぞと思食すが故に」と用いられている。
1882年(明治15年)、遊就館が展示施設として開館する。イタリア人建築家カペレッティにより設計された遊就館はイタリアの古城のようなモダンな建築で、西南戦争の遺品や遺物、古今の武器や武具を展示していた。
1887年(明治20年)、3月に靖国神社の管轄が陸軍省・海軍省に変更され内務省が外される。12月には青銅製の大鳥居が竣工する。
1890年(明治23年)、神武天皇を祭神とした橿原神宮が創建される。この他にも桓武天皇・孝明天皇を祭神とした平安神宮が1895年(明治28年)、明治天皇を祭神とした明治神宮が1920年(大正9年)、楠木正成を祭神とした楠社(湊川神社)が1872年(明治5年)、楠木正行と将士24柱を祭神とした四條畷神社が1890年(明治23年)等々と「天皇」や「武家」を祭神とした神社が次々と創建されている。
1903年(明治36年)、芝公園にあった能楽堂が靖国神社に奉納される。
1904年(明治37年)、日露戦争が始まると急速に祭神が増える。この頃、マスメディアにより「英霊」の言葉が用いられるようになる。また日露戦争に勝利はしたが日本政府の財政は非常に厳しくなる。
1907年(明治40年)、内務省により各地の招魂社に関して、祭神は靖国神社に合祀された者に限るなどの決まりが設けられる。
1914年(大正3年)、第一次大戦が始まると経済打開の為に日本も参戦、ドイツに宣戦布告する。内務省の神社祭式の制定に伴い、陸軍省も靖国神社の祭式・儀礼を改める。
1917年(大正6年)、両国の国技館が火災により全焼すると靖国神社の相撲場で本場所が行われるようになり国技館が再建されるまで2年間続いた。
1921年(大正10年)、鉄製の大鳥居が竣工して靖国神社の新しいシンボルになる。
1923年(大正12年)、関東大震災により本殿や遊就館、能楽堂、燈籠と大きな被害を受けるも大鳥居は被災を免れる。広い境内は被災者を収容する仮設住宅が建造された。後藤新平の復興計画により靖国神社と並行する通りが拡張されて大正通り(後の靖国通り)になる。
1942年(昭和17年)、日米開戦後の元日に靖国神社では89万人の参拝者を迎える。
1945年(昭和20年)、戦争が終るとGHQによる「国家と宗教を分ける」方針のもとに陸軍省・海軍省の管轄であった靖国神社の存続が検討される。焼却も考えられていたが駐日ローマ法王庁代表ビッテル神父が「国家は死者に敬意をはらう義務と権利がある」として焼却に反対した。
1946年(昭和21年)、靖国神社は宗教法人として組織を改める。
1951年(昭和26年)、サンフランシスコ講和条約に調印。閣僚の参拝としては6年ぶりとなる例大祭への参列が吉田茂首相や閣僚、衆参両院議長らにより行われる。
1975年(昭和50年)、三木武夫首相が「首相として初めて終戦記念日に参拝」する。また参拝後に政府は公職者随行無し、肩書なし、私費での玉串料の「私的参拝」であると述べる。11月の例大祭に天皇・皇后の行幸啓があったが国会で御親拝が問われる。昭和天皇の靖国神社への行幸はこれが最後となる。
1978年(昭和53年)、東京裁判で「平和に対する罪」により処罰されたA級戦犯が「昭和殉難者」として合祀される。
1980年(昭和55年)、靖国神社奉賛会が設立する。また占領期に閉館されて企業に貸し出されていた遊就館が、新社屋完成により明け渡される。
1985年(昭和60年)、中曽根康弘首相による「公式参拝」が外交問題に発展する。
2002年(平成14年)、遊就館本館が全面改装して大幅にリニューアルする。
境内は九段下駅から徒歩数分のところにあり、桜の名所としても知られる。
大鳥居から第二鳥居の間には、設立を企画した大村益次郎(初代兵部大輔、日本陸軍の父)の巨大な像が立っている。
遊就館をはじめ、靖国会館や能楽堂など、本殿参拝者のためだけでなく様々な施設がある。
靖国神社が運営する展示施設で22部屋の展示室と2部屋の映像ホールを持っている。
年中無休(臨時休館日あり)で、毎日朝9時(元旦は午前0時から)から午後4時30分まで開館している。入館料は大人800円。
明治11年(1878年)に『絵馬堂建設』として始まったが明治12年には『祭神の遺徳を尊び、また古来の武具などを展示する施設』と構想が変化して明治15年に展示施設として開館した。増改築や関東大震災による被害、復旧等を経て規模が拡大され、国立時代は東京国立博物館(東博)などと並ぶ在京の大きな国立博物館として知られた。
昭和20年(1945年)終戦により9月閉館。昭和36年一部の展示のみ再開。昭和60年7月13日みたままつり初日、戦後初の本格的再開館。神社創立130周年(神社公表記述。本殿竣工基準か)の平成14年(2002年)7月13日みたままつり初日、戦後二度目の大改装再開館(現在のに)。
古代から近世の鎧兜や刀剣・火縄銃、明治以降の軍装品や書簡、当時の新聞、絵画、掛け軸、兵器の実物やレプリカ、当時のニュース映像、遺品・遺書と幅広い品が展示されている。常設展示を一周すると、古代から大東亜戦争(太平洋戦争)まで国のために戦った人々とその思いを偲ぶことができるようになっている。特に、大東亜戦争の戦没軍人や文官、救護看護婦等については遺品と共に遺族等の依頼により奉納された遺影(約9000人分)が展示されている。
※遺影の奉納は書類・写真・初穂料1万円以上が必要となる。単純に行って写真を渡せば飾られると言った物では無いので注意が必要。また経緯不明ながらも遺影が奉納されている場合、遊就館でお願いをすれば遺影を写真撮影させて貰う事が可能である。(写真撮影は編集者の体験です。親族間で1枚も無かった故人の写真が遺影として奉納されており、その奉納経緯は不明となっている。)
監督は泉水隆一氏。67分のドキュメンタリー映画。靖国神社側依頼での制作。このため監督は神社に2年勤め、本作を撮った。本作は上記やこの表題時に公開されたが、2日で中止となった。監督は撮影関係者に手紙で「上映は二日間のみで、神社側の一方的な判断で、それ以降は上映中止の措置がとられました」と述べている。制作依頼した時と神社責任者側が変わってしまっており、その本作公開時も神社側は招待客に対し「本作品は神社の意向に沿ったものではなく、泉水隆一監督個人の歴史観による作品であるので、このような作品を上映することに至ったことをお詫びします」という挨拶文を配布している。6年後の平成20年(2008年)、監督許可のもと頒布され出す。ニコニコ動画では同年↓に、YouTubeでは平成21年にアップロードされた。平成22年に監督逝去。平成27年ではアパホテルの対象98ホテルで無料配信開始され、対象ホテルは増加している。
靖国神社の祭神は、日本の国体側の軍人・兵士・文士・民間人等の「護国の英霊246万6千余柱」であるが、合祀基準はその時代により変わっている。
単純な戦死者だけでなく戦病死者、安政の大獄の獄死者、魚雷攻撃で沈没した対馬丸に乗っていた700人の児童、ひめゆり学徒や救護看護婦など女性5万7千余柱、シベリア抑留捕虜、東京裁判で「平和に対する罪」により「A級戦犯」として処罰された14名の政治家や軍人も祀られている。
日本人以外にも日本統治時代の台湾・朝鮮出身の兵士が約5万柱含まれている。その他にも常陸丸のイギリス人乗組員3名が合祀されているとの説がある。
遺族が合祀取り消しを求めた例は多数に及ぶが、靖国神社は「いったん合祀した霊魂は一体不可分となるので特定の霊のみを廃祀することは不可能であり、分祀(分遷)しても元々の社殿から消えはしないので無意味である」として応じていない。
裁判も何度も起こっているが、裁判所では「相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでないかぎり寛容であること」等とするため、法的根拠に基づく合祀取り消しは困難な現況であると思われる。
1853年(嘉永6年)のペリー来航を基準としてそれ以降の戦没者が合祀されている。1853年に長州藩が毛利家菩提寺の洞春寺に於いて「毛利家の為に亡くなった人々」の為の弔祭を行ったのが源流とされている。
1862年(文久2年)には『文久2年に至り、安政5年以来国事に死せしを赦する旨の詔あり』とある様に、朝廷から幕府に対して『安政の大獄』以来、国事に死した者を赦免するよう詔が下されている。
新国家体制の形成や新政府の樹立に貢献した戦没者、所謂「官軍」を対象としており、幕府軍や奥羽越列藩同盟として戦った「賊軍」の者は合祀の対象外になっている。
しかし東京招魂社が創建される以前から「安政の大獄」や「桜田門外の変」、「禁門の変」等で亡くなった尊攘派志士の招魂が行われており、その関係からか「禁門の変」で賊軍とされていた久坂玄瑞等も合祀されている。その反面で禁裏を守り長州藩と戦った会津藩兵等も合祀対象となる配慮がなされている。「新国家体制の形成に功があったが朝廷に弓引いた賊軍」と「新国家体制の形成に反したが朝廷を守った官軍」の両方が合祀されている事になる。
1914年(大正3年)3月3日には内務大臣の原敬から内閣総理大臣の山本権兵衛伯爵に宛てて『殉国志士を靖国神社へ合祀に関する件』の上奏書が出されている。
『文久2年4月23日伏見驛旅舎寺田屋事件に関し、浪士鎮撫のため闘死し、または職責を盡さざる(つくさざる)故を以て自殺者、及び元治元年7月19日禁門へ闖入の徒撃退のため戦死せし者、別紙姓名故加藤兵左衛門外61人はいずれも勅旨を奉じ藩命を躰して国難に殉じたる所謂、勤王愛国の志士と認めらるるを以て別格官幣社靖国神社に合祀せられとしかるべしと認む。よって合祀の件、仰出爲被度(おおせいだされになられた)、右謹みて奉す。』
経緯は不明だが「おおせいだされになられた」とある様に、内務大臣や内閣総理大臣よりも上位にある者が「おおせになった」ことを上奏した事になっている。恐らくは大正天皇が何らかの理由で「幕府側でも勤王の下に職責を尽くした者は合祀するに認められる」とされたようである。
有名な幕末の志士としては吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎等が合祀されている。
祭神は7,751柱
新政府軍と反乱軍の間で行われた内乱による戦没者が合祀されている。新国家体制の形成に貢献した西郷隆盛だが反乱軍として戦ったため、賊軍として合祀はされていない。
祭神は6,971柱
朝鮮半島をめぐり大日本帝国と大清国が争った戦争の戦没者が合祀されている。祭神の数はWikiの日清戦争に記載されている戦死・戦傷死・病死の合計よりも308柱多いが詳細は不明である。
祭神は13,619柱
この台湾出兵が1874年(明治7年)の台湾出兵を指しているのか、1895年(明治28年)の乙未戦争を指しているのか、両方を指しているのか詳細は不明である。乙未戦争に関しては近衛師団長として出征したがマラリアにより病死した北白川宮能久親王が大東亜戦争(太平洋戦争)後に合祀されている。これは能久親王を主神とした台湾の神社が中華民国政府により破却されたことが影響している。
1874年の台湾出兵から大東亜戦争終戦までの期間は対外戦争における戦没者は合祀の対象となった。ただし軍人でも平時における死亡者は対象外とされた。
明確な時期は不明だが戦没者合祀の判断は陸軍省・海軍省に設置された審査委員会が隊長や司令官からの上申を個別審査、陸軍大臣・海軍大臣が天皇に上奏して勅裁を受ける手順を踏んでいた。
祭神は1,130柱
大日本帝国を含む八か国連合軍と大清国・義和団の間で行われた戦いの戦没者が合祀されている。祭神の数はWikiの義和団の乱に記載されている349名より多いが詳細は不明である。
祭神は1,256柱
朝鮮半島とロシア主権下の満州南部をめぐり大日本帝国とロシア帝国が争った戦争の戦没者が合祀されている。祭神の数はWikiの日露戦争に記載されている戦没者数と一致している。
祭神は88,429柱
第一次世界大戦の中でも大日本帝国とイギリスがドイツ帝国の租借地・植民地を攻略した戦いと、地中海における船団護衛によう戦没者が合祀されている。祭神の数にシベリア出兵による戦没者が含まれているかは不明である。
祭神は4,850柱
詳細は不明だが祭神は185柱
満州をめぐり大日本帝国と中華民国が争った武力紛争の戦没者が合祀されている。また満州事変以降は内地勤務における病死でも状況により合祀の対象となるようになった。
祭神は17,176柱
盧溝橋事件を発端とした北支事変から始まった大日本帝国と中華民国の戦いの戦没者が合祀されている。
祭神は191,259柱
広大な戦域で亡くなった軍人の戦没者や軍属・準軍属として動員された学生や外務省職員、女子挺身隊や従軍看護婦、空襲時に避難誘導した民間人と幅広く合祀されている。
戦後は宗教法人となった靖国神社を政財界や遺族・有志により発足した「靖国神社奉賛会」が資金を支援すると共に第一復員省・第二復員省と業務を引き継いだ厚生省が選定作業を手掛けた。
1978年(昭和53年)にはA級戦犯として訴追された28名の内、死刑や獄中死した14名が「昭和殉難者」として合祀されている。
このA級戦犯に関わる問題以外にも空閑昇陸軍少佐や西尾甚六少尉、原田文男少佐、大徳直行中尉、井置栄一中佐といった事例があり大東亜戦争下における合祀基準に多くの問題が指摘されている。
祭神は2,133,915柱
海竜社の「靖国神社 正しく理解するために」によると2004年(平成16年)10月17日の時点で246万6532柱とされている。
詳細は国立国会図書館デジタルコレクションの『新編靖国神社問題資料集』著者 : 国立国会図書館調査及び立法考査局を参照願います。
戦前戦中は陸軍省・海軍省等の調査委員会が合祀選定を担当していたとされている。
戦後は陸軍省・海軍省の解散により下記の組織に合祀選定が引き継がれている。
陸軍省→第一復員省→復員庁第一復員局→厚生省第一復員局→厚生省復員局にまとまる
海軍省→第二復員省→復員庁第二復員局→厚生省第二復員局→厚生省復員局にまとまる
厚生省復員局→引揚援護庁(昭和23年5月)→厚生省引揚援護局(昭和29年4月)→厚生省援護局→厚生省社会・援護局と組織の変遷を経ながら引き継がれている。
明確な基準を定めた物はないが嘉永6年から明治政府成立に至る激動の時代、国事に殉じた志士が合祀されている。ただし『国事に殉じた』と言っても一部の例外を除いて佐幕派は合祀されず、基本的には尊王の旗を掲げた倒幕派の殉難者や倒幕派諸藩の殉難者、倒幕派と関係して奔走した浪士、幕府の手により獄死した国士と言った志士が対象となっている。
第一期 嘉永六(一八五三)年から昭和二〇(一九四五)年八月一四日まで. (一)創立・社格付与関係. 【一】~【二七】
軍人・軍属・通訳・馬丁・宣撫班員・看護婦・従軍記者等が記載されている。
自殺(自決)に関しても軍人は『自己の重大な過失や破廉恥で無いものは成るべく合祀するが情状合祀を至当と認めるもの』、軍属は『軍人に準ずるが、所定の勤務期間及び勤務状況を観察して厳選を要する』とされている。
第三期 昭和二七(一九五二)年四月二八日から昭和四九(一九七四)年まで. (二)合祀関係. 【一七八】~【二四一】の222頁(PDF 31頁)、【二一七】〔合祀資格審査参考資料〕一 従前ノ合祀者ノ資格審査経緯(昭和32年10月2日靖国神社調査部)
戦犯とされた者は1959年(昭和34年)1月26日には合祀するか否かを決定すべき対象者となり、1961年(昭和36年)8月25日に『A級及びBC級で調査中、又は反証上不適当なものを除き全部合祀する』とされている。
1969年(昭和44年)1月31日には『法務死没者(A級12名、内地未決死没者10名)を合祀可』としており『総代曾の意向もあるので合祀決定とするが外部発表は避ける。又合祀通知状は遺族直接に神社から届けることとして、県を経由することはしない 』と特殊な対応がされている。
しかし1970年(昭和45年)6月25日には『法務関係(A級12名、内地未決2名)は諸状勢を勘案保留とする』の処置がされている。その後、どのような経緯を経たかは不明だが1978年(昭和53年)にA級12名も「昭和殉難者」として合祀されている。
第三期 昭和二七(一九五二)年四月二八日から昭和四九(一九七四)年まで. (二)合祀関係. 【二四二】~【二九九】の253頁(PDF 13頁)、【二五四】明らかに事実無根等と認められるにもかかわらず戦争裁判において死刑の判決を受け刑死した者の事例等について( 昭和33年9月20日)
第三期 昭和二七(一九五二)年四月二八日から昭和四九(一九七四)年まで. (二)合祀関係. 【二四二】~【二九九】の259頁(PDF 19頁) 、【二五九】別紙(一)提案事項将来靖国神社に合祀すべきか否かを決定すべき者(昭和34年1月26日)
第三期 昭和二七(一九五二)年四月二八日から昭和四九(一九七四)年まで. (二)合祀関係. 【二四二】~【二九九】の276頁(PDF 36頁)、【二七七】昭和三十六年度における第四回合祀関係研究会記録(昭和36年8月25日)
第三期 昭和二七(一九五二)年四月二八日から昭和四九(一九七四)年まで. (二)合祀関係. 【三〇〇】~【三三四】の309頁(PDF 9頁)、【三〇九】合祀に関する検討資料(昭和44年1月31日)
第三期 昭和二七(一九五二)年四月二八日から昭和四九(一九七四)年まで. (二)合祀関係. 【三〇〇】~【三三四】 の319頁(PDF 19頁)、 【三一三】合祀事務に関する検討(資料)(昭和45年6月25日)
1901年(明治34年)4月29日、迪宮裕仁(昭和天皇)が誕生。
1903年(明治36年)3月6日、久邇宮良子(香淳皇后)が誕生。
1919年(大正8年)5月、大正天皇と皇太子裕仁親王(昭和天皇、宝算18)が行幸。
1932年(昭和7年)4月、臨時大祭が行われ昭和天皇(宝算30~31)・香淳皇后(29歳)が御行幸啓。
1934年(昭和9年)4月、臨時大祭で満州事変戦没者を合祀が行われ昭和天皇(宝算32~33)が行幸する。
1943年(昭和18年)10月、臨時大祭で大東亜戦争戦没者の合祀が行われ昭和天皇(宝算42)・香淳皇后(40歳)が御行幸啓。
1945年(昭和20年)4月、臨時大祭で大東亜戦争戦没者の合祀が行われ昭和天皇(宝算43~44)が行幸。
1945年(昭和20年)11月、臨時大招魂祭が行われ昭和天皇(宝算44)が行幸。
1952年(昭和27年)10月16日、昭和天皇(宝算51)・香淳皇后(49歳)が行幸啓。
1954年(昭和29年)6月、創立八十五周年記念祭が行われ昭和天皇(宝算53)・香淳皇后(51歳)が行幸啓。
1957年(昭和32年)4月23日、昭和天皇(宝算55)・香淳皇后(54歳)が行幸啓。
1959年(昭和34年)4月8日、臨時大祭で御祭文奉上が復活。昭和天皇(宝算57)・香淳皇后(56歳)が御行幸啓。
1964年(昭和39年)8月15日、全国戦没者追悼式が大村益次郎銅像前広場で行われる。昭和天皇(宝算63)・香淳皇后(61歳)が御臨席。
1965年(昭和40年)10月、終戦20周年にあたり昭和天皇(宝算64)・香淳皇后(62歳)が御行幸啓。
1969年(昭和44年)10月20日、御創立百周年記念大祭が行われ昭和天皇(宝算68)・香淳皇后(66歳)が行幸啓。
1975年(昭和50年)11月21日、大東亜戦争終結30周年にあたり昭和天皇(宝算74)・香淳皇后(72歳)が御行幸啓。
理由は不明だが昭和天皇の御親拝としては最後になる。ただし、その後も例大祭(春と秋の年に2回)に勅使の発遣は行っている。
昭和天皇の御親拝と首相参拝問題を大東亜戦争以降の中華人民共和国と大韓民国の歴史(外交と事件)と絡めて考える為の年表。
1945年(昭和20年)11月、国共内戦(中華民国政府を率いる国民党軍と共産党軍の内戦)が始まる。
1948年(昭和23年)4月3日、朝鮮半島の南にある島「済州島」で「南朝鮮の単独選挙」に対する対立から「済州島四・三事件(1957年までに8万人程度が殺害されたとも)」が始まる。国の成立から朝鮮戦争と不安定な状況が長期にわたり続くことになる。
1948年(昭和23年)8月、大韓民国(韓国)成立。大統領は李承晩。
1948年(昭和23年)9月、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)成立。首相は金日成。
1949年(昭和24年)10月1日、中華民国が台湾に撤退し、中華人民共和国成立。主席は毛沢東、首相は周恩来。
1949年(昭和24年)10月25日~27日、中華民国と中華人民共和国の間で台湾海峡を巡る争い「古寧頭戦役」が発生。台湾に密入国していた旧日本軍将校団「白団」が軍事顧問としてついた中華民国(国民党軍)が勝利する。これ以降は幾度かの衝突があった物の、台湾は中華民国、大陸は中華人民共和国の体制が続いている。
1950年(昭和25年)6月25日、朝鮮半島に於いて朝鮮戦争勃発。
1953年(昭和28年)7月、朝鮮戦争休戦協定が調印される。
1956年(昭和31年)12月18日、国連総会で「日本の国連加盟」が加盟76ヶ国の全会一致で承認される。元A級戦犯の重光葵(禁固7年)は日本の国連加盟が認められたことに対する加盟受諾演説で「日本は東西の架け橋になりうる」と表明して拍手で受け入れられる。
1960年(昭和35年)4月、中華人民共和国とソビエト連邦の対立が表面化する。(中ソ対立)
1960年(昭和35年)4月19日、大韓民国で4.19革命が起こり李承晩が失脚する。
1961年(昭和36年)5月16日、大韓民国で5・16軍事クーデターが起こり朴正煕が政権を掌握する。
1962年(昭和37年)10月20日~11月21日、中華人民共和国がインド共和国に侵攻して中印国境紛争が勃発する。
1966年(昭和41年)1月、中華人民共和国で毛沢東が文化大革命(「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という名目の改革運動。権力闘争)を発動する。
1969年(昭和44年)1月18日~19日、日本にて東大安田講堂事件(学生組織の全学共闘会議が安田講堂を占拠して警視庁機動隊と衝突した)が発生する。
1969年(昭和44年)3月、中華人民共和国とソビエト連邦の間で珍宝島事件(ダマンスキー島事件とも、武力衝突)が勃発する。(中ソ国境紛争)
1969年(昭和44年)8月、中華人民共和国とソビエト連邦が新疆ウイグル自治区で武力衝突。
1970年(昭和45年)11月25日、日本にて三島事件(三島由紀夫と「楯の会」による自衛隊への決起呼びかけと割腹)が発生する。
1971年(昭和46年)9月13日、中華人民共和国で林彪事件(林彪共産党副主席による毛沢東共産党主席の暗殺未遂事件)が発生する。
1971年(昭和46年)10月、中華人民共和国が国際連合に加盟、同時に中華民国の常任理事国も継承する。
1972年(昭和47年)9月29日、田中角栄(内閣総理大臣)、周恩来(国務院総理)両首相の署名により日中国交正常化なされる。
1973年(昭和48年)8月8日、日本で金大中事件(在日韓国朝鮮人による金大中の拉致事件)が発生する。
1974年(昭和49年)8月15日、大韓民国で文世光事件(朴正煕暗殺未遂事件)が発生する。
1975年(昭和50年)11月20日、日本社会党の野田哲参議院議員、秦豊参議院議員、矢田部理参議院議員の3名が76回参議院内閣委員会4号において天皇の行為と政府の機能、天皇や総理大臣の参拝に関する公的行為・私的行為、表敬法案等に関して質問をして、宮内庁次長の富田朝彦と内閣法制局長官の吉國一郎が答弁する。
1975年(昭和50年)11月21日、大東亜戦争終結30周年にあたり昭和天皇(宝算74)・香淳皇后(72歳)が御行幸啓。(最後の御親拝)
1976年(昭和51年)4月5日、中華人民共和国で第一次天安門事件(周恩来追悼と四人組批判の民衆と民兵・警官隊の衝突事件)が発生する。
1976年(昭和51年)9月9日、中華人民共和国で毛沢東が死去。
1977年(昭和52年)夏、香淳皇后(74歳)が腰椎骨折。治療が遅れて杖が必要になる。
1977年(昭和52年)8月、中華人民共和国で文化大革命の終結が宣言される。
1978年(昭和53年)8月12日、北京で日中平和友好条約の調印式。
1978年(昭和53年)10月17日、A級戦犯として死刑・獄中死した14名が「昭和殉難者」として合祀される。
1978年(昭和53年)10月18日、日中平和友好条約が国会承認され23日に批准書を交換。
1979年(昭和54年)1月1日、中華人民共和国とアメリカ合衆国の間で外交関係(以前は中華民国と外交関係にあった)が結ばれる。
1979年(昭和54年)2月17日~3月16日、中越戦争(カンボジアを支援していた中華人民共和国がベトナム社会主義共和国に軍事進攻)
1979年(昭和54年)4月19日、朝日新聞が靖国神社にA級戦犯が合祀されていると報道。
1979年(昭和54年)10月26日、大韓民国で朴正煕暗殺事件が発生する。
1980年(昭和55年)5月18日、韓国光州事件(民主化活動家や支持市民と韓国軍が衝突)が発生する。
1982年(昭和57年)、文部省が「侵略」を「進出」と書き換えたとして教科書検定に批判が起こる。
1982年(昭和57年)7月26日、中華人民共和国より教科書検定の件で抗議を表明。
1984年(昭和59年)12月19日、英中共同声明で中華人民共和国に香港を返還する事が明らかにされる。
1985年(昭和60年)、中曽根康弘首相が公式参拝を行い外交問題になる。また平和遺族会も結成される。
1986年(昭和61年)12月、中華人民共和国で民主化要求の学生デモが中国全土に広がる。
1987年(昭和62年)12月11日、香淳皇后(84歳)が軽い心臓発作を起こす。
1988年(昭和63年)4月28日、富田メモに靖国に関した一連のメモがある。
前にあったね どうしたのだろう
中曽根の靖国参拝もあったが
藤尾(文相)の発言.
=奥野は藤尾と違うと思うが
バランス感覚のことと思う
単純な復古ではないとも.
私は 或る時に. A級が
合祀されし その上 松岡.白取
までもが.
筑波は慎重に対処して
くれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考
えたのか 易々と
松平は 平和に強い考が
あったと思うのに 親の心子知
らずと思っている
だから 私あれ以来参拝
していない.それが私の心だ
・関連質問 関係者もおり批判になるのき
左側に縦書きで「・余り関係も知らず
そうですがが多い」
藤尾正行 第3次中曽根内閣の文部大臣 : 歴史教科書問題に関連した発言が問題視され1986年(昭和61年)9月9日に罷免された。(国会答弁は国会会議録検索システムで「藤尾正行 侵略」で検索)
奥野誠亮 竹下内閣国土庁長官 : 1988年(昭和63年)4月22日に記者会見で靖国神社参拝について問われて持論を展開、1988年(昭和63年)5月9日の衆議院決算委員会5号で論戦を繰り広げるも辞任に追い込まれる。(記者会見の発言は「奥野誠亮 鄧小平」で検索、国会答弁は国会会議録検索システムで「奥野誠亮 東京裁判」等で検索)
「昭和天皇が不快感をしめした」との主張や別の方の発言ではとの主張、偽物説と諸説あるが実際は不明である。「国会で質疑が起こるような時勢、平和を祈願して日中平和友好条約が結ばれようとしてる最中に慎重が要求されるA級を合祀するのは何を考えているのかわからない」とも取れる内容ではある。事実がわからない事象であるだけに様々な視点から慎重に考える必要がある。
1989年(昭和64年、平成元年)1月、昭和天皇崩御(宝算87)。
1989年(昭和64年、平成元年)6月4日、中華人民共和国で第二次天安門事件(民主化を求めた学生を中心としたデモ隊を中国人民解放軍が武力弾圧)
1991年(平成3年)9月17日、大韓民国が国際連合に加盟する。
2000年(平成12年)6月16日、香淳皇太后崩御(97歳)。
サンフランシスコ講和条約の英語名は「Treaty of Peace with Japan」
資料1. 東京大学東洋文化研究所データベース - データベース『世界と日本』/田中研究室 - サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)英文
靖国関係ではA級戦犯の合祀に関連して「日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)」第11条の解釈が一部で問題にされている(原文の「accepts the judgments」を「裁判の受諾」と訳していたのだが、あれは「諸判決の受諾」だとするのが正しい訳し方ではないかという主張がある)。なお、日本政府の公式見解は「極東国際軍事裁判所の裁判を受諾しており、国と国との関係において、この裁判について異議を述べる立場にはない」というものである。
東京裁判における「判決」や「裁判の正統性」、A級戦犯の名誉回復(国会における「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」等)や合祀、戦争責任の所在等と絡んで非常に複雑な問題となっている。
ちなみに同11条に『grant clemency(恩赦・特赦を与える)』とあり、通常は赦免と翻訳されているのだが、日本国内における「赦免」がどの様な意味や効果を持つかの認識、関係諸外国における「grant clemency」がどの様な意味や効果を持つかの認識と言った物は取沙汰されていない。外交に於いて「諸外国の許可を得た」のだが文化や思想が異なる諸外国と共通認識を持っていたかも不明である。
極東国際軍事裁判の英語名は「International Military Tribunal for the Far East(IMTFE)」
資料1. JUDGMENT INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL FOR THE FAR EAST INDICTMENT(PDF)
資料2. ハリー・S・トルーマン大統領図書館の原本取り込み画像資料
資料2. 神道政治連盟より「靖国神社問題」
合祀に関しては病死等が終戦から6年程度(合祀資料の精査が必要だが)とされており、それが合祀の分かれ目になっていると思われる。
注意 : 英語原文は非常に長いので、正確な内容を知りたい場合は資料を参照願います。また、PDF資料は綴りミスもある様なので画像資料も参照した方が良い。
第一群「平和に対する罪」(GROUP ONE: CRIMES AGAINST PEACE)
A 戦争遂行計画の包括
第二群「殺人(及び殺人共同謀議の罪)」(GROUP TWO: MURDER)
第三群「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(GROUP THREE: CONVENTIONAL WAR CRIMES AND CRIMES AGAINST HUMANITY)
政府主催により毎年8月15日に日本武道館で行われる。目的は先の大戦による戦没者310万人の追悼で天皇皇后両陛下御臨席のほか、政府関係者、各界代表、全国からの遺族代表(各都道府県援護担当課が選考)など約6,000人が参列する。
厚生労働省主催により毎年5月下旬に千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行われる。目的は先の大戦による戦没者の遺骨のうち、「各地から持ち帰られた戦没者の遺骨のうち、遺族に引き渡すことのできない遺骨」を納骨し、併せて墓苑に納められている遺骨に拝礼を行うことで皇族の御臨席のもと挙行されている。
時期不明(毎年予定は組まれているが変更されることもある)で千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行われる。目的は遺骨収集により帰還した遺骨を遺骨収集団体から厚生労働省職員に引き渡し、黙祷と献花を行うことで厚生労働大臣政務官や来賓、遺族が参列する。
2013年 不明。2013年2月の「靖國」を所持してる方の情報求む。神社人によると約27万8000人。
2015年 25万5000人(第715号より) ・・・ 終結から70年目
2017年 25万人(第739号より)
2013年 33万人(第697号より)、およそ33万人(698号より)
2014年 およそ33万人(第710号より)
2015年 およそ15万5000人(第722号より) ・・・ 露店出店なし、終結から70年目
2016年 およそ13万人(第734号より) ・・・ 露天出店なし
2017年 およそ20万人(第746号より) ・・・ 露天出店なし
2013年 社頭参拝者:17万5000人 団体・個人等昇殿参拝者:5000人を超えた(第699号より)
2014年 社頭参拝者:17万人 団体・個人等昇殿参拝者:5000人を超えた(第711号より)
2015年 社頭参拝者:19万人 団体・個人等昇殿参拝者:7000人を超えた(第723号より) ・・・ 終結から70年目
2016年 社頭参拝者:15万人 団体・個人等昇殿参拝者:6000人を超えた(第735号より)
2017年 社頭参拝者:9万人 団体・個人等昇殿参拝者:5000人を超えた(第747号より)
2018年 社頭参拝者:6万4000人 団体・個人等昇殿参拝者:5000人を超えた(第759号より)
百科事典サイト「Wikipedia」では、2015年6月6日現在、日本語を含めて38の言語で「靖国神社」の記事が存在している。
中国語版Wikipediaの「靖国神社」の記事
中国人側からの立場、イデオロギーの記述が中心となっている。
中国語版Wikipdiaの同ページは文量が多めになるので各自参照願います。
韓国語版Wikipediaの「靖国神社」の記事
韓国人側からの立場、イデオロギーの記述が中心となっている。
韓国語版Wikipdiaの同ページは文量が多めになるので各自参照願います。
靖国神社から靖国通りを東に進むと神保町がある。多くの書店・古書店があり、靖国神社や大東亜戦争(太平洋戦争)、宗教関係等々とより深く知ろうとするには最適な場所である。靖国神社を訪れる機会があったら少し足を延ばしてみるのも手である。
掲示板
2393 ななしのよっしん
2024/11/26(火) 12:31:40 ID: jaq1YT3opz
アホほど金持ってるんだし、警備員増やせばええやん
貧乏な街宣右翼ならよろこんでやるやろ
2394 ななしのよっしん
2024/11/30(土) 19:02:49 ID: UFwqyy3aWK
どうせ不起訴無罪でさようならだろうな…
神社が破壊されたり放火されるのも時間の問題
https://
2395 ななしのよっしん
2024/12/16(月) 15:02:14 ID: yUZtrM9Dbf
戦死させられた特攻隊員の遺族騙して収容した遺品で金儲けしたけど修繕費もったいないからクラファン乞食したろって頭大丈夫か?
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/23(月) 00:00
最終更新:2024/12/23(月) 00:00
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