「山本勘助」(やまもと・かんすけ 1493? ~ 1561)とは、武田信玄の軍師として有名である一方、その実像が謎に包まれている戦国時代の武将である。
生年や出自には諸説あり、生まれは駿河国富士郡山本とも、三河国宝飯郡牛窪とも言われる。甲陽軍艦では享年から逆算して、1493年生まれとしているが、生年は1500年、1501年という説もある(後述の2007年に放送された大河ドラマ「風林火山」では1500年説を採用)。若い頃は全国各地を放浪しながら、兵法や武芸を習得したが、背が低く片足が不自由で隻眼と風采の上がらない容姿から仕官先に恵まれず、40歳を過ぎても浪人であった。
今川義元への仕官を断られて間もなく、武田家の重臣・板垣信方に見いだされて、武田家当主となったばかりの武田晴信(信玄)に登用される。この際、晴の一字を拝領して諱を「晴幸」としたと甲陽軍艦には記されているが、元々室町幕府の将軍・足利義晴から拝領した「晴」の字を与えることはありえず、間違いなくフィクションである(実際には、晴信(信玄)から一字拝領する場合、「信」か「昌」の字を与えられるのが定番であった)。
ともあれ晴信に仕えることとなった勘助は、低い身分からメキメキと頭角を現し、多くの合戦に出陣。情報収集や城郭建築術に長け、武田家の領土拡大で大いに貢献する。晴信が諏訪頼重を滅ぼすと、その娘・諏訪御寮人を側室とし、間に生まれた子を諏訪家の跡取りにして治めさせることを進言、その子が後の武田勝頼となる。
晴信が村上義清の戸石城を攻めた際、反撃を受けて大敗した戸石崩れでは、敗走する武田軍をまとめて追撃する村上軍を撃退する功を上げる。晴信が出家して信玄と号すると、勘助も主君に倣って出家、道鬼斎と称した。
1561年、勘助は川中島に武田軍の拠点・海津城(後の松代城)を築城。来るべき、第四回川中島の戦い(八幡原の戦い)に備える。この戦い前夜、勘助は妻女山に陣を敷く上杉政虎(上杉謙信)を別働隊が奇襲し、飛び出した上杉軍を待ち構えた本隊と挟み撃ちにして一網打尽にする、いわゆる啄木鳥戦法を献策する。しかし、この策は政虎に見破られ、飯富虎昌・高坂昌信・真田幸隆らが率いる別働隊が妻女山に辿り着いた時は、既に陣はもぬけの空。彼らが戻るまで、戦力が半減した本隊だけで上杉軍と戦うこととなる。裏をかかれて武田軍を窮地に追い込んだことを悔やんだ勘助は、責任を感じて上杉軍へ突撃。全身に六十カ所以上の傷を負って壮絶な討ち死にを遂げた。
余談だが、ヤマカン(山勘)の本来の語源は、山本勘助の名前に由来するという説もある(ヤマカンの意味として、山師のように計略を掛けること、あるいはその人を指すため)。
以上の勘助の経歴は、そのほとんどが軍学書「甲陽軍艦」によるものである。ところが、この「甲陽軍艦」は矛盾点が多いなど歴史史料としてはいささか信憑性に欠けるところがあるなど、問題点が色々と多い曰く付きの作品である。甲陽軍艦の作者は高坂昌信とされているが、実際には戦国時代末期から江戸時代前期に徳川家に仕えた軍学者・小幡勘兵衛(小幡景憲)や勘助の子孫が、昌信の名を借りて執筆したとも言われており、江戸時代から既に内容に嘘が多いことなどを指摘されていた。明治時代以降、「甲陽軍艦」とそれを元にした歴史史料にしかその名が出てこない勘助は、実在しない架空の人物説が強くなり、一時はその存在すら危ぶまれた。
ところが、1969年の大河ドラマ「天と地と」(上杉謙信が主人公)に、原作者の海音寺潮五郎が勘助架空人物説を唱えたこともあり、勘助がドラマに登場しないことがきっかけで、古文書を保管していたとある一般家庭のお宅から、勘助の名が残る史料が発見された。「市河文書」である。この市河文書によると、山本菅助なる人物が晴信の伝令として活躍していたことが判明。さらに、奇しくも大河ドラマ「風林火山」が放送された直後の2008年には新たな勘助に関する文書が発見された。
このことから現在では、「甲陽軍艦」における山本勘助の活躍時代は後世の創作だが、山本菅助という武将がいたことは事実であり、信玄の側近だった駒井高白斎や、信玄に従い謀略を駆使して武田軍で活躍した真田幸隆、そして海津城を長年にわたって守るなど信濃の統治を務めた高坂昌信らの功績を、菅助の名義で集大成したのが一般によく知られる山本勘助像となったと考えられている。
元々フィクション性の強い人物だけあって、勘助は様々な形で描かれている。大河ドラマの原作にもなった井上靖の小説「風林火山」は、甲陽軍艦の勘助をほぼそのまま踏襲しており、特に信玄と由布姫(諏訪御寮人)の仲を取り持ち、由布姫に心惹かれながらも、その子・勝頼を天下人にするべく心血を注ぐ人物となっている。大河ドラマでは内野聖陽が演じた他、1969年の映画版は三船敏郎、1992年の日本テレビ版では里見浩太朗、2006年のテレビ朝日版では北大路欣也がそれぞれ勘助を演じている。
一方、新田次郎の小説「武田信玄」では、今川義元と信玄の二重スパイという全く異なる描かれ方をしている。本作の勘助は、今川家に家族を人質をされているため、義元の命で信玄を探る役目をしていたが、最終的には義元を見限り、信玄に命じられて織田信長の間諜・梁田政綱に今川軍の情報を伝え、桶狭間の戦いで信長に義元を討たせる暗躍をした。同原作の1988年の大河ドラマでは西田敏行が演じているが、このドラマの勘助は両目があり、片足が不自由でもないごく普通の外見をしている。
この他にも、勘助が忍者だったり、諏訪御寮人ではなく信玄の正室・三条夫人に惚れていたり、川中島の戦いを生き延びていたりなど、作者によって様々な解釈で勘助は描かれている。
なお、勘助が隻眼かつ跛(びっこ)になった理由は甲陽軍艦でも明らかにされておらず、病気が原因とも、戦場で傷を負ったとも、はたまた熊などの猛獣と格闘して負傷したとも言われておりはっきりしない。さらに言えば、勘助が視力を失った目が左目なのか右目なのかも、作品や絵画によってばらつきがある(これは江戸時代の剣豪・柳生十兵衛にも言える話である)。
繰り返しになってしまうが、勘助本人が架空性の高い人物であるだけに、彼の一族・子孫に関してもその実像はあまりわかっていない。勘助の死後、山本勘蔵という彼の長男が後を継いだが、勘蔵は長篠の戦いで戦死したとされる。勘助はこの他にも娘がおり、饗庭十左衛門という人物がその娘婿となったと言われているが、どちらも「甲陽軍艦」を元にする史料なので、彼らが存在したのかさえ疑わしい。
しかし、江戸時代からその名が知られていた勘助の子孫を称する人物がいたのもまた事実である。江戸時代初期の裏千家の茶人・山本道珍は、小堀遠州の元で茶道を学び、信州高遠城主の保科正之に仕えた。正之が会津藩主となるとそれに従い、その子孫に幕末~明治時代の教育者である山本覚馬・新島八重兄妹を輩出した。また、昭和時代の軍人・山本五十六も、勘助の子孫もしくは彼の一族と深い繋がりのある人物を祖とすると称していた。
「信長の野望」シリーズにおける山本勘助の能力一覧。蒼天録からは天道までは史学上、その呼称があり得ないはずの山本晴幸の名義となっている(創造で再び、勘助の名前に戻った)。
初期の作品は、主君・武田信玄に次ぐ非常に高い能力を有していたが、その業績が信憑性に乏しいこと、他の武田家臣の活躍が知られるようになって評価されると、それと反比例するかのように、各能力値(特に政治)が減ってしまった。しかし、革新では往年の高能力値に復活、久々にチート的な強さを誇る勘助が復活した。
顔グラは多くの武田家臣が、大河ドラマ「武田信玄」のイメージが強い人物が多い中、その特異な肖像画が残っている勘助は伝統的に、隻眼で達磨のような髭面・スキンヘッドが続いていた。革新では顔がやや洗練され、大河ドラマ「風林火山」が放送された2年後に制作された天道以降の作品では大幅に若返り、内野聖陽が演じた勘助そのままの顔グラになっている。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 90 | 政治 | 90 | 魅力 | 80 | 野望 | 79 | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 91 | 政治 | 88 | 魅力 | 81 | 野望 | 73 | 教養 | 79 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 77 | 戦闘 | 88 | 智謀 | 90 | 政治 | 82 | 野望 | 81 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 162(A) | 智才 | 174(A) | 政才 | 144(C) | 魅力 | 66 | 野望 | 86 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 85 | 智謀 | 89 | 政治 | 60 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 44 | 戦闘 | 78 | 智謀 | 84 | 政治 | 52 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 82 | 智謀 | 92 | 政治 | 41 | 野望 | 73 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 72 | 知略 | 81 | 政治 | 30 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 72 | 知略 | 81 | 政治 | 27 | 教養 | 67 | ||||||||
革新 | 統率 | 84 | 武勇 | 74 | 知略 | 97 | 政治 | 72 | ||||||||
天道 | 統率 | 62 | 武勇 | 41 | 知略 | 97 | 政治 | 76 | ||||||||
創造 | 統率 | 72 | 武勇 | 67 | 知略 | 95 | 政治 | 70 | ||||||||
大志 | 統率 | 80 | 武勇 | 70 | 知略 | 95 | 内政 | 70 | 外政 | 79 |
「これぞ、啄木鳥戦法…!」
開始バージョンであるVer1.0の武田軍に参戦している。当初はコスト8制、それでいて2.5コスト最低の武力6(武力だけ見れば、1コスト落としたクラス)というのがあり、採用率は低かった。
しかしVerUpによりコスト登録が9コストになったことで、武力を武田家の優秀な他の武将で補えるようになったことで日の目を見るようになった。また現在では采配デッキの裏の手としての採用も考えられる。
計略「啄木鳥戦法」は範囲内の敵すべての武力を大幅に下げ、更に自分に向かって強制移動させるもの。低下値が強烈で相手が大名采配を使ってきてもそれを打ち消すくらいのパワーはあるが、いかんせん本人が武力6であること、更に効果中に自城に入ったり、撤退してしまうとその時点で効果終了となること、そして効果時間はそこまで長くない事が注意点として挙げられる。引っ張った相手が超絶鉄砲だったりした場合、その射撃で自分が死ぬ事もあり得るので、他の武将との連携が必要になる。
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24 ななしのよっしん
2023/05/18(木) 23:38:03 ID: 9mwuAhcGM0
名軍師の軍記物語なのになぜ失策で生涯を終える話にされたんだろう
不思議だよな・・・
話の筋が気に入らない語り手にどこかで書き換えられたのか
>>22
他の資料の一斉が消滅すれば君の淫夢が後世に史実として語られる未来もあり得る
25 ななしのよっしん
2023/05/18(木) 23:47:52 ID: bRUMaCDqmI
逆に最後がなければ平凡な一軍師くらいで語られる程度だったのが
大失策したけど責任を取って命を捨てて突撃して挽回したからこそ大きく奉られた側面はあるかもしれない
日本人って弁慶の立ち往生とかそういう最期に命まで捧げた忠臣大好きだしさ
26 ななしのよっしん
2023/05/23(火) 13:50:56 ID: hCm+ho3VG/
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最終更新:2024/12/23(月) 16:00
最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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