桶狭間の戦いとは、永禄三年五月(1560年6月)に尾張国・桶狭間付近で起こった戦いである。
戦国時代の、そして織田信長の数々の戦いの中でも、最も有名な物のひとつであろう。
尾張をほぼ統一したばかりの織田信長と、駿河・遠江・三河を手中に収める今川義元による戦い。数では今川軍が圧倒的に勝っていたが、信長は僅かな兵を率いて強襲を仕掛けることに成功し、義元をはじめ多くの重臣を戦死させた。
この勝利は織田信長の躍進のきっかけとなり、徳川家康の自立、甲相駿三国同盟の崩壊など数多くの影響を及ぼす事になる。戦国時代の大きな分岐点であった。
「河越夜戦」「厳島の戦い」と並ぶ日本三大奇襲のひとつとされる。
駿河を本拠とする今川氏と、尾張を本拠とする斯波氏は、東海地方の覇権を巡って応仁の乱の頃から度々争っていた。やがて斯波氏に代わって織田氏が尾張の実権を握ったが、対立構図は続いていた。だが1520年頃には遠江が今川の手に落ちた。
その中間に位置する三河では松平氏が勢力を一時拡大したが、松平清康・松平広忠の相次ぐ暗殺で弱体化。今川義元は広忠の子・竹千代(松平元康、のちの徳川家康)を人質として松平氏を配下に収め、三河にまで支配を拡げた。
今川と幾度となく戦いを交えた織田信秀(信長の父)は1551年に病死する。跡を継いだ信長はまだ当時17歳と若く、織田一族内の対立も多く抱えていた。また尾張東部(三河国境付近)では、山口教継の鳴海城を始め、沓掛城、大高城などが今川方に寝返ってしまう。
信長は舅の斎藤道三の援軍を借り、尾張東部では数少ない味方だった水野信元を救援して村木砦を攻略するなど、今川の拡大に抵抗する。だが局地的な勝利は挙げられたが、今川との圧倒的な戦力差は埋められずにいた。
しかも道三が1556年に息子・斎藤義龍と対立して戦死してしまい、美濃斎藤氏は信長の敵に回ってしまった。弟・織田信勝も斎藤義龍と通じて謀反を起こすなど、信長は窮地に追い込まれるが何とか鎮圧。これと前後して、本家筋にあたる大和守家(清洲織田家)の織田信友、伊勢守家(岩倉織田家)の織田信賢を排除した。
守護・斯波義銀の支持(という名の傀儡化)の下で信長は尾張を統一していく・・・と言いたいところだが、先述したように東部(知多半島など)は水野氏以外は多くが今川方になびいており、あくまで「斯波・織田家中を統一」止まりだった。斎藤義龍ら周辺諸国は敵だらけ、織田家はそれ以上の身動きがとれない状況から抜け出せずにいた。
信長が尾張国内の統一の為に駆け回っていた時期、今川義元は拡大した領国の安定に務めていた。
特に1554年、甲斐の武田信玄・相模の北条氏康と甲相駿三国同盟を結んだことで後顧の憂いが無くなったのは大きかった。また元服した松平元康には姪・瀬名姫(築山御前)を嫁がせて一門に組み込む。更に1558年、息子・今川氏真に家督を譲ると、以降は駿河・遠江の支配は氏真に任せ、義元自身は三河支配に専念するようになった。もちろんその目線の先にあるのは、尾張である。
ちなみに、義元と武田信玄が三国同盟で手を組んだ一方で、信玄と信長も美濃を巡る思惑から徐々に接近している(義元が死んだ後は本格化する)。
ざっくりとした当時の情勢図。青は織田方、赤は今川方、×印が桶狭間である。
地図では見切れているが、北の美濃では斎藤義龍が反織田を掲げており、西にあたる北伊勢でも服部氏などの土豪が敵対中。このままなら、織田は今川に押し込まれていくであろう事は大方の予想するところだった。
1560年5月、領国基盤を整えつつ更なる西進を目指す今川義元は、総勢数万[1]とされる軍勢を率いて尾張へと進軍した。その最終目的は諸説あるが、ともかく尾張を支配していた織田信長を叩こうとしていた事は間違いないだろう。
織田軍は兵力で大幅に劣り、しかも外交面でも孤立無援という絶望的な状況にあった。一方の今川軍は駿河・遠江・三河を押さえ、尾張方面にも協力者を得ており、戦力・外交両面で圧倒的優勢を誇っていた。
進軍の時点で織田は敗色濃厚であり、織田方の武将の中にも曖昧な態度で桶狭間の戦いに参戦しなかった勢力・人物も多かった。
こうして桶狭間の戦いが幕を開けた。織田軍の兵は最大5千、対する今川軍は最大5万と伝わる。戦いの規模や内容は諸説あるが、ある程度通説に従う形で記述する。
織田軍の主な武将 | 今川軍の主な武将 |
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※ 赤字は同合戦戦死者
5月17日。
まず義元は沓掛城に入る。当時、大高城の周辺には織田が築いた砦がいくつか存在し、補給線が分断されて半ば孤立状態にあった。このため義元は、朝比奈泰朝らに鷲津砦を、松平元康らに丸根砦を攻撃するように命ずる。また元康に対しては大高城への救援(兵糧搬入)も命じている。元康の軍勢には、本多忠勝・酒井忠次ら後に徳川家を支えることになる重臣たちの姿もあった。
一方の織田家は今川の大軍来襲の報に対し、籠城か出陣かで揉めたとされる。籠城しようにも四面楚歌で援軍は期待できず、出陣しようにも圧倒的な兵力差。結局信長の命令で、織田軍本隊は清洲城で待機する事になった。
5月18日。
今川軍は予定通り大高城の救援と両砦攻撃を実行。砦は翌日まで防戦したが陥落し、鷲津砦の織田秀敏、丸根砦の佐久間盛重の両将が戦死した。松平元康らはそのまま大高城に入る。
5月19日未明。
砦が攻撃を受けたとの報を受けた織田信長は、ここで突如出陣を命じる。「人生五十年~」で有名な幸若舞「敦盛」を舞った後、具足を身につけ、佐脇良之ら供回り5騎のみを連れて清洲城から駆け出した。
信長はまず熱田神宮に向かい、戦勝を祈願した。続いて佐久間信盛の守る善照寺砦(鳴海城付近)へと入る。この頃までには遅れて出発した家臣たちも次々合流し、3000ほどの兵が集まった。だがこの頃、両砦の陥落と宿将たちの死が伝わった。
正午頃、信長は善照寺砦の信盛に兵500ほどを預け、残る2500ほどの軍勢を率いて出発した。同じ頃、義元も軍を進めた。『信長公記』によれば、おけはざま山に本陣を構えたとされている。総勢数万とされる今川軍だが、既に大高城救援などにも兵力が割かれており、また遠征作戦である以上、全員が戦闘要員という訳でもない。兵力の差は当初よりは縮まっていたと考えられている。
更に同じ頃、中島砦付近で織田軍と今川軍の衝突があった。織田軍はわずか300程度で、佐々政次(隼人)、千秋季忠(四郎)の2人が率いていたが、今川軍の猛攻の前に討死した。信長本隊の進軍を聞いての奇襲作戦と思われるが、本隊との足並みは揃わなかった。すこぶる順調な戦線に義元も気分を良くしたといわれる。
だが13時ごろ、突然の豪雨(雹ともいわれる)があたりを覆った。これにより視界不良となり、信長本隊は地形の助けもあって一時的に今川軍の補足から逃れた、とされている。(※ここで迂回したのか直進したのかは見解が分かれる)
そしてこの後、織田軍は今川軍を、それも義元率いる本隊を強襲した。この時の兵数は織田軍が2000ほど、今川軍が6000ほどとされる。信長も自ら下馬して戦い、加えて信長が手塩にかけて育てた馬廻の精鋭たち(のちの赤母衣衆・黒母衣衆)は士気も戦闘能力も高く、逆に思いもよらないところから攻撃された今川軍は徐々に崩れていく。そして遂に、服部一忠(小平太)、毛利良勝(新介)らの奮戦で今川義元は討ち取られた。今川の重臣たちも数多くが戦死。また義元の愛刀であった「宗三左文字」は信長のものとなった。
今川方として大高城にいた松平元康は、伯父の水野信元(織田方)から義元戦死の報を知らされる。元康たちはそのまま松平の本拠地であった三河・岡崎城へと移り、逃走していた今川の代官に代わって三河支配を開始した。元康はしばらくは今川の配下として振舞うが、やがて公然と反旗を翻して独立。織田信長と清洲同盟を結ぶことになる。のちに天下泰平を築き上げた徳川家康の船出であった。
大高城・沓掛城はまもなく織田の手に落ちた。だが鳴海城だけは岡部元信が頑強に抵抗し、最終的に交渉によって、義元の首と引き換えに城を明け渡す事になった。元信はこの後も高天神城の戦いで討死するまで、20年以上織田との戦いに身を投じることになる。
織田信長にとっては起死回生と言える勝利であった。今川義元という東の巨人が倒れた事で運が向いたか、翌年には美濃の斎藤義龍も病死。これを受けて三河の松平(徳川)と同盟を結び、隣国美濃の制圧へと乗り出していく。戦国大名としての飛躍を遂げ、天下統一事業へと繋がっていくのである。
なお織田家臣の中でも去就を曖昧にしていた者がちらほらいたが、中でも右往左往した丹羽氏勝は後年、林秀貞らと同時に追放処分にされてしまっている。
義元を始めとした重鎮を一斉に失い、今川軍も領国もここから大混乱に陥ることになる。
今川氏真が名実ともに跡を継ぎ、寿桂尼(義元の母)の補佐を受けながら立て直しに努めることになるが、西三河はやがて松平元康(徳川家康)によって制圧されてしまう。
遠江は井伊直盛などが討死し、井伊谷の井伊氏、引馬の飯尾氏らが不穏な動きを見せ始め「遠州錯乱」と呼ばれる大混乱時代に突入する。
また今川の弱体化は三国同盟の揺らぎに繋がった。この事も影響して、北条家は上杉謙信の関東遠征に苦しまされる。
そして武田信玄は方針を改めるようになり、1568年、遂に同盟を破棄して今川領国へと攻め入る。息子・武田義信はこの間に謎の死を遂げた。この頃には寿桂尼も既に亡く、1569年、戦国大名としての今川氏は滅亡する事になる。
だが今川氏真自身は、妻の実家北条家を、後に徳川家康らを頼る形で戦国時代を生き延び、高家旗本として今川家の命脈を江戸時代に繋げることに成功している。
すこぶる知名度の高い桶狭間の戦いであるが、同時に謎も多い。
軍記物などで長らく「上洛」目的に軍を進めたとされ、そうした説話が広まったが、流石に現実的ではないというのが最近の見解である。いきなり軍事作戦で上洛するには、流石に障害が多すぎる。
それ以前の義元の堅実な領国拡大のやり方から見ても、西三河~東尾張の支配権を盤石にするための遠征ではないかと思われる。織田に対する圧力の強化であるとともに、上手くいけば伊勢湾の制海権も奪える。
少なくとも、大高城など東尾張諸城は織田の砦で包囲された状況にあったので、その事態を打開する事が第一目的だったのだろう(そこまでは成功しているのだが…)。
信長公記に書かれた「おけはざま山」や、信長記の「田楽狭間」といった地名が有名だが、実際の場所の完全な特定には至っていない。周辺には丘や窪地が多く存在していて、大軍での行動が制限される・奇襲作戦に向いている地形であったのは確かであり、信長は上手く地の利を得たと言える。
桶狭間と言えば、雨に紛れて敵本隊を迂回し、鮮やかな奇襲作戦を決めたというイメージが強い。
ところが「信長公記」では奇襲に関する記述が全くない。こちらによれば、連戦で疲弊しているであろう今川軍を、精鋭で撃ち破るというのが信長の考えだったようだ。
何にしろ、毛利良勝らを始めとした馬廻たちは、信長の尾張統一戦の中でも最前線で活躍し続けた御自慢の精鋭集団であり、数で劣る織田軍にとっての最大の武器が最高の形で機能したようである。
桶狭間の奇襲作戦を提案したのは、地元の土豪・簗田政綱だったと言われる。このため、義元の首をとった毛利良勝を差し置いて、彼が勲功第一とされたとする話が伝わっている。実際、沓掛城は彼に与えられたようだ。
ただ、一次史料にはこの辺の話を証明するようなものがなく、後世の創作の可能性もある。
この戦いが後世広く伝わった事で、「桶狭間」は起死回生の勝利の代名詞となり、類似の戦いに対しても「○○の桶狭間」のような異名がつけられたりしている。
ちなみにテレビアニメ・戦姫絶唱シンフォギアには「恋の桶狭間」という曲が登場する。詳細は当該項目を参照。
掲示板
47 ななしのよっしん
2023/11/26(日) 13:19:28 ID: +6ePxyhifl
日本陸軍の戦史研究チームも匙を投げて軍記物を丸コピした戦
それから100年経っても尚分からないことが多すぎる
48 ななしのよっしん
2024/10/05(土) 08:37:41 ID: SiwAhVn8Ih
大高・清須間が目と鼻の先とか言ってるのいるけど、今でさえ25kmほど、東海道線でも30分くらい。当時だと南区・港区等名古屋市南西部は湿地帯か遠浅の海なんで、徒歩でも移動に障害有るし、舟艇でも大量輸送向いていない。というわけで目と鼻の先とは到底言えない。
その上間に熱田神宮勢力有るので、この時点で上洛戦どころか清須攻めも難しい(大宮司千秋家も織田方だし)。
49 ななしのよっしん
2024/12/15(日) 22:19:57 ID: leeIkEQfIk
そういや前尾張の石高が50万ぐらいあるとか聞いたな、もしそれが本当ならそんな戦力差はなかったのか?
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最終更新:2024/12/23(月) 15:00
最終更新:2024/12/23(月) 15:00
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