保科正之(1611~1672)とは、江戸時代前期に活躍した大名で、徳川秀忠の庶子、つまり徳川家光や徳川忠長の弟である。
徳川秀忠の子で、徳川家綱を補佐し、会津藩の開祖となった人物。
その幼少期は苦難の道であり、北条氏出身の静と徳川秀忠の間に生まれた保科正之は、秀忠が正室であった江(崇源院)をはばかってそもそも江戸城内で生まれることも許されず、3歳のころ土井利勝らの援助で武田信玄の娘で穴山梅雪の妻であった見性院に養われる。さらに元和3年(1617年)に見性院は武田の旧臣であった信濃高遠3万石の城主・保科正光の養子としたのである。
槍弾正とうたわれた保科正俊の衣鉢を継いだとはいえ石高はあまり高くなく、徳川家光、徳川忠長らは初めて彼に会った際、処遇に困ったような逸話を残している。
ともあれ、寛永6年(1629年)には徳川秀忠に御目見えし、同年のうちに徳川忠長にも対面。寛永8年(1631年)には養父の没後遺領を継ぎ、従五位下・諸大夫に叙爵。さらに寛永9年(1632年)には侍従に昇進し、寛永13年(1636年)には出羽山形20万石を得、寛永20年(1643年)には陸奥会津23万石に加増。
意気揚々と会津に入っていった保科正之は、藩財政の基礎を確立し軍事力の増強を図った一方、農民への過酷な賦課を取りやめ、藩財政は豊かになったとも。また社倉法を実施して幕末まで伝えられることとなる。加えて山崎闇斎に教えを請い、朱子学を重んじた(なお、実は山崎闇斎の方が年下であったりする)。他にも神道研究にも精進し、吉川惟足に彼の子孫以外で奥秘を教えられた唯一の存在であったそうな。
一方で幕閣としては徳川家光の期待に応えて、徳川家綱を後見し、由井正雪の乱の処理、明暦の大火で焼失した江戸城天守閣再建の延期(なお結果的に以後江戸城は天守閣を持たないこととなる)、証人制の廃止などに着手していった。
大坂の陣にすら参戦していない世代なのだが、その知名度のためか時折登場し、戦国立志伝への登場をきっかけにようやく定着した。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 82 | 智才 | 144 | 政才 | 178 | 魅力 | 81 | 野望 | 47 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | 39 | 智謀 | 68 | 政治 | 81 | 野望 | 34 | ||||||
蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
戦国立志伝 | 統率 | 82 | 武勇 | 66 | 知略 | 78 | 政治 | 84 |
掲示板
9 ななしのよっしん
2023/05/03(水) 14:28:59 ID: dJtwpwgANn
近しい存在だからこそ憎しみも多かったんだろうあの兄弟
正之は兄弟ではあるけど遠い存在だったからこそ、逆に信頼を得たのかもしれない
もちろん正之自体が優秀で誠実な人物であったこともあるけどね
まぁ秀忠とシエが悪いよ
10 ななしのよっしん
2023/05/03(水) 14:49:27 ID: Zp1DwXA98e
いつ寝首を掻きに行くかもわからない同腹の弟に悩んでいた頃に、誠実かつ真面目な異母弟が現れたらそっちを可愛がるよな
11 ななしのよっしん
2023/05/03(水) 14:52:39 ID: qkQIBHj6jq
幼少期の家光より忠長の方が聡明で将軍職を継ぐに相応しいと周囲から言われてたからとか家光に知的障害っぽい要素でもあったのではとか春日局派を追い落とす為の政争の一環だったとか色々説はあるがどれも確証がないし
しかし当事者間にしか分からない何かがあって、その結果として江姫が嫡男の家光より忠長を寵愛したってのは確かだが
その何かってのが分からないとはっきりどうだったとも言えんしね(徳川実紀は将軍家にとって都合の悪い事実は得てして記述しない傾向が強いし)
正之も忠長が自害した際に嘆いたって話だけどもこれもどういう意味でなのかまでは分からないからなんとももどかしい
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最終更新:2024/12/23(月) 10:00
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