大野治長(1569~1615)とは、戦国時代に活躍した武将である。
淀殿の乳母・大蔵卿局の息子で、弟の大野治房、大野道犬、大野壱岐守とともに豊臣秀頼に仕えた大坂の陣の豊臣方の代表人物。官途は修理大夫。
豊臣家譜代家臣代表として、大坂の陣の際新たに仕えた浪人衆の活躍の足を引っ張った愚将、さらには淀殿との密通疑惑まである、奸臣として名高い人物であるが、最近ではようやくこのような風評被害から免れつつあるようだ。
大野佐渡守の長男で、『武家盛衰記』によると毛利吉政(後世毛利勝永と軍記物語に記されたあの人)、宮田平七、宮田安則らとは従兄弟とされる。『長経記』によるとさらに赤尾庄左衛門も親類らしい。
曽祖父である大野上官は石清水八幡宮の別当だったらしいが、その嫡男の大野治定は別当職を継がずに尾張国葉栗郡若宮地村に退去し、織田信長に仕えたとのこと。さらにその嫡男である大野佐渡守が豊臣秀吉に仕え、大野治長も豊臣秀吉家臣として一万一千石を領知した。
天正19年(1591年)に豊臣秀吉が三河吉良で放鷹した際、新庄直頼、小出秀政、小出吉政、片桐且元、片桐貞隆、石川貞清、柘植与一、福原長尭らとともに供奉している。文禄元年(1592年)には肥前名護屋に在番している。
その後豊臣秀吉存命中は秀吉近臣としてあちこちで名前が見られ、慶長3年(1598年)の豊臣秀吉没後には石河光行、杉原長房、片桐且元、木下利房、石田正澄らと同列で金子十五枚を拝領している。慶長4年(1599年)に豊臣秀頼が伏見城から大坂城に移る際、大坂城の詰衆二番に名前を連ねている。
しかし、9月7日、増田長盛から徳川家康に前田利長を中心とした土方雄久、大野治長による家康の暗殺計画が伝えられた。この結果、土方雄久、大野治長の二人は死一等を減じられて流罪に処され、大野治長は結城秀康のもとに送られた。この時期噂されたのが、例の淀殿への姦通であるが、根拠は当然ない。
この後配流先では割とのびのび暮らしていたようで、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの折、結城晴朝が大野治長の赦免と従軍を口添えして認められたようだ。以後浅野幸長旗下の軍勢として岐阜城攻めに加わり、本戦では福島正則の軍にいたらしい。この戦いで宇喜多秀家の家臣の鉄砲頭・河内七郎右衛門を討ち取っている。
関ヶ原の戦い終結後の9月19日~20日ごろに徳川家康から大坂城に派遣され、9月25日に柘植与一とともに豊臣秀頼の使者として徳川家康に石田三成の挙兵に秀頼が関知していない旨を伝えた。
その後は豊臣秀頼家臣としてあちこちの記録に姿を見せ、『浅野家文書』によると慶長11年(1606年)に大腸炎らしき重病に陥っていたようだ。以後も古田織部の茶会などに顔を見せ、慶長16年(1611年)の豊臣秀頼の上洛にも加わっていたが供衆には見えず、先に二条城に入っていたものと思われる。この際、加藤清正、浅野幸長と池田輝政、に続いて藤堂高虎と片桐且元と共に着座していた。
この上洛の後も徳川義直、徳川頼宣兄弟の大坂城来訪時に織田有楽斎、片桐且元、片桐貞隆兄弟の次に名前が記されるなど、豊臣秀頼家臣の最上位として各史料に名前が残っている。
しかし、慶長19年(1614年)9月ごろから大坂城は不穏な情勢に陥る。『片桐家秘記』によると、9月22日夜には大岡雅楽頭宅で大野治長、木村重成、渡辺糺らが談合して片桐且元の成敗が決され、『慶長年録』によると後任に織田常真(織田信雄のこと)をつけようとしたところ常真が且元に通報。今木一政が豊臣秀頼に且元をとりなし交渉が行われていったが、そうこうしているうちに反片桐且元派は織田有楽斎の屋敷に集まり、結局速水守之、今木一政が片桐且元邸に、真木嶋昭光と竹田永翁が織田有楽斎邸に向かい、双方の武装を解除した。
ついには9月25日、『片桐家秘記』によると大野治長、木村重成、渡辺糺、薄田兼相、織田頼長らが和睦を不満として浪人衆を率いて本丸に乗り込み、9月26日には大坂七手組の番頭たちも仲裁に入ろうとする。ついには片桐且元の退城が決まり、10月1日には片桐一門が退去。しかし片桐且元は当初予定されていた高野山に入らず茨木城に入り、これが大坂の陣のポイント・オブ・ノー・リターンとなる。
10月になると大野治長は総大将分となり、平島公方足利義種父子や毛利吉政、長岡是季、国嶋道喜らを招聘する。10月14日には片桐且元軍を攻撃し、これをほぼ全滅させる。
『北川次郎兵衛筆』によると、11月12日に新参衆による天王寺表の寄せ手への先制攻撃を、大坂七手組や後藤又兵衛と談合して退ける。11月下旬から織田有楽斎とともに徳川家康から和睦の交渉役として期待されるが、一方で大野治長軍は各地を転戦する。しかし12月3日には、織田有楽斎とともに和睦交渉が不調なことを徳川家康に知らせた。
その後も後藤光次との和睦交渉を進めていたが、12月9日に後藤又兵衛や真田信繁も和睦に同調し、以後も戦いは続く一方で和睦交渉が進展。12月20日に和睦はまとまり、織田有楽斎の子・織田尚長、大野治長の子・大野頼直が人質として贈られた。
2月26日に織田有楽斎が大坂城から退去した一方で、大野治長はなおも豊臣秀頼や淀殿のもとに仕えた。しかし3月13日付で大野治房が浪人に金銀米を配り、止めようとする大野治長との仲が悪化しているとの書状が、板倉勝重から松平正綱、後藤光次に送られた。これを受けてか3月下旬に大野治長は各大名に釈明の書状を送っていたが、一方で人材や軍需物資の収集を着々と進めていったようだ。
4月に入ると再戦は濃厚となる一方で、4月9日に大野治長は闇討ちされる。間一髪難を逃れ下手人を仕留めたものの、真相は不明のままで、浪人衆は疑心暗鬼に陥ったという。
大野治長は浅野長晟に対して交渉と軍事行動の双方を進めていき、4月下旬に開戦する。そして5月6日には毛利吉政とともに出陣する予定であったが、軍勢のみを派遣し大野治長自身は大坂城に引き返し、最終的には撤退を命じる。
5月7日に毛利吉政や竹田永翁と共に天王寺口に軍勢を派遣したものの、豊臣秀頼の出陣に手間取ってしまう。『武家事紀』によると、大坂七手組はすでに裏切りの約束があるので豊臣秀頼の出馬を見合わせるようにとの密書が徳川家康から届いたが、大野治長はこれを一読すると使者を殺し、真田信繁に相談したという。
しかし、真田信繁と示し合わせた後、豊臣秀頼に信繁の進言を伝えたものの、大野治長は傷口が開いて出血。大野治長軍は士気が大きく下がったが、小笠原秀政軍相手に奮戦。しかし割り込んできた藤堂高虎、井伊直孝の軍勢に迎撃されて、潰走してしまう。
大野治長は大坂城で年若い近習や児小姓を逃がすと、今木一政と共に天守で自害しようとする豊臣秀頼に対し速水守之と共に思いとどまらせ、櫓に避難した。この後自害しようとする今木一政を津川近治、毛利長門が追い出したものの、すでに松平忠直の軍勢が大坂城を焼き払っていた。
こうして大野治長は千姫を逃がすと、米村権右衛門に命じて彼女を介して豊臣秀頼、淀殿の助命を持ち掛ける。徳川家康は徳川秀忠に一任し、秀忠はこの母子の切腹を命じた。
5月8日に片桐且元に一行は見つけられ、井伊直孝、本多正純、阿部正次、安藤重信、近藤秀用らが取り囲む。『慶長見聞書』などによると、徳川家康の使者である加賀爪忠澄、豊島正次は大野治長、速水守之らに豊臣秀頼の助命を持ち掛けたが、合意に至らず、午の刻に徳川秀忠が切腹を命じる。こうして豊臣秀頼、淀殿らに大野治長も殉じたのであった。
このような大野治長の評価は当時から割れており、中臣祐範や大久保忠教が大野治長を称賛する一方、細川忠興や『巨細条書』は痛烈に批判している。
嫡男の大野頼直は父とともに豊臣秀頼に殉じ、次男の大野弥十郎は大野治長が最期の際行く末を頼んだものの、徳川家康によってその年のうちに自害させられた。
軍事能力がやや低いが、内政能力もそこまで秀でているわけではない、平凡な能力値である。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 80 | 智才 | 118 | 政才 | 134 | 魅力 | 57 | 野望 | 78 | ||||
将星録 | 戦闘 | 36 | 智謀 | 63 | 政治 | 68 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 25 | 戦闘 | 18 | 智謀 | 53 | 政治 | 57 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 10 | 智謀 | 40 | 政治 | 42 | 野望 | 22 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 15 | 知略 | 38 | 政治 | 45 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 13 | 知略 | 37 | 政治 | 50 | 教養 | 54 | ||||||
革新 | 統率 | 25 | 武勇 | 14 | 知略 | 42 | 政治 | 56 | ||||||
天道 | 統率 | 25 | 武勇 | 14 | 知略 | 42 | 政治 | 56 | ||||||
創造 | 統率 | 30 | 武勇 | 31 | 知略 | 45 | 政治 | 56 |
掲示板
6 ななしのよっしん
2022/07/02(土) 09:13:52 ID: tbUrkNrapV
>>4
分断統治や強敵を破った家康公スゲーの為では?(元敵の再評価)
7 ななしのよっしん
2023/05/15(月) 18:29:01 ID: c8XhxThg/j
弟や牢人と同じように徳川と戦いたかったのか、できるだけ穏便に済ませたかったのか、馬鹿な俺にはよく分からない
8 ななしのよっしん
2023/06/11(日) 13:44:09 ID: yzwF31iKaN
その辺は正直全くわからん
記事にもある通り、大野治長は開戦当初までは片桐且元排斥に動いていたタカ派の一人でイケイケドンドンって感じなのだが、
開戦したあたりからハト派の旗印みたいなポジションにいつの間にかなってるという
そもそも秀頼譜代vs浪人っていう単純な構造ではなもないからなあ
どっちも方針で複数派閥に分かれてて一緒に党派築いたりしてることが、戦前や戦中に大坂にいた連中からの証言に多々残されていたりする
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最終更新:2024/12/27(金) 18:00
最終更新:2024/12/27(金) 18:00
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