「井伊直孝」(いい・なおたか 1590 ~ 1659)とは、井伊の赤鬼の異名を誇る徳川四天王の一人・井伊直政の次男で、父譲りの剛毅で無骨で寡黙なことから「夜叉掃部(やしゃかもん)」と恐れられた彦根のレッドブルであり、徳川家康→徳川秀忠→徳川家光→徳川家綱の江戸幕府4代に仕えて初代大老を務めた知勇兼備の将であり、招き猫の元ネタとされるエピソードのメインキャスト。
※戦国BASARAに登場したら「Come on!」が口癖にされそうで怖い
※母親は、井伊直政の正妻の侍女とも農家の娘とも言われており、井伊直継は異母兄となる。
出自により井伊直政の正室に疎まれた事から、生まれてから十年ほどは井伊直政に存在を知られずに育ち、父が佐和山城主だった頃に対面を果たすという結城秀康ににた境遇の少年時代を送り、病弱設定の兄・井伊直継に対して、父同様に剛毅で無骨な人の話を聞かないタイプの猛将に育ち、井伊の赤鬼の異名をとった父に対して、「夜叉掃部(やしゃかもん)」と呼ばれた。
徳川秀忠に仕えて上野安中1万石の大名となって京都伏見城の城番を勤め、父が関ヶ原の戦いで鬼島津こと島津義弘から受けた傷がもとで死ぬと、家督を継いだ兄・井伊直継をサポートして、病弱設定により赤備えのフルアーマーを着て行動できない兄のかわりに大坂冬の陣にて彦根井伊氏の軍を率いて先陣を請け負ったが、真田丸の戦いで軍令違反の抜け駆けをしたうえに真田信繁にフルボッコされるという失態を犯してしまった。
味方の諸軍を勇み立たせた
と賞賛された為、冬の陣終了後に処罰を受けるどころか、兄と領地替え&井伊宗家の家督継承を徳川家康より命じられ、一旦は固辞した井伊直孝だったが、彦根が徳川家の戦略上の重要拠点であったこともあり、井伊直孝は彦根藩主となった。病弱な兄・井伊直継が上野安中3万石へと移る際には、父の遺品をほぼ全て兄に渡し、井伊家の譜代の家臣も百騎ほどつけて送り出したと言う。
※なお彦根城を築城したのは井伊直継で、自身も彦根藩主の時代があったのだが、記録上は井伊直政と井伊直孝に間に別の彦根藩主などいない!ということになっている。
大坂夏の陣では、藤堂高虎と共に先鋒として戦い、若江の戦いで木村重成を討ち取り、長宗我部盛親を敗走させるレッドブルを発揮し、大坂城が落城した際は、豊臣秀頼と淀殿が逃げ込んだ山里郭を包囲して、豊臣秀頼親子ら一行を自刃に追い込み、島津家の記憶に
日本一の大手柄
と賞賛される戦功を挙げて、戦後に5万石の加増を受けた。
その後も京都方面や西日本方面の抑え役を担い、徳川秀忠の遺命により江戸幕府初の元老(後の大老)となって幕末の井伊直弼までの間に、
と酒井家を越える人数の大老を輩出した。(井伊直孝が最初の大老ではないとする説もある)
徳川家光の時代には、明と清との戦いで鄭成功が援軍を求めてきた際には、援軍派遣に賛成の立場をとった徳川頼宣らに対して
大陸に領地を得ても利益はない
と一喝して黙らせ、徳川家光から後事を託された井伊直孝だったが 1659年に死去し、将軍徳川家綱らにその死を惜しまれた。
※その他「井伊直孝」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
伊達政宗が、関ヶ原の戦いの際に徳川家康からもらいうけておきながら、自分の暗躍のせいで反故にされた「百万石のお墨付き」をもって伊達家に百万石を与えるようにと訴えてきた。
徳川家康にも徳川秀忠にも徳川家光にも反故にされてきたことをまたいまさらもちだしてきやがってこのDQNめがと幕臣達が困り果てる中、父譲りの剛毅で寡黙で無骨な井伊直孝は、伊達政宗の屋敷に出向き、百万石のお墨付きの御誓文を見せてもらいたいと願い出た。
伊達政宗から差し出された御誓文を見た井伊直孝は、
確かに大神君の御神筆です。
と本物であることを認めた後・・・
昔でしたら百万石どころか、二百万石でも大神君は賜ろうと思し召したでしょう。
しかし、今は太平の御世です。
どこに伊達殿に差し上げるべき土地があるというのですか。
このように公私において無益の難儀を起こしても意味のないことです。
といって御誓文を引き裂いた上に焼き捨ててしまい、余りの始末に伊達政宗も伊達家の事はコンドトモヨロシクと言う程度な状況となり、この問題は一応解決した。
ちなみにこの話は四代目の徳川家綱の時代の話とされており、当時すでに伊達政宗は死んでいた・・・あれ?
井伊直孝が兄に代わって彦根に入り、最初に行った事は徹底した倹約であった。
これは父譲りの剛毅さから派手な事を好まず、何時如何なる時に誰の挑戦でも受けられる意識を持たせる為だったかどうかはよく解らないが、まずは彦根城内で徹底した倹約が行われ、家臣は皆、木綿の着物を着るようになった。
その後、城下にも倹約令が施行されたが、徳川家を敵視する石田三成のお膝元であることや、京都に近く、傾奇者も多かったらしかったようで倹約は遅々として浸透しなかったため、井伊直孝は、
衣服を改めない者は、自分に泥を塗ることになる
と言う警告の高札を立て、違反した者達に泥を塗りたくって全身泥まみれにするという罰則を適用した。
以降、彦根では派手な着物を着る者はいなくなったと言われている。
大坂冬の陣の後、井伊直孝を診察した医師は、井伊直孝の家の床が畳一枚どころか竹のスノコで出来ており、すきま風が入りまくる環境であった事に驚き、
これでは不養生に過ぎます。
と注意したが、井伊直孝は、
わが井伊家は、事あれば先陣を勤める家柄だ。
戦は風邪の治るのを待ってはくれぬ。
もしこれしきの寒さで死ぬようならば、もっと頑健な者が代わって当主になった方が将軍家の為になる。
と家を改装してもっと養生しようとの勧めを一蹴した。
この時、井伊直孝の屋敷の庭は、植木が無く雑草が生い茂り、井伊直孝が行水する際の泥はねを防ぐ程度の石を敷いたイギリス貴族から怒られるのは確実な状況だった。
井伊直孝が江戸にて鷹狩りを行った帰りに、豪徳寺の前を通りかかると住職の飼い猫が手招きするような仕草をした為、豪徳寺に立ち寄って休憩した。
すると天気が一転して雷雨となり、雨に濡らされずに澄んだ井伊直孝は、後日、豪徳寺に対して多額の寄進を行ったといわれており、この猫が死んだ際には丁重に弔われて境内に招猫堂が建てられたことから、その姿をかたどった招福猫児(まねぎねこ)がつくられるようになったのが所謂「招き猫」の伝承の元ネタのひとつとされており、この「招き猫」と井伊直孝の「赤備え」から誕生したキャラこそ
「ひこにゃん」である。
※豪徳寺はその後井伊家の菩提寺となり、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の墓があったりする。
▼豪徳寺で起こった事をありのままに話すぜ
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | 76 | 戦闘 | 70 | 智謀 | 57 | 政治 | 72 | 野望 | 57 | ||||
天翔記 | 戦才 | 160(B) | 智才 | 134(B) | 政才 | 154(B) | 魅力 | 71 | 野望 | 60 | ||||
将星録 | 戦闘 | 77 | 智謀 | 72 | 政治 | 84 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 72 | 戦闘 | 55 | 智謀 | 58 | 政治 | 73 | ||||||
嵐世紀 | 采配 | 66 | 智謀 | 52 | 政治 | 64 | 野望 | 40 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 69 | 知略 | 53 | 政治 | 71 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 69 | 知略 | 53 | 政治 | 68 | 教養 | 61 | ||||||
革新 | 統率 | 77 | 武勇 | 75 | 知略 | 59 | 政治 | 76 | ||||||
天道 | 統率 | 77 | 武勇 | 75 | 知略 | 59 | 政治 | 76 | ||||||
創造 | 統率 | 75 | 武勇 | 71 | 知略 | 61 | 政治 | 74 |
掲示板
14 ななしのよっしん
2017/09/08(金) 01:18:26 ID: Y84Vx0Wj92
信長の野望創造の大坂の陣シナリオの戦国伝では水野綱成と並んで目立ってたなぁ
15 ななしのよっしん
2017/09/08(金) 01:19:46 ID: Y84Vx0Wj92
ああ間違えた
勝成やわ
16 ななしのよっしん
2018/07/29(日) 13:50:36 ID: 5YgDvO5hMb
大陸への出兵話は、光圀たちが明の知識人たちに完全に取り込まれてたから、彼らの意見を退けさせた直孝は良い判断だった
清国とは江戸幕府が存続していた間は上手く付き合えたしね
明と清を拮抗させておくため、ならともかく光圀たちの明への肩入れは行き過ぎてたし
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最終更新:2024/12/27(金) 18:00
最終更新:2024/12/27(金) 18:00
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