津川近治(?~1615)とは、戦国時代に活躍した武将である。
津川義近…つまり斯波義銀の四男で三管領斯波氏の末裔。豊臣秀頼の小姓頭であり、彼と最期を共にした。官途は左近将監。
なお名前は『難波戦記』などの軍記物語では津川親行だが、『武衛系図』によると津川近治とのこと。
足利尾張家として鎌倉時代に権勢を誇りし、その後室町時代にも御一家のいわゆる「御三家」に儀礼上では上に立たれながらも三管領の御相伴衆として繁栄した斯波氏。しかし、室町時代中期に当主の早世が相次ぎ、それに伴う甲斐氏、朝倉氏、織田氏といった家臣団の抗争によって、応仁の乱後には凋落著しかった。
応仁の乱によって斯波義敏、斯波義廉の戦いはひとまず前者の勝ちに終わり、越前・遠江・尾張の三国守護職、および佐渡国の一部はこちらに与えられる。しかし越前は完全に朝倉氏に掌握され、文明11年(1479年)に斯波義敏、斯波義寛、義敏弟の斯波義孝らは尾張で軍勢を整え、加賀国にいた甲斐氏とこれを挟撃する。しかし、斯波義廉の息子を擁立した朝倉氏に結局は勝てず、文明15年(1483年)に尾張に撤収した。
以後、斯波氏は尾張に在国する当主と、引退した斯波義敏など在京した一族によるネットワークが築かれ、長享元年(1487年)の足利義尚による六角征伐にも、斯波義寛が総大将としてこれに参陣する。国許の混乱や足利義尚の死によって中断したものの、延徳3年(1491年)に足利義材が六角征伐を再開させると、斯波義寛は再び意気揚々とこれに参加。朝倉征伐のお墨付きまで得たのであった。一方で依然京都で活動していた斯波義敏も儀礼などで活躍して官位を上昇させ、細川京兆家を相対化させようとする足利将軍家の思惑もあり、斯波氏は復権しつつあったのである。
ところが、明応3年(1494年)に明応の政変が起きる。復権を遂げつつあった斯波氏は足利義材の没落によって阻まれ、これをもって中央での活動は希薄化していった。一方でこのころから、足利義澄、京都細川氏、信濃小笠原氏、甲斐武田氏、越後上杉氏、関東山内上杉氏を巻き込んだ、反今川包囲網を形成する。さらに斯波義寛は兄弟の斯波寛元、斯波義雄らを遠江に派遣。一方で北陸戦線も依然維持をしていった。
そして斯波義寛は永正10年(1513年)に死去。斯波義達の時代に移る。しかし、対立した織田達定を成敗した臨んだこの今川氏との遠江争奪戦であったが、敗れ、永正14年(1517年)に尾張に送還された。斯波義達は尾張を拠点としつつも、依然中央と行き来していたようであったが、今川名古屋氏や石橋氏と縁戚関係となるなど尾張での地盤を固め始めたようだ。
しかし天文年間ごろから活動を始めたその子・斯波義統は越前奪還に燃える。彼は斯波民部少輔家であった加賀の下屋形殿・斯波義信と連携し、構想を練っていたが、本願寺との協力を取り付けられず、実現しなかったようだ。この作戦への自信は、織田信秀の躍進に伴う、織田氏の支持があったことや、朝倉氏が朝倉孝景の反主流派・朝倉景高との内訌に陥っていたことによるとも。しかしこの頓挫によって斯波氏は朝倉氏と手打ちをしたようで、両者はともに織田信秀の美濃攻めを支持している。
しかしついに、織田氏内部の権力闘争によって天文22年(1553年)に斯波義統が殺される。この時息子(『信長公記』によるとなのだが、『東庵法語』によると年の離れた兄弟の可能性もあるらしい)斯波義銀は河狩に出かけており、織田信長に助けを求める。織田信長は清州城を落として、元服させた斯波義銀を屋形とするも、永禄4年(1561年)という桶狭間の戦いもすでに終わったころ、斯波義銀は石橋忠義、吉良義昭らと組んで謀反をたくらみ、追放された。
その後従来は斯波義銀は畠山秋高を通じて織田信長に謝罪して知行を与えられたとされてきたが、どうやら六角氏などとよしみを通じながら過ごし、最終的には元服前の織田信忠に平身低頭取り入り復帰した模様。このころすでに義近に名前を改めていたほか、信長に帰参した際に津川という苗字に改めたようだ。
津川義近は小牧・長久手の戦いで弟の津川雄光を織田信雄に殺されつつも、その結果信雄に反旗を翻して豊臣秀吉麾下に入ったようだ。『兼見卿記』によると天正13年(1585年)10月6日に「武衛」が公家成しており、これは津川義近かその子の津川義康(里見義康と混同されたり、実在しないはずの六角義康扱いされたりするあの人)のどちらかとされる。実績も大した領地もない斯波氏が公家成できたのは、織田家越えを進めていった豊臣秀吉の免罪符だったとも。
津川義康は早世したものの、津川義近は豊臣秀吉の御伽衆として活躍していった。しかし、天正17年(1589年)3月にあった聚楽第壁落書事件に、義近の弟の蜂屋謙入が巻き込まれる。さらに伊達政宗、大崎義隆ら陸奥、最上義光ら出羽の大名との仲介を担うが、小田原の陣も大詰めの天正18年(1590年)6月末に北条氏直父子の助命を独断で取り扱い、蜂屋謙入ともども改易されてしまった。
その後津川義近は会津に赴いており、天正20年(1592年)正月までに許されて御伽衆に復帰。しかし徐々に徳川氏と関係を深め、慶長5年(1600年)8月16日に亡くなる。以後早世した大蔵(津川義康?)を除いた、伊予松山松平家臣となる次男・津川近利の系統、肥後細川家臣となる三男・津川辰珍の系統、そしてこの四男・津川近治に分流したのであった。
津川近治の生年は不明である。『土屋知貞私記』に秀吉の黄母衣衆とあるが、他の史料には見えず、世代的にも信憑性に欠けるとされる。『難波戦記』によると、豊臣秀頼の小姓頭だったとのこと。
慶長16年(1611年)3月の豊臣秀頼の上洛に供奉し、細川元勝らとともに片桐且元から徳川家康に披露された。さらに慶長17年(1612年)以降の大坂諸大夫衆に一員として禁裏普請助役に名前を連ねている。その後しばらく茶会に参加したことしか記録はない。
その後『大坂御陣覚書』によると、慶長20年(1615年)に豊臣秀頼の金瓢の馬印を預かる。5月7日の戦いで秀頼への恩義から敗戦の中馬印を死守して帰還している。のだが、『豊内記』、『大坂御陣覚書』、『おきく物語』等の諸本によって馬印の顛末は異なっており、実際どうだったのかは不明である。
かくして豊臣秀頼に従い櫓に移り、自害に及ぼうとした今木一政を毛利長門共に追い出す。そのまま5月8日に主君と最期を共にした。
なお享年であるが『駿府記』によると26歳、『土屋知貞私記』によると60余歳とあるが、近親者の生没年から後者はないだろう。
妻は織田有楽斎の三女で、長女は織田有楽斎の養女として石清水八幡善性寺第十八代幸清に嫁ぎ、次女は団禅右衛門に嫁いだ。
なお、この大坂の陣には同じく斯波一族の毛利秀頼(一般的には『系図纂要』に基づき津川義近の弟とされるが、実際のところの系譜関係は不明で、弟ではなくとも、一族であるか、姻戚などの何らかの関係があった、としか言えない)の息子・秀秋(父の毛利秀頼が公家成して得た羽柴姓をそのまま使っており、史料には羽柴河内守秀秋とのみ登場する)も参陣している。この秀秋は、毛利秀頼の領地のうち十分の一を継いだことでも有名で(残りの十分の九は娘婿の京極高知のものになった)、5月7日の天王寺表合戦において、仙石忠政の家臣に討ち取られた(『改撰仙石家譜』)、あるいは織田有楽斎の宿所で自害した(『大坂記』)とされる。
どちらにせよ、大坂方についた斯波氏の流れは絶えることとなった。
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最終更新:2024/12/28(土) 10:00
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