池田輝政(いけだてるまさ 1564年~1613年)とは、安土桃山~江戸時代前期にかけての武将・大名。
永禄7年12月29日(1565年1月31日)、織田信長家臣・池田恒興の次男として生まれる。幼名は古新。
父や兄と共に信長に仕え、信長の近習となる。天正元年(1573年)に母方の祖父・荒尾善久の養子になった。
天正7年(1579年)、信長に対し謀反を起こした荒木村重を相手に有岡城の戦いに出陣、翌年の花熊城の戦いでは自ら数名の武士を討ち取る手柄を立て、信長から感状を授けられている。その後も織田軍武将としての出陣が続いた。
しかし天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、父らと共に羽柴秀吉に仕える事となった。同年に行われた信長の葬儀では、羽柴秀勝と共に棺(中身は沈香の仏像)を担いだ事が記録されている。
輝政にとって大きな転機となったのは、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いだった。
この戦で父・恒興、兄・元助が討死した為、池田家の家督を相続。美濃大垣城13万石を受け継ぐ事になったのである。不幸な出来事ではあったが、これが輝政と池田家の栄達の始まりだった。
その後も九州征伐・小田原征伐など秀吉の天下取りの合戦の大半に参加し、その軍功をもって秀吉からも重用、加増を受けた。豊臣の一族に準じる待遇を受け、文禄3年(1594年)には秀吉の肝煎りにより、徳川家康の娘・督姫を娶っている。
文禄4年(1595年)のに起きた関白・豊臣秀次の失脚(秀次事件)に際しては、秀次の妻子らの多くが殺害されたが、輝政の妹の若御前(秀次の正室)は助命されている。
秀吉の没後は家康に接近。
慶長4年(1599年)の前田利家の死去後、武断派で鳴らした七人の武将、通称七将の一人として石田三成襲撃事件を起こした。翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に参加、前哨戦となった岐阜城の戦いで福島正則と共に武功を立てた。一方で本戦では西軍の抑えをつとめるに留まっている。
戦後、岐阜城での戦功により播磨姫路52万石に大幅加増。初代姫路藩主に任ぜられた。
徳川政権下の国持大名として、まず輝政が着手したのは、かつて秀吉が建築した姫路城の改修だった。同時進行で加古川流域の整備改修も開始、河川や都市の開発時事業も積極的に行う。
一方で幕府に対する忠義の証明として、いわゆる「天下普請」にも従事。慶長14年(1609年)の篠山城普請では総普請奉行を務めるなど尽力した。
慶長16年(1611年)、二条城において家康と豊臣秀頼が会見した際にも同席するなど、その地位・格式は非常に高かった。翌年松平姓を許され、正三位参議を賜り、これをもって「播磨宰相」「姫路宰相」と呼ばれる事になった。
息子達や弟ら一族併せて92万石の大大名であり、また徳川家との縁組によっておおいに同家は栄えた。
しかし慶長18年(1613年)に病を発し、姫路にて急死。
死因は中風とも、好色が原因の花柳病ともされている。享年50歳。
幼い時から闊達な性格で、文武両道を絵にかいたような少年だった。
成長にともない剛毅さはいや増したが決して驕らず、下の者には寛容だったという。
口数は少なく寡黙であったとも伝えられる。また細かいことにこだわりを持たない性格だったとも。
関ヶ原の前哨戦である岐阜城の戦いでは福島正則と共に勇戦したが、一番乗りの手柄を上げながら、功そのものは正則に譲っている。
長久手の戦いで父・恒興を討ったのは、家康に仕えていた永井直勝であった。
督姫との婚儀の際、徳川屋敷にて直勝を召し出した輝政は父の最期を聞き出したが、その直勝の知行が5000石と知ると「父の首はたった5000石か」と嘆息したという。
どうにも納得がいかない輝政は家康に直訴し、直勝の知行の加増を願い出た。これにより直勝の知行は1万石に倍増し大名となり、後に7万石を拝領する事になったという。よかったね。
天正12年(1584年)正室の糸姫(中川清秀の娘)が嫡男・利隆を出産。しかし産後に病を発して心を患い、遂に癒えないまま実家に帰ってしまった。後に利隆は母を引き取ろうと申し出たが、母子の再会が叶う前に糸姫は亡くなってしまう。
輝政が督姫を継室として迎えた後も、池田家と中川家の交流は続いている。そのため、徳川家との閨閥を構築する為に離縁したのではないのは確かである。聞いているかそこの黒田長政。
その督姫とは仲睦まじく、後に五男二女を授かっている。
家格の高さもあり、池田家には多くの名物が伝来した。
特に著名なのは、国宝にして「現存する全ての日本刀中の最高傑作」とされる太刀「大包平(おおかねひら)」で、輝政はこれを「一国に替え難い宝」とし、門外不出の掟を子孫に課した。正月のみ飾られたとされるこの太刀は、その後紆余曲折を経て国の所有となり、現在は東京国立博物館に所蔵されている。
その他にも「池田貞宗」「池田来国光」「若狭正宗」などが知られている。
姫路城に伝わる「刑部姫伝説」にも、輝政は一枚かんでいる。悪い意味で。
1609年(慶長14年)に姫路城が改修完了したが、そんな折に輝政宛に怪文書が届く。
「輝政と夫人に天神(天狗)が取りつき呪いをかけている。呪いを解きたければ城の鬼門に第八天神を祀れ」という内容だった。
かつて秀吉がこの地に姫路城を築いた際、刑部神社という神社があった。秀吉はこれを街はずれに移築させており、人々はその刑部神社の主、刑部大神の呪いではないかと噂した。
その為輝政は鬼門の方角に八天堂を立てて供養を行ったが、約3年後にぽっくりと死亡。更に凶事が続いた為、いよいよ祟りは本物であると恐れられた。池田家は城内に刑部神社を建立して刑部大神を遷座した所、災いは去ったという。
この伝承に様々な逸話が習合し、その結果生まれたのが刑部姫であるとされる。姫路城の天守に隠れ住み、年に一度だけ城主と謁見、その運命を告げていたという。極めて美しい貴人とされ、泉鏡花の戯曲「天守物語」では富姫と名を改め、妹にして会津藩の猪苗代城の妖姫・亀姫と親しく遊ぶ姿が描かれた。
戦国後期の武将な為Ver2.0から登場、所属武家は豊臣家で他の家族とは違う。(父妹義兄は全て織田家)
コスト2.0で高めの武力の8でありながら統率力5とそこそこあり、特技の豊国も持ってる軽騎馬と高スペック。
計略の「日輪の構え」は、他の豊臣家の武将も持ってる武力が上がる汎用計略。
だが、高武力の彼が使うと弱い状態でも普通の強化として使え、大絢爛時は超絶強化並みに力を発揮する。
序盤から終盤まで活躍出来るので、どんな豊臣家のデッキとも相性が良く使用率は上々である。
掲示板
18 ななしのよっしん
2023/03/27(月) 04:44:14 ID: x1IzxwWLjT
どうも織田家の家督が混迷しているんだよね。
織田秀信が織田家を継いだのは確かだけど、
そのあと織田信雄に家督が移されたとか、移されなかったとか
羽柴秀勝(信長五男)の養子的扱いで継いだとか、よくわからん時代。
織田をよくわからんようにすることで力を抑えて、というのは秀吉の戦略だろうけど
19 ななしのよっしん
2023/12/18(月) 01:04:42 ID: GNxQ5oirN0
>>17
そりゃ岐阜城の元城主だし合戦の経験の差もあるし。
結果的に織田秀信の血筋は滅んだとはいえ、
開城の説得や助命嘆願もしたわけだから敵になったからやむを得なかっただけでそれなりに敬意を払ったと思うけどな。
20 ななしのよっしん
2024/11/11(月) 15:00:41 ID: w9D8ptxIGd
池田輝政がしたこと(濃尾の貴種となった織田家を戦で圧倒、かつ敬意を払い助命に尽力)
を福島正則は尾張の大名としてやりたかったんだろうな
それを行い名声を得れば福島家の家名は大いに高まっただろうから
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最終更新:2025/01/09(木) 07:00
最終更新:2025/01/09(木) 07:00
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