徳川家康の譜代家臣の一人。もとは深溝松平氏の家老の家で、室町幕府御一家渋川氏の末裔を称する。
板倉好重の次男に生まれ、学問に秀でていたこともあり、11歳の時に仏門に入れられ、「香誉宗哲」と号した。やがて中島の永安寺の住職となり、本来なら歴史の表舞台に立つことはなかった。
ところが1561年の善明堤の戦いで父・板倉好重が、1574年の高天神城攻めで弟・板倉定重が戦死し、病弱な兄・板倉忠重しかいなくなってしまったのである。こうして板倉家の断絶を惜しんだ徳川家康の重ねての要請で還俗。渋川甚平として武士になったのである。
当初与えられた役目は城下の検視であり、ここで優れた能力を発揮して、500石の駿河町奉行に抜擢されたのである。この際妻に、人を裁く職務につくので公平を期すために口出しをしてはいけない、という頼みをしたと言われている。
そして、板倉勝重と名を改めて、奉行の任についたところ、才能を発揮。小田原奉行、関東地割奉行、江戸町奉行と出世を遂げ、千石の禄高を得る。さらに関ヶ原の戦いが終わると、1601年に京都町奉行を経て、京都所司代となり、一万六千石の大名格となったのである。板倉勝重は京都とその周辺の行政と司法を兼ね備えたこの重役を担い、時には後水尾天皇にも諫言するほど真面目に職務をこなしたとされる。
やがて、板倉勝重が亡くなると、遺骸は三河国中島に送られ、長圓寺に葬られた。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | 45 | 戦闘 | 29 | 智謀 | 56 | 政治 | 78 | 野望 | 41 | ||||
天翔記 | 戦才 | 50 | 智才 | 112 | 政才 | 156 | 魅力 | 65 | 野望 | 42 | ||||
将星録 | 戦闘 | 24 | 智謀 | 83 | 政治 | 88 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 20 | 戦闘 | 24 | 智謀 | 72 | 政治 | 85 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 13 | 智謀 | 64 | 政治 | 78 | 野望 | 51 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 13 | 知略 | 81 | 政治 | 81 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 12 | 知略 | 70 | 政治 | 81 | 教養 | 81 | ||||||
革新 | 統率 | 14 | 武勇 | 10 | 知略 | 78 | 政治 | 90 | ||||||
天道 | 統率 | 14 | 武勇 | 10 | 知略 | 78 | 政治 | 90 | ||||||
創造 | 統率 | 23 | 武勇 | 30 | 知略 | 77 | 政治 | 89 |
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最終更新:2024/12/28(土) 11:00
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