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ThanksImg質問者からのお礼コメント

ありがとうございました。 1番心にピカッときましたので、ベストアンサーとさせていただきます! 今後も第1感を信じて生活していきます!!

お礼日時:10/8 13:32

その他の回答(7件)

第1感は自分の実力で無理なく指せる手が多いので間違いないことが多い。 考えて出した手はうまくいけばいいけど穴があったら悲惨。

本当です。 ただし正しいかどうかは解らない。 ほとんど第1感で指してますけど、たしかに第2第3より増しだと思う。 最善は、どれでも無いケースが多いです。 見えても無い手を指される事が多いから、感覚だけじゃ駄目と思える瞬間。 第1感で指そうとして、悪い筋を見つけて第2でも第3でも無い手を指せる時は、結構良い感じの時です。 これは、感性でも無く勘でも無く、読みですから別物。

第一感と第六感、どちらが真ですか?と尋ねれば本当か嘘か分かります。

本当です。 それは、闘神ブルース・リーが語った有名な武の要諦 「考えるな、感じろ(Don't think. Feel.)」 とまったく同じことを述べていると思われます。 あれこれ考えたことに惑わされずに直感を重視しろという教えです。 仏教哲学において、認識は「現量(直接知覚)」と「比量(推論的認識)」の2つがカウントされます。そして、禅宗が哲学的バックボーンとしている大乗仏教唯識派哲学ではこのうちの直接知覚による認識だけが「真の認識」とされます。 人に特有の思考パターンである「言語を用いた分析的な思考」は、人の頭の中でだけ展開される抽象的な概念の組み合わせで構築されており、ありのままの世界を描写するには解像度が荒すぎるため、方便の一種として扱われ、直接知覚ほどは優先されません。 ありのままの世界の様相は、すべてが有機的に連動して相互依存関係で結び付いており、その内の要素を個別に抽出しても自立的に実在する実体は何処にも無いとされます。 そのことを体で感じるために、仏教の修行では瞑想体験を重視しています。 瞑想を通じて一時的に言語的思考を止滅させ、直接知覚のみで世界を捉える訓練をすることで「自己」という領域自体が言語的な枠組みの都合で世界から便宜的に切り分けられた概念上の存在に過ぎず、ありのままの世界には「自己」と「非自己」を弁別する境界も実在しないことを体感的に把握し、「無我」を実感するのです。 おそらく今回の場合、「第一感」は直接知覚によって把握出来る世界を意味し、「第二感」「第三感」は言語を用いた分析的な思考で把握される世界を意味するものと推察されます。

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AIからのお助け回答

AIアイコンClaude(Anthropic)

坐禅の教えにおいて「第一感を信用せよ」という考え方は確かに存在します。これは禅の思想に基づくもので、思考が介入する前の直感や直観を重視する教えです。 禅では、思考や分析を重ねるほど本質から離れていくという考え方があります。第一感は思考や先入観に汚染される前の純粋な反応であり、より真実に近いとされています。一方、第二感、第三感は思考や分析が入り込み、本来の直観から離れていくと考えられています。 これは武道の世界でも重視される考え方で、特に剣道や合気道などでは「先の先」という概念として、相手の動きを分析する前に直感的に反応することの重要性が説かれています。 ただし、全ての状況で第一感が常に正しいというわけではなく、修行を通じて直感そのものを磨いていくことが大切とされています。坐禅の修行は、まさにその「澄んだ第一感」を養うための実践とも言えるでしょう。

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坐禅の先生が「第1感を信用せよ」と言うのは、直感が最も純粋で信頼できる判断基準であるという考え方に基づいています。第2感や第3感は、理性や感情が入り込み、誤った判断を招くことがあるとされています。直感は経験や潜在的な知識に基づくもので、瞬時に正しい判断を下す力を持つことがあります。ただし、すべての状況で直感が正しいとは限らないため、状況に応じて慎重に判断することも重要です。

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